第1章 その1
運命が激変するような一日も、その瞬間が訪れるまでは普段通りに何食わぬ顔をしている。この日ユリシーズは委員会の議事録にパトリア聖暦一四四三年八月十一日を記した。
記録係は持ち回りの当番制だ。厳しい守秘義務を課された機関に書記官などという部外者はいない。事が片付けば破棄される資料なので書くのは概略だけで良かったが、煩雑な業務には違いなかった。そのうえどんな議題であってもここ最近は同じ結論にしか至らないのだから、記録の意味を問いたくなるのも致し方あるまい。
「とにかく金がなさすぎるんじゃ」
眉間のしわを深くしてトリスタン老が嘆息した。祖国のために真っ先に私財をなげうった保守派の老人は「もうどこから調達すればいいかもわからん」と大仰に天井を見上げる。
「そうは言っても運河の整備はどうにか手をつけないと」
続けたのはディランの父、慈善病院を運営するドミニク・ストーンだ。人のよさそうな丸顔を歪め、彼は既にあちこちで水位の変化が観測されている旨を報告した。
「アクアレイア湾に流れ込む川は土や砂まで運んでくる。放っておいたら浅いところから順番に埋まってしまうよ」
「でもまだそこまで深刻なレベルではないでしょう? 配給用の国庫の備蓄を確保するほうが先決では」
「おいおい、大型帆船が港に入れなくなったら小麦の輸入も止まるんだぜ? それに一年二年で大きな影響は出ないと言っても保全工事は放置するほど高くつく。今がぎりぎり限界だ。ドミニクの言う通り、夏の終わりには溝さらいを始めねえと」
「だから費用は誰が出すんじゃと聞いておる。整備が必要不可欠なことくらいアクアレイアに住む者なら誰だってわかっとるわい!」
白熱し出した議論の内容をユリシーズは「運河・水路の全面的な保全工事。要資金捻出」とだけ記した。その一つ上には「失業者の一時救済。要資金捻出」もう一つ上には「神殿の設備維持。要資金捻出」一つ前のページにも「要資金捻出」「要資金捻出」「要資金捻出」と、いっそ判子を作りたいほど同じ言葉が並んでいる。
「なあユリシーズ、お前はどうだ? リリエンソール家でなんとか費用を工面できねえもんかな?」
名指しで話を振られたのでユリシーズは記録用紙から顔を上げた。重い息をつき、神妙な顔で首を振る。
「うちは海軍の面倒を見るという一番大きな負担を抱えているのだぞ。せめて金策の手を尽くしてから尋ねてはもらえないか」
きっぱり返せば委員会の面々はそうだよなあと肩を落とした。問題だらけで手も金も回っていない現状を改めて痛感する。もう少し外貨を獲得する手段があれば展望も開けてくるのだが。
(ウォード家もオーウェン家もうちがやるとは言わないか)
ちらと退役軍人たちの謹厳な顔を見やる。暗澹たる空気に満ちた小会議室でブラッドリーとトレヴァーは悩み深げにそれぞれ腕を組んでいた。
いつもなら何かしら知恵を授けてくれるニコラス老も今日はうつむき、口を閉ざしたままでいる。積もり積もった疲労で額は青ざめて、稀代の天才の父といえども妙案は出てきそうに思えない。
八方塞がりだ。塩田を広げ、女帝に商人を紹介し、やれることは全部やったがいよいよ手詰まりの感がある。戦時中さえ怠らなかった運河保全が不可能になるとは海運国の衰退もここに極まれりだった。
(やはりうちが出すしかないか?)
