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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第5章 ユリシーズの分別
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第5章 その1

 女が喜ぶものと言えば、花に人形、ドレスに宝石、あとは健気な心尽くしと決まっている。夜遅くまで長引いた会議を抜けられず、結局アニークのもとへ戻れないまま帰宅した翌日、詫びの代わりにユリシーズは普段よりも少々早くレーギア宮を訪れた。

 贈り物でも用意できればなお良かったが、身体一つで急ぎ参じたというのもいじらしい努力には違いない。さてどんな言葉をかけてやるかと策を練りつつ石造りの中庭を行く。

 おや、と目を瞠ったのはいくつかの部屋を過ぎ、控えの間に足を踏み入れたときだった。女帝の警護はいつも同じ衛兵が務めていたのに、見れば顔ぶれが一新している。己の記憶違いでなければ長い曲刀を携えた三名のジーアン兵はファンスウ将軍配下の武装兵であり、こんな宮殿奥にまで立ち入ってきたことは一度もなかったはずだった。


(なんだ? 何かあったのか?)


 怪訝に眉をしかめたところで「誰だ?」と低い声に問われる。眼光鋭く一瞥され、思わずごくりと息を飲んだ。


「ユリシーズ・リリエンソールです。アクアレイアご滞在中、アニーク陛下にお仕えするよう指示されております」


 ジーアン語での問いかけに、この一年で習得した同じ言語で返答する。軽い鎧と遊牧民の装束を着た兵士たちは「ああ、ラオタオ将軍のお気に入りか」と納得顔で頷き合った。

 通っていいということなのか、一番偉そうな高帽の男に顎で寝所を示される。開かれた扉の奥へと進み、ユリシーズはぱちくり瞬きした。──いないのだ。一人のときは書見台にかじりついているのが常のアニークが。


「……陛下? ユリシーズ・リリエンソール、参上いたしましたが」


 きょろりと室内を見回す。すると探していた人物はベッドの脇に並べられた甲冑の陰からこそりと頭を覗かせた。


「な、なんだ。あなただったのね」


 あからさまにホッとした顔で女帝はゆっくり立ち上がる。けれど彼女はなぜかくれんぼなどしていたのか、その理由は話そうとしなかった。

 地味に見えて豪奢なドレスのスカートを摘まみ、こちらへ近づいてくる間も女帝はやけに扉のほうを気にかける。黒い瞳は怯えたように揺れ惑い、彼女に何かあったのは一目瞭然だった。


「どうなさったのです? 衛兵が無礼でも?」

「い、いえ、そういうわけではないのだけど……」


 ならどういうわけなのか、説明を待つユリシーズに女帝はやはり応じない。顔を伏せられ、背を向けられてはあまりしつこく問うこともできなかった。


「…………」


 なけなしの睡眠時間を彼女のために削ったのに、沈黙のまま時計の針だけが進んでいく。衛兵が原因でないとすれば昨日の夫妻か? はたまたもっと別の誰かか。挙動不審の背景を読み取ろうとしてユリシーズは頭をひねった。


「……っ!」


 そうこうするうちに平民騎士も出勤してきたようである。不意打ちで響いたノックにアニークが肩を跳ねさせた。女帝は一瞬ユリシーズの後ろに隠れようとしたが、間に合わずに部屋の中央に踏みとどまる。


「お、おはよう……、アルフレッド……」


 不格好に上体を傾けたまま彼女は騎士を振り返った。及び腰の視線を追ってアルフレッドの顔を見やり、ユリシーズはぎょっとする。不信や不満、敵対的な感情を強く滲ませた双眸に。


「……おはようございます」


 にこりともせず平民騎士はおざなりな挨拶を済ませた。いくら高貴の出ではないにせよ看過しがたい振舞いだ。女帝相手に、首を()ねられたいのかとしか思えない。

 だがアニークはアルフレッドの不敬を許した。どころか「ま、まあ座って」とソファに彼を促してテーブルの菓子を勧めさえする。


(な……なんだこの空気は……?)


