第1章 その4
赤い残光が海を染め、暮れゆく空に星屑の散りばめられた紺碧の幕が垂れる。慣れた手つきでゴンドラを漕ぐ若者は一人だけ祭日のように華やかだ。
──一体どこへ連れられるのか。己の疑問に己で答える。
──どこだって構わない。どうせ帰るのは現実だ。夢がどんなに美しかろうとそこに留まることはない、と。
「この辺でいいかな?」
人気のない葦原に舟を停め、レイモンドは櫂を上げた。本島は遠く、漆黒のシルエットを薄闇に浮かび上がらせている。付近には人家のありそうな小島もない。正真正銘二人きりだ。
「まあ座ろうぜ」
促され、ルディアは座席代わりの横木に腰かけた。槍兵も膝の擦れるくらい近くに向かい合って腰を下ろす。
半年前もこうだったなと思い出す情景だった。季節は違うが二人でボートに乗り込んで、サールリヴィス河を下った。
「おっ、蛍」
と、レイモンドが生い茂る葦の間できらめく光を指で差す。「一匹だけなんて珍しい」と嬉しそうに目を細めて。
長い話をするために一番大きなランタンに火を入れた彼も求愛する蛍に似ていた。帰る前に心づもりは済ませてきたのか言葉を濁すこともせず、単刀直入に切り出してくる。
「で、告白の返事、聞かせてもらいてーんだけど」
灯火に照らされた頬は薄赤く、希望を抱いた目を翳らせるのが忍びなかった。だがこれ以外の答えはない。舟底に目を落とし、ルディアは喉を震わせる。
「……すまん……」
槍兵が見る間に意気消沈するのがわかった。上体を縮ませて「あ、そう……」と彼が呟く。だがレイモンドは即座に身を起こし、果敢に問いを続けてきた。
「そ、そんなすげー身体ゲットする予定なの? ていうかもうした?」
以前子持ちの妻帯者や聖職者になる可能性もあると示唆したからか、返答を待つ槍兵はおっかなびっくり構えている。ルディアが「いや、まだ次の身体は決まっていない。候補もだ」と打ち明けると彼は「へっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「じゃ、じゃあなんで『すまん』っつったの?」
何者に成り代わるのか、未定のままなら振られる必要ないではないか。そう言いたげに槍兵が顔をしかめる。演じ得る限りの素っ気ない口調でルディアは彼を突き放した。
「どのみち私は政治的な意図でしか相手を選ぶ気がないのだ。いつ聞かれても話は同じことだろう」
レイモンドを見ないために、視界に先程の蛍を探す。「いやいや」と呆れ声が響いたが反応は返さなかった。
たとえ思い通じ合っていても無理なものは無理なのだ。アクアレイアの王女としてアクアレイアのために生きる。恋慕よりも優先すべき信念がある。それだけは決して変えられない。
「あの、姫様? 睡眠取れてる? 頭ちゃんと起きてるよな?」
「は? どういう意味だ?」
藪から棒に失礼なことを言われ、ムッと槍兵を睨みつけた。「いや、だって」とレイモンドは顔面を引きつらせる。まさかこんな説明をしなければならないとは思いもしなかったという顔で。そうしてゆっくり、聞き漏らすことのないようにゆっくりと、一番わかりやすい言葉で告げた。
「俺その『政治的な意図』で選んでもらえるようにめちゃくちゃ頑張ってきたつもりなんだけど……?」
「えっ?」
今度はルディアが言葉を失う番だった。重大な見落としに今更気づいて目を丸くする。あれ、そう言えばこいつ、えらく羽振りが良くなっていたのだったなと。
「そりゃ確かに稼ぎの大半は親父の護符だし、俺単独の力ではなかったけど、コーストフォートでも人脈作って銀行の融資取りつけて、船も実用性だけじゃなく見栄え重視したやつ買って、服装だってイーグレット陛下意識してさあ! 俺、俺、無い知恵絞って必死に考えたんだけど!?」
