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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第4章 ルディアの駆け引き
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第4章 その1

 子供の頃から友達はそう多いほうではなかった。どこへ行っても両親の名が知れ渡り、自分自身は好奇の目に晒されながら遠巻きにされるのが常だった。昼を過ぎれば学校からは解放されたが不安や憂鬱から解放される瞬間はなく、同じように浮いていたブルーノと、同じ地区に住んでいるのに学ぶ席すらないレイモンドと知り合うまでは、名前を呼んでくれる子供など誰もいなかったのではと思う。

 まだうっすらと霧の残った朝の街。階段状の橋を渡り、小広場を通り抜け、歩き慣れた道を行く。店主不在で看板の引っ込められた整髪店へ。


「あ、アル兄。おはよー」


 外階段の上部から降ってきた声にアルフレッドは顔を上げた。見れば厨房のある最上階から(トレー)を持った妹が下りてきていて「おはよう、今から朝食か?」と少し大きな声で尋ねる。


「うん、話し込んでたらスープ温めるの遅くなっちゃって。アル兄、ちょっとドア開けといてもらえる?」


 両手の塞がったモモのために急いで階段を駆け上がり、アルフレッドは一応一度ノックしてから二階居住部の扉を開いた。「ありがと!」と通過していった妹に続き、二部屋奥のこじんまりした居間へ進む。


「はーい皆、ご飯だよー」


 食卓にはアイリーンとブルーノとルディアが顔を揃えていた。三人は地図を広げ、この二週間で得た情報を整理していた模様である。余白に書き込まれていたのは主に自分たち兄妹が伯父から聞いた交易関連の数字だった。


「ああ、お前も来ていたのか。おはよう」


 アルフレッドの顔を見上げて主君が言う。座るように促され、食卓の一角に座を占めた。パンとスープが回ってこない代わりにアイリーンから「見る?」と地図を渡される。猫の前足が示す先を一瞥すれば今朝の話題の中心はどこであったのかすぐに窺えた。


「ドナのことが気にかかるのか?」

「まあな。今のところあそこの現状が一番よくわからんからな」


 ちぎったパンを薄いスープに浸しつつルディアがぼやく。彼女曰く、退役兵をねぎらうのは重要だが、首都から遠く離れたドナでひとまとめにそれを行う意図がさっぱり読めないらしい。特需はアクアレイアの生命線とも言えるのに、長く続くものなのか断定できないのも気持ち悪いとの話だ。


「あの街にはそのうち乗り込むことになるかもしれん。一ヶ月後か一年後かは知らないが」

「なるほど。心づもりはしておこう」


 淡々と告げられた不確定な予定に頷く。ドナの話はそれで終わり、その後はパンの固さや大きさや、小麦の値段に話題は移り変わっていった。

 アクアレイアに帰還して約半月、防衛隊は朝夕の決まった時間にブルータス整髪店に集まるのが慣例となっていた。不便な立地の工房島でモリスの世話になるのはやめ、ルディアとブルータス姉弟は今この家に住んでいる。

 護衛役が猫だけではさすがに心許ないのでアルフレッドとモモは日替わりで泊まりに来ているのだ。昨夜の当番だった妹はぺろりと質素な朝食を平らげ、手際良くテーブルを片付け始めた。


「モモたちは今日も療養院で教科書の草稿してると思うけど、アル兄はどう? 女帝陛下と朗読会?」

「ああ、多分そうなる。宮殿を出たらいつも通りにゴンドラ溜まりで待ってるよ」


 空いた食器を重ねる手伝いをしつつ答える。朝に一日の打ち合わせを、夕方に一日の報告をするのもすっかり日常の一場面だった。

 ルディアから特別な指示がない限り集まりは即解散となる。一つ屋根の下で休む夜があるとはいえ、寝所は別だし顔を合わさねばならない時間はごく短い。事務的な関わりだけで済むのが今の己にはありがたかった。いつまでもこんな体たらくではいけないという焦りはあったが。


