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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第4章 アニークをつくるもの
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第4章 その4

 海の上ではどうしようもないことが起きる。逆風をものともせずに漕ぎ進むガレー船でも嵐に櫂を折られてしまえば何もできない。穏やかに見える海域が冥府の入口となることもある。帆船は風がなければ動けない。もし凪いだ海でおかしな潮流に捕まれば巨岩の腹にぶつかって船体が砕かれることも有り得た。そうなれば人も荷も呆気なく波間に放り出されるだろう。

 海へ出るすべての者に祈る神が必要だ。加護と恩寵を一心に願う存在が。

 波の乙女は偉大である。彼女はあらゆる水辺にいる。

 波の乙女は冷たく優しい。ある者は救い、ある者は救わない。

 初めて仕えることになった主君はそんな女神の化身であると謳われていた。



「どしたのアルフレッド君? 浮かない顔しちゃってさあ」


 馴れ馴れしい呼びかけにアルフレッドは顔を上げる。


「いえ、別に。いつも通りですが」


 ジーアン語でそう返事をすると帝国の食えない狐は片膝を立て、疑わしげにこちらの顔を覗き込んだ。


「ふうん? 腹でも痛いのかと思っちゃった。ま、大丈夫ならいいけどさ」


 いけない、いけない。ぼんやりしている場合ではない。気の抜けない状況で個人的思考に囚われていた己を叱り、アルフレッドは背筋を正す。

 今日相手にしなければならないのはいつもの女帝だけではないのだ。中身の知れないラオタオに偽者の聖預言者、天帝の忠臣ファンスウも同じ舟にいるのだから、しっかり構えていなければ。

 大運河の開けた河口で金塗りのゴンドラが揺れる。指輪争奪戦の様子がよく見えるように、向かいの広場に集まった民衆が彼らをよく拝めるように、東方の重要人物を乗せた舟は税関岬の少し先に停泊していた。

 ここからは後々まで語られるだろう風景が一望できる。二年前の事件以来、基礎を広場に移した大鐘楼の麓には半裸どころか下着姿の参戦者たちがずらりと肩を並べていた。自家用ゴンドラを持つ者はもっと有利な水上でスタートを待ち詫びている。殺気立つ彼らのすぐ後ろには海の女神が誰に微笑むか固唾(かたず)を飲んで見守る人々が群れていた。

 信じがたいほどの人出である。王国がまだ王国だった頃以上に祭りの空気は昂揚している。そしてこの場を作り上げたのは、ついに真価を発揮した幼馴染にほかならなかった。

 ちくりと胸を刺す痛みを無視してアルフレッドは舟に目を戻す。ジーアンの蟲たちは水辺の祭事は初めてらしく、物珍しげに周囲を眺め回していた。傍らではユリシーズがアニークにレガッタの見どころを説明している。ゴンドラを漕ぐのが使い走りの海軍だからかラオタオは微塵の警戒心もなく皿の菓子などつまんでいた。


「おっ、船だ」


 と、狐が右舷に細首を伸ばす。同時に広場のざわめきが「おお!」「来たぞ!」というどよめきに変わった。


「ほう。あれがレイモンド・オルブライトか」


 奥の座席に腰かけた老将ファンスウも興味深げに顔を上げる。アルフレッドは身が固まるのを感じつつ、なお無理やりにアクアレイア湾を振り返った。

 百足(ムカデ)によく似た扁平な船影が映る。広場では楽の音色が響き出したがそれはすぐ大歓声に掻き消された。舞い踊る娘たちを愛でてやる者もいない。人々の関心は甲板で手を振る金髪の青年にのみ向けられている。


「活版印刷機が欲しいかーッ!?」


 河口まで辿り着いたレイモンドの第一声には荘厳さもへったくれもなかった。しかし観衆からは割れんばかりの「おおー!」という絶叫が返される。


「ちょっと初期投資がいるけど大丈夫かー!?」


 この問いには軽い笑い声が起きた。参加者の一人が「貰ってから考えるー!」と杜撰すぎる計画を叫ぶと今度はレイモンドのほうが吹き出す。「やっぱそうだよなー!」と幼馴染は快活すぎるほど快活に応じた。


