第4章 その1
直接言ってほしかった。主君の口で、主君の言葉で。これは決定事項だから抗う余地などどこにもないのだとわかるように。
ルディアから話してほしかった。大切な秘密を打ち明けられる相手として、彼女の一番の騎士として、その決断を受け止めたかった。それならきっと己をこんなに惨めに感じることもなかったはずなのだ。
「……い、おい」
肩を揺すられる感覚に薄暗闇が遠ざかる。誰かが自分を呼んでいる。けれど誰なのかわからない。求めてやまなかった人なのか。
「──おい、起きろ。アルフレッド。一旦家に帰るんだろう?」
名指しの呼びかけはたちまち意識を覚醒させた。瞼を開き、アルフレッドはけだるさの残る半身を起こす。ぼんやりと霞む視界には気遣わしげな男の顔が映り込んだ。
「……もう朝か? 今何時だ?」
閉ざされた鎧戸の隙間から零れる光に目をやって尋ねる。寝ぼけた質問にはすぐに「六時の鐘が鳴ったばかりだ」と返答がなされた。
「気分はどうだ?」
「悪くはない。……いや、ちょっと頭が重いかな」
「そこの水でも飲んでおけ。突っ伏して寝るから肩が凝ったんだろう」
自身も身支度を整えながら白銀の騎士がカウンターを示す。空の酒瓶と杯が乱雑によけられた台の上にはお行儀よく新しいグラスが置かれていた。心配りをありがたく受け取り、アルフレッドはぬるい水を飲み下す。それからすぐに全身鎧の各パーツを装着しようと奮闘するユリシーズを手伝った。
「昨日は夜のうちに帰るつもりをしていたんだがな。悪いが適当に戸締まりを頼む。私は急いで戻らなくては」
せかせかとマントを羽織るとユリシーズは鈍色に光る鍵を投げてよこした。難なくそれを掴んで頷く。多忙な英雄は間もなく店を立ち去った。
ひと呼吸置き、アルフレッドも夜通し己を支えてくれていた丸椅子を所定の位置に戻して片付けを始める。勝手知ったるなんとやらでカウンター裏に回ると平桶の水でグラス類を洗い、空瓶を店の隅にまとめ、残った酒にはコルクで栓をし、棚に戻した。
一応近所の人間の話し声がしていないのを確かめてからドアを開く。手早く施錠を済ませると懐に鍵を押し込み、遅すぎる家路に着いた。
もう何度目になるだろう。この『ユスティティアのやけ酒』でこうして朝を迎えるのは。一度目はただの成り行きだった。二度目からはずるずると、それらしい理由を作って自ら足を運んでいる。
ユリシーズは監視のつもりでいればいいと言ってくれたが、そんな言い訳はとてもではないが通用しないとわかっていた。重要な情報は漏らしていないにせよ主君の敵と通じているのは事実なのだ。
明らかな造反。裏切り行為。自覚があるのにやめられない。あそこで飲んでいるときだけは強張った心を緩められるから。
皆にばれたらどうなるか。失望の目を想像して背筋が凍らぬわけではない。だがだからこそやめられないのかもしれなかった。己の素行に悩む間はほかの苦悩を締め出せるし、こんなだから自分は選ばれなかったのだと納得もできる。非のない人間に害意を向けないためだとしても愚行は愚行に違いなかったが。
(……少しずつでも受け入れていけるんだろうか)
不甲斐ない己のことも、幸せな彼らのことも。そんな日はまだ想像するのも難しい。
入り組んだ路地を抜け、橋を渡り、水面に映る陰気な男の顔を見やる。人とすれ違わないように暗い道を選んで歩く。重い嘆息一つ零し、アルフレッドは自嘲気味に薄く笑った。
(……でもその前に俺が駄目になりそうだな。騙し騙しでしか続けられないのだったら)
「ありがとう」とか「良かったな」とか一つ嘘をつくたびに、胸に鋭い痛みを覚える。笑えないのに笑わなくてはいけないとき、己が己でなくなる気がする。
早くどちらかになれたらいいのに。嘘も必要と割り切るか、偽りない本心で祝福できるようになるか。
誉れ高き騎士を目指して十二年。こんな試練があるとは思っていなかった。自分がこんな不義不忠の男になるとは。
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ローズマリーにミント、オレガノにタイム、フェンネルにパセリに真っ赤な花の咲くセージ。幾種類ものハーブを育てる薬屋の中庭は広い。アクアレイアにしては珍しい、土の入った本物の庭だ。
これがあるからうちはまだ薬局としてやっていけているのである。実入りの大きな国外の香辛料しか扱わなかった同業者たち。その多くが店を畳む羽目になっても。
