第2章 その1
頭が痛い。激しく痛い。こめかみに太い釘でも打たれたようだ。
ほんのわずかな振動でも頭部全体に響くので、アルフレッドはなるべく首が動かないように静かに壁にもたれていた。全身に水を浴びてきたし、酒臭さは消せたと思うが、この強烈な二日酔いだけはいかんともしがたい。
原因が昨夜の深酒にあることは明らかだった。一部記憶が飛んでいて、己が何を喋ったかはっきり覚えていないことも苦痛に拍車をかけている。個人的な思い煩いに関してはともかく、秘しておくべきこちらの事情まで彼に漏らしてはいないはずだが。
「おーい姫様ー、朝ご飯できてるよー」
ブルータス整髪店にはいつも通りにいつもの面々が集っていた。泊まり込み当番だった妹は兄の朝帰りなど露知らず、肩にブルーノを乗せたアイリーンとパンやスープを並べている。
呼ばれて居間に現れたルディアは珍しく寝不足とわかる顔をしていた。目元には薄いくまができ、頭もどこか重たげで、身支度は整っているがしゃっきりとはしていない。
彼女は壁際のアルフレッドに気がつくと「昨日はすまなかったな」と詫びてきた。謝罪から読み取れるものは一つもない。あれから二人がどうなったのか予測させてくれるものは。それで却って余計なことを尋ねてしまう。
「こみいった話とやらは大丈夫だったのか?」
「あ、ああ」
ルディアは気まずげに目を逸らし、追及を逃れるように食卓に着いた。パンをかじりだされては邪魔になるかと何も聞けない。聞けば聞いたで平静を失うくせに、なんて馬鹿げた問いだろう。
「ちょっとまだ色々と説明しにくくてな。心配をかけてすまない」
背中に張りつく視線を気にしてルディアはこちらを振り返った。思案深げな眼差しに頭痛も忘れて首を振る。
「いや、いいんだ」
何が「いいんだ」なのかは自分でもわかっていなかった。ただ彼女が黙してやり過ごすのではなくて、打ち明ける意思を見せてくれたことにほっとする。どんなにレイモンドの比重が増しても軽視されてはいないのだと。
己もさっさと釈明せねばならなかった。ユリシーズに誘われて夜通し二人で飲んでいたこと。
(大丈夫。ちゃんと弁解できるはずだ)
結果的には言いにくいほど打ち解けた場になってしまったが、ついていったそもそもの理由は彼が主君の正体に勘付いていたからである。そこさえ話せばルディアも納得してくれるだろう。
「姫様、あの……」
パタパタと騒がしい足音が近づいてきたのはそのときだった。何を切り出す暇もなく居間の扉が開け放たれ「おっはよーみんな!」と底抜けに明るい声がこだまする。
「おはよー、レイモンド」
「ウニャアー」
「あらあら、朝から元気だことねえ」
テーブルを囲むモモたちがやって来た幼馴染に挨拶を返した。レイモンドは今日も装い華やかで、湿気漂う食堂が生家とは思えぬ貴公子ぶりである。
「アル、おはよ! 姫様も!」
「あ、ああ。おはよう」
反応がやや遅れたのは、懐にしまい込んだ騎士物語を開いてもいないことを思い出したからだった。感想を求められたらどう言おうと構えるが、幼馴染はアルフレッドを通り越して一直線に主君のもとへ駆けていく。
「おはよ、姫様」
「挨拶ならさっきも聞いたぞ」
「へへ、昨日はぐっすり眠れた?」
「……普通だ。別に、いつも通りだよ」
椅子の背もたれに肘をつきルディアに顔を寄せるレイモンドに対し、彼女の返事は淡白だった。だが彼を見て泳いだ目は──伏せられた顔に差した薄紅は一つの事実をまざまざと物語っていた。即ち二人の間には、彼らを別つ悲しみはもたらされなかったという事実を。
アルフレッドは我知らず息を飲む。その音を掻き消すように「聞いたわよ」とアイリーンがレイモンドに笑いかけた。
「手書きの護符で大儲けしたんですって? 水路の保全工事もレイモンド君が全面的に請け負ったとか」
「おお、そうそう。だけどまだまだこれからだぜ! アクアレイアを立て直すためにもっともっと稼ぐからな!」
拳を握って幼馴染は力強く誓う。途端アニークに商談一つ持ちかけられない己が無能に思えてきてアルフレッドは黙り込んだ。
早く主君にユリシーズの件を伝えなければならないのに、とてもではないが言い出せない。今ここで、レイモンドの前で、失敗したかもしれないとは。
(俺は馬鹿か? 酔っ払って口を滑らせた可能性があるのに、体面を気にしている場合か?)