「ほんとは資金潤沢なほうが向いてる商売なんだけどさー! モノがなけりゃ始まらねーよな! 工房持ちたい奴のことは俺がなるべく援助してやるぞー! 後ろでニヤニヤ見てるお前らも服脱ぐんなら今のうちだぜー!」


 どよめきが広場を駆け抜ける。今の言葉で「印刷機だけ手に入ってもな」と見物に回っていた者たちにも火がついたようだった。


「えっ!? 嘘!? 工房開く面倒まで見てもらえるの!?」

「職人の世話だけじゃなかったのか!?」


 そう言って複数の人間が慌てて仮面と衣装を投げる。一人駆け出せば残りの者も釣られて岸辺に押しかけた。最初から温まっていた広場は更に熱を持ち、早くも本日最高潮の一場面が出来上がる。


「よーし! そんじゃ準備はいいなー!?」


 アルフレッドはひたすらに眩しい幼馴染を見やって薄く目を細めた。彼の側には目立たないように一歩引いたルディアがいて、前へ出たそうなパーキンを無言で押さえつけている。

 今日のためにわざわざ新造したというガレー船は小ぶりだった。それは金で塗られてもいなければ彫り物で飾られてもいない。

 だがそこに立つレイモンドは間違いなくアクアレイアの新たなる王だった。人々の熱狂が、彼を見つめるルディアの目が、そうなのだと証づけている。

 彼はもう下町の、金稼ぎに執心していた男ではない。王女と対等に並び立つ特別な人間なのだ。


「俺たちの、アクアレイアの未来に幸多きことを!」


 懐から取り出した金の指輪に口づけるとレイモンドはそれを海に放り投げた。今までの「海への求婚」同様に大鐘楼の五つ鐘がけたたましく打ち鳴らされ、ドボンドボンとあちこちから人が水中に飛び込んでいく。


「うおっ、波がこんなとこまで!」


 煽りを食らったゴンドラが大きく揺れてラオタオが船縁に掴まった。同じく体勢を崩したアニークが横から倒れ込んだのをアルフレッドは溜め息とともに起き上がらせる。


「ご、ごめんなさい。ありがとう」


「いえ」と短い返事をして河口のガレー船を見やった。指輪の沈んだ辺りでは人々がめちゃくちゃに揉み合っている。水底の泥が跳ね上げられ、一帯は黒く濁り、誰が栄光を掴んだのかもわからない。

 見失った指輪を探して人だかりはややばらけた。息を継ぎ、水に潜りを繰り返して右往左往する老若男女。その中に一人、じわじわとガレー船に近づいていく者がある。水を掻くのに握り拳で、大事なものを離すまいとするように。


「取ったーッ! 取ったぞーッ!」


 喫水の浅いガレー船に這い上がると幸運を得た男は勝利の雄叫びを上げた。注目はすぐに彼に集まり、手中の指輪が確認される。


「おおお! 決まったな! 印刷機を手に入れたのはこいつだーッ!」


 レイモンドが英雄の腕を高々と突き出させると盛大な拍手が巻き起こった。海に残された敗者たちはぽかんと目を丸くして、終わったことを悟った者からがっくりと項垂れる。


「おめでとう! おめでとう! これから一緒にアクアレイアの印刷業を盛り上げていこうな!」

「は、はい! ご指導よろしくお願いします!」


 ぺこぺこと頭を下げられる幼馴染にかつての立場の弱さは感じ取れなかった。蔑まれ、軽んじられる子供だったのは同じなのに、彼は望んだものすべて手に入れたのだ。富も、名誉も、クズではない父親も、切り分けることのできない愛も。