(もう少しすればきっと落ち着く。慣れて普通にできるはずだ)


 ちらりと主君を振り返る。丸めた地図をベルトの隙間に差し込むルディアはこちらの視線にまるで気づいていない様子だ。彼女の手がポケットのどこにも触れていないのを確かめて、そんな自分に苦く笑う。

 そうじゃないのに。本当に慣れなくてはいけないことは。


(……どうなるんだろうな。レイモンドが戻ってきたら)


 想像は上手くできなかった。何年もずっと一緒の幼馴染なのに。

 ルディアはと言えば食堂に立ち寄ったあの日以来、ルディアらしからぬ表情は一度も見せていなかった。白昼夢に惑わされでもしたのかと思う。君主然としたいつもの彼女と接していると。


「アルフレッド、くれぐれも気をつけて行けよ」


 パン籠を手にモモと厨房へ去ろうとしていたルディアがこちらを振り返る。神妙に頷き、アルフレッドも席を立った。

 宮殿へ向かう自分は皆より少し早めに店を出る。テーブルを拭くアイリーンと毛づくろい中のブルーノに「じゃあ後で」と別れを告げて階段へ向かった。

 くれぐれもと念を押されたのは勤務地の危険さゆえだろう。もしジーアン兵に捕らわれるようなことがあれば躊躇せず己を呼べとルディアには命じられている。

 もちろん最初アルフレッドは断った。騎士に主君を売ることはできないと。だがルディアには何か算段があるようだ。詳しい話はしてくれないが、どうも彼女はラオタオ以外のジーアン幹部と言葉を交わす機会が欲しいと考えているようである。たとえ偽者でも今のラオタオもハイランバオスの味方なのだし、まずは彼と隠密に会うべきではと思うのだけれど。


(進言しても『それはあまりいい手じゃない』と首を振られただけだったな)


 細い階段を下りながらアルフレッドは息をつく。なんでも一人で決められる主君の顔を思い浮かべて。

 彼女はアニークとは違う。自分の頭で考えて、自分で最善を選べる人だ。

 必要なかった。賢くも鋭くもない助言など。


(俺はちゃんとあの人の役に立てているんだろうか……)


 時折不意に怖くなる。己の働きはルディアにとってどれくらい価値あるものなのだろうかと。アニークはほとんど政治に噛んでいないようで、聞きかじる話は他愛のない、毒にも薬にもならぬ類のものばかりだった。天帝がこれからどう動くつもりかとか、東パトリアはどの都市との交易を重要視しているかとか、そんなことは話題にさえ上らなかった。初めにルディアに頼まれた有益な情報の入手はこの先も期待できそうにない。

 ユリシーズの牽制についても微妙なところだ。彼は女帝のお気に入りという立場を利用するのになんのためらいも見せなかった。政治にはノータッチとは言えアニークが実権を持たないわけではない。彼女の要望はあっさり通ることが多いし、私的な買い物にいくら金銭を費やしてもヘウンバオスは本当に何も言わないようだった。そんな彼女の財布の紐をユリシーズが緩めにかかるのは当然である。アニークが食いつくほど経済効果は高まるのだから彼だって真剣だ。どんな大金が動こうと公正な売買なら問題ない。結果的にアルフレッドはユリシーズの行動を黙認する羽目になっていた。

 もしかしたら自分も彼に追随すべきなのかもしれない。だがアルフレッドは己にそんな立ち回りができるとは思えなかった。誰かに媚びるなど騎士のすることではないし、アニークを軽んじるのも嫌だった。主君にとってはそのほうが都合いいのかもしれなくても。


(レイモンドならきっと上手くやるんだろうな)


 我知らず息をつく。気づけば随分歩いていたようでレーギア宮が目と鼻の先だった。以前はこの時間には広場中ごった返していたはずだが近頃の人波は緩やかだ。アクアレイア人はどこで商売しているのかと不思議になるほど外国商人ばかり目立つ。

