第3章 その5
わずかな瞠目。瞼を伏せて「そうか」のひと言。幼馴染の第一声は期待したほど驚きに満ちたものではなかった。たったそれだけで終わってしまった反応にレイモンドはあれっと思わず首をひねる。
「もしかして知ってた? あんまびっくりしてねーな?」
尋ねるとアルフレッドは硬い表情で「まあな」と答えた。
「むしろまだそうなっていなかったのが意外だったよ。……将来の約束くらい、とっくにしていると思ってた」
ブルータス整髪店の何も置いていない一階店舗を見渡しながら赤髪の騎士が呟く。差し込んでくる陽の光はほとんどなくなり、ランタンの逆を向かれると側にいてもちゃんと顔が見えなかった。
だがそこは十年来の幼馴染だ。次に彼が何を言うかくらい簡単に想像できる。ありがとうやごめんなさいだけでなく、おめでとうも忘れず言える男なのだ、アルフレッドは。
「良かったな」
ささやかな祝福にレイモンドはへへっとこめかみを掻いた。どんな金持ちの上客を得るよりなお嬉しい。己をよく知る友人がそう言ってくれるのは。
「ありがと、アル」
ルディアにプロポーズしたこと。それ自体彼は良く思わないのではないかと危ぶんでいたから余計にほっとした。防衛隊はあくまでも王女の部下であり、一線を越えることは許されない。アルフレッドはそういう考えの持ち主だろうと思っていたから。
だが彼は堅いことなど一切言わず、素直にお祝いしてくれた。それが己には何より嬉しい。いくらルディアと両想いでも友人が認めてくれねば幸せは半減してしまうのだから。
「結婚式では特等席に座ってくれよ」
「気が早いぞ。一応暫定なんじゃなかったのか?」
えいえいと肩をつつけば幼馴染は苦笑混じりに身をかわす。
「暫定っつってもほかには候補いねーもん」
そうレイモンドは軽口を退けた。
アルフレッドを羨んだ時期もある。結局はアクアレイア人になりきることのできない自分と彼を比べて卑屈になって。
だけどあの頃、鬱々とした気持ちを彼に直接ぶつけることがなくて良かった。自分の未熟さや勝手さで大切な友人を失くさずに済んで。だから今、こうしてとても満ち足りた気分で感謝を告げることができる。
「お前のおかげだよ。アル、本当にありがとう」
突然の礼にアルフレッドは「え?」と声を上げた。何が自分のおかげなのかわからないと言いたげなお人好しにレイモンドはくつくつ笑う。
「お前に会ってなかったら、俺はただの下町のこすいガキで終わってただろ。いやー、なんか最近急に昔を思い出すこと増えてさ。それがいつもお前に世話かけたなって思い出ばっかで……。困ったときは絶対お前がいてくれたよな。親父のことも、アルがいなきゃ和解どころじゃなかったと思うし」
だからありがとう、と繰り返した。感謝してもしきれないと。アルフレッドには「そこまで言われるほどじゃないよ」と謙遜されたが。
「いやいや、そこまでのことだって。正直どうすりゃ受けた恩を返しきれるかわかんねーもん」
明るく笑うレイモンドに幼馴染はかぶりを振る。どうやら彼は本当にすべての成功はレイモンドが独力で勝ち取ったものだと考えているらしい。いくつになっても無欲な男だ。恩の一つも着せる気がないのだから。
「なあ、今日は俺が見張り当番だけど、暇ならお前も泊まってけよ。めでたい日だし、皆で飲もうと思っていい酒買ってあるんだ」
酒杯を傾ける仕草をして婚約披露パーティー代わりの飲み会に誘う。しかしアルフレッドはこれにも首を横に振った。
「悪いな。今日はこれから先約があって」
「先約? 誰と?」
この男が夜に予定を入れているなど珍しい。レイモンドはハッとして「ま、まさか女か!?」と食いついた。
「違う違う。騎士物語の新作が話題になっているだろう? 増刷分が店に並ぶまで待てないというファンが多くてな。貸してほしいと頼まれているんだ」
「なーんだ。そういうことか」
騎士物語愛好家の集いなら邪魔をするわけにいかない。友人は趣味仲間との語り合いをいつも楽しみにしているのだから。見送るこちらは残念だが。
「だったら引き留めて悪かったな。良かったら皆さんに貸本も始めましたって伝えといてくれ」
「ああ、わかった。言っておく」
アルフレッドは「そろそろ行くよ」と踵を返すと軽く手を振り、ブルータス整髪店を出ていった。ぱたりと扉が閉ざされて、入れ替わりに深い静寂が立ち込める。
(……お礼、ちゃんと言えてたよな?)
