表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第3章 アニークの失敗
175/344

第3章 その2

「まあ、まあ! 素敵じゃない! 二人ともよく似合っているわよ!」


 黒い瞳を輝かせて女帝が掌を合わせる。威厳など放り出してはしゃぐ彼女に隣の男は「光栄なお言葉です」と見え透いた愛想笑いを浮かべた。


「本当にぴったりだわ。まるで双子の剣みたい……」


 陶酔しきった眼差しが己の腰に新たに帯びたバスタードソードにも注がれてアルフレッドはいささか苦笑いする。ユリシーズが献上した剣は──おそらく女帝と同じように騎士物語に傾倒した誰かが作らせたのだろう片手半剣は──柄頭にアネモネの意匠が彫られている以外装飾らしい装飾のない、前時代的な代物だった。

 置物だらけの寝所に立つ白銀の騎士もアルフレッドと揃いの剣を揃いの位置に携えている。だが「鍛冶屋に行ったらちょうど良いのがありましたので」とレーギア宮に剣を持参した張本人にも関わらず、ユリシーズはどこか不服そうだった。

 きっと内心「どうして私が防衛隊の隊長なんぞと装備を合わせねばならんのだ」とか考えているのだろう。己が主君の政敵と同じ武具を持つことに抵抗を感じているように。


(出所と経緯はさておき、バスタードソードを賜ったのはまあ嬉しいな)


 握りを確かめ、重みを確かめ、アルフレッドはうんと頷く。ブラッドリーのくれた剣が戻ってくるまでこの重量の代替品があれば当面困ることはなかろう。感覚を忘れる前に馴染む武器を手にできたのは正直に言ってありがたい。


「感謝いたします、アニーク陛下」


 アルフレッドが跪くと女帝は「いいのよ、そんなの。私があげたかっただけなんだから」と焦った様子で首を振った。


「これからも色々着てもらうつもりなのに、いちいち畏まられたらやりにくくなっちゃうわ」


 続いた台詞に思わず破顔する。天帝宮で過ごした頃と変わらず彼女は素直で、その天真爛漫さに安心した。


「何よ、何を笑っているのよ?」

「いいえ」


 覇気のないアルフレッドを気遣ってか、昨日からアニークはあれこれ明るく声をかけてくれる。おかげで気持ちは多少なりやわらいでいた。

 置いて行かれてむしろ良かったのかもしれない。今の己にはルディアの側で平常心を保つのが難しい。楽しそうなアニークを見ている間は苦悶もどこかへ遠のいた。


「ねえ、そろそろ読み合わせをしてみない?」


 と、アルフレッドたちの立ち姿を堪能しきった女帝が部屋の奥に据えられた書見台を振り返った。角度のついた木の台座には仔牛皮に金の箔押しの豪華本が閉じた状態で置かれている。その前には柔らかなビロードの椅子がちょこんと三つ並べられていた。


「仰せのままに」


 慣れた動きでユリシーズが椅子を引く。アニークが中央の一席に座すと彼はその左隣に腰を下ろした。余った座席とアルフレッドを横目で見やり、白銀の騎士は少々冷淡に尋ねる。


「今日はこの男もで?」

「そうよ、一人ずつ役を決めて朗読するの。ちょっとしたお芝居みたいにね」


 提案するアニークは早くも満面の笑みである。物語に声がつくというだけで彼女は堪らなく幸せらしい。アルフレッドも騎士物語の登場人物に思い馳せることはあるが、彼女の入れ込み具合には勝つのが難しそうだった。アニークと打ち解けるきっかけになったのが『パトリア騎士物語』だったのは、今思えば当然のことだったかもしれない。

 バオゾでの思い出が甦り、アルフレッドは右端の席に腰かけながら微笑した。もしアニークにサー・トレランティアとなじられることがなかったら彼女ともあれきりだっただろう。何が人との縁を繋ぐかわからないものだ。


