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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第2章 迷宮のアルフレッド
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第2章 その3

「アル兄ー! 糊付け始められそうだからそろそろこっち来てー!」


 遠くから呼ぶ妹の声に深く閉じていた目を開けた。潮風吹き渡る静かな墓地でアルフレッドはゆっくりと立ち上がる。

 見渡せば赤に白に紫の花々が目に映る。苦痛から逃れるためにここへ来た。生きた人間のもとでは到底安らえなくて。


(自分のお姫様なら許すの、か……)


 言葉はまだぐるぐると小さな頭を回っていた。己の中の何かが変質するような、漠然とした予感があって。

 だがアルフレッドには主君とアニークが同じとはどうしても思えなかった。ルディアが姫として生きてきたのは事実でも二人の境遇が似通ったものだとは。

 病死した肉体を受け継いだルディアに対し、アニークは皇女を殺して人生を乗っ取ったのだ。二人の差は歴然としており、同列に扱うなど愚の骨頂としか言いようがない。脳に棲みつく寄生虫という一点が同じだけだ。その生き様は比べるべくもなかった。

 確固たる結論を得てほっと息をつき、アルフレッドはパトリア石のピアスを埋めた地に赤いセージの花を捧げた。

 もし「アニーク」が生きていたら今の自分に果たしてなんと言っただろう。トレランティアでもそんなこと考え込んだりしないわと吹き出しただろうか。


「アル兄ー? 何やってんのー?」


 門閉めちゃうよと妹が急かす。高いレンガ壁にもたれたモモは訝しげな目でこちらを見やった。アルフレッドは駆け足で低い丘を上がり、療養院の敷地へ戻る。門を抜け、前庭に入ろうとしたときだった。「あのさあ」と彼女にしては珍しい歯切れ悪さで切り出されたのは。


「……大丈夫なの?」


 何がとはモモは言わない。だが少なからぬ憂慮の滲む双眸が何を問うているのかはなんとなく察せられた。彼女にはわかっているのだ。戦の準備もさせてもらえずアルフレッドが負けたこと。


「大丈夫だよ。心配いらない」


 弱音を吐いても良かったのにアルフレッドは言わないほうを選んでしまう。愚かさを自覚しながら妹の横を擦り抜けた。モモは小さく嘆息し、黙って門の錠を下ろす。


「信じるからね、その言葉」


 念を押す声に頷いた。

 ──大丈夫。大丈夫だ。慣れてしまえば。時間が過ぎれば。

 苦い酒杯も飲み干せる。それで彼女の、ルディアの側にいられるなら。




 ******




 ああ、とても気分がいい。胸を張って堂々と「向いている」と言える仕事をするのは。最初は印刷機そのものが気に入らない、我々を地獄に突き落として楽しいかと罵詈雑言の嵐だった写字生たち。彼らと円満に協力体制を築くことができ、レイモンドはすこぶる大満足であった。

 提示したのは騎士物語続編の豪華版制作依頼だ。世に出るまで絶対に内容を口外しない、作業は印刷工房のみで行うという条件のもと、売上の八割は彼らの懐に収めることを約束した。

 写本はどうせ出回るから、先に写字生を取り込んでおけば無用な恨み合いを避けられる。彼らはレイモンドに感謝すらしていた。印刷本と同時に発行することができれば王侯貴族に手製本を買ってもらえるに違いないと。


「すごかったな。見事な取引手腕だった。ああいった場を収めるのは前々からお前の得意分野だが、私の出る幕などこれっぽっちもなかったよ」


 手放しの絶賛に堪らずに頬を緩める。小講堂を出て一番にルディアは「利害関係の調整は面倒が起きやすいのによくやってくれた」とねぎらってくれた。


「いやー、照れるぜ。これもコーストフォートで鍛えられたおかげだな!」


 暗に写字生問題は北パトリアで経験済みだったことを伝える。聡明な彼女はそれですぐピンと来て「ということはこれから赴く版画工房の職人たちとも?」と尋ねてきた。


「そうそう、版画工房の職人たちとも」


 レイモンドは苦笑いで工房街へ続く太鼓橋を渡る。かのコーストフォート市においては、彼らとは写字生よりも壮絶な争いを繰り広げた。宗教画や芝居のチラシを刷るのが仕事の木版工もまた印刷工とは競合する。護符くらい我々にだって作れると鼻息荒げて北パトリアの版画職人は偽の護符を刷ったのだ。