しかしな、と考え込む。どこの貴族にも余裕などというものはない。女帝やドナと直接取引できるぶん他家よりはましというだけで、リリエンソール家も例外ではなかった。安直に引き受ければ海軍までもが共倒れになってしまう。それだけは避けねばならない。
(海軍が消滅すれば商船団を組めなくなる。交易都市としてのアクアレイアはおそらく終わりになるだろう。なんとしても、ここはリリエンソール家以外の貴族に踏ん張ってもらわねば……)
落ちぶれて商人から漁民に転じた者はごまんといる。彼らを再び東方市場に復帰させられるかどうかはひとえに十人委員会にかかっていた。
埋まらない担当者の空白をユリシーズは睨みつける。少し前までこんな紙、ぐしゃぐしゃに丸めて捨ててやりたいと思えばそうできたのに。
「亜麻紙もすっかり贅沢品だよねえ」
正面に腰かけていたドミニク・ストーンがぽつりと言った。議事録の片端を握り込むユリシーズの苛立ちを察したように。
「まあ国内でも多少生産できるようになってから、買える値段にはなってきたがな」
「ぼろきれを集めて加工したら紙が作れるなんて知らなかったよね」
「紙職人も増えてきているし、そろそろ組合を大きくせねばだ」
「そういう技術がもっとあれば助かるんだけどねえ……」
本題からはやや逸れた雑談にも皆の本音は透けて見えた。いくら塩田を拡張しても国内消費に回るだけでは現状維持にしかならない。アクアレイアがこの苦境を脱するためには国外に売りにいける品々を得ねばならないのだ。
(だが何がある? 高い関税を払ってなお利益の見込める香辛料の類には今の貧しいアクアレイア人では手が出ない)
ユリシーズはペンを持つ手に力をこめた。
相変わらず誰からも案は出ない。運河の保全工事はこのまま先送りにされてしまいそうだった。
******
耐えるべきことに耐えられない自分にほとほと嫌気が差す。本来なら人質は人質らしく行儀良くしているべきだとわかっているのに。
ユリシーズが会議に行くと抜けた後、どうしてもアニークと二人で過ごす気になれなくてアルフレッドは墓島の療養院を手伝いに来ていた。
とは言え何か大きな仕事があったわけではない。教科書はほぼ完成しており、任されたのも誰でもできそうな簡単な雑務だった。
「はー、やっと十冊分書き写せたよぉ」
痛そうに手を擦りつつモモが最後のページに息を吹きかける。インクが乾くまでもう一晩かかりそうだが今日できる作業はこれで完了したようだ。
「ありがとう、モモちゃん。私のスケッチも描ききれたわ」
談話室の一角で別のページに延々と絵を入れていたアイリーンが顔を上げる。表紙の準備をしていたルディアも「残るは製本だけだな」とほっとしたように額の汗を拭った。
「そっちはどうだ? まずいところはなかったか?」
振り返ったついでのように主君に問われる。手にした見本に視線を落とし、アルフレッドは「誤字も脱字もなかったよ」と答えた。
「例の出し方も初心者にわかりやすくなっていると思う。この教科書があれば俺でも教師ができそうだ」
「そうか、良かった。モモとアイリーンが頑張ってくれたおかげだな」
率直なねぎらいに妹は「えへん!」と胸を張る。アイリーンもはにかんで、青白い顔を朱に染めた。
「この完成度なら使い終わってから値をつけて売ってもいいんじゃないか? ジーアン語を覚えたい商人はそれこそ山ほどいるだろうし」
感想を聞いてモモは「でしょー!?」とますます笑顔を輝かせる。「ああ、私もそう思う」と手がけたルディアも内容に満足している様子だった。
「だからできればもう二十冊ほど作れればいいなと考えているのだが……」
「ひっ、ひえええっ!?」
上出来ゆえに飛び出した思わぬ希望に目を剥いたのはアイリーンだ。「そそ、それは確かに名案だけど、十冊だけでもこれなのに、二十冊も作ったら両手が壊れちゃうっていうか」と焦る彼女を援護して妹もぶんぶん首を横に振った。
