第5章 その4
さて一体、待てと言われてはたして何分経過しただろう。アニークの様子が気がかりで、今日も早めに城へ出てきたというのに肝心の女帝はまったく姿を見せなかった。
普段の出勤時刻で考えても時計の針は三十分近く進んでいる。ユリシーズは少々苛立ちを覚えつつ二杯目の紅茶を飲み干した。
「ああ、もう着いていたのユリシーズ……。ごめんなさい、待たせてしまって……」
待ち人が戻ってきたのは三度目のおかわりをしたときだった。女帝とともに入室してきた平民騎士を見やってユリシーズは目を丸くする。
一瞬「なんだ、仲直りしたのか?」と思ったが、どうやらそうではなかったらしい。彼の態度は昨日と変わらずふてぶてしく、席に着くなり女帝から目を背けるありさまだった。
(ま、またこいつは……!)
状況は悪化の一途を辿っているようだ。アニークは昨日より更に生気がなく、今にも卒倒しそうである。アルフレッドのほうも壁を睨みつけたまま微動だにしなかった。
「え、ええと……、今朝はどちらへおいでだったので?」
明るい話題を探してユリシーズは女帝に尋ねる。
「ああ……ダン夫妻のところよ。宮殿に二人の部屋を用意したから……」
虚ろな返事をよこしたきりアニークは黙り込んだ。二の句が継がれることはなく、話に花など咲きはしない。昨日と同じに彼女は項垂れ、ただつらそうに指先を握り込んでいる。
「あの……朗読でもいたしましょうか? 騎士物語のお好きな章を」
なんとか女帝を喜ばせようと提案するも、これもやはり効果なかった。覇気のない声で「今はいいわ……」とやんわり断られて終わる。
ユリシーズが気を揉む間、アルフレッドは我関せずでそっぽを向いたきりでいた。これほどアニークを弱らせておいて何も感じないのかと呆れる。この女が「いいの、悪いのは私なのよ」と思ってくれているうちに関係を修復せねば大問題に発展するのは明らかなのに。
(駄目だ……。とばっちりで悲惨な目に遭う未来しか想像できん……)
ただでさえ規模縮小傾向の東方交易が完全に駄目になるか、あるいは女帝が再びカーリスの強欲どもに肩入れするようになるか。想像してキリキリと胃が痛む。
何を考えているのだとアルフレッドの肩を掴んで揺さぶりたかった。というかもう、そうせねばならないレベルに達している。今日のサロンが解散したらこいつを少し説教しよう。そうしよう。
と、そのとき、コンコンと扉をノックする音がして、無愛想な衛兵が商人の来訪を告げた。女帝の部屋に直接顔を出せるのはご贔屓の骨董品商だけである。これは彼女も元気が出るに違いない。ユリシーズはほっとした心地でアニークに笑いかけた。
「良かったですね。騎士物語にまつわる品が手に入るかもしれませんよ」
「えっ……?」
が、いつもなら飛び上がってはしゃぐ彼女が今日はまともな返事もしない。まさか目利きの掘り出し物を手に取る気力もないのかと息を飲む。
「……ごめんなさい。なんだか私、具合が悪いみたいで……」
アニークは衛兵に商人を帰らせるように命じると、ゆっくりと立ち上がった。どうするのかと思ったら女帝はよたよた天蓋付きの寝台に歩いていく。
「ごめんなさいね、二人とも。来てくれたばかりで悪いけど、私、今日はもう休むわね……」
本当にごめんなさい、と涙を溜めて彼女は詫びた。まるで何かほかのことの許しを乞いでもするかのように。
「…………」
横になると言われればこちらは引き揚げるしかない。ユリシーズが「わかりました。ご自愛なさってください」と挨拶すると隣の男も心のこもらない声で「どうぞお身体を大切に」と立ち上がった。
無礼千万な平民騎士は足早に部屋を去っていく。ユリシーズは恭しく辞去を述べたのち、早足で彼を追いかけた。
「おい待て、貴様! アルフレッド・ハートフィールド!」
