第5章 その3
神様はどうして蟲をこんな生き物にしたのだろう。ヘウンバオスはどうして自分を「アニーク」の後釜にしたのだろう。こんなに悲しいことがあるなんて考えてもみなかった。西パトリアに、騎士物語を生んだ地に行きさえすれば、たとえ短い生涯でも幸福でいられると信じたのに。
胸の痛みがどうしても消えてくれない。言葉は心臓に深く突き刺さったまま忘れることさえ許してくれない。
「わ、私だって、好きでこの身体に入っているんじゃないわよぉ……っ。お、皇女だって、殺したのはヘウンバオス様なのに、私が全部、悪いみたいなぁっ……!」
溢れる涙はアニークのハンカチをぐちゃぐちゃに濡らす。堪えようとしても慟哭はやまず、壊れた涙腺の治癒する兆しも見られなかった。
「ま、まあまあ、アルフレッド君も少しすれば落ち着いてくれるわよ。悪い子じゃないし、今は冷静さに欠けているだけだと思うわ」
二人掛けソファに座って泣きじゃくるアニークを宥めようとウァーリが手を伸ばしてくる。カッとなってそれを撥ねのけ、大声で怒鳴り散らした。
「少しすればってどのくらいよ!? 私たち明日死んじゃうかもしれないのに、もしアルフレッドに嫌われたままだったら私……っ、私……っ!」
感情の高ぶりのまま、わっと蠍の膝に泣き伏せる。隣に腰かけたウァーリは優しく頭を撫でてくれたが具体的な解決案は一つも示してくれなかった。
「もういやぁ……! アルフレッドにあんな目で見られるくらいなら、こんな身体捨てちゃいたい……! お願いだから誰かと交代させてよぉ……!」
しくしくと泣きつくも曖昧に返事を濁される。手の足りぬ今、そうほいほい中身の移し替えなどできないというわけだ。アクアレイア行きを渋られ続けたときとまったく同じである。アニークの境遇を哀れがるふりをして、結局彼らは個人的な願いよりもジーアン全体を優先するのだ。
誰も自分の味方ではない。仲間のくせに誰も親身になってくれない。なんて不幸、なんて報われなさだろう。
「そろそろ部屋に戻ったほうがいいんじゃないのか?」
と、そのとき、小椅子の上で片膝を立て、愛用ナイフの研ぎを確かめていたダレエンが言った。こんな状態の自分を追い出すつもりかと憤慨するが、そういう意図ではなかったらしい。客室のドアを見やって狼は続ける。
「今日の朝、アルフレッドがまた来ることになっている。あいつとの揉め事は避けたいんだろう?」
言われて「えっ」とアニークは眉をしかめた。また自分の知らない間に話が進むところだったのか。それで余計に嫌われたら一体どうしてくれるつもりでいたのだと。
「何よそれ。私も立ち会うわ。ウァーリ、構わないわよね?」
蠍の腕を掴んで問うと彼女は「ええ!?」とうろたえた。だが断固拒むほどの理由はなかったようで「お願い……!」と頼み込めば渋々了承してくれる。
「あたしたちは交渉のために防衛隊を呼んだんだから、邪魔しちゃ駄目よ」
「ええ、もちろんじっとしているわ!」
同じ部屋にいさえすれば、話が悪い方向へ転がりかけても事前に止められるかもしれない。昨日より上手く弁解できるかもしれない。
アニークはよし、と今一度己を奮い立たせた。
(そうよ、彼にわかってもらわなくちゃ。『アニーク』じゃなく私自身を認めてもらうのよ。もう一度笑顔を向けてもらうために)
ぎゅっと拳を握りしめる。ノックの音が響いたのは決意が固まりきる寸前のことだった。
「アルフレッド・ハートフィールドとブルーノ・ブルータスです」
衛兵が二人の青年を客室に通し、足早に去っていく。室内を見渡した赤髪の騎士はすぐにこちらに気がついた。ただしその目は一段と冷え込み、侮蔑的な色さえ滲ませていたけれど。
「──」
たちまち勇気は枯れしぼみ、拳も力を失くしてしまう。おはようと、たったひと声かけることさえできなかった。
あ、私、敵なんだ。
彼にとっては仇以外の何者でもないんだ……。
痛いほどの実感は無力な言葉を発させようとしなかった。海よりも深い溝が二人の間にぱっくり口を開いていた。
