第3章 その3
「……そんな感じで妥協だったり打算だったり、退役兵と家庭を持った女性は結構いるの。もう一度港町としてやっていくにはあまりにも失ったものが多いでしょう? 街の男手もほとんど残っていなかったし、奴隷でいるよりは妻に格上げされたほうが安全に暮らせそうだからって。中には本気で情が芽生えて睦まじくやっている子もいるわ。ドナ人と結婚したジーアン人には横柄な人が少ないみたい。ましな人たちが抜けたおかげでここは煮こごりになっちゃったけどね」
「ううっ、じゃあ僕の出し物は一番やばい人たちに向けて考えないと駄目ってことですか」
「まあそうね。こっちが何もしていないときも突然怒鳴り散らしてくるような人たちだから、大変だと思うけど……」
ケイトの言にバジルはごくりと息を飲む。なんでもいいから参考になる話を聞きたかったのに、身震いするばかりでどうしようもない。いっそのこと何も知らないほうが良かったかもと早くも後悔が押し寄せた。
「案はあるの? 私には余興なんて少しも思い浮かばないけど、あの人たちに受けそうかどうかなら答えられると思うわ」
ケイトは親切に申し出てくれる。わだかまりはまだ消えたわけではなかろうに心根の優しい人だ。
「うーん。思いついたのは一つ思いついたんですが、一日では準備ができない代物でして……」
そう、とケイトが眉根を寄せる。話し込む間も彼女の荒れた白い手は淡々と人参の皮を剥き続けた。
その隣ではケイト以上の手早さでタルバが未処理の野菜の嵩を減らし続けている。アレイア語のわからない彼は「俺が作業を頑張るから二人は気兼ねなく話し合え」と集中してくれているのだ。
「あなたのその、お弟子さんはどう言ってるの? こんな雑用手伝ってくれるくらいだし、相談できない相手ではないんでしょう?」
「それがその、彼にも退役兵たちの好みはわからないそうで……。ものすごく真っ当な人なので……」
言外に彼では煮こごりの内心が推測できないのだと告げる。ケイトは「まあ同郷人だって善人と悪人では基本わかり合えないわよね」と納得顔で呟いた。
「ドナ人を気にかけてくれたジーアン人は皆とっくに砦を出てるしね……」
彼女が髪を切ったのはある退役兵に勧められてのことだったらしい。「お前は見目がいいから気をつけたほうがいい」とわざわざアレイア語のできる人間に頼んで伝えてきてくれたそうだ。それでも言い寄ってくる男は絶えず、自ら顔を傷つけるに至ってようやく受難は去ったらしいが。
ケイトはさらりと、本当にさらりとそれをバジルに教えてくれた。多分彼女は生涯夫や恋人を持つ気がないのだろう。だから簡単に頬を焼くなどできるのだ。ドナのために尽くすのも償いの意味が大きいに違いない。
(せっかく同じ街にいるんだし、ケイトさんのために僕も何かできたらいいんだけどなあ)
生まれ故郷がこんな風になって、彼女はさぞかし胸を痛めていることだろう。ドナを元通りの港町に戻すことはできなくとも、せめて暴力的な退役兵たちを大人しくさせられたら──。
「探しましたよ。こんなところにいたんですね」
と、前触れもなくジーアン語で呼びかけられ、バジルはびくりと全身を跳ねさせた。開いた手から人参が滑り落ちる。振り向けば厨房棟の裏口には中庭で見た退役兵の一人が姿を現していた。
「ゴジャが癇癪を起こしましてねえ。すぐに戻ってもらえますか?」
有無を言わさぬ強い口調に息を飲む。黒髪のジーアン人はタルバをかわし、こちらの都合も聞かずにバジルの腕を引っ掴んだ。
「ウヤ! 待ってくれ、俺たちまだ相談中で」
「でももう辛抱できないみたいで。すみませんね」
形だけの謝罪とともにバジルはひょいと青年の肩に担がれる。表口に回れば中庭はすぐそこだ。このまま連れて行かれたら惨劇しか待っていないのは目に見えた。
(ひえええ! まずいまずい! まだ全然ちゃんと考えられてないのに!)
「あの、あの、主館! 隣の主館通ってってもらっていいですか!?」
あわあわと必死で時間稼ぎを図る。ウヤは「そのくらいお安いご用です」と気前良く請け負ってくれたが、代わりに歩行速度を倍に上げられた。
(ああああ! 意味なし!)
