第2章 その2
「…………」
ぱらりとページを捲る音が響いた後、室内には再び静寂が訪れる。騎士物語を読み込む女帝の目は真剣だ。彼女は書見台に張りつき、一度も顔を上げようとしない。
少し離れたソファからアルフレッドはそんなアニークを一瞥した。昨日街に帰ってきた話題の男が印刷工房を開く予定で、機械刷りの騎士物語の一冊目がこの懐にあると知ると彼女は早くも「読んでみたい」と言い出したのだ。
逆らえる立場ではないのでレイモンドのくれた本は一時的に召し上げられていた。初めの数ページに目を通し、「これって随分編集されているのね。大筋に関係ない話は載っていないみたい」と呟いたきり女帝はずっと無言である。
内容が省かれていても面白いのは面白いらしく、アニークの表情には静かな興奮が見て取れた。ときに微笑み、ときに震え、夢中になって彼女はページを繰っていく。
「……しばらくゆっくりできそうだな」
と、左隣に腰かけた白銀の騎士にひそひそ声で話しかけられた。今日も今日とて通訳を務めてくれたユリシーズの面差しは昨日までのそれに比べて幾分か柔和である。
「ああ、そうだな。頭痛も引かないし助かるよ」
答えつつアルフレッドは一抹の気まずさを飲み込んだ。昨夜はそう、なんというか、互いに醜態を見せ合ったせいで目を見て話しにくかった。己は無様に落涙などしてしまうし、ユリシーズも貰い泣きで服の袖を湿らせて。
──酷い話だ! お前はちっとも悪くないぞ! 一生懸命やっているお前に気づかないあの女が悪いんだ!
心からの慰めにほっとしたことを覚えている。ほっとしてしまったからこそ気まずさを拭いきれないのだと思うが。
「あー……お前、昼過ぎにレイモンドたちが宮廷に来ると言っていたが、私のことはもう話したのか?」
ユリシーズは切り出しにくそうに掌で口元を隠して尋ねてきた。その問いにアルフレッドはうっと喉を詰まらせる。しかしどうにか「いや、まだ何も」と答えると彼は驚いて肩を跳ねさせた。
「は? な、なぜだ?」
「け、今朝はちょっとバタバタしていて言いそびれた。それだけだ」
主君の正体を知られたことは必ず仲間に伝えると、言葉にはせず目で語る。ユリシーズは瞠目したままじっとこちらを見つめ返した。それから彼は何やら口をもごもごさせ、小さく声を掠れさせる。
「……まあ、なんだ、話したらひと言貰えるか? 知らずにまたお前を飲みに連れ出そうとしたら、私が馬鹿みたいだからな」
言われて初めてアルフレッドは気がついた。ルディアにこの報告を終えればああいった時間はもう持てないのだということに。
当然だ。ユリシーズはただの敵とは違うのだ。ルディアの騎士である自分が私的な付き合いをしていいはずがない。
「ああ、わかった」
戸惑いながらアルフレッドは頷いた。次の機会を望む程度にはユリシーズも昨夜は楽しかったらしい。そう言えば「人前で泣くなんて子供のとき以来だ」と照れくさそうに鼻を掻いていた。最後のほうは笑い方までどこか幼くなっていて。
そうか、あれは本来有り得ない偶然の産物だったか。二度目があるとは微塵も思っていなかったが、二度とないとわかってしまうと惜しい気がする。
それならせめて礼を言ってもいいだろうかと逡巡した。あのひととき、胸のつかえが取れたことは事実だから。
「……ありがとう。昨日は話を聞いてもらって助かった。あのまま抱え込んでいたら皆に良くない当たり方をしていたと思う」
率直な感謝を受けてユリシーズはしばらく目を丸くしていた。若草色の瞳に何か、今までの彼とは異なる新しい波が打った気がする。だがその波の正体を見極める前にコンコンとノックの音が割り込んだ。
「アニーク陛下、お目通りを願う客人です」
衛兵のジーアン語が響く。時計を見れば一時を少し回ったところで、今朝方言っていた通り幼馴染が来たのだとわかった。