 揉めに揉め、最後はイェンスが霊妙な右腕を振りかざす羽目になった。以後は詐欺に手を出す不届き者はいなくなったが、あんな解決方法はアクアレイアでは通用しないし、やりたくもない。ゆえにレイモンドは最初から図画担当の職人を連れて帰らなかったのだ。ここは現地で木版工を雇うに限ると。


(たとえ事業が成功しても恨み買ってたら意味ねーしな)


 印刷業をアクアレイアの産業として確立するにはできるだけ煽りを食らって潰される可能性のある人々に手を差し伸べておかねばならない。反発心は敵を生む。敵になれば容易には元の関係に戻れないのだ。それは王女の望むところではないはずだった。


「手助けが必要か?」

「いや、いいよ。あんたは俺の横で見てて」


 それで十分とレイモンドは隣を歩くルディアを見つめる。彼女の力になれている自分が嬉しかった。不安になった夜もあるが、頑張って良かったなと。


(へへっ、いいとこ見せるぞー)


 細い水路をいくつか越えて本島の外縁へ近づくと、工房街に来たことを実感する騒音が響き始めた。カンカンカンだのトントントンだの至るところで一定のリズムが繰り返されている。だがレイモンドが出入りしていた頃に比べると騒音には覇気がなかった。看板のない店も目立つ。人通りも妙に少なく、目にする人間は軒先にぼんやりと座り込む者ばかりだった。


「仕事がないから配給を待っているんだろう」


 ぼそりとルディアに耳打ちされる。配給と言ったって与えられるのは小麦粉だけだ。やることがないならせめて目の前の水路に釣糸でも垂らせばいいのにそんな気力はないらしい。探せば何か一つくらいやることが見つかるだろうに。


(うーん、やな雰囲気だな。工房街全体がこんな感じなのか? 一応ちゃんとやってそうな店もあるけど……)


 四方からまとわりついてくる陰気な視線にレイモンドは顔をしかめた。歩を止めたらその瞬間に「金をくれ」と絡まれそうで少しずつ早足になる。家屋の作るトンネルをくぐり、目指す工房へと急いだ。


(えーっと、確かこの道だったよな)


 版画職人のガヴァンとは昔からの知り合いだ。子供の頃は何度か彼の工房で遊ばせてもらっていたし、自慢の版木を触らせてもらったこともある。関係はまあ良好と言えた。だからといって「うちで雇われてくれ」という要望に彼が素直に応じてくれるかは不明だが。

 職人とは強力かつ排他的な絆で結ばれた生き物だ。比較的新参者を拒まない学生や学者たちとはまったく異なる理屈で動く。商人ほどは利害の一致を重視もしないし「自分たち」と「それ以外」の境界が明確で、外の者には無理解・不寛容が常だった。

 グリーンウッド家がそのいい例だ。モリスにせよバジルにせよあんな有能な親子なのに、彼らはどの地区の工房街にも住むことを許されていない。バジルなど「実は僕、あんまり街のこと教えてもらえないんですよね」とぶっちゃけ話をしていたほどだ。

 少し前まで彼らがどうしてそんな扱いを受けているのか不思議だった。だが最近ようやくその謎が解けた。モリスの父親がロマだからだ。たったそれだけのことで親子は孤島に追いやられているのである。腕利きの職人として誰もが二人を認めているにも関わらず。

 独自の物差しを持つ工房街の人間に「それ以外」の自分の話をどこまで真剣に聞いてもらえるか、正直言ってレイモンドにも自信はなかった。だが好きな女の見ている前でヘマはできない。難しくともやるしかなかった。


