第1章 その3
「あっ、やべ! 本忘れた!」
そう叫び、大階段を降りきったところでレイモンドが足を止めた。堂々とはしているが少しばかり早口だなと思っていたら、お偉方の面前でさすがの彼もいくらか緊張していたらしい。
「どうする? 小会議室に取りに戻るか?」
中庭の隅に立ち止まり、赤髪の騎士が問いかけた。
降りてきたばかりの階段を見やるアルフレッドに槍兵は「悪ィ、いいか?」と頭を下げる。
「こら、極秘の会議中だぞ。忘れ物くらいで邪魔をするな」
いつもの口調を心がけ、ルディアは早くも引き返しかけていた馬鹿者どもを制止した。宮廷での礼儀作法などほとんど知らない二人は慌てて回れ右をする。
「えっ、えっ、どーすりゃいいの」
「後日ブラッドリーか誰かの手から戻ってくるだろう。まさか寄付してくれたとは思っていまい」
「ま、まじかー!」
失態に項垂れるレイモンドを見てルディアは秘かにほっとした。急に大富豪然とした姿で帰国するから中身も相応に変わったのかと案じていたが、抜けたところはそのままのようだ。
「後日ってどのくらいだろ? 明日には返ってくるかな?」
不安そうに尋ねてくるので「さあな」と目を逸らしつつ答える。
「何しろ『パトリア騎士物語』だし、順番に回し読みされて二週間後くらいになるんじゃないか?」
「えええ!? それは困る! あーもうなんで忘れたんだ俺の馬鹿!」
何か予定があったらしく、レイモンドはがっくり肩を落とした。そんな彼にアルフレッドが「同じものが百冊あるんじゃないのか?」と問いかける。
「そうなんだけど、あれはちょっと特別な一冊でさ。濡れたり破れたりしたら駄目っつーか……」
「特別な一冊?」
やっぱり取りに戻ろうかな、と槍兵は未練がましく白亜の大階段を仰いだ。
「こら、いかんと言っただろうが」
触れすぎないように注意しもって袖を引く。すると「だって」と子供じみた駄々をこねられた。
「最後にあの本持ってたのユリシーズじゃなかったか? なんか俺、すんげーキツい目で睨まれてたんだけど、会議終わるまで無事だと思う?」
何ページかビリッといかれちゃうかもという懸念に対し、ルディアもそれはないのではとは言えなかった。騎士物語愛好家のアルフレッドに至っては深刻な面持ちで考え込んでしまう。
「……わかった。俺が取りに行こう。うっかり会議の内容を聞いてしまっても委員の一人の身内だし、多分許してもらえると思う」
「ア、アル! いいのか!?」
恩に着るぜと手を握る槍兵に赤髪の騎士は控えめに笑った。そのままこちらにお伺いを立てるように振り返るので、ふうと大きな溜め息を漏らす。
「あんまり遅いと先に帰るぞ」
「ああ、急いで行ってくるよ」
ルディアはああもうと舌打ちした。モモかアイリーンにもついてこさせれば良かったと。遊牧民の幕屋が並ぶ中庭に人影はなく静かだった。多少は残っているはずの下働きの者たちも人っ子一人見当たらない。間の悪さが嫌になる。二人きりにならないほうがいいのはわかりきっていたのに。
「……へへっ」
大階段の太い手すりにもたれた男が横からこちらを覗き込む。その空気だけ感じ取りつつルディアは思いきり目を逸らした。
「なんか中庭、幕屋だらけで天帝宮みたいになってんのな」
「ああ」
「ジーアン兵って夜しかいねーの? 昼間はどこに行ってるわけ?」
「よく知らないが、アクアレイア湾一帯の水質調査をしているようだ」
「水質調査? 脳蟲のこと調べてんのかな?」
「さあな。アイリーンの研究以上に進展があるとも思えんが」
当たり障りない──これを当たり障りないものとして分類するのもおかしいが──こんな会話でどれほど時間を稼げるだろう。妙な具合になる前に帰ってきてくれアルフレッドと騎士に念じる。と同時、さんざん決意を固めたくせに逃げ腰な己を叱りつけた。
