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第3章 その1

「えっ……? 姫様、今なんて……?」


 驚き目を瞠る槍兵をまっすぐ見つめ返せずにルディアは斜めに顔を背ける。問うてきたレイモンド以上に頬を赤くして「だからその、あくまで暫定だぞ、暫定」と答えればレモンイエローの双眸はたちまち喜びに輝いた。


「やったーっ! マジで? マジで?」


 小躍りして飛び跳ねた勢いのままレイモンドはルディアの両手を掴んでくる。アルフレッドもモモたちも今朝は出勤済みであり、誰かに見られる心配なんてないのに酷くたじろいだ。


「本当に俺のこと婚約者にしてくれるんだ!?」

「……っ!」


 至近距離にはまだ慣れない。「返事貰えるまでもっと時間かかると思ってた」と頬を綻ばせるレイモンドの柔らかすぎる眼差しにも。


「迷って消耗するよりは、どちらかはっきりさせたほうがいいだろう」


 優柔不断が一番悪いとルディアは告げた。特にこんな、理性以外の力が働く問題では。


「条件に不足や不満もないわけだし……」


 悔いはしない。そう決めた。ひとりよがりにならないように改めてモモにも相談した。「そうだよねえ。今のレイモンド、姫様の結婚相手として申し分ないもんねえ」という昨夜の斧兵の台詞を思い出す。なになに、と会話に混ざってきたブルータス姉弟の「側にいたら好きって気持ちは膨らむだけよ!」という言葉も。

 捨てられない想いならどうにか飼い馴らさねばならない。引きずられ、無様に振り回されることのないように。だからこれは恋愛という暴虐な王に対する降伏宣言ではなくて、未来へ前進するために導き出した結論なのだ。


「ううっ、めちゃくちゃ嬉しい! 給料日と誕生日とカーニバルがいっぺんに来るよりもっと嬉しい!」


 こじんまりしたブルータス家の居間に槍兵のはしゃぎ声が響く。床の木目を睨みながらどのタイミングで「そろそろ手を離してくれ」と言うべきか悩んでいるとレイモンドはいっそう指に力をこめた。


「あの、抱きしめていい……?」


 おずおずと尋ねられ、馬鹿かと返しかけて気づく。申し出を受け入れた今、拒絶する理由が一つもないことに。


「い、一分だけだぞ」


 答えるが早くレイモンドはがばりとルディアに被さった。優しく背中に腕を回され、広い胸にそっと頭を抱き寄せられ、身じろぎもできずに固まる。だがもう嫌がるポーズを取る必要はないのだ。ルディアはゆっくり力を抜き、目の前の男に身を委ねた。

 布越しの温もりは初めて味わうものではない。だが名実ともに「許された」状態で味わうそれは初めてだった。密着している部分が多いほど心安らぐのはなぜだろう。心臓は壊れそうなほど逸っているのに。


「……姫様……」


 恍惚とした囁きに耳をくすぐられ、閉じかけていた目を開けた。見上げればレイモンドは堪らないといった顔で手を取って抱きしめ直してくる。

 だがもう一分過ぎているのではなかろうか。ならそろそろ終わりにせねば。意志の力を総動員してルディアは我が身を引き剥がした。


「まだここ出るまで時間あるだろ? もうちょっとだけ」

「……っ」


 恋をすると六十秒数えることもできなくなってしまうらしい。懇願されたが一分は一分だ。心を鬼にして首を横に振る。


「線引きはしておかないと堕落する。ほら、行くぞ。開店準備があるだろう」


 そう言って居間のドアを開け、ルディアはレイモンドに手招きした。槍兵は少々物言いたげな様子であったが、それでも不平は漏らさずついてくる。


「一応断っておくが、仕事とプライベートを混同するなよ」

「わかってるって。ところ構わず抱きつくようなことはしねーって」


 暫定婚約者としての振舞いは人目につかない場所でだけだと彼が同意する。駄々をこねられずほっとしたのも束の間、レイモンドはやや答えにくい問いを投げかけてきた。


「けど皆には言っていいだろ? 仲間内くらいはさ」


 ルディアはうっと押し黙る。改まって「付き合うことになりました」などと発表するのは恥ずかしいことこのうえなかった。大体昨日は「レイモンドとの婚約について検討する最終会議」のために泊まり込み当番のモモやブルーノやアイリーンにどういう経緯でこうなったのか散々喋らされているのだ。少なくとも彼女らにはこれ以上説明しなくていいのではないかと思えた。