レイモンドは言い回しやタイミングは適切であったか一人反省会を始めた。どうもアクアレイアに帰国して以来、友人のリアクションが薄い気がするのだ。こちらの気にしすぎならいいのだが。
(まあ毎日毎日蟲の入った女帝の相手をしてんだもんなー。そりゃ疲れてるに決まってるよな)
原因は思い当たるのに自分が何かしたかなと不安が消えないのはなぜだろう。懸念事項だったルディアとの仲も認めてもらい、万事問題ないはずなのに。
(俺も最近ばたばたしてて疲れてんのかな? 今日は思いっきり飲むか!)
ストレスは溜め込む前に発散せねば不健康だ。宴会するならつまみがいるぞとレイモンドは外階段へ出て厨房へ上がった。墓島組のモモたちが帰ってきたのはそれからしばらくしてのことだった。
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トントントン。鈍いノックの音がして、間もなくキイと木扉が開く。現れた客人を振り返り、ユリシーズは思わず眉間にしわを寄せた。
来たのはいいがまた酷い顔で来たものだ。ここ数日で今日が一番悲壮な顔をしているのではなかろうか。いつもこれ以上悪くはなるまいと思うのに、彼の落ちた穴は底なしらしい。
アルフレッドは『ユスティティアのやけ酒』の入口をくぐり、ユリシーズの腰かけるカウンターまで歩いてくる。既に中身の減っているグラスを見やって騎士は小さく息を吐いた。
「……飲みながら読むのはやめてくれよ」
「大丈夫だ。万が一にも汚さないよう読書の間は遠ざけておく」
さっと立ち上がり、ユリシーズは二つほど左に席をずらす。台の上が濡れていないのを確かめてから赤髪の騎士は真新しい一冊の本を差し出した。
「ありがとう、助かった。アニーク陛下に早く読めとせっつかれていたのでな」
「返すのはいつでもいい。じゃあ俺はこれで」
用は済んだと言わんばかりにアルフレッドは短いマントを翻す。「待て待て」と腕を伸ばしてユリシーズはせっかち男を引き留めた。
「そんなにすぐに帰る奴がいるか。そこにお前が飲む用の酒が待っているのが見えないのか?」
「……今日は飲みに来たんじゃないぞ」
呆れ顔でアルフレッドは隅の座席の一杯に目をやる。「これくらい読み終わるのに一時間もかからんから飲みながら待っていろ」とユリシーズは本を開き、顎で座れとジェスチャーした。
赤髪の騎士は渋々といった様子で丸椅子に腰を下ろす。だが酒に口をつける気はないのか身体は横を向いたままだった。
「飲めと言うのに」
勧めても彼は「今日は本を貸しに来ただけだ」と頑固である。
「前のより薄くしてあるぞ」
付け加えても無駄だった。グラスを持ち上げることもせず、アルフレッドは反対に座すユリシーズにどうでもいい問いを投げかけてくる。
「一時間はいくらなんでも無理じゃないか?」
再編版の騎士物語を読み終えるのに彼は一晩かかったらしい。最初から最後まで読み通そうというのは真正直な凡人の発想だな、とユリシーズは口の端を上げた。
「私が読むのは新章だけだ。これまでの話は全部覚えるくらい朗読させられてきたからな」
「新章だけ? いや、待つから詩も読んだほうがいい。はっきり言って芸術的だぞ」
彼好みの話題が出ているはずなのに騎士の表情は一向に晴れない。この二日、ユリシーズが気にするまい気にするまいと努めて結局無視できなかった沈痛な面持ちが、今はいっそう痛ましかった。
ルディアがどうして彼を放っておけるのか不思議でならない。仲間とともにいる間はアルフレッドが完璧に普段の己を演じているなら更に痛ましいことだけれど。
(話を聞いてやろうと思って呼んだんだろうが。ここまで来て何をためらう?)