早口で捲くし立てるレイモンドは半泣きだ。「パーキンとの共同経営も崖から身を投げる覚悟で決めたのに!」と嘆かれるとウッと胸を抉られる。
「俺、そんなパッとしない? 見て一発で稼いでるってわかる服着ててもか? まだそんな庶民臭い? 救いがたいほど貧乏臭い?」
槍兵はさめざめと両手で顔面を覆った。なんとかフォローしようとするが、咄嗟に何も浮かばずに「いや、その」と繰り返す。
「お前がこんな風になるとは予想もしていなかったから……」
前と同じに接してしまった非礼を詫びる。するとレイモンドはやや落ち着きを取り戻し、すう、はあ、と深呼吸した。
「……わかった。ひとまず今の俺の目標聞いてもらってもいいか?」
問われてルディアは「ああ」と頷く。こほんと咳払いした後にレイモンドは改めてルディアを見つめ直した。
どきりとする。変わっていない強い瞳に。否、前よりもずっと強い熱を宿す双眸に。
「──俺、この国で一番の金持ちになるから。十人委員会に入れるくらい偉くなってみせるから」
レイモンドは半年前なら冗談だろうと一蹴したに違いない台詞をのたまう。今の彼ならそれが不可能な夢でないのは明らかだった。
活版印刷機をスムーズに導入するためのデモンストレーション。派手な凱旋から何から彼の取った行動に何一つ手落ちはない。アクアレイアに希望ありと見事に印象づけてくれた。
(あ、あれ? ひょっとしてこいつ、ユリシーズの対抗馬になり得る人材なんじゃないのか?)
冷静な思考が甦り、ルディアはごくりと息を飲んだ。どうしてもこれまでのイメージが先行してレイモンドを庶民枠にはめ込んでしまいそうになるが、元々アクアレイアでは納税額で貴族か平民かが決まる。彼が一気に階級階段を駆け上がる可能性は高かった。
そうなれば確かに『政治的』にもレイモンドは選択肢に入ってくる。生涯をともにする相手として。
(有り得るのか? そんな都合のいいことが?)
信じがたい転換に鼓動はいっそう高鳴った。戸惑うルディアにレイモンドはひたむきな声で訴えてくる。「俺さ、考えたんだ。俺とあんたにとって何が一番いいんだろうって」と。
「今この国に必要なのは金だし、姫様にとってもそうだろ?」
否定するような話でもなく、ルディアはこくりと頷いた。
どれだけあっても足りないくらいに金はこれからも必要だ。人々の暮らしを以前の水準まで戻し、独立を勝ち取るための軍資金も用意せねばならない。
「だから俺がめいっぱい稼ぐ。あんたはそれを国のために使えばいい。そんで俺に惚れ直して、できれば結婚とかしてくれたら二人ともハッピーじゃね?」
「けっ、結……!?」
とんでもないプロポーズだった。アバウトで、楽天的で、思わず頭を抱えてしまう。だが荒唐無稽とも言いきれない。
「どうだろ?」
照れくさそうに問いかけられ、ルディアは返答に詰まった。己が今論理的に考えられているのかどうかも判別できない。
印刷業はきっと成功するだろう。国で一番とまでは行かずともレイモンドは一大勢力の中心人物になるはずだ。要件は十分に満たしている。自分が伴侶に求めるような条件は。
(夢でも見ているんじゃないのか? こんなに上手く運ぶはずない)
そっと手を握られて、思わず槍兵を見つめ返した。
商才があることは知っている。広い人脈が彼に有利に働くであろうことも。何も断る理由はない。身体だって、彼がいてくれることを前提に探せばいい。
「レイモン……」
重ねられた手を握り返す直前、でも、と冷たい声がした。でもユリシーズのときだって、情勢が変わって駄目になったんじゃないのかと。
己の中から湧いた疑念に凍りつく。気がつけばルディアはレイモンドの手を振りほどいていた。