「あー……、俺、なんかまずいことしちまったかな?」
と、レイモンドがためらいがちに尋ねてくる。「何が?」と問えば「えっと、さっきの十人委員会とのやり取り」と口ごもられた。
「いいや、別に? あれはお前の商談なんだろう? 私としても助かる話しか出なかったしな」
「そ、そっか」
槍兵の声が明るく上擦るのをルディアはなんとか聞かなかったふりをする。なんの変哲もない大理石のタイルの一つを凝視して、神経をぴりぴり張りつめさせた。握り拳が汗を掻いているのに気づかれないように。
「けどじゃあなんで、さっきからちっとも俺の顔見てくれないわけ?」
せっかく久しぶりに会えたのに、としょげられる。その反応に動揺しすぎて舌がもつれた。
「べ、別に、そんなことは」
身じろぎもできぬまま口だけを動かす。言っていることとやっていることがばらばらだ。
わかっていたがどうしようもなかった。顔を上げ、平気な素振りで振り返るには心の準備が必要で。
「この服もしかして似合ってない? 視界に入れたら吹き出すレベルだったりした?」
頓珍漢な発言に「は?」と思わず振り向いた。その迂闊さがいけなかった。顔を見るどころかばっちり目が合い、今度こそ全身がゆで卵みたいに固まってしまう。
「似合ってなかったらはっきり言ってくれ。別の服仕立てるし!」
真剣に迫られて呼吸が止まる。後ずさりという発想も湧かず、胸を反らしてどうにかこうにか距離を取った。
「に、似合っていなくはない」
それだけ言うのが精いっぱいだった。直視できないから具体的にどこがどういいとは言えないが。
「お、お父様のお召し物、みたいでとても……その、いいんじゃないか」
どんどんか細くなる声とは裏腹に頭の中は騒々しかった。ああ、もう、お前が普段通りの格好でいてくれたらこちらも普通にできるのに、なんなんだその装いは。腕はそんなに逞しかったか? 背もちょっと伸びたんじゃないか? 顔つきだってどこか大人びた気がするぞ──そんな声がわんわんと轟いて。
離れていたのは不正解だったかもしれない。毎日毎日忘れなければと考えるたび思い出していたくせに、眼前にいる男は記憶よりも眩しく映る。
(いや、だから、そんなことはどうでもいいんだ)
ルディアはぎゅっと目をつぶった。
己の胸がどう喚こうと、頭で、理性で、道を選ぶとそう決めた。感情や願望は関係ない。己が嵐に身を投じてしまったら、一体誰がアクアレイアを守るというのだ?
「あのさ、あの首飾りってまだ持っててくれてる?」
脈絡なく切り込まれ、ルディアは身を震わせた。持っていると正直に言えばどうなるか。捨てたと嘘を口にすればどうなるか。何も考えられずに黙る。
意を決し、薄目を開けばレモンイエローの双眸に情けない顔をした女が映り込んでいた。瞳は潤み、耳まで赤く、これでは期待させずに済むはずがない。けれど拒まねばならなかった。吊り下げられた天秤に故郷以外は何も載せないと決めた以上。
「あー……。皆には悪いけど、今日この後、二人だけで話せねーかな? 俺もあれこれ新しいこと始める前にあんたに聞いてほしいことがあってさ」
「…………」
提案にルディアは小さく頷いた。
もう先送りにはできない。こんな体たらくでは戦うべきときに剣も取れない。早く終わりにしなくては。
「へへっ、帰れたの今日でラッキーだったなー」
誕生日デートだとレイモンドは無邪気に喜ぶ。そんなつもりじゃないと否定することもできなくて、ルディアは重たく目を伏せた。
******
宮殿のやや奥まった場所にある小会議室へ戻るまでもなく、アルフレッドは本を携えたユリシーズと再会した。白銀の騎士はつかつかと議員用の細い通路を歩いてくる。隣には誰も連れず、不機嫌そうに眉をしかめて。
「ユリシーズ。なんだ、委員会はもう終わったのか?」