騎士物語を読むふりをしつつユリシーズは赤髪の騎士を盗み見た。取り繕う必要がないからか、彼は憔悴しきった顔で暗がりを見つめている。荒んだ瞳にかつての己を垣間見てユリシーズはかぶりを振った。
「……お前、何かあっただろう?」
尋ねるとアルフレッドは無言でこちらに目を向ける。わずかにひそめられた眉には聞いてくれるなと書いてあった。
だが素直に応じるわけにいかない。こちらにも一つ知りたいことがある。
「何もないならあの女に私の話を済ませているはずだ。なぜ言わない? 何か不都合でも起きたのか?」
しばし押し黙った後、アルフレッドは「不都合なんて」と呟いた。苦しげな声に聞いた自分までつらくなる。彼を責めたいわけではないのに。
「俺が言いそびれているだけだ……」
アルフレッドの掠れ声は苦い記憶を呼び起こした。一番聞いてほしい嘆きを喉奥に飲み込んでいたとき、多分自分も彼と似たような顔をしていた。
あまり激しい混乱のさなかにいると己が溺れていることにさえ気がつけないものである。いつも当たり前にしていたことができなくなる。選べていたはずの最善が見えなくて。そうしてだんだん暗い沼にはまり込む。
「言いそびれ、か。まあ別にまだ言わなくてもいいんじゃないか? 私にあの女の正体を言いふらす気はないし、そうして得られるメリットもない。告げたところでこれまでと何も変わらんだろう。帝国自由都市派の有力者として私は最初からあの女にマークされていると思うし、今だって不穏な動きがないかを注視する対象の一人だろう」
警戒度が九十から九十一に上がるだけだと言えばアルフレッドは「しかし」と言ってうつむいた。彼がするべき報告を怠っているのは事実である。不忠な自分に騎士は戸惑っているらしかった。
「お前が黙っていてくれるならそのほうがありがたいんだ。政治的な意味じゃない。また差し向かいで飲んでみたいと考えていたからな」
この間のはやっぱり楽しかったから、と伝える。赤髪の騎士からは「それは俺もだが、しかし……」と芳しくない返答があった。
これ以上道義にもとった真似はできないとアルフレッドは考えているらしい。たとえ傷ついた本心は真逆の願いを抱いていても。
「気に入らないか? ならこう考えればいい。酔っ払った私があの女の正体をどうやって知ったかぽろりと零すかもしれないと。監視も兼ねて二人で飲んでいるのだとな」
「ユリシーズ……」
アルフレッドは「なんでそんなに飲ませたがるんだ」と問う。ユリシーズは率直に「お前の胸を軽くしないまま帰したくないからだ」と答えた。
「…………」
赤髪の騎士は黙り込む。溜め込んだ毒を吐き出したいくせにどうしても彼は首を縦に振ろうとしない。
楽になりたくてここへ来たのではないのか。本の貸し借りくらいなら、明日またレーギア宮でするのでも十分だと思わなかったわけではあるまい。
「背信行為と受け取られないか心配か? だがどうせ女帝に一時仕えすることになったとき、あの女からついでに私の動向に目を光らせておけと命じられているのだろう? その命令を実行すればいいだけの話ではないか」
ユリシーズは本を置き、丸椅子から立ち上がった。自席からアルフレッドの腰かける端の席まで移動する。赤髪の騎士はそれを、どこか気圧されたように見上げていた。
「明日その顔で主君の前に立てるのか?」
「…………」
問いかけに彼はごくりと息を飲む。どう言えば騎士の心を揺さぶれるのか、理解したうえでの問いだった。
言い訳はなんでもいい。ただ早く抱えたものを放り出させてやりたかった。利害も立場も関係ない。彼を一人にしておけない。じっと黙って孤独に痛みに耐える男を。
「好きなだけ飲んで、好きなだけ吐き散らしたらいい。仲間に言えないことも全部」
思いのほか優しい声が出て自分で驚く。アルフレッドは蚊の鳴くような細い声で「どうして……」と呟いた。
婚約を破棄された後、ユリシーズは誰といても、どこにいても苦しかった。好奇の目も、上辺ばかりの同情も、等しく心を傷つけた。けれど一番己を痛めつけたのは、平気なふりをしてしまった自分自身だったと思う。
悲しいとか、悔しいとか、憎らしいとか、恥ずかしいとか、一人でも聞いてくれていたならきっと違ったのだ。誰かの隣で潰れるまで酔えたなら。
立場と誇りが邪魔をした。積み重ねてきた努力がすべて仇になった。家柄も、実績も、己の中で悲鳴を上げる弱さを決して認めなかった。
アルフレッドも同じなのだ。彼の場合、高すぎる忠誠心と超のつく真面目さが彼を黙らせようとしている。
「……あんまりつらいことが続くと痛みで心が歪むだろう。自分が悪くてそうなったわけでないなら余計に」
わかっていた。これはあの頃苦しんでいた自分が聞きたかった言葉だ。誰も言ってくれなかったから、自分でも言ってやれなかったから、光差す場所から遠のいた。
「この間より飲みやすいはずだ。一杯だけでいいから飲んでいってくれ。私の自己満足のために」
水割りの入ったグラスを押しつける。アルフレッドはしばらくの間葡萄酒に映る己の顔を眺めていたが、その表情はますます険しく歪むだけだった。
──明日その顔で主君の前に立てるのか? そう尋ねたのが効いたのだろう。ためらいがちに騎士の手が杯に伸ばされる。ひと口舐めて「まだきついぞ」と太い眉をしかめると彼は残りを一気に喉に流し込んだ。
その夜結局ユリシーズは読みかけの本のもとに戻らなかった。
酒の力は偉大である。節度などあっさり忘れさせてしまう。けれどその力を借りてでなければ乗り越えられない苦しみも、人生にはきっとあるのだ。
満足だった。初めて、こんなに。