「さ、ほかの皆は岸に戻って残念賞受け取ってくれ! 泣くのはまだ早いからなーっ!」


 レイモンドはまた傷心の者に対するフォローも忘れなかった。今までの彼がそうであったように、禍根を残さず実に鮮やかに幕を引く。


「わ、わあ! こんなの貰っていいんですか!?」


 岸辺では印刷工房の職人が参加者たちをねぎらっていた。びしょ濡れの彼らには一枚ずつ記念カードが手渡されているようだ。多分先日刷ると言っていた騎士物語の人物秘話が記されたものだろう。考えて売れば金になるし、考えるのが苦手でもコレクターが全種類集めるために探してくれると言っていた。

 レイモンドの商才は本物だ。金とは切っても切り離せない人生だったから、種々様々な発想が次から次に湧いてくるのだ。

 幼馴染を称賛したい気持ちはある。だがその前にありありとつけられた差で気が沈んだ。ぼんやりしているときではない。わかっているのに記憶を辿るのをやめられない。

 いつも自分が先に立ち、彼はついてくるほうだった。いつも自分が彼を助け、彼は感謝するほうだった。もうそんな過去は薄っぺらな自尊心を守る役にさえ立ちはしない。


 ──隊長はあなたに任せます。

 ──心ばえ正しく、立派な騎士になってください。


 初めて呼ばれた宮廷で、初めて間近に見上げた王女を思い出す。しなやかな美しさを持った人。物語のどんな姫よりも輝かしい。

 彼女が剣に祝福をくれ、アルフレッドは騎士になった。

 嬉しくて、誇らしくて、なんでもできるような気がした。真摯であれば夢は叶うと信じられた。

 どうしたら取り戻せるのだろう? あの頃のまっすぐな気持ちを。

 誓っても、誓っても、同じ穴にまた滑り落ちる。


「……ああ、レガッタに出るゴンドラが移動を始めましたね。我々もそろそろ真珠橋に向かいましょうか」


 ユリシーズが顔を上げ、大運河の上流から一列になってやって来るゴンドラを振り返った。白銀の騎士の合図で金襴の舟がゆっくりと動きだす。

 今日の勝者を乗せたガレー船も同じタイミングで国営造船所に戻り始めた。主君や友人と遠ざかってほっとした自分に苦笑する。

 誰が騎士と呼べるのだろうか。こんな風になってしまった人間を。




 ******




 清々しいほど頭に何も入ってこなくて笑ってしまう。レガッタがいつ始まり、いつ優勝チームが決まったのか、ちっとも見ていなかった。どうせ名ばかりの主催だし、アルフレッドが出ていないなら誰が一位でもどうでもいいから。


「…………」


 アニークはちらと右隣に立つ赤髪の騎士を盗み見る。ルディアのことばかり気にかけて、今もうわの空の男を。

 十将たちをゴンドラに残し、アニークは二人の騎士と真珠橋に上がっていた。ここで花撒きに囲まれて入賞者に褒美をやるのが今日の仕事だ。露ほどの興味もないが、一応真面目に女帝らしい凛とした態度を保つ。なぜってあまり適当だとアルフレッドに嫌われるからだ。気を張らずともこれ以上嫌われるほうが難しいのではないかと思うが。


(本当に馬鹿みたい……)


 アルフレッドはアニークの横にいることで「あの騎士は誰?」「偉い人かな?」と話題になっていることに気づいていない様子だった。ガレー船にルディアの姿を見つけてから、遠い心が更に遠くなった気がする。誰のためにアニークがこんな祭りに出たかなど彼は少しも考えてくれそうにない。


(もういいわ。さっさとレーギア宮に帰りましょう)


 ユリシーズが十位チームの代表に最後の銀行証書を渡すとアニークは「よくやりましたね。素晴らしい健闘だったわ」と微笑んだ。実際には見てもいないレースだが、大運河を見下ろしても真っ暗にしか映らないのだから仕方ない。