 危機感は募ったが、それでもアニークを調子良く担ぐなどアルフレッドにはできそうもなかった。騎士の誇りを自ら汚すような真似は。


「──おい」


 と、誰かに肩を掴まれたのはそのときだった。正門へ向かう足を止められ、なんだと怪訝に振り返る。

 立っていたのは黒地に金の刺繍入りの豪奢なケープをひらひらさせた四十路過ぎの男だった。ノウァパトリアでよく見る貴人の服装だ。道に迷った外国人かなと推量しつつアルフレッドは「なんでしょう?」と問いかける。


「久しぶりだな。この間は助かった。改めて礼を言うぞ」

「……は?」


 わけがわからず瞬きする。久しぶりと言われても、ぎこちないパトリア語を操る男は見るのも話すのも初めてだった。吊り目がちな双眸や一つに結われた黒髪にもついぞ見覚えはない。

 しかし男はアルフレッドを知人の誰かと勘違いしたまま肩に置いた手を離さなかった。それどころか「元気そうで何よりだ。剣も今度のはぴったり合っている」と装備の品評まで始める。


「あの、すみません。人違いでは」


 ないですかと続けようとした台詞はそこでぷっつりと途切れた。国民広場に面したホテルの玄関から大柄な女性が飛び出してきたからだ。


「ほんっと馬鹿じゃないの!? いきなり声かけてわかるわけないでしょ!?」


 パトリア人の風貌に流暢なジーアン語。こちらの金髪の貴婦人は忘れられるはずもない。アルフレッドは瞠目し、思わず彼女の偽名を叫んだ。


「ハ、ハニーさん!? ……ということはダーリンさん!?」


 今一度眼前の男に目をやるとダーリンさんことダレエンは子供のように唇を尖らせる。


「一戦交えた者同士通じ合えるものがあると思ったんだ」


 そう主張する連れ合いにハニーさんことウァーリはすっかり呆れた顔で旅用ドレスの肩をすくめた。


「はー、もう。驚かせてごめんなさいね、アルフレッド君。この馬鹿いっつもこの調子で」

「謝るほどのことじゃないよ。二人とも無事に戻ってこられたんだな」


 良かったと呟けばウァーリはうふふと頬を緩めた。ダレエンも口角を上げて「再会祝いに後日また手合わせしよう」と誘ってくる。

 相変わらず気さくなコンビだ。いずれ倒すべき敵であることを失念しそうになるくらい。


「二人はしばらくアクアレイアに?」


 尋ねるとウァーリが「ええ」と頷いた。


「二、三日でいなくなるってことはないと思うわ。いつまでいるかはちょっと決まってないんだけど」


 聞けば二人は龍将軍に呼ばれたそうで今朝着いたばかりらしい。滞在日数やその間の予定は今から宮殿に顔を出して相談するとのことだった。


「そう言えば聞いたわよ。あなたアニーク陛下に仕えてるんですって?」


 突然投げ込まれた問いにぎくっと肩を強張らせる。「あ、ああ。外遊の間だけ」となるべく平静に答えつつアルフレッドはやや身構えた。

 仮にも二人はジーアン十将なのだからこちらの動向を把握していて当然だ。それがこうして接触を図ってきたということは、防衛隊の首根っこを押さえるつもりだと考えるのが妥当である。


(や、やっぱり投獄されるのか?)


 どきどきと弾む胸に手をやった。主君には大人しく捕まれと言われているが心配なものは心配だ。何しろレーギア宮の半地下牢は暗いわ臭いわ満潮時には海水が入ってくるわでろくな環境ではないのだ。