「あのさ、姫様、この交渉が上手く行ったらご褒美くれる?」

「え?」


 腕の触れ合う狭いトンネルで声を低める。


「ご褒美?」


 少し構えたルディアにそう聞き返され、レイモンドは神妙に頷いた。


「次が踏ん張りどころだと思うから、気合い入れたくて。駄目かな?」


 足を止め、いっそう近づきながら問う。「一方的に貢がれると気が引けるって言ってたじゃん?」と顔を覗けばルディアはもごもごと口ごもった。


「ま、まあ、それはそうだが……」

「じゃあお願い! できねーことは言わねーし!」


 掌を合わせて頼む。すると彼女は沈黙ののち「わ、わかった」と同意した。

 やったと拳を握りしめる。これならなんでもできそうだ。戸惑うルディアの赤い顔を見ていたら報酬を先払いしてもらった感があり、気分も上がった。


「よし、そんじゃ乗り込むぜ!」


 もう目と鼻の先だった目的地へ小走りに駆け出す。波の乙女を彫った版木の嵌め込まれた玄関に立つとレイモンドは力をこめてノックした。


「へいへい、どうぞ」


 屋内からぶっきらぼうな男の低い声が返される。

 レイモンドはドアノブを引いた。すべては我が手に掴めると信じて。




 ******




 最初の声のやさぐれ具合はどこへやら、こちらを見やって親方はすぐ陰鬱な表情を引っ込めた。


「おお!? レイモンドじゃねえか!」


 そう言って大きな作業台に片肘をついていた強面の男が立ち上がる。親しみをこめてレイモンドも「久しぶり、ガヴァンさん。元気そうで良かった!」と挨拶した。


「聞いたぞお前、えらくでかい船で帰ったきたらしいなあ」

「ああ、まあな」

「そっちは友達か? 一体どうして今日は俺の工房なんかに?」


 矢継ぎ早にガヴァンは問いを重ねてくる。脂ぎった額の下のよく動く双眸は来訪者の風貌を散々見回してやっと止まった。


「こいつはブルーノ・ブルータス。今日は付き添いで来てくれたんだ」

「ブルーノね。俺はガヴァンだ、どうもよろしく」


 気さくな部類ではない親方がにこやかに手を差し出すのを見てレイモンドはやや驚く。以前なら貴族でもない若造の名など流し聞きして終わっただろうにルディアと握手を交わすガヴァンはまるで本物の好々爺だ。


(や、やっぱ金の力ってすげーんだな)


 親方が「レイモンドの友達」に粗相のないよう気を配ってくれたのは明らかだった。大なり小なり皆これまでと違う態度で接してくるが、頑固親父として恐れられる彼までこんな調子だと背筋がうすら寒くなる。


「で、俺になんの用なんだレイモンド? ひょっとして──ああ、いや、俺に言わせてくれ。ひょっとして、版画の注文に来てくれたのか?」


 期待に瞳を輝かせて初老の男はレイモンドを見上げた。

 彼の問いに頷くべきか首を振るべきか少し悩み、結局間を置くことに決める。


「あ、暇そうだなとは思ったけど本当に暇なんだ?」


 引き気味の苦笑を浮かべてレイモンドは屋内を見渡した。ガヴァンの住居兼工房は哀れを誘うほどがらんとしている。どの棚にも作業台にも最低限の商売道具以外置いておらず、数人いるはずの徒弟たちも誰一人姿が見えなかった。納品待ちの完成品はおろか削りかけの版木すらない。本物の開店休業中である。


「そう思うんならチラシでもポスターでも依頼してくれ! こちとらもう一年以上ろくすっぽ働けてねえんだ!」


 デリケートな問題に触れたらしく、親方は涙混じりに吠え立てた。冷やかしならとっとと帰れと叩き出されそうな雰囲気だ。

 考えるまでもなく今のアクアレイアで版画業が立ち行かない理由は知れた。皆もっと別のものに金を使うか使わずに蓄えているのである。金のある外国人はわざわざこの街で紙にインクを刷るような用事がないし、どんなに待とうと依頼など舞い込んでくるはずがなかった。


「いや、まあ、仕事頼もうと思って俺もここまで来たんだけどさ」


 興奮したガヴァンの肩をそっと押し返し、レイモンドはまあまあと作業台の横の丸椅子に親方を座らせた。仕事と聞いて彼は大きく目を瞠る。


「本当か? 本当に依頼なんだな? 大口のか?」


 と、砂漠で泉を発見した遭難者のごとくガヴァンは口をぱくぱくさせた。


「うん、大口。けど落ち着いて聞いてほしいんだ。多分これガヴァンさんにはショッキングな話だと思うから」


 自分自身も丸椅子の一つに腰かけつつレイモンドは心労で禿げ上がった男と向き合う。側ではルディアが腕組みし、壁にもたれてこちらを見ていた。


「ショッキング?」


 訝る声に「ああ」と頷く。外側からの提案をどの程度受け入れてもらえるか。意を決し、この道四十年の版画職人に切り出した。


「ガヴァンさん、俺のために工房畳んでくれねーか?」

「は、はあああああ!?」


 予想を上回る大音量でガヴァンは叫ぶ。レイモンドは咄嗟に守った両耳から手を下ろすと「この俺に工房をやめろたあ一体どういう了見だ!?」と真っ赤になって説明を求める親方にこう告げた。