 アニークの目に焼きつく色は赤だけだった。アルフレッドに出会ってから、もうずっと。


「申し訳ありません、アニーク陛下。私はレガッタの後始末がありますので、宮殿にはアルフレッドとお戻りいただけますか?」


 と、最低限の役目を終えたアニークにユリシーズが詫びてくる。帰りは同行できないとは最初に聞いていた話だ。「わかっているわ」と頷いて赤髪の騎士を振り向いた。


「……では参りましょうか」


 アルフレッドはさも気乗りしないと言いたげにエスコートの手を差し出してくる。逞しい腕に指を添え、アニークは白い石橋を歩き出した。


(人の目があるときはちょっと譲歩してくれるのよね)


 なんとも憎らしい男だ。アニーク自身に構う価値はないと考えていることがひしひしと伝わってくる。それでも話しかけたいと、笑ってくれはしないかと望む自分はもっとどうかと思うけれど。

 仮に今声をかけても素っ気なく返されるだけだろう。意味などない。彼には何も届かない。己ではなく「アニーク」の言葉でなければ。


(片方のピアスに赤い花……か)


 彼女が騎士に贈ったもの。贈ろうとしたもの。

 なぜそれを選んだのか、わかってしまうから嫌になる。胸の内にある願望は決して消えないものなのだと確信が深まって。


「おつかれさーん、アニーク陛下!」

「おかえりなさーい!」


 物思いに沈む間に短い散歩は終わりを告げた。アニークたちは舟の舫われた桟橋に戻ってくる。ラオタオやウェイシャンは思いのほかレガッタを楽しんだらしく「水上競馬って感じしなかった?」「いや、すごかった。すごく良いものでした」と興奮気味だった。そんな二人を何か言いたげに睨むファンスウには気づかぬままで。


「すまない。レーギア宮へやってもらえるか」


 ゴンドラにアニークを座らせたアルフレッドがそう頼むと船尾の兵が冷めた目をちらりと動かす。是も否も告げずに漕ぎ手役はロープをまとめ、櫂の先で桟橋を押し、舟を岸から離れさせた。

 ゴンドラは大運河の片隅を滑っていく。下流から落胆気味に漕いでくるのは負けでもいいからゴールだけはしようという舟だろう。なんとも健気で思わず手など振ってしまう。アニークに気づいた彼らは複雑そうに頭を下げた。

 レガッタの参加者は三十チームや四十チームではなかったようだ。実に多くの哀れな小舟とすれ違う。中には宮殿に引き返すアニークを見て着岸し、そのまま解散してしまう者たちもいた。


(帰るのが早すぎたかしら。そりゃ私が逆走してきたらやる気も失くしちゃうわよね)


 ユリシーズはアニークがあまりにつまらなさそうにしていたから帰っていいと促してくれたのだろう。よく考えずに決めてしまって悪かったなと反省した。道理でアルフレッドがエスコートを渋ったわけだ。


(また失敗だわ。きっと今日も呆れられてる……)


 溜め息ももう出ない。何をやっても空回りすぎて。どうすればアルフレッドと普通に話せるようになるのだろう。それともそんな望みさえ己には許されていないのか。

 帰り着いた国民広場では大道芸が行われ、小さな露店がぽつぽつ出ていた。仮面の男女が手を取り合って楽しげに踊っている。声を合わせて高らかに愛の歌など口ずさんで。

 あんな風に素顔を隠して出会えたらどんなにいいかと羨ましかった。せめてこの女帝の身体を脱ぎ捨てたい。明日死ぬかもしれないのに、どうしてもっと思うまま生きられないのだろう。