 だがいつまでも彼らが縄をかけてくる気配はなかった。そのうちウァーリがぷっと吹き出し「やあね、何もしないわよ」とこちらの懸念を笑い飛ばす。


「恩人には基本的に親切だから、あたしたち」

「なんだ? 我々がお前の背中を刺すとでも思っていたのか?」


 心外だなと嘆くダレエンにアルフレッドは「いやいやいや」と大慌てで首を振った。茶化すだけ茶化して二人は気にも留めない素振りだったが。


「で、日の高いうちはずっと女帝陛下のところにいるのよね?」

「あ、ああ。たまに宮殿を出る日もあるが、大体いつも夕方頃まで部屋にいるかな」


 アルフレッドの返答にウァーリはふうんと喉を鳴らす。


「だったら後でお茶くらいできるかしら? 立ち話より座ってゆっくりお喋りしたいし、用が済んだらまた会わない?」

「ああ、それは一向に構わないが……」

「きゃあ! やった! そうと決まればこんなところでちんたらしてらんないわ! アルフレッド君、あたしたちもう行くわね。なるべく早くお爺ちゃんのとこ抜けてくるから!」


 言うが早く彼女はダレエンの腕を掴んで走り出した。振り向きざまに「呼び止めちゃってごめんなさい!」と詫びられて、かろうじて「あ、いや」とだけ返事する。

 二人は顔パスで宮殿に入れるらしく、止める間もなく衛兵の守る門の奥へと消えていった。その光景をぽかんと眺め、どうしたものか小さく唸る。


(また会いましょうって、いつどこでだ……?)


 置き去りのアルフレッドに答えてくれる者はいなかった。仕方なく薄灰色の石畳を踏み、自分もレーギア宮へと向かう。

 とりあえず夕刻またここへ戻ってくるとしよう。療養院組のルディアたちと合流するのにまごつかなければいいけれど……。




 ******




 女帝の部屋に来客が訪れたのはじきに三時の鐘も鳴ろうかというおやつどきのことだった。用事がなければ控えの間で待機している衛兵が脚付きソファで菓子を頬張るアニークにぼそぼそと耳打ちし、指示を仰ぐと恭しく引き返していく。

 ユリシーズの隣に座る平民騎士が吹き出したのは直後である。入室してきた二人組を目にするなりルディアの赤き忠犬は盛大に咳き込んだ。


「げほっ、げっほ」


 粉々になったタルトの皮が大理石の角テーブルに舞い落ちる。飲み込もうとした菓子が気管に入ったらしく、無様な空咳はしばし続いた。


「何をやっているんだ貴様は」


 ティーカップを皿に置き、テーブルの汚れをさっと拭き取り、ユリシーズは平民騎士をねめつける。立ち上がって前を見て、アルフレッドがむせた理由を理解した。二人いた来客のうち一人がどう見ても女物のドレスを着た成人男性だったからだ。


(ごつめの貴婦人……ではないな)


 決して悪くない顔に厚化粧を施したその人物は「はあい、ご機嫌いかが?」と甲高い作り声で挨拶した。ひらひら手を振る彼──いや彼女か──の隣では寡黙そうな黒髪の男が片腕を絡められたままになっている。


「ダンご夫妻です! それでは失礼いたします!」


 ぺこりと一礼した衛兵が持ち場に去るのを見送ってユリシーズは再び客人に目をやった。夫妻か、そうか、そうだなとゆっくり状況を噛み砕く。

 まあ時々は聞く話だ。驚くほどのことではない。気を取り直し、ユリシーズはいまだ座ったままでいる平民騎士の肩を小突いた。


「おい、失礼だぞ」

「す、すまん」


 アルフレッドは存外素直に謝罪する。立ち上がった彼の足元にまたパラパラとタルトのカスが落ちたけれど、さすがにそれを拾えとまでは言えなかった。まったくこんな男が自分の同僚とは情けない。宮廷とは本来もっとスマートな所作が求められる場所なのに、これではせいぜい芝居小屋だ。

 が、この場で作法など気にしているのは己一人だけだったようである。「私のところに寄ってくれるなんて珍しいじゃない」と喜色を示すアニークを始め、同性婚の夫妻も特に気分を害した様子はなかった。


「うふふ、まあたまにはね」

「いいものを食っているじゃないか。我々も興じさせてくれ」


 客人は二人とも女帝と気安く会話ができる仲らしい。ノウァパトリア語でのやり取りを耳にしてユリシーズはそつなく己の席を譲った。女帝と向かい合うソファに夫妻が並んで腰かけたので、平民騎士も脇の小椅子に座り直す。