内心で自分を責めても舌は縺れたままだった。仲間の関心は久々に合流した槍兵のほうに向かっていて、アルフレッドの沈黙には気づく者もいない。
「こっちの話はもう聞いたの?」
モモが尋ねるとレイモンドが頷いた。幼馴染曰く「まあ大体、昨日のうちに姫様から」らしい。
「今日はパーキンと新しい工房に機材入れて挨拶回りに行く予定だし、自分の目でも街の現状確かめるよ。でなきゃ雰囲気掴めねーしな」
面倒臭い、給金は出るのかとぼやいていた頃が嘘のように友人は勤勉だった。既にコーストフォート市で印刷事業を成功させただけあって語り口も頼もしい。レイモンドには実績があるのだ。揺るぎがたい実績が。
「モモ、ブルーノ、アイリーン。私も二、三日レイモンドのほうに付き添うが構わないか?」
と、ルディアが向かい合って食事を取る療養院組に尋ねた。「えっ! 姫様も来てくれんの?」と幼馴染は嬉しそうだ。
「アクアレイアが生まれ変われるかどうか、最初が肝心だからな。押しつけてすまないがモモたちは製本作業の残りを頼む」
当たり前の指示なのに、傷ついている己を自覚してアルフレッドはかぶりを振った。頭の芯がずきずきと痛む。堪えきれずにこめかみに手をやった。
(新事業が行動の中心に据えられるのはわかっていたことじゃないか。姫様はずっとアクアレイア固有の産業を求めてきたんだから)
わかっている。わかっているのに飲み込めない。理屈を無視する暴悪な力が働いて。
「オッケー、了解。なるべく早く終わらせてモモたちもそっち手伝えるように頑張るよ!」
「任せてちょうだい!」
「ウニャアー」
拳を握ったモモたちにルディアが「任せたぞ」と頷いた。間を置かず「あ、そうだ」とレイモンドが問いを重ねる。
「モモ、昨日頼んだお客さんってどこのホテルに案内してくれた?」
「『真珠館アリアドネ』だよ!」
国民広場にでんと構える高級ホテルの名を耳にして友人は財布を取り出す。「ありがとな、助かったぜ。言い値でいいぞ」と礼を述べる彼に「マジ?」と引きつつモモは銅貨を受け取った。
「そんだけでいいの?」
「レイモンドから貰いすぎるの気持ち悪いもん。十分だって」
「気持ち悪いー!? 労働に対する正当な対価だぞー!?」
そんなやり取りの間にルディアはスープを飲み干して椅子から立ち上がる。後片付けをアイリーンに頼むと主君は「そろそろ行こう」とレイモンドの袖を引き、外階段に歩き出した。
「あ……」
呼び止めようとして声が詰まる。どう話せばいいのだろう。なんと伝えれば誤解されずに済むだろう。昨夜はずっとユリシーズにあなたのことで励ましてもらっていたなんて。
「あっ、そうだ。アルにも言っとくことあるんだった」
居間のドアを引く直前、幼馴染が振り返る。
「昼過ぎにレーギア宮にビッグゲストを連れてくからさ、女帝陛下によろしく言っといてくんねー?」
お前もきっと驚くぞ、と屈託なく彼は笑った。なんの憂いもない顔で。
自分も同じように笑えていたかはわからない。わからないまま「わかった」とだけは返したが。
ややもせず二人は街へ出ていった。言いそびれた分余計に報告しづらくなると気づいたのは彼らを見送ってからだった。
******
金のないアクアレイア人を相手にするのではないからか、ある程度外国人の出入りが回復して以来宿泊系の商売はかなり持ち直したようである。大鐘楼を向かいに仰ぐ一等地に離宮のような顔で立つ老舗ホテルを前にしてルディアは腕を組み直した。
レイモンドが連れてきた客は少々気難しいらしく、外で待っていてほしいと頼まれた。行き交う東方商人や西方商人の数を数えて未来に思い馳せるのにも飽いた頃、装飾過多な大扉が開かれる。
「よっすブルーノ、久しぶり!」
手を上げてウィンクするのは世紀の風雲児パーキン・ゴールドワーカーだ。レイモンドと同程度に金は持っているだろうに服装は半年前と変わりない。
「元気そうで何よりだ。ようこそ、アクアレイアへ」
歓迎の意を示しつつルディアは内心「この男だけはしっかり縄に括りつけておかねなければ」と肝に銘じる。