脱いだローブを腕に引っかけた彼を見てアルフレッドはそう尋ねた。夜遅くまで彼らの会議は続くものだと構えていたから拍子抜けする。
「ニコラスが倒れた。たいしたことはなさそうだったが、今日はもうお開きだ」
「えっ」
先程まで幼馴染の提案を興味深げに聞いていた十人委員会の長老は今朝から少々具合悪そうにしていたらしい。「心労が一つ減ったから一気に疲れが出たんだろう」とユリシーズが肩をすくめる。彼だけ先に退室したのは急げばこちらの忘れ物を届けられると考えたからだそうだった。
「すまない。手間をかけさせた」
無造作に突き出された騎士物語を受け取るとアルフレッドは念のため中身をパラパラ確認した。見たところ折り曲げられたり破られたりした箇所はなく、ほっと胸を撫で下ろす。
「あの男は?」
「ああ、ブルーノと中庭の大階段にいるよ。大人数で引き返すのも迷惑だろうと思ってな」
レイモンドを気にした様子のユリシーズにアルフレッドは少々複雑な気分になる。アクアレイアの若き英雄も堂々たる帰還を果たした幼馴染を無視できぬ新勢力と認識したようである。何も尋ねてはこないものの、探りたい意図でもあるのか歩き出したアルフレッドのすぐ横に張りついてくる。
「……ええと、そっちも今日はこのまま家に帰るのか? 女帝陛下の部屋へは寄らず?」
「ああ、じきに日も暮れるしな。正門までご一緒しよう」
「あ、ああ」
取り調べでもされそうでご遠慮願いたかったけれど、断る理由も見つからず、アルフレッドは歯切れ悪く了承した。このところユリシーズにはアニークとの間に入ってもらい通しなので尚更嫌だと拒みにくい。レイモンドやルディアのもとへ彼を連れて戻ったらおかしな空気になりはしないか心配だが。
「それにしてもレイモンド・オルブライトはなっていない男だな。会議の間は私も何も言わなかったが、敬語もまともに使えないとは……」
ユリシーズは見るからに不機嫌で、またそれを取り繕う気もなさそうだった。「運河整備は本来素人が手を出していい仕事ではないぞ」とか「ものを簡単に考えすぎているんじゃないか」とか、こちらに言われても困ることばかり口にする。
通路を曲がり、いくつか部屋を過ぎるまでユリシーズはそんな調子だった。胸中で「レイモンドだって行き当たりばったりで全部決めているわけじゃないと思うが」と友人を庇いつつ、自然にそう考えられた己に安堵する。
本を取りに行くと言ったとき、頭の中はぐちゃぐちゃだった。レイモンドの弱り顔に思わず進み出たけれど、打算ではないかとどうしても不安で。
親切に振る舞っておけば善人に見える。胸中ではどんな考えを秘めているか誰にも知られず隠しておける。そんな無意識が働いたのではないのかと。
腹の底が冷える感覚が甦り、アルフレッドは眉を歪めた。思考を散らすべくかぶりを振り、大階段へ続く回廊を折れ曲がる。腱を切られたかのごとく動けなくなったのは直後だった。
「───」
無意識にユリシーズの前に腕を出し、彼が階段を下りてしまうのを妨げる。身を反らした白銀の騎士は「おい!」と文句をつけてきたが、アルフレッドの視線の先に目をやるとたちまち絶句した。
見ればわかる。十分だ。いつも気配に敏感な彼女が足音に気づきもしないで頬を真っ赤に染めている。二言三言、レイモンドと言葉を交わし合う間も熱は引かず、彼女の体温はますます高まっているようだった。
「は?」
ユリシーズが呟いた。貴族らしい抑制を決定的に欠いた声で。
「あの女、マルゴーの山猿王子と別れたと思ったら今度はまた別の猿と……!?」
思わぬ罵倒が耳に飛び込み、アルフレッドは「えっ?」と隣を振り返った。
何か今とんでもない言葉を聞いた気がする。よほどの関係者でなければ出てこないような言葉を。
「ま、待て。なんて言った? あの女? マルゴーの山猿王子?」