「女帝陛下がお通りだ! 道を開けろ!」


 貴族専用の桟橋にゴンドラが取りつくと周辺警備に当たっていた海軍兵士が広場の一部を一時通行止めにした。祭りの時間がいびつに凍りつく中を居心地悪く通り抜ける。

 門番がレーギア宮の門を開けた。中庭に到着すると将軍たちが挨拶とともに幕屋に戻り、アルフレッドと二人になった。

 騎士はずっとだんまりでアニークの部屋へ向かう。送り届けたらすぐに帰るに違いない。その展開は簡単に推測できた。


「おお、アニーク陛下」


 意外な客人に出くわしたのはそのときだ。控えの間の一隅で、ジーアン兵の奇異の目に見守られつつ、その老人は厚い紙束を捲っていた。

 曲がった背中がのたりと動く。鋭い眼光がアニークを捉える。


「今日は外が騒がしく、ちいとも進みませんでな」


 続きを持ってきましたよ、としわがれた声が言った。先日出版した分の続きの章でございます、と。


「……ま、まあ! あの続き!?」


 パディの差し出してきた原稿を受け取ってアニークは手を震わせた。なんという僥倖だろう。今ここで彼が新しいお話を携えてきてくれるなんて。

 これは今度こそチャンスかもしれない。騎士物語の作者を交えての会話ならアルフレッドもその気になってくれるかも。


「ありがとう、じっくり読ませていただくわ。でも、あの、その前にちょっとお伺いしていいかしら?」


 アニークは急ぎ寝所のドアを開かせ、パディとアルフレッドを中へ促した。客人の手前、渋々ながら騎士も室内に足を踏み入れる。「座ってね」と勧めてもパディが着席を固辞するので三人とも突っ立ったままであったが。


「何をお尋ねになりたいのです? アニーク陛下」


 帰りたそうにちらちらと後ろのドアを振り向きながら老人が問う。ひとまず預かった原稿を書見台に置き、アニークは彼に答えた。


「あの、作者のあなたが一番重要だと思っている人物は誰かしら? やっぱり主人公のユスティティア? それともプリンセス・グローリア?」


 これはパディには想定外の質問であったらしい。老人はきょとんと目を丸くして「重要だと思っている人物?」と尋ね返してくる。


「そう、物語の鍵となる人物よ。この人がいなければお話が成り立たないっていう、そんな重要な人物」


 口にしたのは咄嗟の思いつきである。だがアルフレッドがぴくりと耳を跳ねさせたのをアニークは見逃さなかった。

 感想を語り合う同志なら自分のほかにもいるだろう。しかし原作者の言葉が聞けるのはアニークのもとでだけだ。これは行けると秘かに拳を握りしめる。


「お話が成り立たない……?」


 が、世の中はそれほど甘くできてはいないらしい。くつくつと──否、腹を抱えてげらげらと、おかしそうに笑い出したパディがその哄笑を止めた瞬間にアニークの目論見は脆くも崩れ去ってしまった。


「酷なことをお聞きなさる……! まったくもって酷なことを……!」


 病的に「酷なことを!」「酷なことを!」と同じ言葉が繰り返される。老人はうつむいて、痩せた肩を痙攣させ、しばらくずっと白い頭を掻いていた。


「酷なことを……!」


 一体全体何事だろう。パディはどうしたというのだろう。

 おそるおそる腕を伸ばしたアルフレッドが「あの」と控えめに声をかけると老詩人は弾かれたように顔を上げ、忌々しげに舌打ちした。


「サー・トレランティアでございますよ。私を突き動かしているのは……!」


 もういいでしょうと毒のある声で告げ、彼は身を翻す。引き留める間もなくパディは出ていった。よろよろと杖に縋って。


「…………」


 パタンと扉が閉じられた後もアニークはすぐに動けなかった。アルフレッドも同じくだ。それほどにパディの豹変ぶりが衝撃だった。仕事狂いだが温厚な人物とばかり思っていたのに。

 ただし今日に限っては困惑もそう悪いものではなかったかもしれない。形はどうあれアニークはやっと騎士と話をする機会を得られたのだから。




 ******



「び、びっくりしたわね……?」


 まだどこか肝を冷やした様子で女帝は言った。どう収拾をつけるつもりだと書見台の傍らに立つアニークを見やり、アルフレッドは顔をしかめる。


「びっくりしたではありませんよ。このまま彼を放っておくおつもりですか?」


 険のある声で問いかけた。まさかパディがああいった難のある人物とは己も思わなかったけれど、余計な刺激を与えたのはアニークだ。相手が相手だし、彼女が老詩人になんと詫びるのか聞かないうちはこの部屋を出られなかった。