もう一人の客人はどこにも姿が見えなかった。金細工師──否、印刷技師と連れ立って階段を下りてきたレイモンドが「宮殿に出向くのはいいが昼までは部屋にこもって仕事の続きをさせてもらうってさ」と説明してくれる。
「ほんっと働き者の爺さんだよな。ありゃ絶対なんかにとり憑かれてるぞ」
「けどそれくらい没頭してくれるほうがこっちとしても安心じゃん? お前と違って借金も作らねーし」
なんだと、とパーキンがレイモンドに拳を当てる振りをした。笑ってかわす槍兵とはすっかり気を許し合った様子だ。充実ぶりの窺える二人の姿に改めて感嘆の息をつく。
パーキンの言う「働き者の爺さん」がどういう来歴の何者なのか、道すがらレイモンドに教わったとき、ルディアは呆けるしかなかった。何をどうしたらそんな人物と縁を持てるのかまったく不思議で仕方がない。これほどのビッグゲストはいなかった。アクアレイアの将来を考えればなおのこと。
「私も早めに挨拶しておきたかったんだがな」
「ま、とりあえず新天地に向かおうぜ。アクアレイア初の印刷工房だ!」
レイモンドは浮かれた足取りで歩き出す。工房予定地は同じ国民広場の入口付近にあるそうで、徒歩で数分の距離だった。稼働する印刷機を思い浮かべると柄にもなくわくわくしてくる。
が、ルディアたちはすぐには工房に向かえなかった。人混みを抜ける途中、目ざとい者に見つかって「あっ! レイモンド!」と呼び止められたからだ。
「おーい、聞いたぞ。昨日は凱旋だったんだって?」
「商売始めたって一体なんの商売だよ!」
「儲かってんだろ? 俺たちにも商談回してくれよ! なっ?」
わらわらと人は増え、あれよと言う間に三重もの壁ができる。取り囲まれて擦り寄られてもレイモンドは嫌な顔一つせず「明日にも開店するからどんな店か楽しみにしててくれ」と返した。「そういや俺、確かお前に五百ウェルスほど貸してたよな?」などという厚かましい冗談にも彼はにこにこ変わらぬ笑顔で応対する。
「バーカ。何言ってんだ、借りてねーっつの。あんたどんだけ頼んでも貸してくれたことなかったろ?」
「へへ、駄目かあ。よく覚えてらあ」
「当たり前だ。俺はこのアクアレイアじゃブラッドリー・ウォードさんにしか借金したことないんだからな!」
槍兵の台詞にルディアはわずか眉を寄せる。そこにははっきり群がってくる連中に対する牽制が見て取れた。成功者の周辺には汚い蠅まで飛んでくるものだ。今のはおそらく適当なでっち上げは通用しないぞと釘を刺したのだろう。
「へえ、借金はたった一回きり? お前案外堅実にやってたんだなあ」
目論見の失敗した男が気まずそうに引き下がる。ほかの者もお裾分けの期待はできぬと断じてか、やや腰が引け気味になった。残ったのは真面目に商いについて知ろうとする者と、更に厚顔な者である。「このままじゃ気になって眠れねえ! どんな商売か教えてくれよ!」と迫る商人たちを押しのけ、その男はいけしゃあしゃあと言い放った。
「なあ、おい、貧乏人の救済は金持ちの義務だろう? 実入りがなくて困ってんだ。あんな船団持ってんだから十ウェルス、いや五ウェルスで構わないから恵んでくれよ」
群れの中から手を突き出した痩せぎすの男に最初に反応したのはパーキンだ。
「おっ、ご高説だねえ!」
称賛とも厭味ともつかぬ口ぶりで印刷技師は手を叩いた。それを横から目で制し、レイモンドが前へ出る。ぼろの服を着た中年男は「少額の要求だし嘘もないので施してもらえる」と信じきった表情で水をすくうように両手を正面に突き出していた。
「悪ィんだけど、そういうのって一人にやると俺にも俺にもって言い出されてキリねーからさ」
レイモンドはきっぱりと──冷淡なほどきっぱりと拒絶する。それは正しい判断だったが同時に誤りでもあった。大勢の愚か者どもに囲まれたこの場ではどんな文句が返ってくるかあまりに明白だったから。
「……っ! あんた五ウェルスぽっちをけちるのか!? ははッ! さすが元々貧乏人なだけあるな! 金の価値がわかってらあ!」
施しを受けられる算段でいた男は悪しざまに槍兵を罵る。人垣をなしていた群衆もまたざわめいた。なんだ貴族の真似事は見た目だけのことだったかと。が、彼らの落胆に対してレイモンドは意外な反論をしてみせる。