「うわっ!」
力任せに腕を払ったからレイモンドがびっくりして声を上げる。そんな彼にルディアは小さく呟いた。
「……わからない……」
目を逸らし、顔を歪め、まるで独り言のように。どうしてか泣きだしそうになりながら。
わからないはずがないのに。レイモンドは判断に必要な材料を揃えて帰ってきてくれたのに。
「稼いだ金はお前の金だ。いいと言われても簡単に使えない」
首を横に振るルディアに槍兵は「うーん、そっか」と垂れ気味の眉を下げた。しかし説得される気はなかったようで、またとんでもない馬鹿を言い出す。
「じゃあ俺が勝手に使う。姫様のこと支えるために」
「レイモンド!」
放っておけば甘っちょろい言葉ばかりのたまう男を目で諌めた。レイモンドは「でなきゃいくら稼いでも意味ねーから」とまったく取り合わなかったが。
「あのさ姫様、もっぺん聞いていい? 俺って今すぐ振られちゃう感じ?」
万に一つの可能性もないのか問われ、ルディアは返答に窮した。こんなとき沈黙はいけない。本音を露呈してしまう悪手だ。
わかっているのに言葉を絞り出すことができなかった。お前の手を取る気はないと、ばっさり切り捨ててしまうことは。
「……首飾りって今持ってる?」
穏やかな声に尋ねられ、指先がぴくりと跳ねた。
早くはっきり言わねばならない。先の見通しが立たないことに期待するのはやめてくれと。もし手を取ってやはり離さねばならなくなったらどうなるか、考えるのも怖いのだ。走れなくなっても私は王女でいられるだろうか? 戦うことができなくなっても?
(捨てられないならせめて返そう。私が持っていては駄目だ)
そう決めてポケットに左手を突っ込んだ。意を決し、握りしめた小さな牙のお守りを彼に突き出す。
「レイモンド、私は……」
「いいよ。あんたも難しい人だよな」
嘆息とともに首飾りが受け取られる。意外なまでの物わかり良さに狼狽した。返すなと言われると思ったのに、もう一度チャンスを乞われると思ったのに、レイモンドは手にした革紐の継ぎ目など確かめている。
自分から手離したくせに肩が震え、ルディアは腕に力をこめた。これでいいのだと言い聞かせる。優柔不断になるくらいなら苦しいほうがましなのだと。
「あんたの覚悟が決まるまではもう聞かない。けど両想いだと思うから、これくらいはさせてくれる?」
「え?」
前触れもなく引き寄せられて腰が浮き、危うく小舟の底に膝をつきかけた。見上げればレイモンドがさっき返したお守りをルディアの首にかけようとしている。
「……ッ!」
咄嗟に彼の肩を突き飛ばした。そうしたらゴンドラがぐらりと奥に傾いた。
「うわわ!? わあ! たっ! とっ! わあーっ!」
葦原の景色が揺れる。もつれ合い、バランスを失って転倒する。倒れ込んだ衝撃で船体は更に揺れ、長身が思いきり上に被さった。
「ちょ! 待った待った! 今暴れたら転覆する!」
引き剥がそうとした動きをひと言で止められる。ルディアはぜえぜえと息を切らし、真上のレイモンドを見やった。ぐらつく舟に両手をついた状態で槍兵は揺れの収まりを待っている。
「そ、そんな抵抗しなくてもさあ……」
引っ繰り返るかと思ったとレイモンドは長い息を吐いた。「だって」と力なく呟く。性懲りもなく転がった首飾りに手を伸ばし、ルディアにつけさせようとしてくる男に。
「……外せなくなるじゃないか……」
やめろと頼んでもレイモンドはやめなかった。もう完全に見抜かれている。上辺だけ、それもなんとか誤魔化すのがこちらの精いっぱいなのだと。
細い革紐が首元で擦れる。長い指に愛しげに髪を梳かれる。されるがまま、なぜ動けないのかわからない。
「姫様はちょっと怖がりだよな」