 無言で着席した騎士の隣にユリシーズも腰を下ろした。だが待てど暮らせど朗らかな談笑は始まらない。いつも鬱陶しいくらい騎士物語がああでこうでと盛り上がってくれるくせに、今日のアルフレッドはまるで氷の彫像だった。


「あの、外、暑かったんじゃない? 喉が渇いてたら飲んでね?」


 アニークはなんとか騎士の機嫌を取ろうと紅茶の盆を引き寄せる。ちらりと視線を向けた以外、彼の反応は絶無だったが。

 話したくない。顔も見たくない。かたくなに斜め下の絨毯から目を離さないアルフレッドの全身がそう訴えかけていた。気まずさに耐えかねてアニークも次第に口数を減らしていく。


(喧嘩したのか? 昨日私が退出してから)


 どうやら問題は二人の間で起きたらしい。降って湧いた幸運にユリシーズは緩みかけた頬を押さえた。この二週間、待ち望んだ好機が巡ってきたようだ。なんという馬鹿者だ。女帝の寵愛を受けながら自らそれをふいにするとは!


(平民はどこまでも平民というわけだな。宮廷においては手に入れたと思ったものでも呆気なく失うと理解できていなかったらしい)


 一人秘かにほくそ笑み、ユリシーズはアニークの様子を窺った。哀れな娘はしょんぼりと肩を落とし、打つ手を見つけられずにいる。取り入るなら今しかなかった。


「なんだか今日は部屋の中に明るい光が入ってきませんね。いかがでしょう? 日光浴がてら内海の島に花でも愛でに参りませんか?」


 気分転換の散策に誘うとアニークはためらいがちに顔を上げる。針のむしろで一日過ごしたくはあるまい。しばらく待つと狙い通りに彼女は頷き「そうね、そうしようかしら」と呟いた。


「あ、アルフレッドも来てくれる……わよね……?」


 断られたら引き下がりそうな弱々しさで女帝が赤髪の騎士に問う。遠慮がちなアニークに対し「選べる自由なんてないでしょう」と答えたアルフレッドは別人のように冷たかった。


(こ、こいつ怖いもの知らずか……?)


 冷や汗が頬を伝う。一体どんないざこざがあれば半日でこうも険悪になれるのだ。宮中から獄中まで経験してきた己にも皆目見当がつかない。昨日は確かに危うい場面もあったけれど、それとてすぐに解消されたはずなのに。


「で、ではまあ、ゴンドラを用意いたしましょうか」

「え、ええ、お願いね」


 ソファから立ち上がり、ユリシーズは衛兵に昼過ぎまで出かける旨を伝えに行く。昨日までの兵士たちと違い、彼らはなかなか外出許可をくれなかったがアニークが「大丈夫だから」と強く諭すと肩をすくめて道を開けた。


(よし、いいぞ。運は私に向いてきている)


 先導となり、自家用ゴンドラを停めた宮殿脇の小運河へ歩き出す。後は舟に女帝を乗せ、思いきり甘やかしてやるだけだった。


(人間は傷ついたときに優しくしてくれた相手にころっと行くものだからな。待っていろ、貴様の天下も今日限りだ!)


 高笑いを堪えてユリシーズはしんがりのアルフレッドを振り返る。陰鬱な目をした騎士は人形のように黙ってついて来るのみだった。




 ******




 どうしよう。どうしたらいいのだろう。

 ぐるぐると回る思考にふらつきそうになりながらアニークは船室の薄い壁に寄りかかる。心地良い揺れと流れる景色が楽しい舟遊びのはずなのに、今日は到底柔らかなソファで寛ぐ気になれなかった。

 こちらを見ようともしない騎士の気配を斜め前に感じつつゴンドラの小さな窓に覗く世界に目を凝らす。何を見ても心に平穏をもたらしてくれるものなどありはしなかったが。


 ──あなたが本物のアニークじゃないってことも知られちゃったわ。


 舟に乗り込んでからずっと、頭の中では昨晩のウァーリの言葉が響いていた。

 どうしてこんなことになったの。やりきれなくて膝に置いた手を震わせる。ただ好きな人のことをもっとよく知りたかっただけなのに、人質になんてするつもりではなかったのに。