中庭の柱廊へ出ようとしていた男を名指しで呼び止める。返事も待たずに腕を掴み「ちょっと来い」と引っ張った。
「なんだ? 俺に何か用か?」
アルフレッドは訝しげに眉をひそめる。それ以上に濃いしわを眉間に刻んでユリシーズは「そうだ」と語気を荒らげた。怒っているのは伝わったらしく、少しして「わかった」と頷かれる。
「小会議室へ行くぞ。あそこなら誰も来ない」
向かったのは委員会の招集日でもない限り常に無人の一室だった。かつかつと靴を鳴らして階段を上がる。昔に比べて宮廷内の兵士や小間使いは激減したが、それでも話が話だけに立ち聞きされる可能性は潰しておきたかった。
「……で、なんだ?」
小会議室の扉を閉めるなりふてぶてしく尋ねられる。のっけからなんて腹の立つ男だろう。問題を起こしている自覚くらいあるだろうに。
ユリシーズは騎士を睨んだ。そしてどんな馬鹿でも確実に理解できるように猟犬のごとく吠え立てた。
「女帝と上手くやる気がないなら明日から来るな! 貴様がいると東パトリアとの関係が悪くなる!」
いくらアニークが緩くとも遊びの場ではないことを強調する。しかし道理を理解できない平民騎士は「それはできない」と首を横に振るのみだった。そのうえ「明日からもレーギア宮には今まで通りに顔を出す」と度しがたいことをほざいてくれる。
「なら態度を改めろ! 貴様はな、女帝への侮辱、東パトリアに対する挑戦、ひいてはジーアンへの反逆と受け取られても仕方のない行動を取っているんだぞ!」
反骨精神だけは立派な新兵を諭すように言い聞かせる。殺気立つユリシーズを前にしてもアルフレッドは素直に「はい」とは言わなかったが。
「現状それも難しい」
「難しいからなんだというのだ? 貴様わがままを通せる立場か?」
「こっちにも事情があるんだ」
「だったら洗いざらい話せ。アニーク陛下と何があった?」
「…………」
質問には長い沈黙が返された。答える気など更々なさそうで辟易する。
この男は事の重大さを一つも理解していないのだ。仮に女帝がアルフレッドを庇い続けてくれたとしても、話が東パトリアやジーアン上層部の耳に入ればただでは済まない。「アクアレイアの騎士が無礼を働いたこと」は誰にどう政治利用されてもおかしくない国家の弱みとなり得るのに。
「話せ」
せっつくと平民騎士は嫌がった。いきさつを打ち明ける義理などないというわけだ。どうやら彼はこちらを同胞と見なしてはいないらしい。
「じゃあ女帝をいたぶるのをやめろ。もっと好ましくもてなせ」
煮えたぎる血を鎮めながら極力冷静に命じた。やはりアルフレッドは「はい」とは答えなかったけれど。
「俺はいたぶってなんて……」
あまりの物わかりの悪さに苛立ちが頂点に達する。ユリシーズは平民騎士の耳を掴むと真正面から怒鳴り飛ばした。
「いい加減にしろ! 貴様、ルディアの騎士だろう!? あの女が守ろうとしたアクアレイアを貴様が台無しにするつもりか!?」
浅薄な反論など聞きたくもない。畳みかけるようにがなり立てる。
「せっかく女帝がアクアレイアを気に入って金を落としてくれるようになったんだ! ギスギスしたままノウァパトリアへ帰してどうする!? 貴様の肩にも私の肩にも国家の命運がかかっているんだ! 何があったかなど知らないが、甘ったれるな!」
ひと息にそこまで叫ぶとユリシーズはアルフレッドを突き飛ばした。どんと壁に背中をつき、平民騎士は目を瞠る。
「ちっ……」
ユリシーズは盛大に舌打ちした。柄でもないことを口にしたと。しかもこれから、もっと柄でもないことを言わなければならないのである。
今の自分にできる譲歩、なんとか見いだせる妥協点。最後通告としてそれをわなないている騎士に伝える。