「モモだって向こう十年はジーアン語写したくないよ! そういうのは文明の利器に! 印刷機にお願いしよ!」
必死の形相で迫られた主君が「あはは」と笑う。印刷機という語句に今度はアルフレッドが身をすくめる番だった。パーキンを連れて帰国予定の幼馴染。教科書作成などやっていて彼を思い出さないはずがない。
談話室に張り出されたカレンダーがふと目に留まり、アルフレッドは視線を背けた。去年までは朗らかな気持ちで祝った友人の誕生日。今年は何事もなく終わってほしいと願っている自分がいる。
(また俺は、騎士としても友人としても相応しくないことを……)
見咎められないように小さくかぶりを振った。ルディアはさして動揺もなく槍兵の名を口にしてみせる。
「安心しろ。レイモンドが帰ってくるまで追加分は作らないよ」
アクアレイアに戻っておよそ二ヶ月が過ぎた。主君の中で幼馴染は今どんな位置にあるのだろう。あのお守りはまだポケットにしまわれたままなのか。
解決不可能な問題に対し、人間はどこまでも無力である。何かしなければと強い焦りを感じても実際にできるのは日常を維持することのみだ。それも形の上でだけで。
「さあ、今日はもう引き揚げるぞ。どうせ明日まで何も触れないんだしな」
作業用に改良された大棚に乾き待ちの用紙を丁寧に並べるとルディアは戸を閉めて鍵をかけた。こちらを振り返った彼女に「今日はお前が漕いでくれるのか?」とゴンドラの操船を頼まれる。
「ああ、もちろん」
「ありがとう。助かるよ」
屈託ない笑みにほっと息をつき、アルフレッドは療養院の出口へ向かった。
自分だって頼りにされていないわけではない。ならそれでいいではないか。そんな風に思えたのは国民広場へ戻るまでの話だったが。
******
エメラルド色の潟湖は今日も美しく、空の濃い青と色彩を競い合っていた。療養院を後にするのはいつも夕刻前だから、こんなに明るい日の下を帰るのは久々だ。
別に今日、特別な用事があって急いだというわけではない。たまたま仕事が早く済んだだけのことだ。ここにいれば「祝ってくれよ」と厚かましい要求をしてきそうな男もまだ帰国してはいなかった。
広がる海を見つめてルディアはつきかけた息を飲む。騎士の漕ぐゴンドラは本島へとまっすぐに舳先を向け、白い小波を立てていた。
大丈夫だ。小さく胸に呟いた。大丈夫。しばらくは首飾りに触れてもいないし、名前だって普通に言えると。
アクアレイアの行く末を考えるとき、思考からレイモンドの存在は消える。そのことを確認しては胸の内で覚悟を固める。王女として祖国のために生きて死ぬ覚悟を。
ユリシーズのことだってそうやって忘れたのだ。もう一度同じようにやればいいだけの話だった。
(いい加減、新しい身体を決めてしまわねばな)
シルヴィアの妨害もあり、難航していた器探しはこの頃ようやく進展しつつあった。と言ってもあまり望ましい調査結果は出ていない。入れ替われそうな人間はせいぜい下級貴族止まりで、それさえ今の不景気では平民と大差ないと判明したというだけだ。
それでも次が決まりさえすれば駒を先へと進められる。いつまでも非合理な感傷に浸ってはいられなかった。ぐずぐずと同じ場所に踏み留まっていられるほど状況に余裕はないのだから。
(何があっても私はこの国の王女だ。アクアレイアのためでなく自分のために相手を選ぶなど有り得ない)
胸のどこかが痛んでも、無視できる程度の痛みになった。離れて正解だったのだろう。自分はもう冷静で、首飾りも捨てられる。
寄せては返す波を見つめ、ルディアはそっと目を伏せた。「ねえ見て、あれ!」とモモが叫んだのはそのときだった。
「あら? また随分大きな船が入ってきたわねえ」