 悔やんでも悔やみきれない。短くとも幸せな生を望んだ結果がこれなんて。 


(アルフレッド、怖い顔してる……)


 彼の怒りはもっともだった。いかに優しい男でも己の首に鎖をかけた相手にまで笑顔でいられるはずがない。ましてや彼は蟲がどんな生き物かも、本物の皇女のことも知っているのだ。騙されたと思い込んでも仕方がなかった。


(言わなくちゃ。私は十将の考えなんて知らなかったって。あなたを陥れようとしたわけじゃないって)


 宮殿外を散策するなら二人きりで話す時間が取れるかもしれない。どうにか弁明したかった。怒りを解いてほしかった。

 このままではつらすぎる。今まで仲良くやってきたのだ。これからも仲良くできるはずである。たとえ祖国が敵同士でも思いさえ通じ合っていれば。


「……か、アニーク陛下!」

「えっ!? あっ、何?」


 と、耳元で名を呼ばれ、心臓を押さえつつ振り返る。見ればゴンドラは杭に舫われ、いつの間にやら桟橋に停泊していた。


「アニーク陛下、乗り降りの際は危険ですから私にお掴まりください」

「あ、ええ、ありがとう」


 考え事をしているうちに目的地に着いていたらしい。恭しく手を差し伸べてきたユリシーズに手を引かれ、アニークはゴンドラにしつらえられた小部屋を出た。途端頭上から燦々と陽光が降りそそぐ。存外な眩しさに思わずぎゅっと目を細めた。


「まあ……。アクアレイアにもこんなところがあったのね」


 青空の下、降り立ったのは全景が一望できるごく小さな島だった。奥には森を模したと思しき低い茂みが連なっており、その少し手前には白や紫、赤色の小さな花々が咲いている。


「ここはどういうところなの?」


 尋ねるとユリシーズは「遊園です。貴族が鴨や海鳥の狩りをするのに使っていた人工島ですよ。あの辺りの花畑は政府所有のハーブ園ですね」と答えた。いつになくにこやかに白銀の騎士はアニークに笑いかけてくる。


「のんびりするにはいい場所でしょう。花束など作ってお楽しみになられてはいかがです?」


 勧めを受けてアニークは今一度ぐるりと島を見渡した。リリエンソール家のゴンドラ漕ぎを除けばここには三人だけらしい。ひとまずファンスウの配下に会話を盗み聞きされる心配はなさそうだ。


「そうね、そんなのも良さそうね」


 意を決し、歩を踏み出す。アルフレッドがゴンドラから降りるのを肩越しに確かめてから。


「セージは蜜蜂の好む花ですので、十分にお気をつけを。お手を痛めないように摘むのは私がやりましょう」


 細く短い小道を進み、花畑に到着するとユリシーズが振り返った。腰の高さまでまっすぐ育ち、一つの茎に小さな花をいくつも咲かせたハーブに軽く手が添えられる。


「ありがとう。花も葉っぱもできるだけ綺麗なのをお願いね」


 申し出に頷くとアニークはそう付け足した。もちろんなるべく手間をかけてもらうためである。


「腕いっぱいになるくらい欲しいわ。摘み終わるまで私はちょっと、その辺をぶらぶらしてくるから」


 告げるや否やそそくさとユリシーズの傍らを退散する。視界の端には花畑の片隅で赤いセージを見つめて佇むアルフレッドが映っていた。

 上手く話ができるだろうか。信頼を取り戻せるだろうか。


(大丈夫、大丈夫よ)


 自分を励ましながら騎士に駆け寄った。大事に着てきたドレスの裾が固い茎や葉に引っかかり、糸がほつれるのも構わず。




 ******




 馴染み深い薬草の群れに身を置いて、小さな丸い葉の強い香りに包まれる。けれど癒しや安らぎは一向にもたらされず、気は滅入る一方だった。セージを庭に植えている者がどうして死ぬことができようか。ことわざになるほどこのハーブは薬効に富むものなのに。