「実は俺、今すげーものを二つ持ってて。活版印刷機と『パトリア騎士物語』の新作原稿なんだけど」

「はっ……!? はああ!? かっ、きっ!?」


 驚きのあまりガヴァンは言葉を失ってしまう。「か、かかか、活版印刷機って活版印刷機か!?」と至極当然のことを問われ、逆にこちらが反応に困った。


「そうそう、金属活字を使った大型の印刷機な」

「な、なんつうこった……! あれを完成させた人間がついに出やがったっていうのか……!?」


 台詞から察するに、彼は活版印刷機について多少なり知識があるらしい。


「知ってんの?」


 尋ねると「昔作ろうとしたんだよ」との返答があった。


「けどどうしても文字型の幅と高さが均一にならなくて無理だった。ちょっとでも出っ張ったところがあると全然まともに刷れねえからな。そうか、お前、それでこんな見違えるほど金持ちになったんだな……」


 呆然と突っ立っていたガヴァンが座り直すのを見てレイモンドも口元を引き締める。印刷機の有用性をわかっているなら話は早い。これは一気に説得可能なのではと思えた。


「そうなんだよ。でもアクアレイアで構える予定の工房にはまだ一人しか職人が入ってなくてさ。ガヴァンさんの力を貸してくんねーかな? うちに来れば新しく銅板だって覚えられるぜ! あんたとあんたのとこの木版工、まとめて引き取らせてくれ!」


 レイモンドは椅子に座したままその場にがばりと頭を下げる。親方はしばし答えず、息を飲む音だけが響いた。

 口にするまでもないことだが、このまま版画工房を続けていても食べていくのは難しい。騎士物語が国外に売れ、アクアレイアに外貨が入ってくるようになり、大勢の商人が交易を再開できるようになるまで版画の内需が増えることはないだろう。だが今ここで印刷工房に組み込まれれば一足飛びに儲けを手にすることができる。仕事がないと嘆く必要はなくなるのだ。


「活版印刷機の稼働する工房か……。レイモンド、そこでは全部で何人くらい版画職人を雇ってくれるんだ?」

「五、六人かな。ガヴァンさんのとこって確かそんなもんだろ?」

「五、六人……。五、六人か……」


 答えた途端ガヴァンは眉間のしわを濃くした。なんだそれっぽっちかよ、と言わんばかりの表情だ。そうしてひとしきり考え込むと頑固者の親方は小さく左右に首を振った。


「それじゃうんとは言えねえな。悪いが木版工以外の奴を当たってくれ」

「ええー!? なんでだよ!?」


 レイモンドは顔を背けた熟練工の腕を掴む。半ば以上理由は想像できていたが、話を終わらせないために問いかけた。


「なんでも何も、版画工房はほかにもあるんだ! 俺たちだけ抜け駆けしたと思われるような真似できるかよ!」


 ガヴァンはこちらの手を振り払う。やっぱりかと態度には出さず落胆した。

 これなのだ。互助意識の強い連中の悪いところは。順風のときはいいけれど逆風になるとこうして守りに入りすぎてしまう。


(ふん。けどこれは、ちゃんと対策を考えてきたぜ)


 レイモンドは石像のごとく心を閉ざす男に「そういうことなら安心してくれ」と続けた。

 自分だって無駄に何年も「それ以外」として苦しめられてきたわけではない。手を差し伸べるときは一斉であれば問題ないことくらい知っている。


「さっき騎士物語の新作原稿持ってるって言っただろ? 実はさ、文字だけの印刷本以外にも、挿絵付きの印刷本と、完全手書きの豪華本を同時に売ろうと思ってんだ。で、挿絵本の売上の半分はあんたたち版画職人のために使いたいなって考えてて」


 そこまで言うと再びガヴァンがこちらを見やる。「何? 俺たちのために使うだと?」と不審げな彼になるべく快活に笑いかけた。


「ああ、印刷工房だって一つや二つで終わる気ねーよ! 店が増えたら順番に雇ってくから待っててくれ! 必要な技術は待機中に習得できるようにするし、その間も全員に給料出るなら文句ないだろ? 何年かして、やっぱり独立した版画工房持ちたいなってなってもそれはそれで応援するし」


