第3章 その4
バジルたちが平和な静けさを保つ郊外のガラス工房に戻ってきたのは夕暮れ近くのことである。凶暴な人間の存在しない空間にようやく安堵の息をつき、玄関扉を閉めるとともに大いに緊張の糸を緩めた。
「うわーん、良かった! なんとか無事に帰ってこられましたねえ!」
涙目でバジルはタルバの骨ばった両手を取る。
「本当に何から何までタルバさんのおかげです! ありがとうございます! ありがとうございます!」
ぺこぺこと頭を下げれば彼は少々ばつ悪そうに顔を背けて「そんなに何回も言わなくていいって。っつーかあれはゴジャの無茶振りが悪いだろ。こっちが謝らなきゃいけないくらいだ」と首を振った。
「いやいや、タルバさんは何も悪くありませんよ! 力を誇示しなきゃ自分を保てないような人間は何してもダメって僕の大事な人も言っていましたし!」
仲間意識から自分を責めようとするタルバにバジルはそう力説する。本当に近年稀に見る危機だった。よくぞ生還できたものだ。
「あんな場当たり的な言いがかりで殺されていたら『雑魚すぎ……』って墓に彫られるところです。せめて好きな人が涙してくれる程度には立派な死に際でありたいですからね」
評価の厳しい想い人を脳裏に思い浮かべつつバジルは苦笑気味にぼやいた。すると隣で聞いていたタルバが意外そうに瞬きする。
「へえ、あの子意外にきつい性格してるんだな。まあそうでなきゃ今の世の中渡っていけないか」
「へっ?」
突然飛び出したその発言にバジルはきょとんと首を傾げた。
タルバとモモに面識はない。ひょっとすると天帝の生誕を祝う宴の席に彼もいたのかもしれないが、モモの話をしたことはなかったはずだ。だと言うのに彼の口ぶりはまるで彼女を知っているかのようである。
「あの子って誰のことです?」
湧いた疑問をそのままぶつけるとタルバは「え?」と怪訝な顔で問い返してきた。
「今日会ったケイトって子だよ。お前あの子に惚れてるんだろ?」
「……はっ?」
想定外も想定外の返答にバジルは一瞬思考停止する。早合点して「あっちも脈ありなんじゃないか? 中庭に連れて行かれるお前を一緒に追いかけたとき、あの子が袖にナイフを隠すところを見たぜ。あれは助けようとしてくれてたよ」と続ける友人に「いやいやいやいや」と力いっぱい首を振った。
「ケイトさんとは全然そういうのじゃないですけど!? 僕の好きな子はもっと超然としているというか、ナイフを袖に隠し持つどころじゃ済まないというか……」
とにかくケイトは違うと伝える。「そうなのか? なんだかただならぬ雰囲気だったのにな」と鋭いのだか鈍いのだか判別しがたい反応を返され、バジルはハハと頬を引きつらせた。
恋人を射殺した男を前にケイトは相当冷静だったと思うけれど、時間がどう流れようとやりきれなさは拭えまい。それは己とて同じことだ。
「けどお前、好きな女はいるんだな。どんな子だ? 結婚の約束なんかはもうしてるのか?」
デリケートな方面から話題が逸れてほっとする。バジルは天上の花もかくやという桃色の、慈悲と無慈悲を併せ持つあの瞳を心に描いて彼の質問に答えた。
「結婚できたら嬉しいですけど僕の一方的な片想いなんですよ。自力で熊とか倒せちゃうんで男手必要ないんですよね、多分」
「く、熊を?」
「ええ。あと虎も」
「虎も!? すごいな!?」
一体どんな屈強な娘だとタルバが震える。「見た目は小柄で可愛いですね」とモモの容姿を教えてやれば彼はますます困惑した。
「彼女が強いのは腕っぷしだけじゃないんです。並大抵の精神力の持ち主じゃなくて、絶対その場しのぎの嘘や気休めを言わないから、彼女の言葉は重くて価値があるんですよ」
恋愛談義など久しぶりで、バジルはついぺらぺらと喋りすぎてしまう。だがタルバはそんな与太話にも好意的に頷いてくれた。
「僕みたいなすぐヒエーってなる人間には存在が救いなんですよね。好きとか惚れたとか以前に」
何物にも代えがたい彼女の特質。あらゆる雑音を薙ぎ払い突き進む美しさ。たとえ振り向いてもらえずともそれを間近で見ていたい。彼女が胸に住む限り自分も強く歩んでいけると思うから。