後者はともかく前者は聞き捨てならなかった。アルフレッドは咄嗟に騎士の肩を掴む。ユリシーズのほうはしまったという顔で慌ててこの場を逃げ出そうとした。
「きゅ、急用を思い出した。それではな」
力任せに腕を解かれ、もう一方の手を伸ばす。
「待てと言っているだろう! まさかお前、知っているんじゃ──」
「アルフレッド?」
取っ組み合いはそれ以上続かなかった。怒鳴り声に気づいた主君が階段下で「戻ったのか?」と呼びかけてきたからだ。
「あ、ああ。ちょうど委員会が解散したところで、ユリシーズから本も返してもらって……ッ!?」
腕をひねられた痛みに驚いて振り返る。するとユリシーズが「余計なことを喋るんじゃないぞ」と低い声で脅してきた。そんなことをすればもうアニークに『通訳』してやらないからなと鋭い双眸が言っている。
「……っ」
とりあえずこの場は彼に従うことにして、アルフレッドはこくりと頷いた。問い詰めるのは明日でもできる。無策にここで騒ぐより、己もどうせ尋問するなら主君の意向を確かめてからにしたかった。──ところが話は思いがけないほうへと転がっていく。
「ありがとな、アル。ところで合流した早々に悪ィんだけど、俺たちちょっと二人で行きたいとこあるんだ。明日まで別行動ってことでいいか?」
「えっ」
すまなさそうにレイモンドに手を合わせられ、次いでルディアに目をやれば彼女にも「悪い」と詫びられた。
「少々込み入った話があってな。お前も今夜は自由にしてくれ」
「…………」
すぐには飲み込みがたくとも主君の命令なら仕方がない。二人だけでどこへ行って何をするのか問うのも野暮だし、結局「わかった」とお利口な返事しかできなかった。
分厚い見えない壁を感じる。そんなものあるはずないのに。アルフレッドはぐっと膝に力をこめると急ぎ足で階段を駆け下りた。
「じゃあ、これ、渡しておくぞ。騎士物語」
差し出した布張りの本を受け取って幼馴染はにへらと笑う。それはそのまま半回転してアルフレッドの手元へと戻された。
「最初の一冊はお前にやるって決めてたんだ。貰ってくれよ」
曇りない笑みに心臓が止まりそうになる。アルフレッドが立ち尽くしたのを感激と勘違いしてレイモンドはにこやかに続けた。
「もっとすげー土産もあるから楽しみにしてろよな!」
彼は変わった。いいほうへ。それなのに自分はと思うと指先が冷たくなる。比べたってどうにもならないのにやめられない。卑屈になる意味もないのに。
「……ありがとう、レイモンド」
かろうじて礼を告げた。「嬉しいよ」と嘘をついた。
嘘だとはっきり自覚した嘘を。初めて、自分の友達に。
「へへっ! じゃあまた明日!」
「本当にすまん!」
レイモンドは手を振りながら、ルディアは肩越しに詫びながら、どことなくぎこちない足取りで二人は歩み去っていった。正門までは一緒にとさえ誘わずに。
「……おい」
後ろから声が降ってくる。振り返れば凄まじい形相のユリシーズが「貴様、今から時間はあるな?」と問うてきた。
「聞いていただろ? 朝まで自由行動だ」
自虐気味に笑って答える。すると返事を聞いた彼がつかつかと階段を下りてきた。
「ならちょっと付き合え。誤魔化すのは無理そうだし、聞きたいことが山ほどできた。ここは賢く情報交換と行こうじゃないか」
がっしり肩を掴まれて、押されるがまま歩き出す。「は?」と顔をしかめたが白銀の騎士は聞く耳を持たず、アルフレッドから手を離そうとしなかった。
明敏な彼らしくない。若草色の双眸は怒りとも嫉妬ともつかぬ激情に燃えている。とてもではないが否と言える雰囲気ではなかった。
まあいいか、と早々に抵抗を諦める。こちらにも聞き出しておかねばならぬ話はある。一人でいたって塞ぎ込むだけなのだから今日くらいこの男についていってもいいだろう。
そう断じるとアルフレッドは自ら足を踏み出した。幼馴染たちが去り、妙に薄ら寂しく見える中庭を。




