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序章

 昼間の熱気が嘘のように引ききって、今夜のバオゾは少し冷える。夕暮れに珍しく雨が降ったせいかもしれない。夏はほとんど毎日晴天、せいぜい薄雲が伸びる程度だというのに。

 夜が寒いと砂漠の街を思い出す。今はもう砂に埋もれてしまった故郷を。


「……なるほどな」


 先程届いたばかりの書簡から目を上げて、ヘウンバオスはゆったりとした長椅子に座り直した。立てた片膝に肘をつき、傍らの忠臣に「お前は読んだのか?」と尋ねる。


「いえ、まだ」


 答えた男に紙束を突き出せばごつい手が丁重に受け取った。熊に似た図体を屈め、肘掛のランタンに近づき、十将の長は素早く文面に目を走らせる。

 がさりと紙が擦れ合う以外、幕屋に響く音はない。一枚、二枚と古龍からの報告を読み進めるうちに大熊の鼻息がやや荒くなる。やっと情報と呼べそうな情報が入ったのだ。力むのも致し方あるまい。


「……防衛隊にルディア姫ですか。ハイランバオスはそのような者と手を……」


 書簡を畳み、姿勢を正した男が呟く。思わぬところから造反者の名が降って湧き、彼はいささか困惑している様子だった。


「どうなさるおつもりで?」


 問われて小さく肩をすくめる。


「どうするも何も、ファンスウに任せる」


 今のところはな、と付け足した。渋面の熊はすぐに動かないのかと言いたげだったが。


「一年さぼっていたつけで私はまだバオゾから出られん。まあファンスウならつまらんへまはしないだろう。そのルディアとかいう女がよほどの策士でない限り」


 八百年をともにした忠義な男はなお不服そうだった。いや、というより不安なのか。敵対する勢力に人でないと知られたのは初めてである。しかも彼らは我々と同じような生き物で、ハイランバオスの息がかかっているときている。

 二重スパイではないのかと懸念しているのだろう。この男は昔から心配性のきらいがあるから。


「案ずるな。お前がルディアの立場ならどうするか考えてみるといい」


 二年前、生誕の祝祭に訪れた青髪の剣士を思い返して薄く笑う。聖預言者の偽者を仕立て、帝国を欺こうとするような女だ。ただ自由を得るために情報を与えてきたとは思えない。本当にハイランバオスを売るつもりだとも。


「お前が王女ならどうする? 最大の切り札と引き換えにして、何を成そうと考える?」


 ヘウンバオスの問いかけに大熊はしばし考え込んだ。


「……財政の立て直し。それと王国再興ですね」


 そう、と頷く。それさえわかっていれば問題はないと。


「目的を持つ者の行動は一貫している。怪しい動きを見落とすファンスウではないさ」

「まあ、確かに」


 大熊はちらと書簡に目をやり「ではこの件に関しては続報を待つということで」とあっさり締めくくった。そのまま彼は粛々と別件の報告に移る。曰く、レンムレン湖を思わせる水辺は帝国内のどこにもいまだ発見されず、アークと関連付けられそうな神話や民話もこれ以上は出てこない、とのことだ。


「ファンスウの報告によればアークは巨大なクリスタルのようですから、また洗い直させてみますが……」


 期待はできないという口ぶりにヘウンバオスは閉口する。手がかりはやはりハイランバオスだけらしい。それでもこちらも考えを止めるわけにはいかないが。


「ラオタオは?」


 短く問えば大熊は毛深い頭を横に振った。泳がせておけばそのうち弟と接触するかと思ったのに、若狐は用心深く身を慎んでいるようだ。

 まあいい。あれにはウェイシャン以外の監視役も付けている。本当に帝国を裏切っているならいずれぼろを出すはずだ。


「ファンスウが何か言ってきたときはすぐにバオゾを発てるようにしておく。お前もその心づもりをしておけ」

「はっ」


 長椅子の前に胡坐を掻いて座したまま大熊が深々と頭を垂れる。話も終わり、立ち上がった忠臣は幕屋の掛け布を捲って外へ出ようとした。

 が、何を思ったか彼は再び長椅子の傍らへと引き返す。傍らに膝をつかれ、遠慮がちに見上げられた。まるで何かの禁忌に触れでもするかのごとく。


「……あの、ドナのことは」


 にわかに空気が塗り替わる。大熊はまた心配性の顔に戻っていた。


「…………」


 視線は外さないまましばし押し黙る。ドナのこととはなんだと尋ね返すのはきっと逃げだろう。

 わかっていた。この問題はいつまでも曖昧にしておけないこと。結論を出すことがどんな断絶を意味するとしても。


「一年も思うさま遊び、私が再び立ったと聞いても戻らぬ連中に希望を持つな。血を分けた兄弟であれ、去った者はもう仲間ではない」


 この返答は予想済みだっただろうに熊はうつむき、黙り込んでしまう。だが彼の落胆を責められはしなかった。ずっと一つだったものがばらばらになって平気でいられるはずがないのだ。


「いいふるいわけになったさ。今残っている者は全員最後までついてくる」


 虚勢と知っていてそう告げた。盲信の過ぎる大熊は「まさかそこまでお考えになって引きこもられたので?」と瞠目したが。


「愚か者が。あのときの私がそんなに利口だったと思うなら買い被りだ」


 冗談めかして笑い飛ばす。まだ迷いの消しきれていない男を見据えて。


「止まらないと決めた以上、後ろ髪を引かれるな。戦いに駆けるとき、我々が走れなくなった馬をどうしてきたか忘れたか?」


 大熊はごくりと息を飲んだ。かさつく彼の太い指はわななきながら胃の腑を押さえる。


「殺して食らうとまでは言わん。だがドナは、ただの墓場だ。そっとしておく以外のことは考えていない」


 もう行けと片手で払う仕草をする。間もなく忠臣は一礼だけして出ていった。

 後には静寂だけが残る。夏にしては肌寒い夜に相応しく冷え冷えと。


「…………」


 ヘウンバオスはふうと短い息をついた。

 夜が寒いと砂漠の街を思い出す。

 早くあそこに帰りたい。

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