******
自信のある男というのはひと目でそうと知れるものだ。ルディアとパーキン、小柄な老人を一人連れて入室してきたレイモンドを振り返り、アルフレッドはソファの陰でどきりと指を跳ねさせた。
書見台のアニークがすっくとその場に立ち上がる。彼女が読み終えていない本から目を離すなど珍しい。
きっとここを訪ねてきたのがその本を作り上げた一行だからだろう。予測に違わずアニークは「あなたたちね、アルフレッドのお友達だっていう印刷商は」と興味深そうに客人たちを眺め回した。
「……! あ、あら、あなたは確か」
物見高い視線がルディアに向けられる。
「またお会いできて光栄です」
形式的なお辞儀をする青髪の剣士に女帝の頬が引きつった。だがアニークはすぐに気を取り直し、ほかの面々に笑いかける。
「い、今ちょうどこの本読ませてもらっていたの。不思議に思う点がいくつかあるんだけど、質問していいかしら?」
しおりを挟んだ本を手に取り、女帝はレイモンドたちに手招きした。大喜びで躍り出たのはパーキンだ。「お初にお目にかかりますぅ、アニーク陛下!」ともみあげ男は身振り激しく跪いた。
「私はパーキン・ゴールドワーカー! 北パトリアはコーストフォート市から参りました印刷技師でございます! こちらの彼は共同経営者のレイモンド・オルブライトで、こちらの……あ、ブルーノのことはもうご存知でしたっけ?」
「え、ええ。前に会ったことがあるから」
話を逸らすようにしてアニークはぱらりと広げた騎士物語の目次を指した。アルフレッドも初めて目にするその内容は、先程彼女が言っていた通り相当に手が加えられている。『パトリア騎士物語』は章ごとの分冊が最もよく出回っているが、合わせれば全三巻の大作だ。目次にはその主だったエピソードだけが名を連ねていた。
「あなたたちの作った本は全体をとても短くまとめているのね? 要点だけをかいつまんだ抜粋本は私も何度か読んだことがあるわ。でもこれは、削除ではなく詩に置き換えて省略する大胆なやり方で……。こういうのは初めて見たし、驚いたの。詩の一節一節が新しくて、懐かしくて、味わい深くて……。まるで全然別の物語を読んでいる気分。それなのにこれぞ『パトリア騎士物語』だと感じさせるのよ。どうやってこんな素晴らしいものが作れたの?」
アニークは早口に問いかける。熱のこもった声と眼差しにパーキンがにやりと笑った。
「ええ、まあ、そうですねえ。お答えしたいのはやまやまですが、いやはや、なんと申し上げればいいか……」
もったいぶる男に女帝は「あなたたちの本でしょう?」と渋面を作る。早く秘密を知りたくて焦れた彼女は目尻を吊り上げた。
アルフレッドは女帝の抱えた騎士物語にちらと目をやる。アニークの絶賛に少々──否、かなり興味をそそられてしまったのだ。
詩とは一体どんな詩だろう。別の物語を読んでいる気分とは? 待てば今日にも本は返ってくるだろうが、愛読者としてどんどん気になってくる。
「そりゃ作者本人の詩だからですよ」
と、そこに入口近くで頭を垂れていた幼馴染の得意げな声が響いた。
「作者本人?」
アニークが彼を見るのとほぼ同時、アルフレッドも一字一句変わらぬ問いを投げてしまう。虚構には興味なしのユリシーズさえソファから腰を浮かせた。
レイモンドはにっと白い歯を覗かせる。幼馴染の傍らではぎょろついた目の老人が杖をつき、まっすぐアニークを見上げていた。睥睨されたと誤解してもおかしくないほど厳しい眼光を宿して。
「昔の名前は捨てちまって、今はただパディとだけ名乗ってるそうで。へへ、正真正銘『パトリア騎士物語』の生みの親ですよ!」
レイモンドの紹介にアニークは仰け反った。アルフレッドと、ユリシーズも同じくだ。思わず席を立ち上がり、背筋を正して一礼する。
「うっ、生みの親?」
尋ねた女帝は半ば膝から崩れかけていた。愛してやまぬ物語の、その作者と突然対面させられたのだ。動転しても無理はなかろう。
「読んでくださったならおわかりいただけると思うんですけど、文体って言うんですか? 詩の技法って言うんですか? それがそっくり元の話と同じですよね?」