「……私とて貴様らに力添えなどしたくはない。だがこの状態を放置するよりずっとましだ。とにかく明日は普通にしろ、女帝を構え。多少なら間に入ってやる」
「…………」
アルフレッドは押し黙り、しばし唇を噛んでいた。だがついに愚かな意地を捨てて「……善処する……」と喉を震わせる。
ほっと息をつき、ユリシーズは全身の力を緩めた。「その言葉、忘れるなよ」と念を押し、小会議室のドアに手をかける。
「じゃあな」
部屋を出る前に振り返ったアルフレッドの顔面は蒼白だった。思った以上に主君の名前を持ち出されたのが効いたらしい。なんてわかりやすい男だろう。
(ルディアの騎士、か)
自分もかつてはそう呼ばれた。だが今は人々の憧れを受ける者として騎士の称号を保ち続けているに過ぎない。
もはや新たな主君を探すこともないだろう。誰かに仕えるという生き方は、肉体的にも精神的にも不自由なものなのだから。
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人間世界の営みが上手く回っていようといまいと海はいつでも知らん顔だ。墓島に向かうゴンドラの上、低い波にゆらりゆらりと揺られながらルディアはエメラルドグリーンの潟湖を見渡した。
太陽の光を吸って輝く水面。晴れ渡る青い空。点在する島々に小さな平舟で行き来する漁民。そういったものを眺めてようやく荒く脈打つ鼓動が鎮まってくる。
(毎度毎度、綱渡りもいいところだな)
ふうと短く息をついた。交渉はいつ一方的な命令に変じるかわからないが、とりあえず今のところはカードの切り方を間違わずにやれているらしい。
ただし油断は禁物だった。忘れてはならない。潰そうと思えば簡単に潰せる相手だから見逃されているに過ぎないと。
(私の名前に言及したのは牽制のつもりだろうな)
コリフォ島に追放されたのは偽者だったとばれてしまった。これでこちらは一つ弱みを握られたことになる。もうアクアレイアには何もしないと約束した手前、あちらも騒ぐ気はなかろうが。
(ラオタオに献上された姫君からは蟲が出てこなかった……か)
ウァーリの台詞を思い返して目を伏せる。彼女の発言はなんらかの形で王女の代役が死亡したことを物語っていた。明るく献身的だった、あの侍女はもう帰らないらしい。
失ったものの多さに改めて気が沈む。ジャクリーンにイーグレット、自身の肉体、そしてもしかすると娘までも。
すべてを無傷で守るなど不可能なのは百も承知だ。けれど無力を嘆かずにはいられなかった。自分にもっと力があればと。
「お客さーん、じきに墓島到着だよー」
と、辻ゴンドラの船頭が船尾から声をかけてくる。頭だけ後ろを振り向けば櫂を握った中年男が卑屈な笑みを浮かべていた。
「療養院に何しに行くんだい? 見舞か? それともシルヴィア様のお手伝いか? いいねえ、リリエンソール家とお近づきになれるなんて」
俺ももっといい職に就いてこんな暮らし抜け出したいよと船頭は嘆き調子で肩をすくめる。彼のシャツはよれよれで、商売道具のゴンドラは防水タールが剥げかかっており、ありありと生活苦が見て取れた。
「別に近づきになってはいないが」
そう否定するも船頭は「いやいや、んなことないでしょ」と思い込みだけで話を続ける。
「こっちもねえ、いずれユリシーズ様がなんとかしてくださると信じちゃいるが、たまの贅沢もできないってのがつらくてねえ」
「…………」
同情を引こうとする口ぶりに察せるものがありすぎてルディアはやれやれと嘆息した。要するに渡し賃にいくらか上乗せさせたいのだろう。近頃は客から金をせびるためにわざと沖のほうへ出て「財布を渡さないんなら岸には帰してやらないぜ」などと脅すゴンドラ漕ぎもいると聞く。わざとらしく腰に帯びた剣に手を回し、ルディアは「なるほど」と返答した。