******
ふうんと客室を一瞥し、ルディアは中央にしつらえられた角テーブルに目を留める。小椅子には上着を脱いで軽装のダレエン。ソファには一部の隙もなく身だしなみを整えたウァーリが腰かけていた。今日は女帝も同席するようで、座席はすべてジーアン人で埋まっている。座れと促されることも、形ばかりの挨拶を求められることもなく、会話は最初から本題に入った。
「詳細はアルフレッド君に聞いてくれたかしら?」
進行役は赤い唇を微笑ませたウァーリが務めるものらしい。「ああ」と答えてルディアは一歩奥へ進む。
「こちらの出した要求を飲んでくれたことも聞いた。まずはその礼を言おう。──だが、アークについて答えるのは最初の取引にはなかった話だな」
きっぱりした態度で告げるとウァーリは小さく眉根を寄せた。怒らせる前にルディアは口元をやわらげる。
「答えたくないとは言っていない。そちらが一つ付け足すのなら我々にも一つ条件を加えさせてほしいだけさ」
「……なるほどね。まあいいわ、言ってみて」
肩をすくめ、彼女は話の続きを催促した。
「ドナのことを教えてくれ」
そう要望したルディアに対し、ウァーリは多少の警戒心を示しつつ「ドナの何が知りたいの? それはなぜ?」と問い返してくる。
「調査済みだとは思うが、我々はいずれドナで下働きに回される記憶喪失患者の語学指導をしている。彼らが実際どのように扱われるのか、ドナがどういう状態なのか、患者たちのために知っておきたい」
説明に嘘はなかった。戦略的な観点からもドナの実情は可能な限り把握しておかねばならなかったが、表向きの理由ならこの程度で十分である。
「……。ラオタオの管轄だから正確なことは言えないけど……」
ウァーリも少しくらいならと譲歩の姿勢を見せてくれた。逡巡の後、彼女は慎重に喋り出す。
「やってもらうのは退役兵の世話でしょうね。あそこはジーアン人が第二の生を満喫するための街だもの」
「ジーアンでは退役兵にいつもそんなに手厚いのか? 帝国自由都市などと、ご大層な自治権まで与えてやったと耳にしたが」
鋭く問うとウァーリはやや顔を歪めた。将の勘でも働いたか、無愛想に眉をしかめて睨んでくる。
「いえ、それは今回が初めてよ」
冷徹な声に怯むことなくルディアは更に問いを重ねた。己の推測の正しさを立証するために。
「ハイランバオスは己の裏切りをきっかけに帝国内でひと悶着起きたはずだと言っていた。つまりドナの退役兵は、天帝から離反した蟲の集団ということで間違いないか?」
入れ知恵があったことを匂わせる。すると彼女は面食らい、いよいよ表情を険しくした。
「離反ではないわ」と凄まれる。適当に誤魔化すのは諦めたらしく、代わりにウァーリは威圧的に豹変した。そんなポーズは端から無視するだけだったが。
「なるほど。だが戦力にはならんわけだ。寿命が近いと知って享楽に逃避した連中、といったところか」
指摘は図星だったようで、大いに相手の機嫌を損ねる。「……っ! もう十分でしょ!」と彼女はかぶりを振り、次は自分たちの番だと身を乗り出した。
「さあ、あなたも話してちょうだい。アークについて知っていること」
ドナに出入りする商人や現地の様子についても聞きたかったのに、ウァーリは勝手に話を打ち切る。そちらはおいおい調べていくしかないようだ。ふうと小さく嘆息し、情報獲得に見切りをつけてルディアは将軍に応じた。
「アークとは蟲を生み出すクリスタルのことだ。それ以上のことは私も聞いていない」
今度は臆面もなく嘘をつく。コナーとアークの関係についてはどんな微小な関わりも漏らすつもりは毛頭なかった。
アレイアのアーク。それがアクアレイアに棲む蟲たちの母体なのだとしたら、天帝やハイランバオスの思惑に関係なくきっと守らなければならない。
「蟲を生み出すクリスタル?」
「詳しくは知らん。とりあえず、一つではなく複数存在するようだな。北辺に『フサルクの入れ替わり蟲』という伝説が残っている。その昔、フサルク島の神殿では方舟に見立てたクリスタルが崇められていたそうだよ」
古パトリア語においては聖櫃だけでなく方舟もアークと言うと教えてやる。するとウァーリは目を瞠り、静かに息を飲み込んだ。
「こういう髪色をした人間はアークの影響下にある場所でしか生まれてこないとも聞いたな」