レイモンドはパディとどこでどのようにして出会ったか語り始める。曰く、老人は五年ほど前から北パトリアのセイラリア市で暮らしていたそうである。コーストフォート市で活版印刷機なるものが誕生したと知った彼は自ら工房のドアを叩いてくれたらしい。「あの物語の続きを出版する気はないか?」と。
「つ、つつ、続き……ッ!?」
アニークはもう泡を吹いて倒れそうだ。アルフレッドも気づけば息を止めていた。「お前もきっと驚くぞ」と宣言されてはいたけれど、まさかこういうことだったとは。
「さようでございますアニーク陛下! 実は今回刷った本、最後にちょろっと新章が載せてありまして! 続編の刊行はあちらこちらでこの本が噂になったのち大々的にやっていこうかなと!」
レイモンドだけに話させてなるかとパーキンが両腕を広げる。今まさに己が手にしている本に未知のエピソードが記されていると知った女帝は「えっえっ」と狼狽と歓喜の滲む声を上げた。
「し、新章……!? パトリア騎士物語の……!? 本当にユスティティアたちの新しい物語が読めちゃうの……!?」
「まだいくらか文の見直しはしておりますが、話はほぼ仕上がっております。そう長くお待たせせずにお目にかけることができるかと」
と、初めて老人が口を開く。尖った鼻やこけた頬、厳めしい相貌の印象とは裏腹に物腰は柔らかで、お人好しなユスティティアを彷彿とさせる人だった。たったひと言で芯から嬉しくなってしまい、アルフレッドは少年時代に戻ったように胸をときめかせてしまう。
パディは詩人に相応しくよく通る声をしていた。ノウァパトリア語も堪能で騎士階級でも特に高い身分にあったことが窺える。瞳は典型的なマルゴー人の焦げ茶色だ。年齢も愛好家が推定した六十代半ばに見えた。
本当に本物なのだろうか? いや、それは本を読めばわかることだ。
「あの、ご迷惑でなければ私のお客様として遇させてほしいのだけれど、駄目かしら?」
問いかけるアニークの声が裏返る。「静かに仕事ができますなら」とパディは答えた。
「もちろん邪魔なんて絶対しないわ! その、その代わり、書き上げたお話を一番に読ませてくれる?」
老作家がこくりと頷く。目を輝かせた女帝はただちに衛兵を呼び、最高の客に相応しい最高の部屋を用意するように命じた。
「カッパン印刷機だったかしら? あなたたちの事業にもできる限り協力するわね。『パトリア騎士物語』は絶対に、多くの人に読まれるべき本だもの!」
アニークはレイモンドたちにも力強く支援を約束する。もとよりそのつもりだったのか、上客を横取りされても幼馴染たちは不満の一つも言わなかった。逆にもてなし代が浮いて助かったというところか。ついでに女帝に恩も売れ、三人はしたり顔である。
アニークは上擦った声で「本当に、困ったことがあればなんでも言ってね」と申し出た。うっかりパーキンやレイモンドに熱烈な抱擁をしても不思議ではない高揚ぶりだ。そんな彼女に釘を刺すように「大丈夫です。ジーアンによる搾取を未然に防いでいただければ十分ですよ」とルディアが返す。
経済面でも軍事面でもアクアレイアに今以上の負荷を与えないでくれ──。主君が十将に出した条件の一つである。冷徹な声に気圧されたのか女帝は「あ、ええ、もちろんよ」とぎこちなく了承した。
そのときである。この歴史的会見に区切りをつける鐘が打ち鳴らされたのは。
ゴーン、ゴーンと荘厳な音が響く。大鐘楼の五つ鐘は高らかにアクアレイアの中枢たる頭脳を呼び立てていた。
「申し訳ありません。私はそろそろ」
ユリシーズが女帝に向かってお詫びする。彼はこれから仕切り直しとなった会議に参加しなくてはならないのだ。途中退席の心苦しさをあれこれと言い訳した後、白銀の騎士は寝所を出ていった。──一瞬ルディアに冷たい眼差しを投げかけて。