「アルフレッド、ユリシーズ。こちらダレ……えーと、ダレン・ダンとハンナ・ダンよ。ノウァパトリア宮で親しくしていたお友達なの」


 家柄や経歴に一切触れない紹介に察するものがありすぎて、どう返すべきか少し悩む。「ユリシーズ・リリエンソールと申します。どうぞお見知りおきを」と無難に会釈すれば女装妻のほうがにんまり、花でも愛でるかのごとき笑みを浮かべてこちらを見やった。


「んまあ、絵になる男だわねえ」

「なかなか腕が立ちそうだ。いい騎士を従えているな」


 ダレンとかいう夫は夫でユリシーズを品定めした。「アルフレッドくらいには剣の扱いに長けていそうだ」と続いた台詞におや、と小さく目を瞠る。


「もしかして知り合い?」


 ぱちくりと瞬きしたのはアニークもだった。問いかけに赤髪の騎士は「ええ、まあ」と説明しにくそうに口ごもる。結局女帝に答えたのは若い騎士に艶麗な流し目を送るハンナだった。


「北パトリアを旅行中に一晩一緒になったのよ。うふふ、あれは久々に楽しい夜だったわね」


 ハンナの発した甘い声にぴくりとアニークの耳が跳ねる。ただでさえ幼稚な女帝が乏しい平常心を失うさまは手に取るように伝わった。


「そ、そうなの?」


 隠しきれない動揺を滲ませてアニークがアルフレッドに問う。女帝の執心はいよいよ本物になったらしく、黒い瞳には嫉妬の炎がちらついていた。そんな彼女に気づいているのかいないのか、寝ぼけ頭の平民騎士は馬鹿正直にこくりと頷く。


「はい。こちらも三人ほど連れがいたので騒々しい一夜でしたよ」


 同行者がいたと聞いてアニークは露骨にほっとした顔を見せた。だがすぐに油断はできないと気づいてか「わ、若い女の子がいたりした?」と直接的にもほどがある問いを重ねる。


「若い女性ですか? いえ、子供が一人いたくらいですね」


 不思議そうに否定したアルフレッドはどうしてそれを尋ねられたのか少しもわかっていない様子だった。この二週間、延々と見せられ続けた呆れるほどの鈍感さにユリシーズはまたも頬を引きつらせる。

 この男が女帝の好意を無自覚にやり過ごす間に巻き返しを図りたいから鈍いままで結構なのだが、本当に強烈な勘のなさだ。おそらくこれまでも誰かからアプローチを受けた際は同じ調子で流していたに違いない。


「ふうん、そう。若い女の子はいなかったの」


 だったらいいわとアニークは今度こそ安堵した口ぶりで言う。女帝が騎士に熱を上げていることを見抜いたのは、やはりと言うか当人よりも部外者のほうが先だった。


「あらあ? 陛下ったら、随分アルフレッド君をお気に召したのねえ」


 冗談めかした口調とは裏腹にハンナの表情は穏やかでない。ひと言で表せば「怖い夫がいるのに火遊びなんてやめてちょうだいよ」という真っ当な不安の表情だった。

 東パトリア人ならばヘウンバオスとアニークの夫婦円満が長続きするように望むのが当然だろう。なんだかんだ言って両国は互いの国力を強める形で手を取り合うことができたのだから。


「なっ!? ききき、気に入ったって言うか、アルフレッドがすごいんだもの。騎士物語にも詳しいし、彼自身が素晴らしい騎士だし」


 しどろもどろに返す女帝はハンナの青ざめた額が目に入っていないようだ。お褒めにあずかったアルフレッドも「いや、そんな」と恐縮しつつ赤らめた頬を掻いている。


「ほ、ほほほ。でもアニーク陛下のお気持ちもわかるわ。アルフレッド君って側にいるとなんだか胸がときめくのよね。老若男女問わずモテモテだったし、アクアレイアでも周りがほっといてくれないんじゃない?」