「だめ?」

「だ、駄目ではない。というか、アルフレッド以外の者は知っている……」


 もごもごと「女連中には色々相談に乗ってもらったから」と補足する。するとレイモンドは「あ、そーなの?」と赤くなった頬を掻いた。


「じゃあアルには俺から話していい? 今日の夕方にでも」

「ああ、わかった」


 大事なことには違いないし、全員が共有している情報をアルフレッドにだけ伏せておくわけにもいかない。レイモンドが伝えてくれるならそれが一番いいかと頷く。


「もういいな? そろそろ行こう。開店に間に合わなくなる」


 足を止めていた扉の前でルディアはレイモンドを急かした。外階段に出ようとドアノブに手をかける。そうしたらあろうことか、その上からひょいと手を重ねられた。


「あ、ちょっと待って」


 囁きと同時、見習い貴公子は上体を屈める。後ろからルディアにくっつくと彼はこめかみに唇を寄せてきた。

 一瞬の接触。柔らかな感触。こちらが何か言う前に体温は離れていく。


「な……っ」

「よっしゃ、行こ行こ!」


 ドアを押し開け、階段を下り出した馬鹿者にかろうじて「お前なあ……!」とがなり立てた。「だって半年も会えなかったし、まだ全然摂取量足りてねーんだもん!」と彼は悪びれなかったが。


(うう、こ、婚約者ならこの程度当たり前……なのか?)


 あまりどぎまぎさせないでほしい。これは冷静に決めたことだと断言するのが難しくなってしまう。いずれにせよ約束を取り消すなどもう不可能なことだけれど。

 ブルータス整髪店に鍵をかけるとルディアは膝に力をこめ、ぎくしゃくした足取りで歩き出した。夏空はどこまでも美しく晴れ渡り、災いや不幸とは一切無縁そうだった。「えっ……? 姫様、今なんて……?」


 驚き目を瞠る槍兵をまっすぐ見つめ返せずにルディアは斜めに顔を背ける。問うてきたレイモンド以上に頬を赤くして「だからその、あくまで暫定だぞ、暫定」と答えればレモンイエローの双眸はたちまち喜びに輝いた。


「やったーっ! マジで? マジで?」


 小躍りして飛び跳ねた勢いのままレイモンドはルディアの両手を掴んでくる。アルフレッドもモモたちも今朝は出勤済みであり、誰かに見られる心配なんてないのに酷くたじろいだ。


「本当に俺のこと婚約者にしてくれるんだ!?」

「……っ!」


 至近距離にはまだ慣れない。「返事貰えるまでもっと時間かかると思ってた」と頬を綻ばせるレイモンドの柔らかすぎる眼差しにも。


「迷って消耗するよりは、どちらかはっきりさせたほうがいいだろう」


 優柔不断が一番悪いとルディアは告げた。特にこんな、理性以外の力が働く問題では。


「条件に不足や不満もないわけだし……」


 悔いはしない。そう決めた。ひとりよがりにならないように改めてモモにも相談した。「そうだよねえ。今のレイモンド、姫様の結婚相手として申し分ないもんねえ」という昨夜の斧兵の台詞を思い出す。なになに、と会話に混ざってきたブルータス姉弟の「側にいたら好きって気持ちは膨らむだけよ!」という言葉も。

 捨てられない想いならどうにか飼い馴らさねばならない。引きずられ、無様に振り回されることのないように。だからこれは恋愛という暴虐な王に対する降伏宣言ではなくて、未来へ前進するために導き出した結論なのだ。