「名前はモモって言うんです。モモ・ハートフィールドって」
慕わしい人について話していると心が会いたがってくる。いつになれば己は故郷に帰ることができるのか。ジーアンに捕まってからの日数を思うと焦燥はいや増した。なるべく気にしすぎないように過ごしてはいるけれど。
「ふうん、そうか。いつか会えたら会ってみたいな」
しみじみとしたタルバの呟きにバジルは「いや、それはちょっと冒険ですよ」と引きつった笑みを浮かべる。ジーアン人である彼にモモが斧を振り上げずにいられるかは甚だ疑問だ。彼女は理性的だけれど、それは非常に賢い獣という表現がぴったりの理性なのだから。
「会えたらだよ。それまで俺が生きてたら、だ」
低い声には少なからぬ悲哀がこもる。迫りくる死期を憂いてタルバは小さく嘆息した。
「タルバさん……」
「悪い。気にすんな」
出すべき話題じゃなかったとばかりに軽く背中を叩かれる。暗くなってきた工房に明かりを灯して回る彼に目をやってバジルはしばし沈黙した。
こうして一緒に暮らしていてもタルバの死病の正体はよくわからない。彼は苦しげに咳き込むこともなければ発熱して倒れることもなかった。だが今日はゴジャも病を匂わせる言葉を口にしていたように思う。どうせ近いうち皆死ぬのだと、まるで退役兵全体に不治の病が蔓延しているかのごとく。
「あ、そうだ。さっきケイトさんがタルバさんのこと褒めてましたよ!」
どうにか明るいムードに戻そうとバジルはタルバが喜んでくれそうな話題を引っ張り出した。
砦の外までケイトが見送ってくれたとき、彼女はアレイア語で会話していたからタルバはきっと気がついていないだろう。自分の勇姿がほかの者にはどう見えていたか。
「あの子が俺を?」
「ええ、身を盾にしてすごく格好良かったって。あんなことなかなかできる人いないって」
にこやかにバジルは告げる。ほんのねぎらいのつもりで。タルバには笑っていてほしかったし、元気になってほしかったから。
だがこの狙いは当たりすぎていたようである。振り返った青年の顔はついぞ見た覚えのないほど赤かった。ランプの炎が彼を照らす効果以上に。
「えっ……!? マジで俺のことをそんな風に……!?」
「へっ」
予想外すぎる反応にバジルは「えっ、あの」と冷や汗を浮かべる。こちらの動揺に気づいた様子もなくタルバは緩む口元を掌で覆った。
「うわー、こういうの久しぶりだから嬉しいな。砦に行ったらまた会えるかな? ケイトって芯が強そうでいい女だなと思ってたんだ」
「あの、えっと、タルバさん?」
もしかして惚れっぽいタイプですかと聞くこともできず黙り込む。タルバは意気揚々と「明日からの水銀鏡作り、できるだけ早く終わらせようぜ! 鏡の量産が終わったら砦で組み立てに入るんだもんな!?」と三白眼を輝かせた。
「そうと決まれば設計だ設計! 迷路の構造考えよう!」
ぐいぐいと肩を押され、作業台に座らされる。すぐさま鏡に見立てた木片が卓上に並べられ、話を戻すのは困難になった。
(ヒエーン!)
こういうのはどうだ、ああいうのはどうだと熱心にアイデアを出すタルバにバジルは半泣きで応じる。ああ、ケイトは確実に色恋沙汰などごめんだろうに何をしているのだろう。せめてここに「その気になるの早すぎでしょ」と鋭く突っ込んでくれる誰かがいれば良かったのに。
(うう、やっぱり僕にはモモが必要だ……!)
脳内の彼女には「それってモモに面倒押しつけてるだけじゃない?」と冷えきった目で見つめられたがその冷温さえ恋しかった。早く彼女の側に戻りたい。なじられるなら妄想ではなく本物の彼女に「うわ……」となじられたい。
てきぱきと迷宮の模型を作りつつバジルは不自由な我が身を嘆いた。愛しい彼女は今どこで何をしているのだろう。少しは自分のことを思い出してくれているのだろうか。
(絶対にこれっぽっちも思い出してないっていうか、毎日僕とは関係ないこと考えて生きてるんだろうけどなあ……!)