「え、ええと。落ち着いた頃に部屋を訪ねて具合はどうか尋ねてみるわ」


 今一つ信頼できない発言にアルフレッドは眉間のしわを深くする。アニークのことだ。火に油を注いで続編発行の話ごと白紙にしないか不安だった。自分から来訪するという点についても疑問が残る。嫌なことは後回しにする性格のくせに、行くと言って本当に行くのだろうか。今はまだタイミングが良くないとぐずぐずして結局うやむやになるのではなかろうか。


「謝罪の言葉は考えているんですか?」

「えっ……いえ、それはその場で様子を見ながらかしらって」


 浅慮も浅慮の返答に呆れてしまう。つい強く「また先程と同じように機嫌を損ねたらどうするんです?」と問い詰めた。


「そ、それじゃ誰かについてきてもらうわ。私一人だと不安だし……」


 ウァーリとか、と場慣れしていて人当たりも良さそうな将の名が挙げられる。彼女にしては真っ当な人選だ。それならまあ、とアルフレッドは「状況をよく説明してくださいね」と念押しをするに留めた。

 はあ、と大きく嘆息する。もう行こう。ここにいたって疲れるだけだ。そう断じ、別れの挨拶を述べようとする。だがアルフレッドが何か口にするよりもアニークの喋りだすほうが早かった。


「それにしてもパディのお気に入りも私たちと同じサー・トレランティアとは思わなかったわね。続編で急に出番が増えたから気になっていたのだけれど、やっぱり彼の身に何か起こるのかしら?」


 様々な意味で理解に苦しむ台詞に思考が停止する。いやいやとアルフレッドは頬を引きつらせた。

 老人の口ぶりはお気に入りなんて毛色のものだったろうか。トレランティアについて語られる文章はいつも憧れに満ちているから作者にとって特別なのは確かだが、先程のはそうなごやかな回答ではなかったように感じるが。

 それに「私たちと同じ」とはなんだ。情熱に優劣をつけるなどおこがましい行為だけれど、彼女にだけは同列に語ってほしくない。あのひそやかな天帝宮で「セドクティオこそ一番の騎士ね」とはしゃいでいたのと同じ口で。

 言いたいことは色々あったが喉奥にぐっと飲み込んだ。アルフレッドは一つだけ、話を打ち切るための言葉だけを選ぶ。


「……語り合いならほかの者としてくださいと申し上げたはずですが」


 応じる気はないと吐き捨てた。踵を返し、そのまま立ち去ろうとする。だが後ろから必死な声に呼び止められた。


「私はあなたと話したいのよ、アルフレッド!」


 アニークは哀切に訴えた。「この間のことは謝るわ。できるだけ気に障らないように努力する。だからここにいてちょうだい」と。そのすべてが煩わしく、厚かましいとしか思えず、冷たく突き放す以外なくなる。


「俺があなたと話したくないんです。どうしてもご自分の都合を押しつけたいならそうせよとお命じになられたらいかがです?」


 権力を振りかざして脅せばいい。言外にそう伝えた。彼女ほど高位の人間であれば簡単なはずだ。防衛隊に粗相を働かれたと言って責任を負わせるだけでいくらでもこちらの行動を操れる。やり方を変えればいいのだ。善意や好意の力に頼るのをやめて。


「っ……そんな命令、あなたにできるわけないじゃない……!」


 返された声は震えていた。アニークの黒い双眸には薄い水膜が張っている。彼女はぎゅっと指先に力をこめて胸を押さえ、受けた侮辱に耐えていた。そこまで非道になれる女だと思うのと、涙を溜めた大きな瞳がアルフレッドに音もなく問いかける。