「ううっ、めちゃくちゃ嬉しい! 給料日と誕生日とカーニバルがいっぺんに来るよりもっと嬉しい!」


 こじんまりしたブルータス家の居間に槍兵のはしゃぎ声が響く。床の木目を睨みながらどのタイミングで「そろそろ手を離してくれ」と言うべきか悩んでいるとレイモンドはいっそう指に力をこめた。


「あの、抱きしめていい……?」


 おずおずと尋ねられ、馬鹿かと返しかけて気づく。申し出を受け入れた今、拒絶する理由が一つもないことに。


「い、一分だけだぞ」


 答えるが早くレイモンドはがばりとルディアに被さった。優しく背中に腕を回され、広い胸にそっと頭を抱き寄せられ、身じろぎもできずに固まる。だがもう嫌がるポーズを取る必要はないのだ。ルディアはゆっくり力を抜き、目の前の男に身を委ねた。

 布越しの温もりは初めて味わうものではない。だが名実ともに「許された」状態で味わうそれは初めてだった。密着している部分が多いほど心安らぐのはなぜだろう。心臓は壊れそうなほど逸っているのに。


「……姫様……」


 恍惚とした囁きに耳をくすぐられ、閉じかけていた目を開けた。見上げればレイモンドは堪らないといった顔で手を取って抱きしめ直してくる。

 だがもう一分過ぎているのではなかろうか。ならそろそろ終わりにせねば。意志の力を総動員してルディアは我が身を引き剥がした。


「まだここ出るまで時間あるだろ? もうちょっとだけ」

「……っ」


 恋をすると六十秒数えることもできなくなってしまうらしい。懇願されたが一分は一分だ。心を鬼にして首を横に振る。


「線引きはしておかないと堕落する。ほら、行くぞ。開店準備があるだろう」


 そう言って居間のドアを開け、ルディアはレイモンドに手招きした。槍兵は少々物言いたげな様子であったが、それでも不平は漏らさずついてくる。


「一応断っておくが、仕事とプライベートを混同するなよ」

「わかってるって。ところ構わず抱きつくようなことはしねーって」


 暫定婚約者としての振舞いは人目につかない場所でだけだと彼が同意する。駄々をこねられずほっとしたのも束の間、レイモンドはやや答えにくい問いを投げかけてきた。


「けど皆には言っていいだろ? 仲間内くらいはさ」


 ルディアはうっと押し黙る。改まって「付き合うことになりました」などと発表するのは恥ずかしいことこのうえなかった。大体昨日は「レイモンドとの婚約について検討する最終会議」のために泊まり込み当番のモモやブルーノやアイリーンにどういう経緯でこうなったのか散々喋らされているのだ。少なくとも彼女らにはこれ以上説明しなくていいのではないかと思えた。


「だめ?」

「だ、駄目ではない。というか、アルフレッド以外の者は知っている……」


 もごもごと「女連中には色々相談に乗ってもらったから」と補足する。するとレイモンドは「あ、そーなの?」と赤くなった頬を掻いた。


「じゃあアルには俺から話していい? 今日の夕方にでも」

「ああ、わかった」


 大事なことには違いないし、全員が共有している情報をアルフレッドにだけ伏せておくわけにもいかない。レイモンドが伝えてくれるならそれが一番いいかと頷く。


「もういいな? そろそろ行こう。開店に間に合わなくなる」


 足を止めていた扉の前でルディアはレイモンドを急かした。外階段に出ようとドアノブに手をかける。そうしたらあろうことか、その上からひょいと手を重ねられた。


「あ、ちょっと待って」


 囁きと同時、見習い貴公子は上体を屈める。後ろからルディアにくっつくと彼はこめかみに唇を寄せてきた。

 一瞬の接触。柔らかな感触。こちらが何か言う前に体温は離れていく。


「な……っ」

「よっしゃ、行こ行こ!」


 ドアを押し開け、階段を下り出した馬鹿者にかろうじて「お前なあ……!」とがなり立てた。「だって半年も会えなかったし、まだ全然摂取量足りてねーんだもん!」と彼は悪びれなかったが。


(うう、こ、婚約者ならこの程度当たり前……なのか?)