 アルフレッドは小指の爪ほどの可憐な小花のいくつかに目を落とす。脳裏をよぎったのは妹の台詞だった。ピアスと一緒に本当は赤い花を渡すはずだった、という。

 ポケットに右手を入れる。パトリア石を包んだハンカチにそっと指先を触れさせる。

 今もまだ信じられない。あの人がもういないなんて。


「アルフレッド!」


 呼びかけに顔を上げるとアニークがこちらへ駆けてくるところだった。偽の女帝は邪魔な草を無造作に掻き分け、ハーブ園を荒らしながら進んでくる。


「薬草を駄目にするおつもりですか」


 穏やかに諭す気になどなれず、冷めた声で注意した。すると彼女はその場に固まり「ご、ごめんなさい」と即座に反省の意を示す。


「途中までは道を走ってきたんだけど……。そ、そうよね、植物が可哀想よね……」


 しどろもどろに詫びる彼女から目を背け、アルフレッドは嘆息した。本当に思慮深さとは縁遠い君主である。ハーブの価値も需要も一切わかっていないのではなかろうか。ジーアンとアクアレイアの関係や、アクアレイア人の困窮についても。


「あの、私、あなたに謝りたくて」


 アニークは足元の草を踏まないように気をつけながら近づいてきた。


「謝る?」


 何をと突き放す口調で返せば彼女の身体がまた強張る。それでも今度は隣に来るまで歩みを止めはしなかった。大きな黒い瞳を震わせ、アニークは必死の形相で訴える。


「私があなたを罠にかけたって誤解しているんじゃないかと思って……。でも違うの。防衛隊のことも、あなたとウァーリたちのことも、何も知らずに声をかけたの。思い描いていた理想の騎士にそっくりだったから、だから」


 彼女はどうも今回の件に自分は関与していないと言いたいらしい。だがそれくらい、わざわざ言葉にされずともアルフレッドにもわかっていた。

 防衛隊を手にかけるために演技しろと言われたところでアニークには技量が伴わなかっただろう。最初から裏があったなら接触はもっと不自然に行われたはずだ。

 彼女は勘違いをしている。騙されたから自分は怒っているのだと。


「……俺に赤い花を贈ると言ってくださったのを覚えていますか?」

「えっ?」


 突然の問いにアニークは自己弁護の舌を止め、戸惑いながらアルフレッドを見つめ返した。


「いえ……それは私じゃなく『アニーク』が言ったことだと思うわ」


 聞くまでもないことを聞いている。ピアスも花も感謝の品だとモモは言っていたのだから、女帝が知っているわけがない。

 わかっていたが確かめずにはいられなかった。今のアニークは天帝宮で同じ時間をともに過ごした「アニーク姫」とはまったく別の生き物なのだと。


「ごめんなさい、覚えていなくて……」


 あなたにも嘘をついてしまってと女帝はしおらしく頭を下げる。けれど彼女の殊勝さは利己心の裏返しで、たちまち化けの皮が剥がれた。


「でも私、あなたの味方よ。ウァーリたちがどう言おうとあなたを害させたりしない。信じてほしいの。あなたとは笑って一緒にいたいから──」


 拳を振り上げる代わりに足元の土を踏む。自分の楽しみしか頭にない彼女に腹が立って仕方なかった。この期に及んで他人の胸中を慮れない彼女が。


「友人を殺して成り代わっているあなたの前で、どう笑えと仰るんです?」

「……っ」


 怒りまかせに吐き出した言葉はアニークの喉を詰まらせた。たじろぐ彼女にアルフレッドは堰を切って溢れた感情をぶつけてしまう。


「人質として、これからも宮殿には出向きます。ですが今までと同じになんて期待は持たないでもらえますか? 顔を見るだけで苦しいんです。二度と俺に馬鹿げた要求をなさらないでください」


 気持ちの整理が追いつかない。もっと強く、もっと赤裸々な憎しみを露わにしてしまいそうになる。

 バスタードソードを掴もうとして、それが己のものでないのを思い出した。ポケットのハンカチを掴み直し、ピアスごと掌に握り込む。


「……先に舟に戻っています」


 逃げるようにしてアルフレッドはアニークのもとを離れた。でなければ何を言い出すか自分でもわからなかったから。


(どうかしているんじゃないのか? 疑いもせず、二週間も本物だと信じ込むなんて)