 少し言い過ぎたかもしれない。彼女に対して己はどうも攻撃的になりすぎる。

 ユリシーズの言うように自分は彼女をいたぶっているのだろうか? そんなつもりはないけれど、湧き上がる暗い怒りに戸惑う。棘のある言葉で刺して、泣くまで責めて、報復した気になっているのか? ──救えなかったあの人の。


「……っ」


 涙を堪えるアニークは「自分のお姫様なら許すの」とアルフレッドを咎めたときとまったく同じ表情をしていた。ルディアにはそんな意地悪言わないくせに。彼女がそう憤っているのがわかる。

 だが実際にアニークの口をついたのはアルフレッドには思いもよらない言葉だった。しとどに頬を湿らせて、もう耐えがたいと訴えるように彼女が問う。


「あなた『アニーク』が嫌いなの?」


 言葉の意味が最初はよくわからなかった。それがどちらのアニークを指しているのか。わからなかったからアルフレッドは慎重に答えた。間違っても亡き皇女を貶めることのないように。


「アニーク姫のことでしたら親しみを感じておりました。ですがあなたは……」

「私だって『アニーク』よ! どうしてそれがわからないの?」


 女帝は書見台を離れ、ふらふらこちらに近づいてくる。何を言い出すのかと思えばとアルフレッドは呆れて大きく嘆息した。


「姫が一番お好きだった騎士はサー・セドクティオです。それだけでもあなたとは違うとはっきりわかるのに、一体何が同じなんです?」


 戯言に付き合っている暇はない。踵を返し、アルフレッドはアニークに背を向けた。女帝はなお別れの口上を述べさせてくれなかったが。


「トレランティアを好きになったのはあなたに似ているからじゃない……!」


 後ろから腕を掴まれ、思わず強く振り払う。よろめき一歩退いたアニークは手酷い拒絶に目を見開いた。

 零れ落ちる大粒の涙。それは星のごとくきらめく。


「蟲は最初の宿主が強く残した思いを核に人格を作るのよ……」


 ぽつりと彼女が呟いた。溺れる者が吐く息に似た弱々しさで。

 初めて耳にした話にアルフレッドは瞠目する。けれどまだ瞠目以上の反応はできなかった。


「あなたのことを知れば知るほどそうだったのねって思ったわ。『アニーク』はあなたを好きだったんだって。私の中の、絶対に捨てられないところに彼女の想いが残っているのにどうしてあなたは私を別人だなんて言うの!? あなたに否定されたら私は──『アニーク』はどうしたらいいの!?」


 そこまで告げるとアニークは顔を覆って泣き崩れる。寝所の床に膝をつき、力なくさめざめと。呆然とするアルフレッドの傍らで。

 彼女になんと言われたのか、とてもすぐには飲み込めなかった。


(……なんだって……?)


 アニークはもう涙するのみである。長い時間、アルフレッドはその場に立ち尽くしていた。




 ******




「ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 通りすがる人々がぺこぺこ頭を下げていく。


「ごきげんよう、シルヴィア様」


 仮面姿の人々が祭りの後の小さな宴を楽しむ広場をグレースは素顔のままで擦り抜けた。肘には大きなバスケット二つ。ふわり被せた布越しにほんのりと甘い香りが漂っている。

 レーギア宮の正面では「兄」が警備の海軍兵士らの再配備を指示していた。レガッタの片付けが終わったので次の仕事を始めたのだ。その男臭い輪の中にグレースはひょいと潜り込んだ。