 ハンナはこの話題には深く切り込んでおくべきだと断じたらしい。ごくごく自然な流れで彼女は「実はとっくにいい人がいたりして?」と騎士に誘導尋問した。

 お手つきだと示せれば恋心をつぼみのうちに摘み取れると考えたのだろう。だがあいにく彼はハンナの思惑に適切な反応を返せる男ではなかった。


「あまりからかわないでくれ。もてはやされた覚えもないし、恋人だっていやしないよ」


 答えを聞いて色めきだった女帝を見やり、ハンナがうぐっと眉をしかめる。しかし彼女は退かなかった。アニークに浮気を思い留まらせるために更に話を掘り下げる。


「でもでも、好きな子くらいはいるでしょ?」


 その一瞬、酷く奇妙な間が空いた。

 誰の顔を思い出したのか知らないが、アルフレッドはティーカップに伸ばしかけた手を凍りつかせて息を飲む。


「……いや、いない」


 強張った声でなされた否定は彼が嘘をつき慣れていないことを露呈するだけだった。苦い表情を隠すように紅茶を啜り、アルフレッドは沈黙する。

 無言で恋愛談義の続行を拒む男にハンナもそれ以上の質問はできなかった。ただ一連のやり取りをできるだけ穏便に終わらせるべくアルフレッドが選んだのだろう言葉だけが静かに響く。


「騎士たるもの、己の主君がいつも一番であるべきだ。……だからいないよ、そんな相手は」


 垂れ込める重い空気にユリシーズは息を詰めた。なんだこの気まずさは、と救いを求めてテーブルを見回す。

 幸いどんよりしたムードはすぐに払拭された。着席してからずっとタルトを賞味していた男が顔を上げたからだ。


「なるほどな、それがお前の信条か。いいんじゃないか? 在り方が決まっているなら恋人なんぞいなくても」


 それだけ言うとダレンはまた新しいタルトにかぶりつく。赤髪の騎士は少しほっとした顔で息をついた。


「えっ、じゃあ、今は私がアルフレッドの一番ってこと?」


 と、期待に頬を紅潮させたアニークがアルフレッドに問いかける。せっかくやわらいだ雰囲気はここでまた白けたものに塗り替わった。


「いえ、俺が主君と思っているのはルディア姫だけです」


 激昂されないかひやひやする返答だ。刺すような目つきも突き放す口ぶりもこの男には珍しかった。


「あっ……そ、そう」


 問うた女帝がろくに言葉も紡げずにたじろぐ。「アニーク陛下には天下無敵の伴侶様がいるじゃないの」と励ますハンナに迎合し、ユリシーズもアニークを力づけた。


「私でしたらほかのプリンセスはおりませんのに、アニーク陛下」


 サー・セドクティオ風の軽薄さで点数を稼ぎつつアルフレッドにちらと目をやる。思いつめたような双眸にかつての己が見えた気がしてユリシーズは顔を背けた。


(ちっ……)


 なんとなくわかってしまった。この男の好きな女。もはや王女でなくなった彼女のために今でもこうして騎士であろうとするのだから、別の相手ではないだろう。憶測が当たっていたとして己にはなんら関係ないけれど。


「!」


 そのとき突然大鐘楼の鐘が鳴り出し、ユリシーズはびくりと肩を跳ねさせた。見れば古城の形をした壁掛け時計も午後三時を告げており、十人委員会の定例会議が間もなく始まることを知る。


「申し訳ありません。今日はこれでお別れになりそうです」


 立ち上がり、丁重に詫びるとアニークは「行ったらいいわよ。プリンセスはいなくても、あなたには大事な会議があるんだものね」と頬を膨らせた。

 あまり良くない巡り合わせだ。女帝の機嫌が直りきらないこのタイミングで席を立たねばならないとは。


「埋め合わせはのちほど必ずいたします。ダレン殿も、ハンナ殿も、語らいの時間をともにできぬことをお許しください」


 ぺこりとお辞儀し、長いマントを翻してユリシーズは女帝の部屋を退出した。最後にもう一度赤髪の騎士を振り返る。張りつめていた横顔を少しだけ緩め、彼はアニークに何事か話しかけているところだった。