低い声が囁いた。信じてみればいいではないかと言うように。
「そんなこと、誰にも言われたことないぞ……」
答えながら、それも嘘だと知っていた。前にも聞かれた。同じ男に。信じるのが怖いのか、と。
「いーや、あんたは怖がりだね。他人を信じきれないの、姫様を好きになる前の俺みたいだ」
どうしてこいつはこんなにどんどん変わっていくのだろう。結局いつも同じところに帰り着く己とは違って。
やめてほしい。期待してしまうから。今度こそずっと一緒にいてくれる相手かもと錯覚してしまうから。
──誰も信じてはいけないよ。
そう言って守ってくれた父は帰らぬ人となった。
わかっている。結局これは政治の問題などでなく、己の心の問題なのだ。
******
ついてこい、とユリシーズに連れられたのは、国営造船所からも近い一軒の居酒屋だった。
木樽を模した看板には『ユスティティアのやけ酒』と店名が刻まれている。騎士物語を愛読する者ならすぐにこれがプリンセス・グローリアの無茶ぶりに堪忍袋の緒の切れた新人騎士の呷った酒を示していると気づくだろう。こんな店があったのだなと思いつつアルフレッドは木のドアを押し開いた。
「なんだか暗いな。今日は休みなんじゃないのか?」
無人の店内を見渡して問えばユリシーズが「今日はと言うかずっと休みだ」と答える。火の灯ったランタンが彼の手でカウンターに置かれるや、狭い酒場の様子がぼうっと浮かび上がった。
見れば備え付けの座席以外、椅子やテーブルは取り払われ、吊り下げ棚には調理器具はおろか皿の一枚も残されていない。否、違う。カウンターの片隅にだけは葡萄酒の瓶と脚付きの杯がそれなりに並べられていた。
「ジーアン軍が来る前に逃げ出した一家の店でな。冬に悪疫が流行ったとき、この上階の宿部分を区内の患者の一時収容に使っていた。その後は海軍の管理物件になって──まあつまり、静かに飲み食いできる場所ということだ」
誰も来ないし密談には持ってこいだろう、とユリシーズは言いたいらしい。カウンターの丸椅子を顎で示され、アルフレッドはひとまずそこに着席する。ユリシーズは大瓶のワイン一本とグラスを二つ運んでくると隣にどっかり腰を下ろした。
「の、飲むのか?」
いささか困惑して尋ねる。すると彼の尖った両目が更に鋭く吊り上げられた。
「しらふでできる話だとでも?」
ユリシーズは有無を言わさぬ勢いで自分のグラスに酒を注ぎ、ぐいと一気に飲み下す。二杯目もすぐに半分が消え、もう半分は卓に叩きつけられた。
「貴様も飲みたきゃ飲んでいいぞ。立場がどうあれ年下に支払いを求める気はないから安心しろ」
どうやらここの酒類はすべて彼が持ち込んだものらしい。アルコールに頼るタイプとは思っていなかったので驚いた。
「いや、俺はいい」
断るとユリシーズは「そうか」と二杯目も空にする。グラスを下ろした彼の頬は既に仄かに赤味を帯び、その目は怖いほどぎらついていた。女帝のサロンでは見たこともない表情だ。
「で、あいつらは……ルディア姫とあの猿はできているのか?」
酒杯を掴むユリシーズの手に力がこもる。こもりすぎて腕はわなわな震えていたし、ガラスの器にはひびが入りそうだった。さっさと答えろと凄む双眸に急かされてアルフレッドは重い息を吐く。
「……聞かれてもわからないよ。そういう付き合いをしているのかどうかまでは」
「はああ? わからないとはどういうことだ? 貴様の部隊の隊員だろう? たった五人しかいないのにそんな基本情報も把握できていないのか?」
部隊長としてのなってなさを責められてアルフレッドはうっと息を詰めた。海軍でもっと大勢の部下を統率してきたユリシーズは「信じられん。その程度の交友関係を知らずしてどう適切な配置を行うんだ?」と呆れ返っている。