微塵の希望も持てないのがつらいところだ。バジルはそっと目尻に溜まった涙を拭った。現実が己の想像通りであろうことが少しだけ切なかった。
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ああもう、面倒くさいったらない。一人だけでも鬱陶しいのに揃いも揃って惚れたの腫れたの。誰が誰をどう思っていてもいいけれど、生活に支障のない範囲にしてほしい。御しきれないのが恋であっても恋していない人間にだって同じく生活があるのだから。
「はああぁぁあ……」
冥府の谷より深い息をつき、モモはテーブルに突っ伏した。療養院の談話室に陣取るのは猫の戻りを待つアイリーンと己だけだ。今日も主君はレイモンドの印刷工房へ──それはいちゃつくためではなく純粋に仕事のためなのだが──出向いている。
「どうしたの、モモちゃん? 今日はやけに溜め息が多いわね」
間の抜けたアイリーンの疑問にモモはまた嘆息記録を伸ばしそうになった。彼女はルディアが断る断ると言い続けて結局断れなかったことも、兄が二人を見つめるときの複雑極まりない眼差しも知らないからそう安穏としていられるのだ。
前者はいい。レイモンドが現実的、もっと言えば即物的な努力を結実させて帰ってきただけだ。予測しなかった事態なのでルディアも取るべき道を改めて考え直さねばならなかった。そして主君はレイモンドを選んだ。今度はなんの弊害もなかったから。
問題は後者だ。昨夜ルディアから「相談がある」と持ちかけられた女子会でモモはよほど兄の秘かな恋心を打ち明けてしまおうか悩んだ。知っているのと知らないのとでは対応がまったく違ってくる。少なくとも傷つける意図のない言葉でアルフレッドが傷つくことはなくなるだろう。
だがモモにはどうしても言えなかった。伝えてくれと頼まれたわけでもない他人の繊細な感情を伝えるのは己の倫理観が良しとしなかったから。
「……なんでもない……」
不思議そうに覗き込んでくるアイリーンにそう返す。だがすぐに「や、でも姫様本人にじゃなかったら根回ししたほうがいいんじゃない?」と思いつき、モモはがばりと顔を上げた。
「あの、あのさあ、アイリーン」
どう説明するのがいいか慎重に言葉を選ぶ。「しばらくアル兄落ち込んでると思うけどそっとしておいてあげて」では多分伝わりきらないだろう。「アル兄と姫様たちが一緒にいたらそれとなく間に入るか別のところへ連れていくかしてあげて」では仲違いを疑われそうだ。
やはりそのまま言うしかない。意を決し、モモはすうっと息を吸い込んだ。
「モモちゃん大丈夫? 本当にらしくないわねえ。何かあったの?」
落ちくぼんだ目に正面から見つめられ、モモはぴたりと息を止める。まさに真実を口にしようとしたそのとき、不意にアイリーンの起こした数々の問題が頭をよぎっていったからだ。
言うべきときに言うべきことを言い逃すのは彼女の持ち芸、逆の失敗もまた然りである。うっかり彼女に兄が横恋慕していると知られればどこでどう口を滑らせるかわからなかった。
「……やっぱなんでもない……」
がっくりと肩を落としてモモは再度テーブルに頭を沈める。話す気はないという無言のメッセージを受け取ってアイリーンも関心をよそへ向けた。
「ちょっと遅いわね、ブルーノ」
呟きは拾う者もなく床に落ちる。片付けも済んで今日はもう帰るだけなのに、この頃のブルーノは繊細な患者を慰めるのに忙しいらしくなかなか引き揚げてこなかった。
(モモたちが早く帰ってあげないとアル兄が先にお店に着いちゃうんだけどな……)
レイモンドやルディアと気まずい時間を過ごす兄のことを思うと忍びない。その程度を耐えられないなら騎士など続けていけないのかもしれないが。
(うーん、姫様にちゃんと話すべきだったかなあ)
一応己も「けじめはつけてね」と忠告はした。要するに人前でいちゃいちゃするなよと。「借りている身体だし、婚約すると言っても暫定だ」という主君の返事がまあまあしっかりしていたからしつこくは言わなかったが。
(いやでもやっぱりモモから話せることじゃないよね!? ほかにできることは全部やったと思うし!)
うんうんと一人頷く。こうなればもはやあの二人の良識を信じるしかない。目の前で見せつけられずとも、しょうもない自慢話などされずとも、真面目な兄は己の不甲斐なさと比べて落ち込んでしまうのだろうが。
(アル兄って我欲のために行動するのほんと苦手だからなー)
はあ、とまた溜め息が漏れた。屋内は薄暗く、日はもう沈みかけているのに白猫はまだ足音もさせなかった。