暴れても状況を悪化させるだけだろう。こうなればもう腹を決めるしかない。一瞬いいなと思っただけの余興案だがなんとかこれで押し切らなくては。
血の気が引くのをぐっと堪え、バジルは可能な限りアイデアを膨らませた。拉致された己の後ろからは焦りの滲む足音が二つ、大急ぎで追ってきていた。
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考えすぎだとウヤが言った通り、アクアレイアのガラス工も反抗的な態度のタルバも己を無視して逃げたのではなかったようだ。とは言え酷く待たされたことに変わりはない。先程と同じくゴジャは戻ってきた二人を仲間に囲ませた。この街を取り仕切るのが誰なのか、彼らには一度はっきりわからせてやらねばなるまい。
「どうだ? 俺たちの喜びそうな見世物は思いついたか?」
青ざめきったアクアレイア人に問いかける。「い、一応一つだけですが……」と子供みたいな顔立ちのガラス工は声を引きつらせた。
「よし、それじゃとっとと準備しろ」
顎で行けと命令する。しかしバジル・グリーンウッドは「ええと、その」とわちゃわちゃ指を踊らせるのみだった。
「そのー、即席ではやっぱりちょっと厳しいんで、工期をいただきたいんですが……」
「ああ?」
どうやらガラス工はすぐには要求に応じられないと言いたいらしい。
「てめえ今思いついたっつっただろうが」
睨みつけると彼は怯えて弁明した。曰く「設計や設営に時間がかかっちゃうものなんです」とのことである。
「んなこと言って何も思いついてないだけじゃねえのか? 誤魔化そうってもそうはいかねえぞ」
「そそ、そんなことはありません! 内容なら今説明できます! 砦の空いたスペースを使ってアトラクションを作りたいなと」
「はああ? なんだそのアト……アトラ……くそッ! わっかんねえ専門用語使うんじゃねえ!」
がなり声にガラス工はヒッと低く頭を伏せる。ガチガチと歯の根を鳴らして彼は「うう、アトラクションというのはつまり迷路のことでして」と説明した。
「迷路ォ?」
「は、はい。あの、以前レースガラスと一緒に水銀鏡を納めさせていただいたと思うんですが、その鏡をたくさん使って主館内を迷宮化したら面白いんじゃないかなって……」
バジル・グリーンウッドはしどろもどろに計画を打ち明けた。迷宮に目印をつけておけば誰がどこまで辿り着いたかすぐわかる。最初にゴールした人間に褒美を与えるのもいいだろう。勝敗を競わないならくじでも置いて罰ゲームや謎解きを楽しめばいい。一人で攻略に臨んでもいいし、二人でペアを組んでもいい。鏡の壁は組み替えることができるから何度だって遊べると。
「ど、どうでしょう?」
ガラス工を取り巻く人垣から「へえ」と二、三の声が上がった。面白そうだという期待が場の雰囲気から伝わってくる。砂糖水でガラスを消すよりずっといい趣向じゃないか。ゴジャもわずかに鼻を鳴らした。
「工期はどのくらい必要なんだ? 一週間か? 二週間か? それくらいなら待ってやる」
だがバジル・グリーンウッドはどこまでも空気の読めない男だった。こちらは明日をも知れぬ身なのに、気の長いことをほざいてくれる。
「ええと、最低でも二ヶ月は……」
「はあ? 二ヶ月?」
ゴジャは大きく嘆息し、腕を払いつつ首を振った。話にならない。そんなに待てるはずがない。この男は今すぐに目の前の退屈を蹴散らすために呼ばれたことをてんでわかっていないらしい。
「二週間でやれ。できないなら俺たちがお前の楽しみ方を考えてやる」
この却下にガラス工はうろたえた。「に、二週間じゃワンブロックくらいしか作れませんよ!」と彼は懸命にどの工程にどれくらいの時間を要するか捲くし立ててくる。
だがもうゴジャに聞く気はなかった。彼は要望に応えることができなかった。それがすべてだ。役立たずには役立たずの運命が待っている。このガラス工がいなくなればタルバもきっと目を覚まして砦の仲間に加わるだろう。
「よーし、久しぶりに弓をやるか! このチビの頭に酒瓶を乗せろ! 見事に俺が射落としてやる!」
ゴジャがそう叫んだのでガラス工はヒッとタルバの陰に隠れた。
同胞のくせに砦の暮らしに興味も示さぬ薄情者は腰の曲刀に手をやりながら双眸をきつく尖らせる。
「おい、それはこいつが俺の同居人だってわかって言ってるんだよな?」
捨て置けない態度だった。今こそ蟲は──恵まれなかった第十・第九世代の蟲は──一致団結しなければならないのに。なんて勝手な男だろう。仲間なら賛同するべきではないか。仲間の味方をするべきではないか。それなのに。
(やっぱりタルバも俺たちを蔑んでやがんだな。俺たちよりもドナの女なんか選んだあいつらみたいに……)
己の思考の滅裂さにゴジャは自分で気がついていなかった。タルバの事情や心境を想像することもできず、胸に巣食った重い不安の掻き立てる妄想を真実だと思い込んだ。