「それは気の毒に。今夜の一杯は奢らせてもらうよ」
最初に提示された額に多少色をつけてやるので彼は満足したらしい。一連の会話が始まってから不自然に停止していた小舟は再び墓島へと漕ぎ出した。
(衣食足りてなんとやら、だな)
今のアクアレイアにはこんな輩が一人や二人ではないのだろう。そう考えて肩を落とす。早くなんとかしなくてはならない。
十分に生きていけると思えれば愚かな行為は減じるはずだ。だが今の自分や防衛隊だけではいかんともしがたい難問だった。
力がないのだ。民衆に示すことのできる、わかりやすい頼もしさが。
そういう意味ではユリシーズに十歩も二十歩も後れを取っていた。このままでは本当に、アクアレイアはジーアン領の一部として落ち着くことになるかもしれない。
せめて対抗馬がいればと思う。アウローラの存在は王国再興の切り札だが、国外ではまだ知られていない姫だけに表舞台へ出す時期は慎重に選ばなければならない。
彼女のほかにもう一人、象徴的な人物が必要なのだ。アクアレイアの人々を束ね、再独立という夢を追わせられる英雄が。
「はいよ、そんじゃ二ウェルスいただきますね!」
考え事をする間にゴンドラは桟橋についていた。飲み代込みでも高すぎるぞと言いたいのを我慢して支払いを済ませる。
上機嫌の船頭と別れ、ルディアは低い丘を上がった。お近づきどころか顔も見せてくれない女の支配する療養院へと。
(さて、いつになったら我々は患者に会わせてもらえるのかな)
レンガ塀に囲まれた建物にいつもと変わった様子はない。門を開けても誰も出てこず、シルヴィアたちは今日も東棟にこもったきりだった。これでドナにやる患者を選び、ジーアン語を教えねばならないのだから荷が重い。
(墓島は墓島で、ドナはドナで蟲の巣窟か)
談話室に直行しながら頭の隅で考える。あの偽ラオタオはどういうつもりでおいでよなどと誘ったのか。バジルがいると餌まで撒いて。
(考えることだらけだな)
焦るんじゃないと自分を宥める。すると今度は無意識にポケットを探ろうとする己に気づき、また別の溜め息が出た。
次の身体をどうするか、何一つ決められないのはどうしてだろう。人望ある貴族のリストから特にこれという目星もつけられていないのは。
(いや、単にユリシーズと競えそうな逸材が見つからんだけだ)
無理やりにかぶりを振り、ルディアは西棟のドアを叩いた。今はやれることをこなしていくだけ。そう自分に言い聞かせて。
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「じゃあレイモンド君、気をつけて行くんだよ!」
「ああ、オリヤンさんも元気でな! ほんとに色々ありがとう!」
白い帆を張り、錨を上げ、今まさに出航せんとする船の上からレイモンドは大きく手を振る。日焼けした水夫と荷運び人でごった返す港では見送りの友人が眩しそうに目を細めていた。
船倉には餞別にと贈られた大量の亜麻紙。今頃はパーキンが小躍りしながら積荷に頬ずりしているだろう。ほかの荷もマーチャント商会の好意で随分安く買い上げることができた。持つべきものは金持ちの友達だなと改めて実感する。
「そのうちちゃんとお礼すっからー!」
届くかはわからなかったがレイモンドは懸命に声を張り上げた。帆船は風を受け、ぐんぐんと入江から遠ざかっていく。
オリヤン曰く、ルディアたちがリマニの港を発ったのはおよそ二ヶ月半前だそうだ。気候もいいし、この船なら八月中旬の誕生日には帰国できているかもしれない。
(約束通り、ちゃんと印刷機届けるからな)
懐の記念コインを取り出すとレイモンドは情熱の燃えたぎるまま口づけた。喜んでくれそうな土産なら山ほどある。早く会いたい。会ってあの日の返事が聞きたい。
(姫様もう新しい身体見つけたかな?)
