第4章 その2
夏の日は長い。夜の始まりを告げる鐘が鳴り響いた後もなお未練たらしく影を引く。
宮殿を出て見上げた空はまだ十分明るかった。それでも眩しいほどの日射は昼間に比べてやわらいでおり、胸甲も腕甲も焼かずに済む。
いつも通りアルフレッドは国民広場の東へと向かった。大運河に接する路地には多くの船頭がたむろしており、仕事上がりに呷る安酒の相談をしている。
何十艘ものゴンドラが並んで揺れる桟橋まで来ると緑の潟湖に主君を乗せた小舟を探した。待つというほど待つこともなく、小柄な少女の漕ぐそれは北の波間に現れる。
「おーい」
手を振れば妹からも同じ反応が返された。猫を抱くアイリーン、危なげなく立ち乗りしているルディアにも特に変わった様子はない。いいか悪いかはさておいて、あちらは今日ものんびりとした一日だったようである。
ゴンドラは間もなく空いた木杭に舫われた。舟の浮橋をぴょんぴょん跳ねてモモたちが陸に上がってくる。一人一人に手を貸して、最後にルディアの腕を取った。なるべく何も意識しないようにして。
「すまんな。待たせたか?」
「いや、全然。今日は女帝陛下の面前を下がるのが少し遅くなったから」
答えながらアルフレッドはモモの後ろを歩き出す。早くも任務を終えた気の妹はブルータス姉弟に「夕飯何かなー」などと平和な雑談を持ちかけていた。
アルフレッドが十将の二人とティータイムをともにしたとわかったらモモはどんな顔をするだろう。話の内容よりタルトの味に興味を示すかもしれない。
ルディアの反応はどうだろうか。でかしたぞと彼女は喜んでくれるだろうか。それともまた、お前はものをわかっていないという顔で一瞥されておしまいになるか。
「聞いてほしい。一つ重要な報告がある。詳しいことは店に着いてからにするが……」
意を決し、話を切りだそうとしてアルフレッドは台詞の続きを飲み込んだ。主君に目を向けたそのときに、視界の端の水面に妙に豪奢な装束が映り込んだからだ。
黒ビロードの短いマントとアーモンドグリーンの旅行用ドレス。それはつい先刻まで眼前にしていた組み合わせだった。だが背後を振り返って確認しても二人の姿は見当たらない。連れ立って広場を歩く人々の陰に上手く隠れたものらしい。
アルフレッドはしばし後方の気配に集中した。ホテルはとっくに通りすぎているし、声をかけてこないのも、一定の距離を保とうとするのも怪しすぎる。
「……つけられているみたいだが、どうする?」
耳打ちするとルディアはぴくりと目を吊り上げて「ジーアン兵か?」と声を低めた。違うと小さく首を振る。兵ではなくて将だ、と。
「北パトリアで会った例の二人だよ。今朝また会って、女帝の部屋にも訪ねてきたんだ」
簡略すぎる説明だったが主君は概ね理解してくれたらしい。「なるほどな」と面白そうに彼女は笑った。
前方に視線を戻せばモモとブルータス姉弟が緊張気味に見上げてきている。尾行と聞いて妹などは戦闘モードに切り替わったようだった。
「二人だけか?」
「だと思う。ほかの人間に不審な動きは見られない」
「モモはどうだ?」
「モモも二人だけだと思うよ。なんなら適当な裏道入って確かめる?」
好戦的な発言に主君は「任せる」と返す。モモはルディアがジーアン幹部と対面する機会が欲しいと言っていたのをちゃんと覚えていたようで「挟み撃ちにすれば捕まえやすいんじゃない?」と提案した。
「よし。それでいこう」
「あまり手荒にするなよ」と釘を刺しつつアルフレッドもモモに頷く。問題はどの裏道を使うかだが、広場を抜けてしばらく過ぎ、太鼓橋を二つ渡った妹が最初に曲がった曲がり角で大体の見当はついた。
生まれた頃から暮らす区画だ。トンネルも袋小路も抜け道も全部頭に入っている。夕飯のメニューについてなごやかにお喋りしもってアルフレッドたちは脇の隘路へぞろぞろ進んだ。