「ねえアルフレッド、あなた騎士物語の中でどのプリンセスが一番好き?」


 と、そのとき、思いもよらない質問が飛んできてアルフレッドは瞠目した。それは過去にも既になされた問いであり、彼女は答えを知っているはずだったから。


「あ、ええと……。そうですね、俺はプリンセス・オプリガーティオが」

「あら! なら彼女の場面をやりましょうか。ちょうど一昨日の続きだし」


 アニークは返事の歯切れの悪さに気づかずユリシーズにページを捲らせる。


「私がオプリガーティオを、ユリシーズがセドクティオの役をして、地の文はアルフレッドが読めばいい感じじゃない?」


 そう無邪気に役を割り振る彼女に「お忘れになってしまったのですか」とは己も言い出しづらい。


「それにしてもオプリガーティオは大人気ねえ。知っていた? ユリシーズもオプリガーティオが一番好みだって言うのよ。まあ私も結構好きなプリンセスではあるけどね」


 どう答えればいいのかわからずアルフレッドは「はあ」と濁した。どうしてユリシーズの好きなプリンセスは覚えているのに自分のは忘れられてしまったのだろう。なんだか釈然としなかった。

 不満というわけではない。アニークらしくない気がしたのだ。これほどまでに騎士物語が好きなのに、あの熱い語らいを覚えていないなんて。


「ちなみに騎士の中では誰が一番?」


 問いかけに困惑はますます深まった。アルフレッドが「トレランティアです」と答えると女帝は歓喜に飛び上がる。


「本当!? 私もよ! トレランティアって最高の騎士よね! セドクティオも捨てがたいけど一番尊敬するのは彼! 語り尽くせない魅力があるわ!」


 アニークは壁のタペストリーに織られた騎士のどれとどれがトレランティアだと上機嫌で教えてくれる。狐に摘ままれた気分でアルフレッドは女帝の指が示す絵物語に目をやった。


(なんなんだ? 一体どういうことなんだ?)


 ちらとアニークを盗み見る。だが彼女の横顔に不審な点は見当たらなかった。声も仕草も至って平常通りである。


(まさか記憶障害とか?)


 あんまりつらい出来事があると前後の記憶が曖昧になると聞く。もしかして天帝宮でよほど酷い目に遭ったのかと想像すると胸が痛んだ。思い過ごしならいいのだが。


(天帝は人質として皇女をずっと冷遇していたわけだしな……)


 今そこそこの自由を与えられているからと言って過去何もなかった証明にはならない。アニークにも一人で耐えてきたものがあっただろう。記憶が抜けている程度でごちゃごちゃ言って困らせるまいとアルフレッドはかぶりを振った。


「ところで読み合わせはどこからになさいますか? この間はセドクティオの恨み節で止まっていたかと思いますが」


 と、ユリシーズが女帝に問う。横道に逸れていた会話はそこで打ち切られ、アニークの視線は開かれた物語の一節に戻された。


「そうそう、あなたが山場でぶっちぎってくれたところね。その少し前からがいいのではない? セドクティオが帰還して、遠国の王子と王女の駆け落ちが失敗したと報告を始めるあたりから」


 オプリガーティオの「遅かったわね」という台詞で苦しい恋の章が始まる。しかしこの日はそれ以上朗読が進むことはなかった。コンコンとドアがノックされ、御用商人が訪れたとの一報が入ったからだ。


「まあっベンジーが!? 掘り出し物が見つかったのかしら!?」


 すべての予定を後に回して女帝は商人に会うと言う。しばらくしてサロンに入室してきたのは、コットンで肩と胸をこれでもかと膨らませた、出身地方のわかりやすい優男だった。






 また余計な奴が増えたなと胸中で唾を吐く。手を揉みながら現れたカーリス共和都市の青年を見やってユリシーズは顔をしかめた。

 ベンジー・ベイリアル──しばし帰郷して権力基盤を固め直す必要のあったローガンが女帝の膝元に残していったショックリー商会の若き稼ぎ頭である。アニークがノウァパトリアを発つ際にくっついてきて、現在はアクアレイアの市場を荒らしに荒らしまくっている。どうにかして追い出したい外国人の筆頭だった。