「ケチってはねーよ。次々に十ウェルスや五ウェルス欲しいって来られても、いちいち仕事の手止めてらんねーだろ? 昨日救貧院に大口の寄付したから、今日食うものにも困ってんならそっち頼ってくれないか? 俺が寄付した金で収容人数や援助の種類増やせそうだっつってたし」
そう聞くや否や、人だかりから何人かが駆け出した。直接レイモンドに金の無心をしてきた中年男も「あっ! 待てよ!」と大慌てで後を追う。
上手いあしらいにルディアはほうと感心した。槍兵は貧民に大金を見せたらどうなるか想定済みだったようで「義務ならちゃんと果たしてるのにケチとか言うのやめてほしいぜ」とにこやかに肩をすくめている。
「なあレイモンド、いつまでこんなとこで油売ってるつもりだ? 早く俺らの新事業に取りかかろうぜ!」
と、人壁に穴ができた隙に輪を抜け出していたパーキンが声を張った。痺れを切らして足踏みする印刷技師に槍兵が大きく頷く。
「おう! っつーことで、開店準備で忙しいからこの辺で! 皆、良かったらまた明日、このくらいの時間に広場に来てくれよ!」
解散を促され、人々は雑踏に散っていった。石造りの立派な建物が立ち並ぶ国民広場をルディアたちは再び歩き出す。
「お前寄付なんていつ行ったんだ?」
純粋に疑問で問いかけた。昨日は二人で宵の口まで一緒にいたのに。
「夜に家帰ったらさ、十人委員会のお偉いさんが来てたんだよ。ほら、あの、ニコラスって爺さんが。そんで些末な問題に手を煩わされたくなければ今すぐ救貧院に金を入れるのをお勧めするってアドバイスされて」
「ニコラスが?」
あの大老の訪問を受けるとは、レイモンドに向けられた注目は本物らしい。喜ばしく思う一方、己の不出来を思い返して反省した。そのくらいの助言なら自分にだってできたのに、昨日はまるで頭が回っていなかったなと。
「そう。まあ本題は全然別のことだったんだけどさ。印刷工房をどこに作るか決めてあるのかって聞かれて、もしまだ決めてないんなら買ってほしい物件があるんだがって」
それがあれ、と槍兵は四階建ての石造建築を示した。精霊の舞い踊る壮麗なファサードが広場の風景に芸術的価値を加える一軒を。
「真珠橋か国民広場で悩んでたけど、いい立地だし即決した。ここなら絶対に目立つしな!」
白壁に埋め込まれた豪華絢爛の列柱にパーキンが「おお!」と唸る。昨夜のうちに鍵は受け取り済みだったようで、レイモンドは数段だけの階段を上がると重たげなブロンズ製の扉を開いた。
「うおおおー! 広いしなかなか綺麗じゃねえか!」
きゃっきゃと印刷技師がはしゃぐ。空っぽの屋内には壁を飾る控えめな彫刻と手の込んだ窓枠が残るだけで、あとは格調高い大理石の床が広がっていた。奥部屋に階段を見つけ、レイモンドを先頭に二階、三階、四階と見て回る。
「予定通り一階は店舗だな! 二階に印刷機入れて、三階には徒弟住ませて、四階は俺様がいただく!」
「うわ、あんたワンフロア占領する気かよ」
俺が買ったんだぞと槍兵が噛みつくとパーキンはワッハッハと笑い飛ばした。二人とも勝利を確信しているからか「三号店はお前の好きにすればどうだ?」と気の早い話をする。
「本はいいよな。話し言葉は北パトリアとアクアレイアでも食い違うところがあるが、正式な書き言葉はみーんな同じ古パトリア語だ。東パトリアの奴らでさえ西パトリアの本が読める! 国ごとに刷り直す手間もありゃしない!」
「そのうち出してもいいとは思ってるけどな、話し言葉で書かれた本も。ま、しばらく先の話にはなるか」
何はともあれこの書店付き工房を軌道に乗せるのが先決だ、と経営者たちの意見は一致した。さっそく船に置いてきた印刷機や仕事道具を運び入れようと彼らは我先に走り出す。階段を下る二人の背中を追いながらルディアは静かに口角を上げた。
栄光は約束されたも同然だ。どんな値段で吹っかけたって騎士物語は売れるだろう。なぜなら彼らが持ち帰ってきたその本には、誰も知らない「続き」がついているのだから。