大人一人がやっと通れる一本道は両側に家屋が張り出す。追跡者には最後尾を歩くアルフレッドの後ろ姿を確認するのがやっとだろう。少なくとも先頭のモモを視認するのは不可能なはずだった。
薄暗い水路にぶつかるT字路で妹だけが左に折れ、アイリーンとルディアを右に曲がらせる。積み上がった木箱の陰に屈んだ妹が愛用の斧を掴むのを見てアルフレッドも右へ曲がった。
家々と水路の間の細い道はまだ続く。そろそろとした足音には気づいていたが、あえて後ろは振り返らなかった。水上の迷宮に不慣れな追手の退路を断つべくモモが飛び出してくるまでは。
「──ダレエンさんとウァーリさんだよね? モモたちに何かご用?」
妹の声に合わせてアルフレッドはその場でばっと身を翻した。剣の柄に指をかけ、速やかに戦闘態勢に移る。背中のルディアとアイリーンも身構えたのが気配でわかった。
「なんだ、やっぱり見つかっていたか」
顔色一つ変えないでダレエンが肩をすくめる。
「だから尾行向きじゃないって言ったでしょ! ほんっと人の話聞いてないんだから!」
いつもの調子でウァーリも相方に突っ込んだ。
どうやら後をつけてきたのは小手調べだったらしい。多少の焦りも見せない彼らに却ってこちらの緊迫が高まる。
何もしないと言われたのは自分だけだ。恩人だと明確に彼らに線引きされているのは。
「……それで、用件は?」
バスタードソードから手を離さないままアルフレッドは二人に尋ねた。甘味やレースの話ではないだろう。普通の店はもう閉まる時間なのだから。
「あなたたちに聞きたいことがあるのよね」
どこか人目につかないところでお茶でもどう、とウァーリが誘った。否とは言わせぬ強い目で。
「奇遇だな。私もお前たちに話がある」
答えたのはルディアである。不敵な笑みを口の端に刻み、彼女は「是非ともうちへ招待させてくれ」と申し出た。
主君が顎で示す先にはブルータス整髪店の裏口が覗いている。わざわざ敵を陣地に入れるその意味がアルフレッドにはわかりかねたが、ルディアの態度は堂々たるものだった。
(これは姫様の望んだ流れが来ているということなのか?)
判断しきれずに困惑する。アルフレッドやアイリーンがまごついている間に彼女はさっさと歩きだし、くいくいと指でダレエンたちを招いた。
主君の背中を守るため、アルフレッドもさっと駆け出す。煩悶を胸の奥へと追いやりながら。
(姫様はウァーリたちと何を話すつもりなんだろう?)
もどかしさに眉をしかめる。もう少し考えを明かしてくれれば自分も彼女を守りやすくなるのに。ルディアはいつも、肝心なことは教えてくれない。
******
念のためアイリーンとブルーノを屋外の見張りに立たせ、ルディアは空っぽの一階店舗でジーアン十将の二人を迎えた。右隣にはアルフレッド、左隣にはモモがつき、各々の武器を手にして守りを固めてくれている。
だがルディアに話を物騒な方向へ持っていく気は更々なかった。あくまでも行うのは取引だ。そのためにこうして状況が整うのを待ったのだから。
「茶の一つも出さずに申し訳ない」
形だけの謝罪をするとウァーリは「いいわ」とぞんざいに首を振った。話が終わればすぐに去るつもりなのだろう。あるいは危険人物をひと息に葬るか。
「どうぞ、まずはそちらから」
促せば貴婦人もどきが金髪を掻き上げた。小難しい話担当はウァーリのほうと決まっているのかダレエンはやや後ろに腕を組んで立っている。
「どうしてアクアレイアへ帰ってきたの?」
ジーアン軍がいることは知っていたはずでしょう、と女は鋭く問いかけた。もっともな疑問に対し、ルディアはあらかじめ用意していた回答を口にする。
「生まれ故郷の窮状を放ってはおけなかった。それだけさ」
「…………」
ウァーリもダレエンも納得した様子ではない。当たり前だ。防衛隊の冒した危険は酔狂どころの騒ぎではなかった。まともな神経の持ち主ならば帰国など絶対にしない。命を溝に捨てるような愚行は。