「俺だって、全員で行動をともにしていた頃は把握できていたよ! でもあの二人は、コリフォ島から逃げて北パトリアに向かう間に……」
反論は次第に覇気を失っていく。言葉にすると途端にすべてが言い訳じみて耳に響いた。
「そうか。そう言えばマルゴー公国に向かう船から飛び降りてコリフォ島行きに乗り換えた馬鹿がいたな」
白銀の騎士がぽつり呟く。忘れがたい、やり直せるならやり直したい光景が甦り、アルフレッドは首を振った。ほとんど話題を変えるためだけに隣の男に問いかける。
「……そっちはいつからあの人の正体に気づいていたんだ?」
「一年ほど前だ。王家が追放された頃はまだ何も知らなかった」
「どうして気づいた? 誰かから情報を得たのか?」
「さてな。貴様があやふやな話しかしないのに私だけ詳細を答える義理はない」
三杯目を注いだ男は控えめにそれを呷る。喋らせたければもっと情報を開示しろと言いたいらしい。よりにもよってなぜ自分がこんな交渉に応じなければならないのか、運命の理不尽に耐えながらアルフレッドは口を開いた。
「……付き合っているかいないかは知らないが、お互いに好き合っているのは間違いない」
ユリシーズの手がぴたりと止まる。主君の元恋人は激しく杯を振り下ろした。
「そういうのをできていると言うんだ、大馬鹿者め!」
ユリシーズは歯軋りとともに地団太を踏む。「あの人に未練があるのか?」と聞けば「あるわけあるか!」と怒鳴りつけられた。
「あの女がしょうもない男と関係を持つと婚約者だった私の格まで落ちて困るというだけだ!」
「誰もあの人をルディア姫とは知らないのに?」
「私の気持ちの問題だ! とにかく気分が悪くてならん!」
それを未練があると言うのではないかと思ったが、口にはせずに流しておく。己とて他人にどうこう言える立場ではない。一番の騎士でなくなって、揺れる心を持て余し、果たすべき義務さえおざなりになる始末なのだから。
何をやっているのだろう? 自分は何をしてきたのだろう? 自問はいつも不愉快で受け入れがたい答えに辿り着くだけだった。失望。落胆。忍従の果てに求めるものがあるのかどうかさえわからない。騎士として、この先も彼女に望んでもらえるのか。
「まったく、あんな間抜け面をした男の台頭を許すとはな!」
白銀の騎士はがぶがぶと飲みまくった。荒れているのは彼もまた過去の記憶に苛まれているせいだろうか。
「友人をそう悪し様に言わないでくれ」
アルフレッドはユリシーズを窘めた。偽善じゃないかと疑いながら庇うのはつらかったが、陰口を捨て置くことはできなくて。
せめて心ばえ正しくありたかった。もう何もかもが手遅れで、自分には何も手にできないとしても。──それなのに。
「やれやれ、お優しいことだ。貴様とてその友人に失恋の痛手を味わわされたくせにな」
心臓に突然刃を突きつけられた気分だった。信じがたい発言にアルフレッドは目を瞠る。わなわなと身を震わせて。
「な、にを…………」
掠れた声でなんとか否定しようとした。否定しなければならなかった。
己は失恋などしていない。己のこれは純粋な忠誠心だと。だがユリシーズは鼻息を荒らげて続ける。
「図星だろう。まあ貴様はわかりやすかったからな。本当にたいした愚図だ。貴様が隊員をよく監督してマルゴーまで連れていくか、そうでなければ貴様もコリフォ島へ赴くかしていれば事態は違っていたかもしれないが、こうなってしまってはな」
無遠慮な非難はやまなかった。どうしてと胸に憤りが湧いてくる。
「好きな女に触れられもせず、仕えるだけで何が楽しい? 挙句自分から女を取り上げた男を庇うなぞ、私には理解できん」
どうしてそんなことを言うんだ。