「ふむ、私も早く仕事に戻りたいですな。書き物机と灯りさえあれば部屋などどこでも結構ですので」
羨ましげにユリシーズを見送り、パディがぼやく。アニークはすぐに先程の衛兵を呼びつけ、今度は「今すぐ用意できる部屋にこの方をご案内なさい」と言いつけた。
「すぐと言っても下男下女が使うような部屋じゃ駄目よ! お客様用の部屋でなくちゃ!」
二転三転する命令に戸惑いながらジーアン兵が「はあ」と頷く。ともかくも老作家を連れ、衛兵は厳かに寝所を去った。
「それじゃ俺らもおいとまするか。アニーク陛下、ご厚意の数々痛み入ります。感謝とお近づきのしるしに、どうぞこちらをお納めください」
レイモンドはそつなく女帝の前に歩み出て、昨日アルフレッドにくれたのと同じ本を献上する。アニークは感激に目を潤ませ、頬を紅潮させながら丁重にそれを受け取った。
「頑張ってね。本当に頑張って」
「ええ、必ず第二の騎士物語ブームを起こしてみせます!」
差し出された手を握り返し、幼馴染は深々と一礼する。
「アニーク陛下! わ、私ともお近づきのしるしに握手を……!」
追随してパーキンも高貴な女性に触れようと腕を伸ばした。そんな彼を両側からルディアとレイモンドが抑え込み、力づくで引きずり出す。
「なんだお前ら! こら、離せ!」
「それでは失礼いたします、アニーク陛下」
「続編、楽しみにしててください!」
客人が去ると室内は急速に静まり返る。しかしアニークの興奮は人が減ったくらいでは少しも冷めなかったらしい。彼女はこの二ヶ月の悶着などなかったような浮かれぶりでアルフレッドに明るく話しかけてきた。
「ねえ、すごいわね、作者本人に会えるなんて! しかも続編よ、続編!」
同じ喜びを感じているのに上手くアニークを見ることができず、そっと斜めに目を逸らす。拒絶的な反応にめげることなく彼女はしつこくアルフレッドに迫ってきた。
「先に読んで知っていたんじゃなかったの? 黙っていないで教えてくれれば良かったのに」
自分も早くここを去ろう。そう決めて踵を返す。
「……一度も目を通していなかったので、まったく存じませんでした。続きをお読みになりたいでしょうし、俺はこれで」
できるだけ言葉少なにアルフレッドは扉へ急いだ。けれどアニークは類稀な幸福を分かち合いたいと望んでいるようで、袖を掴んで引き留めてくる。
「待って! ねえ、だったら一緒に読みましょう? こんな嬉しいこと二度とないかもしれないじゃない! 今日だけでもお祝いしましょう? 新しい章を読み合って──」
力任せに腕を解いた。関わりたくないのだと全身で突っぱねる。
「俺はあなたと馴れ合うつもりはありません。いつまでも『アニーク』の名を騙り続けるあなたとは」
思わず本音が漏れたのは昨日の酒がまだ残っていたせいだろうか。今までであればすぐに引き下がっていたアニークが、その瞬間顔色を変えた。
「……何よ、それ」
絞り出された声が震える。彼女は小刻みに肩を揺らし、さすがに我慢も限界だという表情を見せた。
「……あなたどうして私にだけ憎しみをぶつけるの?」
アニークの目がちらと壁に向けられる。先程までルディアが立っていた辺りに。
この二ヶ月、彼女の中でどんな苦悩や葛藤があったのかアルフレッドは何も知らない。知ろうと思ったこともなかった。苦しみがあったとしても、それはわざわざ取り合うようなものではないと。──だって彼女は偽者だから。
「あの子だって『ルディア』の名前をずっと騙ってきたじゃない……! 私のことは許さないのに自分のお姫様なら許すの!?」
ハッと大きく目を瞠る。息を飲んだアルフレッドを見てアニークもすぐ我に返った。
「……あ、ご、ごめんなさい。いいわ、今日、帰っても」
おののく手で騎士物語の一冊がそっと返却される。思考する余裕などなく、気がつけばアルフレッドは女帝の面前を辞去していた。
控えの間を後にして逃げるように通路を急ぐ。誰も追ってきていないのに。
──自分のお姫様なら許すの!?