「一番にはできませんが、あなたのことも守りたいとは思っていますよ」とかなんとか言っているのだろう。その証拠にユリシーズが扉を閉めるとほぼ同時、女帝の立てた笑い声が漏れ聞こえた。


(くそ、これ以上差をつけられては堪らんぞ)


 愛想笑いを引っぺがし、小会議室に向かって歩く。ちょうど今から二週間前帰還した防衛隊と睨み合った小会議室に。


「…………」


 脳裏をよぎったルディアの顔にユリシーズはかぶりを振った。

 とっくの昔に終わった恋だ。屍はまだ胸に埋もれたままだとしても。


 ──夫婦になることはできずとも、きっと私を支えてください。


 別れの日に聞かされた台詞まで甦って嫌になる。

 あなたの愛が本物なら、と彼女は言った。これからはただ一人の騎士として尽くしてくれと。

 馬鹿げた願いだ。馬鹿にしている。自分を選んでくれない女に愛など湧きはしないのに。


(一人の騎士として、か)


 叶わぬ恋でもあの男は彼女に仕え続けるのだろうか。女帝からの甘い誘いも断って。


(あんな女、好きでいたって何も報われないのにな)


 自嘲をこめて短く笑う。

 しかしやはり自分には無関係な話だ。……無関係な話だと、このときはそう思っていた。




 ******




「美味い、美味い」とあるだけの菓子を食べ尽くしてもまだのんびりと寛いでいるダレエンたちにアニークはぶすくれた渋面を向ける。早く帰ってくれれば騎士と二人きりになれるのに、気のきかない連中だ。


(一体いつまで居座るつもりなのよ? もう夕方になっちゃうじゃない)


 壁掛け時計が午後六時を回りかけているのを見やって苛々と爪先を揺らす。二人になれたらアルフレッドに聞きたいことがあったのに、このままでは明日に持ち越しになりそうだ。


(本当に好きな人はいないのか確かめたいだけなのに……)


 やれ北パトリアからの帰り道はどうだったの、連れの老人たちは元気かだの、どうでもいいウァーリの問いを右から左に聞き流す。ついた溜め息は小ささの割に重かった。

 ──何か少し変だった。先程のアルフレッドは。いつも優しく笑ってくれる彼とはまるで別人みたいで。

 故人の話などしたせいだろうか。もういない彼のお姫様の。


(ルディアって、確かバオゾに着いたその日に自害したのよね?)


 停泊中の船内で、手当ては間に合わなかったと聞いた。一番が死人なら何も恐れることはない。アルフレッドだって嫌々ここへ通っているのではなさそうだし、自分が次のプリンセスに収まることはそう難しくないはずだ。もし彼に決まった相手がいないのなら。


「あ、すみません。俺もそろそろ部隊のほうへ行かないと」


 と、鳴り響いた晩鐘にアルフレッドが立ち上がった。やはり二人だけで話す時間は持てなかったかとアニークはがっくり肩を落とす。


「やーん、もう帰っちゃうの? アクアレイアの美味しいスイーツとか可愛いレースの買えるお店とか聞きたかったのに」


 引き留めようとするウァーリに赤髪の騎士は苦笑気味に首を振った。「俺にもそんな店わからないよ」と返されて蠍の異名を持つ将は「残念だわ。案内してほしかったな」と肩をすくめる。