ユリシーズの吐き捨てる台詞に胸の奥が掻き乱された。
せっかくずっと言葉にするのを避けてきたのに、己の想いに気づかぬふりをしてきたのに、何も覆せなくなった今になってなぜそんなことを言うのだと。
「俺だって、あの人についていくと言ったんだ……!」
血を吐くような叫びは知らぬ間に口をついていた。突然大声を上げた自分をユリシーズがぎょっとした顔で振り仰ぐ。
息が詰まって喉につかえた。目の奥が熱を持って痛かった。
胸が苦しい。無視し続けた痛みが激しく存在を主張している。
心にかかっていたもやが、名を与えられて形を持ってしまったもやが、膨れ上がって己の中から這い出そうと暴れていた。
わかっていた。とうに限界だったのだと。どうせそのうち誰かの前でこんな風にぶちまけていたのだと。
「俺だってどこへでも、どこまででもついていくと──。でもあの人が、姫様が、俺には来るなと言ったのに……!」
言葉と一緒に押し込めていた感情が溢れる。突如穿たれた小さな穴は水圧に耐えることができず、見る間に押し広がっていった。
決壊する。涙で視界が歪んでも、どうすることもできなかった。
自分は何をしているのだろう。情けない。なのにどうしても止められない。言ってはならないようなことまで口から零れ落ちてしまう。
「俺はどうすれば良かったんだ!? 先に俺を遠ざけたのは姫様じゃないか! それなのに、残った俺のほうが間違いで、追いかけたレイモンドが正しかったのはなぜなんだ!? あいつのほうが選ばれたのは──」
はあ、はあ、と息を切らし、アルフレッドは立ち尽くした。
いつの間にやら蹴り飛ばしていた丸椅子が床に転がっている。
ユリシーズはぽかんと大きく口を開けたままでいた。
ああ、本当に何をしているのだろう。主君の敵にこんな話、まともな騎士のすることではない。
「……る……」
掠れた声が響いたのはそのときだ。ごしごしと涙を拭い、正面のユリシーズに目を向けると彼もまたいやに瞳を潤ませていた。
「わかるぞ……! あの女にはそういうところがある……!」
「は?」
白銀の騎士は咽びながら席を立ち、アルフレッドの椅子を戻した。グラスに残った酒をグイと飲み干すと、彼は自分のだけでなくこちらの杯にも酒を注ぐ。
「突き放すようなことをしておいて、本音は別のところにあるのだ。だがその振舞いが勝手だし、相手を傷つけているとわかっていない! そうだろう? それで貴様も振り回されてつらい思いをしたのだろう? はは、まさかこんなところにあの女の被害者がいたとはな!」
飲め、と葡萄酒を押しつけられた。もっと語って聞かせろと。
「い、いや、俺は」
「いいから飲め! くよくよ一人で思い悩んでばかりいると道を踏み外す羽目になるぞ!」
やけに実感のこもった忠告に気圧されてアルフレッドはグラスを手に取った。一杯だけ飲んだら帰ろうと座り直して仕方なく酒に口をつける。多分それが、次の間違いのもとだった。
「……うん?」
ひと口で胃の腑が熱くなるのを感じ、随分強い酒だなとたじろぐ。隣の男が平気で三杯も四杯も飲んでいるのでもっと軽い飲み物かと思ったのに。
「美味いだろう? これは私がやさぐれた日にだけ飲んでいる、とっておきの品なのだ」
ユリシーズはばんばんと親しげに背中を叩いてくる。まるで昔からの友人のように。
「さあ遠慮なく言ってみろ! あの女から受けた仕打ちを!」
促す男は完全に出来上がっていた。くらくら回る頭では互いがどんな状態かなど微塵も気づけはしなかったが。
一杯飲み終える頃にはアルフレッドも誰と話をしているかなどどうでも良くなっていた。
ずっと堪えていた苦しみを吐き出せる場が与えられた。それだけで二杯目を呷る理由は十分だった。