 愚かしいにもほどがある。仇に形見の礼をするとは死んだ彼女に合わせる顔がない。せめて自分が一番に彼女の正体に気づかなくてはならなかったのに。


(失敗ばかりだ。大事なとき、いつも俺は)


 ゴンドラは退屈そうな舟漕ぎと仲良く波に揺られていた。桟橋へと引き返すアルフレッドの後を追う者はいなかった。




 ******




 草花の陰に身を屈め、平民騎士が遠ざかるのを見届ける。ユリシーズが花を束ねるセージ畑の入口では取り残されたアニークが呆然と立ち尽くしていた。

 気の毒に、華奢な背中は凍えたように震えている。アルフレッドとの関係は修復できずに終わったらしい。

 ここが狙いどころだな。胸中に呟いてユリシーズは白で揃えたセージを腕に歩き出した。


(女帝の心遣いをわかろうとしないあの男を非難しつつ、私は彼女の優しさに胸打たれたとでも語るのが上策か。誰しも己の支払い分は受け取る権利があると考えるものだからな)


 島にはもう二人きり。船頭は味方だし、邪魔者は船室に引っ込んだ。真摯な素振りで女帝の意見に同調し、いたわり深い言葉をかければチェックメイトだ。今日からは自分がサロンの主人となる。


「アニーク陛下、ご命令通りに花束を──」


 だがしかし、用意した台詞はそこで何もかも吹き飛んだ。

 アニークが泣いていたからだ。黒曜石の瞳から大粒の涙を零して。


「……っ!?」


 驚きのあまり抱えたハーブを取り落とす。空いた手を出したり引っ込めたりしながらユリシーズは女帝に問いかけた。


「あいつですか!? 謝らせますか!?」


 動転しつつ平民騎士の乗り込んだゴンドラを指差す。すると彼女は力なく首を横に振った。


「……っ、いいの、アル……レッドは……、悪くない、から……っ」


 嗚咽まじりの声が絞り出されると同時、滝のごとく涙が溢れる。丸い染みはドレスを水玉模様に変えた。けれどなおしゃくり上げる声は止まらない。


(ま、まずい。これは確実にまずいぞ)


 直感が肝を冷やさせた。こじれ方が尋常でない。本当に、彼らに何があったのだ?


(くそ、昨日が会議の日でさえなかったら)


 軽い口論程度のいざこざではなさそうだ。やらかしたのはどうやらアニークのほうらしいが、だとしても平民騎士の対応は悪手と言わざるを得なかった。


(泣かせるか? 普通女帝をそこまで心理的に追い込むか?)


 信じがたい。よもやまさかこれほどの石頭、これほどの潔癖症だとは。


「あの……差し出がましいようですが、あの男と何があったので?」


 怖々とした問いかけにアニークは泣きじゃくるだけで答えなかった。小舟に戻ったアルフレッドが出てくる気配もまるでなく、さっぱり状況が掴めない。


「あなたのことが心配なのです。どうかお答えいただけませんか?」


 多少粘るも反応は同じだった。仕方なく頬を拭う絹のハンカチだけを彼女に差し出す。


(何をしてくれているのだ、あの馬鹿は……! 女帝の不興を買ったところで百害あって一利なしだろうが……!)


 だんだん腹が立ってきてユリシーズは握った拳を震わせた。貴様は誰のために女帝の部屋に通っている。貴様の主の、ルディアのためではないのかと。


(いかん、いかんぞ。このままでは私まで巻き添えを食うかもしれん)


 今はまだアニークもアルフレッドを擁護しているが、怒りというのはどんな形で暴発するか知れたものではない。それがいつどの方向に噴出するか誰にも保証はできなかった。


(なんとかせねば国益に関わるぞ。どうする私? どう切り抜ける?)


 泣き止まないアニークのつむじを見下ろして途方に暮れる。

 選択の幅は狭かった。そのうえ自分が得をできそうな案は一つも思い浮かばなかった。

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