「あたしたちに見つかれば殺されるかもしれないのに? 今だってそうしようと思えば簡単なのよ。あたしたちの正体を知っている防衛隊は、ジーアンには邪魔者にしかならないもの」
詰問するウァーリの目はもっと別の理由があるはずだと言っていた。それを無視してルディアは「安心してくれ。蟲の存在を口外する気は微塵もない」とかぶりを振る。
「話があると言ったのも、ただ便宜を図ってもらいたかっただけだ。お互いに監視し合うよりも利用し合ったほうが早く目的を達成できると思ったのでな」
「目的?」
「そう。良かったよ、確実に交渉できそうな相手が来てくれて」
にやりと笑えばウァーリとダレエンは警戒を強めた。「回りくどいのは無しにして」と睨む女にルディアは頷く。
「では単刀直入に聞こう。──ハイランバオスの居所を知っている。こちらと取引する気はあるか?」
問いかけにその場の全員が息を飲んだ。敵国の将軍たちだけでなく、モモもアルフレッドも完全に凍りついている。大方この兄妹は偽預言者との繋がりを知られたら拷問にかけられると考えていたのだろう。そういう可能性もなくはないが、そんなものはやり方次第で潰してしまえる可能性だった。
「もう一度言うぞ。ハイランバオスの情報と引き換えに、我々に便宜を図ってもらいたい。お前たち、あいつを探しているんだろう?」
驚愕しすぎて声を失ったウァーリに再度こちらの要望を述べる。すると彼女は魚のようにぱくぱく唇を震えさせて「な、なんであなたたちがそのことを」と詳細な説明を求めた。
「本人の口から聞いた。あいつがジーアンを裏切ったことも、そのとき天帝とどんなやり取りをしたかもな」
北パトリアで会ったんだ、とルディアは続ける。王国を取り返したいのなら仲間に加えてくれませんかと彼に持ちかけられたことを。
ウァーリとダレエンは絶句しながら聞いていた。同胞の暗躍ぶりに強く拳を握りしめて。
「協力関係になったはいいが、正直あいつは何がしたいのかわからなさすぎる。天帝に試練を与えたかっただの、絶望がなくては完璧な詩は生まれないだの、ひとかけらも理解できん。無軌道な芸術家より利害の一致不一致で動く商人や政治家のほうが信用できる。我々はお前たちのレンムレン湖探しに一切興味も関心もないし、ハイランバオスの協力があればアクアレイアをどうこうできるとも考えていない。ただこの街に暮らす人間が少しでも豊かであるように力を尽くしたいだけだ。──で、詩人と手を結ぶよりお前たちに情報を売るほうが合理的と判断したわけさ」
肩をすくめて「わかってくれたか?」と尋ねるとジーアンの将たちは互いに顔を見合わせた。一瞬不穏な空気が流れ、ダレエンがすっと腰を落とす。彼の構えは明らかに乱戦に備えたものだった。
「馬鹿ね。取引になると思う? そこまで事情を知っているなら捨て置けないし、あいつがどこに隠れているかも今すぐ吐いてもらわなきゃだわ」
一度では話は通じなかったらしい。まあこうなると思ったとルディアは剣を抜きかけたアルフレッドを制止した。
「それはどうかな。逆さに振っても今は何も出てこないぞ。ハイランバオスの居所がわかるのは正確にはこれからだ。連絡待ちの最中なのでな」
「はあ? 連絡待ち?」
「そう、だからお前たちもしばらくはこちらを泳がせておくしかないわけだ。アクアレイアに我々の姿がなければあの男が困るだろう?」
「……なるほど、それがあなたの強く出てきた理由ね。でも表には一人残れば十分じゃない? それならこっちもアルフレッド君を傷つけずに済むしね」
ウァーリが一歩こちらに近づく。今度はモモが斧を振りかざそうとしたのでルディアは腕で控えさせた。
「やめておいたほうがいい。ハイランバオスはジーアン内部に味方を残したとはっきり言っていた。それが誰かまでは知らないが、下手な動きをすれば全部悟られてあっさり逃げられるのがオチだぞ」
第二の造反者の存在を示唆するとウァーリはぴたりと足を止める。まだ誰か千年の絆を台無しにしようとしている馬鹿がいるのかと彼女は目を見開いた。