前髪をいじりもって続ける。何か閃きを得たらしく、彼女はダレエンと目を見合わせた。
「それじゃレンムレン湖にもアークが存在したということ? ひょっとして、ハイランバオスはあたしたちにそれを探せと言いたいのかしら?」
数秒の沈黙の後、ダレエンが「お前たちのアークはどこにある?」と尋ねてくる。首を横に振り、ルディアは「知らん」と端的に答えた。
「ずっとこの国に住んでいるが、そんなクリスタルの話は聞いたこともない」
これは事実だ。レーギア宮でもアンディーン神殿でもアークと思しき宝など一度も見かけたことはなかった。とうの昔に誰かが持ち出したのかもしれない。それこそコナー本人が。
「もういいか? 我々からはこれ以上何も出てこんぞ。あの男、大事なことは結局ほとんど喋らずに消えたからな」
必要ならアイリーンのノートを貸してやろうかと申し出る。無用な親切には触れもせず、ウァーリは「もう一つ聞かせて」と迫った。
「ハイランバオスはなぜあなたたちに仲間にしてくれなんて言ったのかしら? 防衛隊は蟲の存在を知っていたから確かに話は早かったでしょうけど、こんな状況のアクアレイアに帰ると普通思わないでしょ?」
なんらかの確信を持った口ぶりで問いかけられる。平然とした調子は崩さず、ルディアは彼女の疑問に答えた。
「ああ、それは私が脳蟲だからだろう。蟲に備わった本能で、無理をしてでも巣を取り返そうとすると考えたのではないのかな?」
なりゆきを見守っていたアルフレッドがぴくりと指先を震わせる。何を言うのだと諌める目に見つめられたが気づかなかったふりをした。ある程度事実を混ぜねばあちらを納得させられない。カードの出し惜しみはできなかった。
「えっ? あなた蟲だったの?」
と、そのとき、緊迫した室内に無邪気なまでの問いかけが響いた。
尋ねたのはアニークだ。純粋に驚いたという表情で女帝はまじまじこちらを見つめた。
「ご存知ありませんでしたか? アイリーン・ブルータスの弟は幼少期に姉の手で頭に蟲を入れられたと」
ジーアンの上層部なら知っていてもおかしくないのに妙だなと首を傾げる。するとウァーリが割り込んできて「大人しくしなさいって言ったでしょ!」と彼女を叱りつけた。
アニークはしゅんとソファの奥に下がる。追加の質問は誰からも出なさそうだったのでルディアは退出することにした。目的を果たした以上長居は無用だ。難癖をつけられぬうちに敵地を脱してしまいたい。
「話は全部終わったか? では私はこれで失礼させてもらう」
このまま宮殿に残る予定のアルフレッドを置いて踵を返す。
外へ出るドアを開こうとしたときだった。背中を掠めるようにして鋭い刃が飛んできたのは。
「……ッ!?」
ルディアが武器を取るよりも早く、赤髪の騎士が全速力ですっ飛んでくる。片手半剣を構えた彼は広い背中にルディアを庇って「何をする!?」と猛々しい怒号を響かせた。
すぐ側に落ちたナイフをちらりと見やる。どこにも当たりはしなかったが、追撃のないのが不自然だ。
否、おそらく最初から一撃だけのつもりだったのだろう。狼の双眸に映ったアルフレッドの位置取りを見れば将の真意は読み取れた。
「──お前、ルディアだな?」
全身で自分を守ろうとする騎士越しにこちらを睨んでダレエンが問う。違うと否定はできなかった。座したまま動かぬウァーリの落ち着きぶりから察するに、二人は答えを確信しているようだから。
「巷の噂でどうもここの姫君は蟲の宿主だったみたいとは考えていたの。ほら、病人を生き返らせるおまじない。あれって彼女にちなんでたんでしょ?」
ソファで足を組みかえながらウァーリが告げる。ほかにも引っかかることは色々あったと将軍は続けた。
「あなたたちは過去に一度、バオゾに偽の聖預言者を連れ込んで有利な約束を取り付けようと画策している。防衛隊は王女直属部隊だったそうだし、指示を出したのは彼女だろうと思っていたわけ。王女自身が脳蟲だから大胆な奇策を実行に移せたに違いない、とね。──ところがラオタオに献上された姫からは蟲が出てこなかった。おかしいじゃない?」