 これだけ譲歩すれば十分だろうとレイモンドは腕を広げる。アクアレイアに生きてきて、今提示された条件の破格さを理解できない人間はいまい。最後のひと押しに「ちなみに給与額はこうな」と具体的な数字を伝えるとガヴァンはごくりと唾を飲んだ。だがそれでも、いや好条件が過ぎたからか、頑固親父は疑心暗鬼に陥ってしまう。


「活版印刷機がすげえのはわかるがよぉ、俺たち全員を救えるほど上手く行く気はさすがにしねえよ……」


 ぶるぶると、震えているのか首を振っているのか見分けのつかない頼りない仕草で彼は彼の憂慮を示した。


「大体『パトリア騎士物語』の新作だっつうが愛好家の妄想した偽物とかじゃねえのかよ? 原作にない場面、五回ぐらい刷ったことあるぞ俺」


 などとあらぬ嫌疑をかけられて、慌てて「本物だって!」と否定する。


「船団の話聞いただろ!? 本当に儲かるからさ! 年内にはもう一つ、確実に店舗増やせるから!」


 北パトリアでの成功談をどれだけ話しても無駄だった。一時パーキンの下につくことになっても親方の地位は捨てなくていい、徒弟はあんたの徒弟のままだと説得しても駄目だった。

 ガヴァンは「世の中そんなに甘くねえよ」「商売が行き詰まったとき、待機中の職人を本当に見捨てねえって誓えるか?」「銅板だって覚えたところで使わず終わるかもしれねえぞ」としつこく不安を吐露し続ける。一種異常とも思えるほどに。


「俺たちゃどん底を見てきたんだ。もっと手堅くやりてえのよ。レイモンド、すまんが本当にほかを探してくれねえか? お前のとこの工房から挿絵の依頼を受けるのは構わんからよぉ……」


 親方はよたよたと立ち上がり、レイモンドたちを出口のほうへ促した。単独で仕事を受けるほうが抜け駆けと取られそうなものなのに、視野が狭くなっているせいかガヴァンはなぜかそちらには無頓着である。

 帰れと強く肩を押され、レイモンドは唇を噛んだ。せっかく印刷工と木版工が対立しなくて済むように考えたのに、木版工が勝者と敗者に分かれぬようにと思ったのに、このままでは全部めちゃくちゃになってしまう。


「……他人に期待するのが怖いか?」


 と、そのとき成り行きを見守っていたルディアが尋ねた。力なく肩を落とす老齢の版画職人を見つめ、物憂げな低い声で。


「あなたはさっきどん底を見たと言った。だから不安定な未来に賭けるより、安全とわかっている過去の自分を取り戻すほうを選びたいのか?」


 彼女の問いに振り返り、ガヴァンはしばし沈黙した。

 トントントン、カンカンカン。静寂に遠く木槌の音が響く。


「……そうなんだろうな。けどどうしようもねえ」


 諦めきったその声にルディアはそっと目を伏せた。何か感じるものがあったのか、彼女は拳を握りしめる。

 やがてルディアは再びガヴァンに向き直った。今度はいかなる暗雲をも吹き飛ばす、決然とした王女の顔で。


「歩むのをやめたときから道は消えていく。この国もそうだ。何もしなければ潟はたやすく土砂に埋もれる。……だから」


 だから、と語気を強めて彼女は続けた。迷いを払おうとするように。恐れを蹴散らそうとするように。「一歩だけ踏み出してみないか?」と。


「明日の十時、国民広場に来るといい。きっとこいつを信じてみたくなる」


 そう言ってルディアは微笑んだ。彼女が伝えたのは印刷工房一階の開店予定時刻である。実際に書店に並んだ本やその売れ行きを見れば考えが変わるかもしれないだろうということらしい。レイモンドも「おお、そうしてくれよ!」と名案に飛びついた。


「ほかの版画職人も一緒にさ! 俺の店見てみてくれ!」


 両手を握るとガヴァンは少々たじろぎつつ「わ、わかった」と頷いた。見にいくだけだぞと念を押されるが足さえ向かわせればこちらのものだ。


「絶対だぜ!? 来なかったら承知しねーぞ!?」

「わかったっつってんだろ!」


 肩越しにルディアと目を見合わせる。悪くない展開にレイモンドは心からの笑みを浮かべた。

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