「裏切り者ですって……!?」
「ああ、だから初めに確実に交渉できそうな相手が来て良かったと言ったんだ。実際にあのエセ預言者と一戦交えたお前たちなら天帝側と言い切れるからな。こんな話を持ちかけて、相手がうっかりハイランバオスの仲間だったら大惨事だろう?」
冷徹な声でルディアは「まだ説明が必要か?」と問う。しばし逡巡した後でウァーリが「いいえ」と半歩下がるとダレエンも構えを解いた。
「……図ってほしい便宜って?」
交渉がほぼ成立したことを物語る問いにルディアは薄く笑みを刻む。
「我々に手出しせず、完全な行動の自由を保障すること。それともう一つ」
要求は遠慮なしに告げた。何がどこまで通るかはわからなかったが、通ったなら儲けものだと。重要なのは持てるカードをできるだけ上手く切ることだ。それがより優れたカードを手に入れることに繋がる。
「経済面でも軍事面でもアクアレイアに今以上の負荷を与えないでくれ」
ルディアの言葉にウァーリは深く考え込んだ。神妙な面持ちで「わからないわね」と呟かれ「何がだ?」と問い返す。
「……便宜というほど便宜って感じがしないわ。どうして軍隊の撤退や関税の引き下げを求めないの?」
そんなことかとルディアはやや拍子抜けした。
「この街のこれからを考えれば当然だろう」
素直にそう答えるが、常勝国の女にはあまりピンと来なかったようだ。
「アクアレイア人は自分の足で立ち上がらなければならない。たとえこの取引で天帝の気まぐれという恩恵を受けられたとして、そんなものはなんの力にもならないまやかしだ。降って湧いた幸運にすがるのではなく、己で己の財産を勝ち得なければ意味がない。だからお前たちは、これ以上アクアレイアに何もしなければそれでいいんだ」
話を受けるか受けないか、ウァーリはなかなか答えなかった。何を悩むことがあるのかしかめ面のままでいる。まだ裏があるのではと疑いたくなる気持ちもわかるが。
「いいだろう。お前の条件飲んでやる」
答えたのは結局ダレエンのほうだった。「ちょっと!」と眉間にしわを寄せるウァーリを振り切り、男はルディアの正面に歩んでくる。
「ハイランバオス以外には知りようのない話もあった。だから一旦信用する。だがいいな? もし嘘をついていたり、逆にこっちを売るような真似をしたら全員殺すぞ。連絡があったのにそれを誤魔化したときも同じくだ」
「わかっている。そのときは煮るなり焼くなり好きにしろ」
勝手に是を告げた男に熟慮を重ねていた女は深々と嘆息した。「言っとくけど案件は持ち帰って相談するからそのまま受けるとは限らないわよ」との断りを入れられて「それも織り込み済みだ」と頷く。
「持ち帰るのはいいが今日の話はあまりぺらぺら喋るんじゃないぞ。なるべく天帝とお前たちの間くらいに留めてくれ」
ルディアの忠告にウァーリは「どこにハイランバオスの手駒が潜んでいるかわからないって言うんでしょ?」と忌々しげに舌打ちした。「そうだ」と返せば彼女はふんと鼻息を荒げる。かつての仲間への憤りが如実に知れる表情で。
「こっちからも一つ条件いいかしら? どう考えてもあなたたちを完全放置はできないわ。監視はつけない。代わりに一人、人質を取らせてちょうだい」
「ほう?」
さっき考え込んでいたのはそれかとルディアはウァーリに目をやった。彼女曰く、預かるのはアルフレッドが適任だろうとのことである。
「今までと変わりなく暮らしてくれて構わないわ。たださっきも言った通り、ちょっとでもおかしなことをしたら女帝の部屋に死体が転がることになるからよく肝に銘じておいて」
その台詞にルディアはぴくりと耳を跳ねさせた。何か不自然な発言を聞いた気がして眉をしかめる。
(アニークの部屋に死体が転がる? アルフレッドが女帝のお気に入りなのを考えれば、あそここそ一番の安全圏ではないのか?)