まだこの国のどこかにルディアはいる。そう見抜かれていたらしい。交渉を重ねればいずれ勘付かれるかもしれないなとは考えていたが、存外に早かった。さすがはジーアン十将である。
「ま、アルフレッドがそれだけ殺気立って守ろうとする相手が主君でないならなんだという話だな」
もう攻撃の意思はないと伝える素振りでダレエンは空っぽの両手を広げた。正直すぎる反応を示したことを悔いるようにアルフレッドが唇を噛む。
「ああ、そうだ。私がルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだ」
改めて名前を告げると将軍たちは黙って見つめ返してきた。アルフレッドに剣を下ろさせ、まっすぐ彼らに向き直る。こうなったなら妙な疑いを抱かせぬように堂々と。
「ハイランバオスが私に近づいたのは私が王女だからだろうな。あいつは天帝からアクアレイアを取り上げたいと言っていた。普通の脳蟲をけしかけるより、私を手伝ったほうがジーアンの脅威になると考えたのだろう。残念ながら私は現実主義だから、王国再興は不可能と断じてお前たちに情報を横流しする道を選んだわけだけれど」
猜疑に満ちた目が向けられる。頭の中を見透かそうとするようにウァーリは問いを投げかけてきた。
「お姫様の肉体はどうしたの?」
「安全な場所に逃がそうとしたが無くなった。だから国を取り返すのは諦めた」
肉体があっても諦めただろうがな、と付け加える。ジーアン帝国に比べればアクアレイアがいかに小さな都市国家かは彼女たちのほうが断然詳しかった。
「……わかったわ。とりあえずあなたが要注意人物だってことは」
権力中枢に近い人間を宿主にした脳蟲ほど巣に対して強い執着を持つ傾向があることはウァーリたちも把握済みらしい。しかしひとまずこの場は解放してもらえそうだった。
「手荒な真似をしてごめんなさい。また話しましょ」
と彼女は退室していい旨を告げる。
「では失敬」
今度こそ墓島へ向かうべくドアを開けた。刃を向けられたことにまだ動じているアルフレッドが「門まで送る」とついてきたのを断って。
「平気だよ。送るなら女帝陛下を部屋までだろう?」
「だが……!」
宮殿内にはジーアン兵がうようよいるんだぞと言いたげに騎士は顔を歪めたが、いらぬ世話だと首を振った。あまり大層に王女扱いしてくれるなと。
「ブルーノ・ブルータスは一人で行けると言っている。わかったな?」
客室にアルフレッドを押し留め、扉を閉める。胡散臭そうに睨んでくる兵の間を擦り抜けてルディアは正門へ歩き出した。レーギア宮を出るまでは決して気を緩めぬように。
******
彼女が部屋を立ち去ると急に空気が塗り替わった。肺の潰れそうな圧迫感は消え、代わりに心臓がざわめきだす。
無言で目を見合わせるダレエンとウァーリの傍らでアニークはごくりと息を飲んだ。──王女ルディア。あんな毅然とした人がアルフレッドのプリンセスなのかと。
(私と全然違う人だったわ……)
ショックを受けている己に気がつき、アニークは胸を押さえる。
賢そうで、強そうだった。十将と対等に話し、腰には剣を差し、一人で平気だと歩いていった。いつも正しいことを言うアルフレッドを駄々っ子のように窘めて。
(私とは全然違う……)
あれがアルフレッドの一番大切にしている人。
言葉にすると途端に息が苦しくなる。全身で彼女を庇った騎士の姿が甦る。
理解などしたくなかった。彼はあの姫のものなのだと。
「アニーク陛下。あたしたち、ちょっとファンスウを探してくるわね」
と、おもむろにウァーリがソファから立ち上がる。ナイフを拾ったダレエンもビロードの上着を羽織って客室から出ようとしていた。
ここは無人になるので寝所へ帰れということらしい。怖々とアルフレッドを見上げるとアニークは「わ、私たちも行きましょうか」と笑顔を作った。
「…………」
さっきまでルディアに見せていたのとは雲泥の差の冷たい横顔が振り返る。赤髪の騎士は一応「ええ」と頷いたが、眼差しはもうこちらへは向かなかった。
弁解の言葉など結局一つも思いつかない。何か言えたところで無駄な足掻きなのだろうとしか思えなかった。
私は彼に憎まれている。私では彼のプリンセスになれない。