「お兄様、お疲れ様です。朝からずっと働き詰めでお腹がお空きになっているのではありませんか? 私、療養院の皆さんと拵えたお菓子を持って参ったのですけれど」


 お一ついかがとパイの一切れを示せばユリシーズは一瞬白けた目を向けて、それからすぐに本物の妹にするように「ありがとう、助かるよ」と微笑んだ。

 彼もまた嘘をつくのに慣れた男だ。リリエンソール家の親密、民に愛される家族像を演出するべく白銀の騎士はグレースを褒め称えた。


「さすが私の妹だ。これから夜通し働くお前たちの分まで差し入れを用意してくれたらしいぞ」

「えっ!?」

「我々もいただいて良いのです!? シルヴィア様の手作りのパイを!?」

「もちろんですわ。そのためにたくさん作ってきたんですもの」


 若い娘の可憐さを存分に振りまきながらグレースは籠を差し出す。二つとも奪い合うように持っていかれ、中身はぺろりと平らげられてしまった。

 兵士たちは誰も皆満足そうだ。「いや、夜勤もたまにはいいことがありますね」と人畜無害な顔で彼らは笑い合う。


「ありがとな、シルヴィア。美味かったぜ」

「お気に召したなら何よりです、レドリー様」


 ほかの者よりも馴れ馴れしく礼を告げてくる赤髪の男にグレースは愛想良く笑いかけた。ユリシーズの幼馴染で、時々家に遊びにくるというだけでリードした気になっている彼に「こいつはシンプルに阿呆だね」と腹の内で毒づく。

 が、考える頭のない人間ほど単純な裏工作には利用しやすい。不自然な運びにならないよう気をつけながらグレースは「皆さんに喜んでいただけて本当に良かった。明日また療養院で皆さんの様子を伝えてあげれば患者たちも少しは元気になるでしょう」と会話を誘導した。


「あれっ? 記憶喪失病の患者って身体はピンピンしてんじゃなかった?」


 狙い通りに獲物は針にかかってくれる。「ええ……、実はそれが」といくらか言葉を濁しつつグレースはレドリーに答えた。


「あの療養院から三十名、小間使いとしてドナに送り出さなければならなくて。皆怯えておりますの。防衛隊に無理やり連れて行かれるのは自分になるんじゃないかって」

「え!? 防衛隊!?」


 十数名はいる兵士たちが一斉にざわついたのを見てグレースはほくそ笑む。「どこからかそういう任務を請け負ってきたようでして……」とぼやけば彼らは勝手に部隊のメンバーは誰だったかを考え始めた。


「防衛隊って、確か五人くらいのルディア姫直属部隊だったよな?」

「レイモンドとか、今日アニーク陛下の護衛やってた赤い髪の騎士とかがそうじゃないのか?」


 これで後は放っておけば大衆の耳に届くだろう。名前や顔は知られてからのほうが汚しやすいのだ。嘘もそれが一部だけなら露見しにくい。噂が広まる頃にはもう潔癖を証明するのは難しくなっているに違いなかった。


(金持ちの悪口は庶民の大好物だからねえ)


 この程度の横槍では新事業の勢いを減じることは不可能かもしれない。だが少なくともレイモンド・オルブライトを無傷の成功者として君臨させることはなくなるはずだ。


「お前たち、そろそろ交代の時間だぞ! 口ばかり動かしていないで持ち場へ向かえ!」


 と、ユリシーズが神妙に囁き合う兵士らを散らす。もう少し実が熟してからもげばいいものを、ここぞの場面でせっかちな男である。

 まあいい。今日やるべきことは果たした。あとは明日、防衛隊の名でドナに送る三十名を通達するのみである。


「お兄様、お仕事頑張ってくださいましね。私は先に家に帰っておりますわ」


 グレースはにこりと笑って手を振った。空になったバスケットを肘にかけ、悠々と来た道を引き返す。

 アクアレイアが帝国自由都市として完全自治権を獲得するには王国再独立派など存在してはならなかった。連中を闇に葬り、リリエンソール家がこの街の支配者となったとき、ユリシーズごとその権力を我が物としてやろう。栄光の日が訪れるまではパイ焼きでも小僧の相手でもなんでもしてやる。


「ごきげんよう、皆さんまたね」


 グレースはにこやかに国民広場を通り抜けた。そこらの者よりよほど分厚い仮面をつけて。

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