 あまりどぎまぎさせないでほしい。これは冷静に決めたことだと断言するのが難しくなってしまう。いずれにせよ約束を取り消すなどもう不可能なことだけれど。

 ブルータス整髪店に鍵をかけるとルディアは膝に力をこめ、ぎくしゃくした足取りで歩き出した。夏空はどこまでも美しく晴れ渡り、災いや不幸とは一切無縁そうだった。




 ******




「えっ……? タルバさん、今なんて……?」


 驚き目を瞠るガラス工をまっすぐ見つめ返せずにタルバは斜めに顔を背ける。問うてきたバジルにどう説明するか悩みつつ、なるべく誠実に謝罪した。


「悪い。断りきれなかった」


 タルバがいつもの納品日通り砦に出向いたのは今朝のこと。こちらの届けた美しいレースガラスの数々をつまらなそうに受け取った退役兵にこう言われたのが災難の始まりだった。「ちょうど退屈してたんだ。なあお前、これ作った奴呼んでこいよ」と。

 表向きの立場がどうであれ直近の「親」が古参幹部クラスでもない限り蟲に上下関係はない。これまでタルバができないと拒絶した要求はすぐに取り下げられてきた。

 だが今日は違った。退役兵のまとめ役であるゴジャが「いいから呼べってんだよ!」と暴れ出したのだ。この頃言動の粗暴さに拍車がかかっているなとは思っていたが、ついに脳まで酒が回ったものらしい。ゴジャの仲間もゴジャを諫めず、タルバは数に押し切られる形で工房へ引き返させられたのだった。


「ラオタオ将軍が長いこと不在だろ? それであいつら、調子に乗ってるんだと思う」

「あ、ああーなるほど……。権力の均衡が崩れるとそういう事態が起きるわけですね……?」


 ハハとバジルは引きつった笑みを浮かべた。哀れになるほど額は青く、彼が危険を感じているのがひしひしと伝わってくる。当然だ。「退屈だから」なんて理由で呼び出され、捕虜が身構えぬはずがない。


「わかったって言わなきゃここまで乗り込んできそうだったからさ」


 タルバはもう一度頭を下げる。「ごめん。なるべくお前には迷惑かけないって思ってんだけど……」と。


「だ、大事なものしか置いてないんで工房で狼藉を働かれるのは困ります! タルバさんの判断は間違っていませんよ!」


 お人好しのガラス工はぶんぶんと首を横に振った。難しい状況だったことに十分な理解を示してくれて、ありがたさに痛み入る。


「で、でも、そうですか。退役兵のうじゃうじゃいる砦に行かなきゃなんですね……」


 そう呟くバジルの声は震えていた。歯の根がカチカチ鳴る音を耳にしていると申し訳なさが極まってくる。やはりきっぱり断るべきだったろうか。「同胞の頼みを聞けねえってのか!?」と今にも暴走を始めそうな気配があったのでつい承諾したけれど。

 仕方のないことなのだろうが蟲たちは被害妄想過剰気味だ。レンムレン湖に至れぬ悲しみを天帝にぶつけ、十将にぶつけ、余命幾許もない自らをひたすら哀れんでいる。

 タルバとてそういう感傷がないわけではない。けれど彼らのように残された時間を浪費する気にはなれなかった。たとえ仲間から「痛みを分かち合おうとしない冷血漢」と蔑まれようとも。


「安心しろ。何があってもお前には手出しさせない」


 不安げなガラス工にきっぱり告げる。ジーアンの民に二言はないと。

 バジルは大切な友人であり、ガラス作りを教えてくれた恩人だ。彼が不利益を被るような事態にはしたくなかった。学びたいことはまだまだたくさんあるのである。敵兵の師となってくれた男を些事で失うわけにいかなかった。