実際それはゴジャにとっては真実味があったのだ。加えて誰かに不当に攻撃されていると思い込んでいるうちは、己の選択が失敗だったかもしれないことを忘れていられた。
「同居人だからなんだ? こいつは俺たちがドナに呼んだ職人だ。こいつには俺たちに従う義務がある。それを果たせなかったんだから、どうされても文句は言えねえはずだろ」
ゴジャは己にガラス工を裁く権限があることを主張した。アクアレイア人やドナの住民たちと違い、彼はラオタオの持ち物ではない。ゴジャたち退役兵が天帝から直接賜った贈り物だ。確かにタルバも権利の一部は持っているのかもしれないが、そんなものはせいぜい二百分の一に過ぎなかった。
(そうだ、正しいのは俺たちだ。タルバは自分のことしか頭にねえ。蟲全体のことを考えてるなら俺たちと同じ意見になるはずだ)
青年の手はまだ曲刀を握りしめたままだった。緊迫が高まるにつれゴジャのほうでも身構えずにはいられなくなってくる。
添えるだけ指を添えておくか。そう腕の位置を変えたときだった。タルバが鞘から刃を引き抜いたのは。
「……ッやる気かてめえ!?」
長椅子を蹴って跳ね起きる。成り行きを見守っていたほかの蟲たちも一斉に武器を取った。だが斬り合いが始まる前に皆動きを止めてしまう。何をやっているのだとゴジャもぽかんと刃の向きを変えた青年を見やった。
「バジルは俺の師で恩人だ。罪過があるなら俺が罰を引き受ける」
タルバは曲刀の切っ先を己の腹に向け、逆手に持った柄をゴジャの手に押しつけた。「殺せ」ときっぱり告げられる。恩人を斬りたければまずは同胞殺しの不名誉を背負うのだと。
「……ッ」
瞬発的にゴジャは曲刀を払いのける。衛兵用のシンプルなそれは乾いた音を立てて地面に転がった。
「恩人? そいつは防衛隊の隊員だろう? それがなんで恩人になる?」
問いただす声には抑えきれぬ怒りがこもる。連中はジーアンを騙そうとした過去のある一団だ。そんな奴に恩を感じるなどどうかしている。
タルバは頭がおかしくなったに違いない。今だってバジル・グリーンウッドは青ざめて目を回すばかりなのに、命をかける価値が一体どこにあるというのだ。
(くそ、脅せば俺がびびって引っ込むと思ったか?)
ほかの仲間が見ている前で引き下がるわけにいかない。そっちがそのつもりならとゴジャは己の曲刀を抜き、正面に突き出した。目と鼻の先で止められた鋭い刃にタルバがやや顔をしかめる。
「死にてえなら殺してやる。どうせ近いうち死ぬんだ、皆」
日焼けした逞しい首の側面に切っ先を押しつけた。ガラス工がタルバの前に飛び出すのと、ウヤがゴジャの武器を押し下げるのが同時だった。
「熱くなりすぎですよ、ゴジャ! さすがに仲間に武器を向けるのはいただけません!」
殺しなどして十将が調査に来たらどうするのだと小声で問われ、ハッと己の行為が生み出す不利益に気づく。ドナの蟲が仲間割れしていると誤解されては堪らない。弱みにつけ込むのが得意な将は多いのだから。
「けどよ、ウヤ」
舐められたままでは示しがつかない。言葉にはせず訴えた。己にも退役兵をドナに連れてきた責任というものがある。あんたならわかってくれるだろと。だがウヤはいつもと同じに平和路線の解決を勧めてくる。
「鏡の迷宮、いいじゃないですか。これ以上ない贅沢ですよ。請求書を見たらラオタオ将軍は引っ繰り返るかもですが、それもまた見ものでしょう?」
「……っ」
ウヤに説得されると急に心が揺らぎだす。彼の発言は有益なものだと記憶が裏付けているからだ。蟲の記憶は古いものほど生々しさが薄れるが、ゴジャは「親」のウヤにはろくに逆らえたことがなかった。特にドナへ来て、仲間だと思っていた連中がぽろぽろ抜け始めてからは。
「………………」
長く苦しい沈黙の後、ゴジャは「わかったよ……」と呟いた。そうしてすぐに虚勢を張って大声で吠えつけた。
「二ヶ月だけ待ってやる。ただしつまんねえもん作ったらガラス工の命はないと思え!」
ゴジャが曲刀を鞘に収めるとタルバやアクアレイア人だけでなく退役兵の間からも安堵の吐息が漏れ聞こえた。誰も彼もゴジャは傍若無人だと責め立ててくるようである。
「そ、そうだよなー、本気で仲間を斬るわけないよな」
「はは、びっくりさせやがって」
気心の知れた数人がぽんと肩を叩いてきたが、座って飲み直す気にもなれず、ゴジャは彼らの手を振り払った。荒々しい足取りで中庭を突っ切り、己の幕屋に向かって歩く。
「ああ!? 何じろじろ見てやがるんだ!?」
その途中、主館の陰からこちらを覗く小間使いに気がついてゴジャは足元の酒瓶を蹴り飛ばした。別の空瓶に衝突したそれは不快な高音を響かせる。
「……っ!」
すみません、と女は裏手に引っ込んだ。膨らむばかりの苛立ちを持て余し、ゴジャは薄暗いゲルに入る。
外は妙に静まり返って誰もいないみたいだった。不貞寝を決め込んだ長椅子の上でゴジャはしばらく瞼を閉じたままでいたが、誰一人声をかけにくる者はいない。様子を見にくる者さえおらず、それが無性に気に入らなかった。