まさかとルディアは息を飲んだ。考えられる可能性、中でも最も有り得そうな展開に思い至って。
そうだとしたら合点が行く。ヘウンバオスが家畜のごとく扱っていた皇女を妻に娶ったことも、二大帝国が夫婦間の摩擦なくやれていることも。
「……ひょっとしてアニークは、お前たちの仲間なのか?」
ルディアが問うとすぐ横でアルフレッドが瞠目した。「えっ?」という騎士の呟きを掻き消してダレエンが淡白に答える。
「なんだ、そっちは初耳だったのか」
「あらやだ。知ってたからあの子の部屋にアルフレッド君を通わせてたんじゃなかったの?」
これにはウァーリも驚いた様子だった。しかし彼女にとって深刻な失言などではなかったらしく「そうよ、あの子の中身は蟲。あたしたちの大切な同胞よ」とためらいもせず教えてくれる。
「……天帝は最初から入れ替えるつもりで皇女を捕らえていたのだな?」
いつ殺した、と問えば返事はあっさりなされた。
「ノウァパトリアに乗り込む少し前じゃなかったかしら?」
「一昨年の秋頃だろう? 直接関わっていないから知らんが」
どうでも良さそうにウァーリとダレエンが尋ね合う。彼らの中では今更な話なのだ。
「とりあえずあたしたちはレーギア宮に報告へ戻るわ。詳細の決定についてはまた日を改めましょう」
こちらが了承を告げるのも待たず、二人はさっさと店を後にした。おそらくハイランバオスの手の者に勘付かれる前に立ち去りたかったのだろう。彼らも誰が怪しいかくらいは目星がついているのかもしれない。なるべく広範に猜疑を向けてもらうため、あえてラオタオの名は出さなかったが。
「ど、どういうことだ……? アニーク姫が殺された……?」
二人の姿がなくなると店内に騎士の掠れ声が響いた。振り向けば理解が追いつかないという顔でアルフレッドが震えている。
かけてやるべき言葉を見つけられずにルディアは目を伏せた。いつの間にかすっかり暗くなった部屋に重い沈黙が垂れ込める。
「……お前のせいじゃない」
わななく肩を叩いてやるのが精いっぱいだった。「女帝のような立場ある人間に反抗されてはジーアンもやりにくい。遅かれ早かれこうなっていたんだ」と慰めてやるだけで。
(こいつが声をかけたとき、アニークには本当に誰かわからなかったんだな)
アルフレッドは物も言えず、ただ棒立ちになっていた。そうこうするうちに表から見張り役のアイリーンとブルーノが戻ってきて店頭に顔を覗かせる。
「あ、あのー、皆無事よね? 話はどうなったのかしら?」
びくびくと様子を窺うアイリーンのもとへモモが駆け寄り、彼女の服の袖を引いた。斧兵はアルフレッドに見えないように二階へ上がろうと指で示す。
(一人にしてやったほうがいいか)
嘆息し、ルディアも外階段へ向かった。普段ならすぐ追いかけてくる騎士は石像のように動かなかった。
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小さな居間の燭台に明かりを灯し、モモはふうと息をつく。色々聞きすぎてこんがらがりそうだった頭はもっと混乱した兄を目にして少し落ち着いたようだった。
何はともあれ明らかにすべき第一のことを明らかにしようと主君を振り向く。常よりもやや強い語調でモモはルディアに詰め寄った。
「あのさあ姫様、本気でハイランバオスと手を切るつもりなの? レイモンドのこと助けてもらう代わりにお願い聞いたんじゃなかったっけ? アンバーのことだって、まだ助けられてないのに」
確かにあのエセ聖人は義理を果たしたい相手ではない。だが筋を通さないのと仲間を危険に晒すのは嫌だ。返答次第では協力も今日限りだぞと厳しく眉の根を寄せる。
「いや、約束を反故にはしない。今はほかに使えるカードがないからな。当面の安全を確保するのにああ言ったまでだ。ハイランバオスもこの程度の綱渡り、手を叩いて面白がってくれるだろう」
あっけらかんとしたルディアの言にモモは「あ、そう」と脱力した。要するにカーリスでローガンと相対したときと同じでまたもハッタリだったわけだ。まったく政治家という生き物は口から生まれたのかと思う。