「壮観だな。あの五隻、全部同じ船団か?」
アイリーンとアルフレッドの声にルディアは首を伸ばし、税関岬に接近する三本帆柱の大型帆船を見やった。こんな巨船が入港するなど滅多にない。特にここ最近では。
どこの船だと旗に目をやり、ぱちくりと瞬きする。両目を擦って二度見した。なぜなら船団は五隻ともアクアレイア所属を示す貝殻紋の青い旗を掲げていたからだ。
「誰の船だろうね?」
モモは興味津々でゴンドラの櫂を手に取った。兄だけに漕がせていたのでは船主を見逃すと危ぶんだか、斧兵は「早く早く! 広場に戻ろう!」と騎士を急かす。
野次馬根性に火がついたのは彼女だけではなかったようで、大鐘楼の麓には既に多くの住民が集まっていた。ゴンドラ溜まりに舟を舫うとルディアたちも小走りに広場へ向かう。大運河を挟んだ対岸の商港には次々と大型帆船が引き入れられ、活気づく荷運び人の声が響き渡っていた。
「一体どこの貴族の船だ? 逃げ出した連中が戻ってきたのか?」
ルディアは先に陣取っていた黒山の人だかりに問いかける。「さあなあ」「皆わからんそうだ」と幾人かが返事をした。
「最後の一隻、あの一番でかいのに船主が乗ってると思うんだが……」
漁民らしい男の言葉は最後まで聞けなかった。わあっという歓声が何もかもさらっていったからだ。
「レイモンドじゃねえか、あれ!?」
誰かの叫びに目を瞠る。えっと見上げればロープに曳かれて旋回する商船の甲板に金髪の人物が覗き、こちらに手を振るのがわかった。
「えっ? えっ? レイモンド!? モモよく見えなかったんだけど!?」
うろたえる斧兵に「わ、私もよく見えなかった」と返答する。レイモンドの名はそうこうする間に群衆の間に波及して、異様な熱気を発生させた。
「バッカ、んなわけねえだろ! あいつがあんないい船に乗れるかよ!」
「けどあの背の高さと手の振り方はそれっぽかったろ!?」
「いやいや、似てただけだって! レイモンドは絶対ないって!」
顔見知りが多いせいか、あちらこちらから槍兵の名が飛んでくる。ごくりと息を飲み込んでルディアは帆船の持ち主が入国手続きを終えるのを待った。
広場を埋める群衆は増えこそすれ帰る者は誰もいない。そのうち税関岬から船室付きのゴンドラが漕ぎ出すと人々の好奇心ははち切れんばかりに高まった。
「レイモンドじゃなかったら二十ウェルスだぞ、お前!」
「なんでだよ! じゃあお前、レイモンドだったら俺に三十ウェルスだぞ!」
野次馬たちのやりとりについ先刻まで落ち着いていた心臓が逸りだす。本当に彼なのだろうか。わけのわからぬ緊張感に耐えかねてルディアは隣の騎士に尋ねた。
「お、お前、レイモンドだと思うか?」
「いや、あれはどこかの貴族の船団だと思うが……」
アルフレッドはやや硬い表情で答える。アイリーンに抱えられたブルーノも無言でうんうん頷いた。
それはそうだ。レイモンドなわけがない。ちらりと一瞬見えたのはいかにも上等な黒の衣装を身に着けた男だった。だが確かに雰囲気は似ていたのである。勘違いかもしれないが、手を振ったのもルディアを見やった直後に思えた。
(もしレイモンドだったらどうする?)
急激に抑制を失いつつある心臓を掌で押さえつける。どうもしないと自分に強く言い聞かせた。どう生きるべきかは決めただろうと。
大丈夫。大丈夫だ。いない間も普通に過ごせた。一人で考えて立ち回れた。だから自分は大丈夫──。
「おい、出てくるぞ!」
船室付きゴンドラは大鐘楼の脇に止まり、船頭が恭しく扉を開けた。
衆目を一身に浴びて若い男が姿を現す。オールバックの緩い金髪を撫でつけ、窮屈そうに長い手足を折り曲げながら。
誰かが名前を呼ぶ前に彼がこちらを見つけて笑う。へらへらと締まりない、あの彼らしい表情で。
「よっ! ただいま、皆!」