「タルバさん……」


 腰の曲刀を掴むタルバを見てバジルは小さく息を飲んだ。彼はぎゅっと唇を引き結ぶと握り拳を持ち上げて意外に逞しい胸を叩く。


「ぼ、僕だって、たまには兵として根性のあるところをお見せしますよ!」


 奮起したバジルは「行きましょう、彼らの城に!」と宣言した。火を入れる直前だった炉の傍らに薪を積み、ガラス工は手早く服装を整える。


「ありがとう。ごめんな、バジル」

「タルバさんの謝ることじゃありませんってば! むしろいつも面倒事を引き受けさせちゃってすみません」


 決心の鈍らぬうちに出かけたいのかバジルが肩を押してくる。工房の戸締りを終えるとタルバは異国の友人と坂道を歩き出した。

 ジーアン織のカフタンを着込んでいても彼はジーアン人ではない。ちゃんと守ってやらなければ。蟲たちは普通の人間を一段低く扱うことが多いのだから。


(特にゴジャは、学者だろうと職人だろうと斬りたくなったらお構いなしの男だしな)


 刃を抜かずに帰ってこられるように祈る。じきに昼時だというのにドナの街はうらぶれて、楽しげなざわめきなど一つも聞こえてこなかった。




 ******




 何かあってもタルバが側にいてくれるから大丈夫。今までだって彼のおかげでなんとかなってきたじゃないか──。

 そう信じてやって来た砦なのに、現実はまったく大丈夫ではなかった。到着するなり屈強な男に両脇を押さえられ、連行された中庭でぐるりと酔漢に取り囲まれ、バジルはひええと縮こまる。


「ふーん、こいつがれえのアクアレイア人か」

「俺見たことあるぜ。バオゾの祭りでよう……ヒック」


 幕屋の林立する中庭には総勢五十名ほどの退役兵が集まっていた。全員隣に複数の娼婦をはべらせており、御用達と思しき商人も控えている。

 筋骨逞しい遊牧民たちの物見高な視線に晒され、生きた心地がしなかった。腰に武器を結わえた者も少なくなかったし、彼らの傍若無人さを示すがごとく辺りは一面荒れ放題だったからだ。

 仮にも軍事施設の内部だというのに灌木は根元から折れ、菜園は荒らされ、そこら中に空の酒瓶が転がっている。そして酒瓶の傍らには泥酔して倒れた者、着衣の乱れたうら若き娘たちが介抱もされずに捨て置かれていた。


(な、なんでこんなところにただのガラス職人が呼ばれるんだ? 絶対ろくな用件じゃない……!)


 酒池肉林の宴に興じる獣の口から真っ当な要望が出てくるとは思えなかった。そしてその通り、バジルはさっそく無茶な注文を申しつけられたのである。


「ふうん? お前がバジル・グリーンウッドか。何か面白い芸をして俺たちを楽しませろや」


 高慢に笑ったのは宴会場の真ん中で長椅子にふんぞり返っていた大男だった。半裸の肩に値の張りそうな毛皮の外套を羽織っているが、大事に着る気がないのがわかる汚れ方をしている。扱いが乱暴なのは人間に対しても同じようで、彼はバジルに突然呼びつけた非礼を詫びるどころか名乗りさえしなかった。


「おいゴジャ、そんな曖昧な言い方じゃバジルだって何をどうすりゃいいのかわかんねえだろ」


 バジルのすぐ横で一緒に退役兵たちに囲まれていたタルバがそう抗議する。ゴジャと呼ばれた無精髭の大男は太い眉をひそめて「あ?」と威圧的に凄んできた。


「天帝の生誕祭ではできたことが、ここじゃできねえってのかよ?」


 何歩も離れて立っているのに酒臭い息が鼻先まで漂ってくる気がする。不快を堪え、バジルは「ええと」と返事した。


「あのー、今日はなんの道具も持ってきていないですし……、そういうことはアイデアが湧かないとどうにも……」


 控えめに彼の希望を叶えるのは難しい旨を告げる。するとゴジャはぎろりと血走った双眸を吊り上げた。


「できるできねえを聞いてんじゃねえ! 俺はやれっつってんだ!」


 怒鳴り声にヒエッと身をすくませる。タルバがさっと前へ出てバジルを背に庇ってくれたが、この無茶苦茶な酔っ払いたちはどうしても自分たちの道理を通さねば気が済まないようだった。