「こればかりは仕方あるまい。少なくともジーアンの行動を抑止しておかねば印刷機を取り上げられるかもしれんのだからな」
なるほど彼女は先を見越して敵の牽制に出たらしい。それなら自分も文句はないと悪感情を放り捨てる。
「ほんともう、心臓止まるかと思ったよ。それならそうって言ってくれてたら良かったのにさあ」
「すまないな。万が一にも余計な情報が漏れないように話せなかった」
素直に謝るルディアにモモは小さく肩をすくめた。彼女がだんまりを通したということは、こちらが思う以上に薄い氷の上を渡っていたということだろう。であればもはや責めはすまい。
「ど、どど、どういう事態になっていたの……?」
部屋の隅でモモとルディアのやり取りに耳を傾けていたアイリーンが怖々と尋ねてくる。ブルータス姉弟に顛末を話し始めた主君の声を聞きながら、モモは階下の哀れな兄に思いを馳せた。
(宮廷じゃ仲良くやれてたみたいなのに、女帝陛下が蟲だったとはね)
この頃の兄は本当に踏んだり蹴ったりだ。運気というのは一気に下がるものとは聞くが、あまり不憫で目も当てられない。
(これから毎日つらいだろうなあ)
人質に「行きたくない」など言わせてもらえるとは思えなかった。偽者だとわかってしまったアニークに、馬鹿正直なあの兄はどんな顔をして会いに行くのだろう。
「はあ……」
ついた溜め息は思いのほか深かった。なんの手出しもできないのが歯痒い。全部自分の問題なら半日悩めば終わりそうなものなのに、世界というのはそう上手く回ってくれないようである。
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待っていた二人がアニークのもとへ戻ってきたのはとっぷり日が暮れてからだった。書見台から顔を上げて「随分遅かったじゃない」と厭味をぶつけようとして、入室したのがダレエンとウァーリだけでないのに気づく。
「どうしたの? 十将が三人も集まって」
きょとんとアニークが問いかけると蟲の中でも古株のファンスウが細い口髭を撫でつけた。
「なに、お前さんに話があっての」
淡々と、けれど有無を言わせぬ雰囲気で龍爺は歩を詰めてくる。「すまんな。尾行は失敗した」と狼男に詫びられたのが直後だった。
「ええっ!? し、失敗したって」
ファンスウの前でやめてよとアニークは視線を泳がせる。だが古龍に報告を気にした様子はかけらもなく、何か妙だなと首を傾げた。ひょっとして二人がばらしてしまったのだろうか。アニークが夫以外の男に懸想していること。
(えっ、まさか私、これからお説教される?)
思わず椅子ごと後退すると今度はウァーリに謝罪された。
「ごめんなさいね。天帝からあなたを巻き込むなって命じられてたんだけど」
詫びる言葉にわけがわからず瞬きする。続いて彼女の口から飛び出したのは叱られるよりもっと厳しい言葉だった。
「アルフレッド君の想い人のこと結局一度も聞けなかったし、あなたが本物のアニークじゃないってことも知られちゃったわ」
「なっ……!?」
たちまち頭が真っ白になる。後をつけてと言っただけでどうしてそんなことになるのか、まったくもって話が見えずにアニークはただ動揺した。
「良いかアニーク、これからお前さんにする話は絶対に他言無用じゃぞ」
ジーアンにはまだ裏切り者が隠れていると前置きし、表情険しくファンスウは防衛隊と結ぶ取り決めについて説明を始める。彼らが蟲の存在を知っていることも、招かれた宴で天帝を騙そうとしたことも、アニークは初めて耳にする話ばかりだった。
「アルフレッド・ハートフィールドは今後我々の虜囚となる。衛兵にも監視はさせるがお前さんもしっかり奴を見張ってくれ」
冷たい汗が背中を伝う。ふらついた拍子に書見台に肘がぶつかり、ばさばさと騎士物語が床に落ちた。
(何よそれ……)
美しい挿絵には互いの祖国が敵対関係にあると知った王子と王女が悲劇的に描かれている。そんなものに自分を重ねたくないのに。
(どうしてそうなっちゃうのよ……!)
くらくらと眩暈がする。アニークには息を飲むしかできなかった。