「お前それくらい自分で調べたらどうなんだ?」

「うるっさいわねー。こういうのは若い子に連れ歩いてもらうのがいいんじゃない!」

「なんだと? 俺というものがありながらか?」

「どうせあんたもついてくるでしょ!」


 漫才を始めた二人にアルフレッドは楽しげに吹き出した。「わかったよ。次に会ったときのために妹からおすすめの店を聞いておく」と明るい声で約束し、彼は扉へ歩き出す。


「それじゃまた。アニーク陛下も、ごゆっくりお休みください」


 深々と一礼するとアルフレッドは部屋を去った。

 呆気なく閉ざされたドアの向こうに足音が消えるとアニークは勢いソファに身を投げ出す。胸中の不満を丸ごと叩きつけるように。


「もう! もう! 長いわよ! せめてお菓子を食べ終わったら長居しないで引き揚げなさいよ!」

「なんだ? 突然怒り出してどうした?」


 無神経な狼男にそう問われ、またも苛立ちが湧き上がる。蠍は蠍で偉そうに「あなた上手に遊べる子じゃないでしょ? 火傷する前にやめておいたほうが身のためよ」などと諌めてくるし、気に入らない。気に入らなさすぎてどうかしそうだ。


「わかってるってば! ヘウンバオス様に怒られない範囲でやるわよ! 私はあなたたちみたいに長生きしてないんだから、思い通りやらせてよ!」


 声の限りに叫び散らすとウァーリも一応それ以上の苦言は引っ込める。彼女はまだ何か言いたげであったがアニークのほうが拒絶した。


(何よ、何よ、上手に遊べる子じゃないって。遊びのつもりでアルフレッドをどうこうしようとしたことなんて一度もないわよ! それに火傷の一つや二つなんだと言うの? もうじき朽ちる身でそんなもの怖いはずないわ)


 自分はただ彼と一緒にいたいだけだ。間もなく訪れる最後の日まで、一緒に楽しく過ごしたいだけ。火遊びはやめろと叱られてもやめる気はないし、もうやめられる気もしない。だって好きになってしまったのだから。


「……アルフレッドを尾行してきて」


 ぽつりと呟いた命令に「は?」と蠍が声を裏返す。意地も手伝い、アニークはやけくそ半分で渦巻く欲求を口にした。


「気になるんだもの、彼のこと! どんなふうに暮らしているのか、どんな人と親しいのか、本当に誰も好きな人はいないのか──あなたたち私の代わりに見てきてよ!」


 見た目の割に常識人のウァーリが「あなたねえ」と呆れきった溜め息をつく。そんな個人的な理由で貴重な人員を割かないでくれと言うのだろう。

 わかっている。アクアレイアに旅立てる日を待っていたときもそうだった。全体のことを考えて全体のために我慢しろと彼らは真理のように諭す。お利口に従っている間に死はどんどん迫っているのに。


(私だけよ? 生まれてから二年過ぎていない蟲なんて)


 アニークは唇を噛み、ぎゅっと拳を握りしめた。

 恋くらいしたって別にいいではないか。あぶく同然の命なら。


「ふむ、尾行か。面白そうだな。やってやろう」


 二対一だと思っていた戦況が逆転したのはそのときだ。狼男の台詞を聞いてアニークはがばとソファから跳ね起きた。


「ダレエン!?」

「ちょ、あんた何言って」

「ファンスウからも防衛隊の処遇は我々に一任すると言われているし、構わんだろう。今すぐに出れば追いつける。どのみちこんな当たり障りのない再会で終われるはずがないのだからな」


 ソファから腰を上げたダレエンにアニークはおそるおそる「行ってくれるの?」と尋ねた。自分から言い出しておいてなんだが本当に要望を聞き入れてもらえるとは微塵も考えていなかったのだ。


「惚れたんだろう? なら仕方ない」


 狼男はさらりと告げて「行くぞ」と蠍の腕を掴む。


「ちょ、ちょっと、もう!」


 最初に獣に寄生した蟲は何百年と生きても獣のままだそうだ。「言っとくけどよそ者にはこの街一つも尾行向きじゃないわよ!?」とがなり立てるウァーリを引きずって歩き出したダレエンに躊躇は一切見られなかった。

 ぱたんと再び扉が閉まる。あとはドキドキうるさい心臓を宥めながら結果を待つばかりだった。

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