「俺たちはなあ、最後にパーッと楽しみてえのよ。けど女と酒だけじゃさして盛り上がらなくなってきた。わかるか? あ? 別に余興ならアクアレイア人を(なぶ)り殺す余興だって一向に構わねえんだぜ」


 そうだそうだと酔いどれ退役兵たちが「楽しませろ!」「見世物をやれ!」と合唱を始める。彼らのすぐ側で奉仕を続ける娼婦や商人が青くなってもお構いなしだ。

 なんて短絡的で暴力的な連中なのだろうか。同じジーアン人なのに気のいいタルバとは大違いである。

 息を飲み、バジルは視線をさまよわせた。相手は多勢でしこたま飲んでいて言葉が通じそうにない。なんとか適当にご機嫌を取って、この場を無事に切り抜ける手段を見つけ出さなくては。

 だが悲しいかな、中庭にはヒントにできそうなものは何もなかった。天帝に余興を命じられたときは彼が理学や工学好きであると知っていたから良かったが、享楽に飽いただけの無学な退役兵たちに何をしてやればいいかなど己には見当もつかない。


「え、えーと、ゴジャ……様は、どういった遊びがお好きなんでしょう?」


 おそるおそる尋ねるとゴジャは「面白けりゃなんでもいい」と一番困る返答をよこす。わかったのは彼らにあまり難解な出し物は向かないということだけだった。


「お、面白ければ……。面白ければ、ですか……」


 困り果てているバジルを見やってタルバが小さく息をつく。退役兵の中では若く下っ端に見えるのに、青年は臆することなくゴジャに頼んだ。


「なあ、すぐには思いつかねえみたいだからちょっと砦の中を散歩してきてもいいか? ここでお前らに囲まれてるよりはそっちのほうが何か思いつけると思うんだが」


 ありがたい助け船にバジルはおずおず顔を上げる。


「そ、そうさせていただけると助かります。歩き回っているうちにお気に召す考えがまとまるかも」


 するとゴジャはたちまち濁った黒い眼を歪ませた。


「砦内を散歩だと?」


 不機嫌に眉根を寄せた男はいいとも悪いとも言わない。彼の顔色を窺うほかの退役兵たちも無言を保ち、奇妙な沈黙が続いた。

 ゴジャの出方次第ではおそらく合唱程度の威嚇では収まらなくなるだろう。音を立てぬように息を飲み、バジルは蛇に睨まれた蛙状態で返事を待った。


「……まあいいんじゃないですか? 天帝陛下の宴でも防衛隊には作戦会議の時間が与えられていたわけですし」


 と、思わぬ方向からもう一隻救援船がやって来る。

 声の主はゴジャの背後に腕組みして立つ黒髪の若者だった。ザルなのか酒量が少ないのかは不明だが、佇まいに知性と品性が残っており、顔つきもまともそうである。


「彼一人自由に歩かせるくらいどうってことないでしょう。ま、ラオタオ将軍にばれたら叱られるかもですが」

「ふん、まあ、ウヤがそう言うなら行かせてやる。けどてめえ、散歩だなんて嘘ついて逃げ出したらぶっ殺すからな!」


 どうやらこの場は下がっていいということになったらしい。


「は、はい! もちろん! ありがとうございます!」


 なるべく愛想良く感謝を述べ、バジルはそそくさと退役兵の作る人垣を擦り抜けた。タルバもバジルを守るようにぴったり後ろについてくる。

 作り笑いは崩さないまま建物内へ通じる出入口へ急いだ。石の砦をしばらく歩いて人の気配を感じなくなった頃、ようやくバジルはへなへな座り込むことができたのだった。

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