「うーん、いいね。いい香りだぞ、お前たち」
愛し子たちに水をやりつつアンブローズ・ハートフィールドはちらと二階の寝室を見上げた。ハーブ園を広げるために一階倉庫を潰したとき、玉突き的に兄弟二人部屋にされた自室を。
もう太陽も昇ったというのに今朝はまだあそこに兄が帰っていない。それが少々気がかりだった。このところ兄の様子がおかしいのも相まって。
連絡もなく朝帰りなんて以前は一度もなかったのに、最近のアルフレッドは三日と開けずに酒の臭いを漂わせて帰ってくる。それもモモが宿直でいない日ばかりだ。夜中にこそこそどこの誰と会っているのか、どうせ今日もふらつきながら帰宅するに違いない。
「……!」
そんなことを考えていたら玄関でもある店舗のほうで足音がした。振り返るとほぼ同時、アルフレッドが中庭に続く扉を開く。
「お、おかえり」
「ああ。ただいま……」
酒のせいで嗄れた声にうわ、と引いた。もし母がこのガラガラ声を聞いたらどんな顔をするだろう。あの人は酔っ払いが嫌いだから一時間や二時間の説教では済まないかもしれない。付き合いで多少嗜む必要はあるにせよ、この家に酒に飲まれる人間はいないと思っているからなおのこと。
「こんな朝からもう仕事か。俺も何か手伝おうか?」
アルフレッドはぐるりとハーブ園を見渡し、剪定でも採集でも手を貸すぞと言ってくる。酔って帰っても親切なのは嬉しいが、大切な薬草に何かあっては堪らない。アンブローズは「いや、いい、いい」と申し出を断った。
「でも一人でこれだけ手入れするのは大変だろう?」
「平気だって。兄さんちょっとしたらまたすぐ宮殿に出向かなきゃでしょ? さっさと水浴びて着替えに行きなよ」
セージ畑に踏み込まれる前にどうにか酔っ払いを退ける。「そうか」と呟いたアルフレッドが中庭奥の洗濯室に消えるのを見送ってアンブローズはやれやれと息をついた。
(嫌だなあ、ほんとに誰と飲んでるんだろ)
鼻をつまんで眉をしかめる。息抜きに軽く楽しむ程度なら自分だって文句は言わない。だがこのハーブの香る中でさえ悪臭が気にかかるほど飲んだくれるのは良くないことではないのかと思えた。
酒は嫌いだ。忘れていたい男のことを思い出す。二度と会わないとわかっていても、どうしても。
飲んでひとしきり暴れると少しの間だけ優しくなる、そういうタイプのクズだった。その優しさも夕食前に菓子を与えようとして、断られれば怒り狂うという的外れなものだったが。
(口止めされてなきゃモモと母さんに心当たりを聞くんだけどなあ)
アルフレッドの深夜不在を知っているのは家族の中で自分だけだ。今は何も言わないでほしいと頼まれたのを無下にはできない。うちの女連中のどきつい気性を考えれば下手に相談を持ちかけるより黙っておくのが無難だろうなとも思う。──思うけれども。
(……なんか怖いんだよな、最近の兄さん)
朝帰りが始まってそろそろ一ヶ月が過ぎようとしている。初めはあの堅物もついに夜遊びを覚えたかと驚くだけで終わっていたが、三度四度と続くうちに見過ごせなくなってきた。アルフレッドは暗い顔で出ていって暗い顔で帰ってくる。その背中が記憶の中の父と重なって映るのだ。深酔いしても兄は決して口が悪くなることはないし、椅子やテーブルを壊すこともないのに。
(そんな理由で酒やめろとか言ったらさすがの兄さんも傷つきそう……)
アンブローズはふうと小さく息を吐く。「父親似」はこの家では禁句だった。不摂生を諫めたいなら別の言い方を考えねば。
(とりあえず今夜は薬湯でも出してやるか。ぐっすり眠れてないから酒なんか飲みたくなるんだよ、きっと)
うんうんと一人頷く。気を取り直してアンブローズは剪定鋏を握り直した。パチンパチンと音を鳴らし、切り取ったセージの葉を抱えた籠に放っていく。
「おい、アンブローズ、朝食作ったら一緒に食べるか?」
「あ、うん! 欲しい!」
洗い替えの服を着て洗濯室を出てきた兄はもう普段の顔だった。冷たい水で顔を洗ってさっぱりしたのか一応酒は抜けたようだ。そのことにほっとして、やはりアルコールは摂取しすぎるべきでないと確信する。
「兄さんさ、母さんたちに見つかる前に夜更かしやめなよ? 飲みすぎは内臓にも悪いんだからさ」
遠回しに健康を案じる言葉を投げかけてみたものの、兄からは苦い笑みしか返ってはこなかったけれど。