深々と心臓に突き刺さる。予想もしなかったその言葉が。
咄嗟に否定できなかった。己の中にそんな卑劣な考えはないと。
******
宮殿を出たルディアたちが最初にしたのは無礼者を強めに小突くことだった。
「お前な、権力者に擦り寄るのは構わんが程度というものを考えろ」
「そうだぞ、俺は今あんたと一蓮托生なんだぞ。頼むからもっと真人間ぶってくれ」
と睨みをきかせてパーキンに言い含める。
「ええーっ? 別にあんくらいイイだろォ? あっちも俺らと仲良くしたそうだったしさー」
印刷技師は不服そうに頬を膨らませたが言い訳は聞かなかった。彼の場合、ごますりに品がないから問題なのだ。相手は大国の女帝だとわかったうえでの行動とは思えない。軽々しく肉体に接触しようとするなんて。
「何が駄目かわからん間は何もしようとするんじゃない。言っておくが、お前絶対に単独で女帝に会おうとするなよ? そのときは私も剣を抜くからな?」
ルディアがレイピアの柄に手をかけるとパーキンが「ひえっ」と反り返る。その肩をがっしり掴んだレイモンドも「そうだぜパーキン、俺だって国際問題になる前にお前を強制退場させるほうを選ぶぞ」と低い声で圧力をかけた。
「酷ぇなお前ら! 俺は俺なりに誠心誠意やってんのに……」
「それが信用ならないんだ!」
声を揃えて怒鳴りつける。と、少々騒ぎすぎたのかレーギア宮の門番がちらとこちらに目を向けた。騎馬民族の帽子の下の鷹の目が不審げに歪められる。彼らを刺激しないようにルディアたちはそそくさと国民広場を歩き出した。
「……とにかくだ、接見だの交渉だのは全部レイモンドに任せろ。いいな?」
「へいへい、わかりましたよっと。確かにそっち方面は共同経営者様をお迎えしてから絶好調ですしねー」
反省したのかしていないのかわからない口ぶりにルディアは深く嘆息する。おそらく後者なのだろう。やはりこいつには余計な真似をする暇や機会を与えないのが賢明だなと確信する。
だがパーキンも「レイモンドにやらせておけば上手く行く」との認識はあるらしく、ならばと今度は真逆の横暴をのたまい始めた。
「そんじゃこの後の挨拶回りはレイモンド様に一任させてもらいましょうか。俺はアクアレイアの慣例とか? 常識とか? てんでわかってないですしー」
肩をすくめて印刷技師は責任を放り出す。先に一人で工房に戻って開店準備を進めると言う彼にルディアたちは「はあ?」と声を尖らせた。
「お前なあ。近所の者に顔を見せるくらいはしておいたほうが円滑に……」
「俺は技術担当だもーん。徒弟を育てられたらそれでいいんだもーん」
「いやまあ、そりゃそーだけどさ」
呆れた男だ。直接儲けに繋がらぬ地盤固めなど興味はないと言わんばかりにパーキンは耳を塞いでしまう。おまけに完全な不意打ちで「ていうかお前らも二人きりのがいいんじゃねえの?」などとからかわれ、ルディアは思わず息を飲み込んだ。
「なっ……おま、何を言っ」
「いいっていいって、誤魔化すなって。リマニで会った頃からずっとべったりだったもんなあ。気配り上手なおじさんはさっさと引っ込んじまうから、後は若い者同士爽やかに楽しんでくれい!」
ちょうどそのとき印刷工房の正面に差しかかり、パーキンは止める間もなく建物に駆け込んでいった。
見てわかるくらい態度に出ているのだろうかと立ち呆ける。極力普段通りを意識して、視界に槍兵を入れないように気をつけていたのだが。
「しょーがねーな、あのオッサンは」
ぼやきつつレイモンドが「行こうぜ」と背を押してくる。彼の横顔は薄赤く染まり、眉間にはあからさまに不要な力がこめられていた。
「あ、ああ」
ぎくしゃくと返答する。昨夜あれから何か進展があったわけでもないのに、首飾りがポケットから首元に位置を変えただけなのに、気を抜くとすぐに思考が乱れてままならなくなる。
もっとしっかりしなくては。そう己を叱咤して、ルディアはずんずん広場の端へと歩き出した。
「最初はどこへ行くんだ?」
半歩遅れでついてくる男に問いかける。槍兵は「とりあえずアカデミーかな」と街の南西部を仰いだ。
大運河に二分されたアクアレイアの北側にはレーギア宮やアンディーン神殿、国民広場、新たにそこに建て直された大鐘楼などがある。南側には一番大きな商港と税関が河口を占めるほか、学術施設が点在していた。
レイモンドは写字生を取りまとめている代表者に会いたいらしい。写本作りの担い手である彼らの本業は学生か学者が多い。印刷機の進出により真っ先に職を奪われるだろう人々に新規事業の話を通しておくことはなるほど不可欠に思えた。
「揉めそうだな。策はあるのか?」
「うん、とりあえず写字生は優先的に植字工になれるようにする予定」
「それはいいが、雇用数が失業数にとても追いつかないんじゃないのか?」
「わかってるって。だからほら、手書きプレミア作戦だよ。そっちには人手がまだまだ必要だろ?」
悪戯っぽく槍兵が笑う。ルディアの前に踏み出たレイモンドは陽光を浴びてきらめく大運河に渡しの船を見つけて大きく手を振った。
「さっ、頑張るぞー! 俺たちとアクアレイアのために!」
本当に変わったなと思う。金勘定が得意なのは相変わらずだが、その根底にあるものは。
目まぐるしく変化するからこんなにも惹かれるのだろうか。自分自身は何をどうしても変われないから。「ルディア」にしがみつこうとするから。
わからない。だけどきっと、理由は一つではないのだろう。