お守りはまだ彼女の手元に残されているだろうか。たとえ残っていなくとも思い直してもらえるといいが。
悲観的な予測はなぜか一つも浮かばなかった。背に追い風を感じていた。
白波を切り裂くように船は走る。同じアクアレイア旗を掲げた四隻の仲間とともに。
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アルフレッド・ハートフィールドを叱責した翌日、ユリシーズは普段になく緊張しながら女帝の部屋に赴いた。はたして今日はどうなることか。己や国の運命が泥船男にかかっていると思うと生きた心地がしない。
「おはようございます、アニーク陛下」
「……ああ、おはようユリシーズ……」
目の下にくまを拵えた哀れな娘に朝の挨拶を済ませる。アルフレッドの姿はまだなく、ひとまず安堵の息をついた。己のあずかり知らぬ間に二人が仲違いしたらそれこそ修復しようがない。今は彼らから目を離さないことが肝要だ。
扉がノックされたのはユリシーズがいつもの席に腰を下ろした少し後のことだった。コンコンと響いた音に女帝は一瞬身を硬くする。問題の人物が入ってくるとそれだけでアニークは腰が引けていた。ソファに座り込んだまま女帝は早くも半分顔をうつぶせた。
「おはようございます。アルフレッド・ハートフィールド、参じました」
「おっ、おはよう、アルフレッド」
赤髪の騎士はひとまず普通に言葉を発した。だが表情筋は相変わらずの硬直ぶりで、双眸の刺々しさも抜けていない。善処するとほざいたくせに己の席に座ってからもアルフレッドはウンともスンとも言わなかった。
(こ、こいつ……っ)
やはり平民は平民か。国の大事より己の小事を優先するか。
わなわなとユリシーズは拳を震わせる。こうなれば頼れるものは自分一人だ。独力でこの危機を乗り越えねばと立ち上がった。
「アニーク陛下、今日こそは騎士物語を読みましょう! そうしましょう! 憂鬱から逃避するには非現実に没頭するのが上策です!」
「でもユリシーズ、私……」
「お試しになってやはり気分が滅入ったままなら読むのをやめればいいのですよ! どの騎士も、どの姫も、きっとあなたに力を分けてくださいます!」
強引を承知でアニークに手を差し伸べる。断る気力も湧かないようで女帝はおずおず掌を握り返した。書見台へ移動しつつ、貴様も来いとアルフレッドに目で告げる。平民騎士はのそのそ後をついてきて小椅子の片端に座を占めた。
「…………」
「…………」
重苦しい静寂が垂れ込める。率先して書見台の前に腰を下ろしたため、章を選ぶ役になったユリシーズは「頼むから二人とも何か喋ってくれ」と念じた。
なんなのだこの板挟みは。どうして何もしていない自分が一番気を回さねばならないのだ。
「……ユリシーズ、どの話を朗読するんだ?」
ぼそりと低い声が響いたのはそのときだった。
顔を上げるとアルフレッドが目を逸らす。なんとも居心地悪そうに。
不躾なその態度に物申したい気持ちが湧いたがなんとか堪え、ユリシーズは平民騎士の問いに答えた。
「そ、そうだな。まあサー・トレランティアがユスティティアに稽古をつける話から始めようかと思っているが……。アニーク陛下、いかがでしょう?」
なるべく間を持たせられそうな長い章を探し出して告げる。是非を問われた女帝は「え、ええ」と目を回しながら頷いた。
「それはいいわね。あの、アルフレッドも好きな場面だと思うし……ねっ?」
「…………」
同意を求められた騎士は応じない。ただむっつりと唇を尖らせ、眉間にしわなぞ寄せている。内心殺意を覚えながらユリシーズは必死に喉を震わせた。
「……好きな場面なのか? お前の?」
これには少し間を置いて「ああ、サー・トレランティアの台詞が多い場面は好きだ」と返ってくる。
どうやらこの強情張りはユリシーズを介さない限りアニークと話したくないらしい。否、この場合ユリシーズを通してなら話す気になったと言うべきか。
「……サー・トレランティアの出番が多いといいそうです、アニーク陛下」
「ならそれで行きましょう、ユリシーズ! ……あっ。あの、念のために違う章でなくて大丈夫か聞いてもらえる?」
こそりと声を潜められたが女帝の声は平民騎士の耳にも入っていただろう。しかしあくまでアルフレッドは聞こえなかったふりを貫く。聞こえなかったということにすれば彼は返事をせずに済むのだ。
(なるほど賢い、とでも言うと思ったか!?)
ふざけおってと腹は煮えたが、意思疎通の手段を見つけたアニークは元気を取り戻したようだった。
それでいいのかと全力で突っ込みたい気持ちを抑える。だがようやく手繰り寄せたアリアドネの糸を自ら断ち切ることはできない。心の中で「人を通訳にするんじゃない!」と叫ぶのがユリシーズにできる精いっぱいだった。
「……で、アルフレッド、さっき言った章の朗読でいいのだな?」
「ああ、問題ない」
「問題ないそうです、アニーク陛下……」
「ありがとう、ユリシーズ。じゃあ朗読をお願いするわね……!」
なんなのだ、この板挟みは。私に何をやらせるのだ。
訴えたくとも訴えられる相手はどこにもいなかった。話し相手を交互に替え、全体の会話を成立させる。なんとも奇怪なこの光景がその後も長々続くことになろうとは思いもしないままユリシーズは「何よりも人間を育てるのは忍耐である」と最初の一文を読み上げたのだった。