「アニーク陛下、ご機嫌いかがでございましょう? 素敵なお部屋でお過ごしですから、ご気分の冴えない日などなさそうですが」

「まあ、素敵な部屋だなんて」


 わかりやすいおべっかにアニークはにこにこと応じる。「私のところで仕立てさせた騎士物語風のドレスもぴったり馴染んでおりますね」との言葉には頬をゆるゆるにして見ていられないほどだった。

 このアニーク気に入りの御用商人の前ではユリシーズなど吹けば飛ぶような存在でしかない。女帝は着せ替え人形よりも人形用の家具や洋服を持ってくる男に重きを置いているのだ。


「私の趣味をいい趣味だと言ってくれるのはあなたくらいよ。タペストリーも甲冑も、こんな素晴らしいのを用意してきた人はほかにいないわ。今日は何が手に入ったの? 早く見せてもらえないかしら」


 わくわくと椅子に座したまま身をくねらせるアニークにベンジーは「どうぞ心ゆくまでご覧ください」と並べた大箱の蓋を恭しく取り外していく。

 女帝は躾のなっていない犬同然に「まあ!」と餌に飛びついた。半身を乗り出し、急いで大箱の前へ駆け、床に膝までついて屈み、はしたないなんてものではない。これが東パトリア帝国を統べる君主なのかと頭が痛くなってくる。ヘウンバオスももう少し奥方を教育してやればいいものを。


「まあ、まあ、なんだかこれトレランティアの装束に似ていない? 色味とか雰囲気が、あんまり上手く言えないけど」


 アニークは興奮しながらベンジーの持ってきた品を確かめる。中身はなんてことのない、昨日アルフレッドが献上したのと似たり寄ったりの古びたマントやサーコートだった。どうせそこらの困窮したアクアレイア人から買い叩いたものだろう。ユリシーズの推測通りベンジーは「こちらはアクアレイアのある館に眠っていた独立戦争時代の装備で」と講釈を垂れ始める。


「保存状態もいいんですよ。多少色褪せてはおりますが、かびてもほつれてもいませんし」

「独立戦争というと、ちょうど騎士物語の時代だったかしら?」

「ええ、そうです。正確にはちょっとずれますが、大体同じ頃ですね。作者は独立戦争のすぐ後に騎士修行を始めているので」

「まあ、そうなの! 詳しいのねえ」

「いえいえ、好きで調べているうちに覚えてしまっただけの話で」

「それでもすごいわ。私なんて作者がどんな人かとか騎士物語がいつの時代の話かなんて一度も考えたことなかったもの!」

「いやあ、ははは。ですがアニーク陛下だって、いつも私などの戯言を熱心にお聞きくださるではないですか」


 アニークが褒めちぎるのをユリシーズは不快な思いで聞き流した。教養ならそれなり以上にあるはずの自分でさえ初めて耳にするようなことをベンジーはぺらぺらと口にする。女帝がそこに魅了されているのはわかっているが、騎士物語に特化した知識などどうすれば獲得できるのかユリシーズには皆目見当もつかなかった。所詮作り事でしかない物語にそこまで情熱を傾けられる意味も不明だし、この話題自体がそもそも己に向いていないのだ。


「ベンジー、あなたが来てくれると本当に嬉しいの。知識が深まると世界ってどんどん広がるのね。あなたのおかげで次はあれが欲しい、これが欲しいって自分で決められるようになってきたのよ。これってとても意義あることだわ」

「おやまあ、なんともったいないお言葉を。でしたらもう少しお喋りをさせていただきましょうか。このサーコート、トレランティアのものと似ている理由が実はちゃあんとあるのですよ」

「まああ!? そうなの!?」


 女帝と御用商人の蜜月は当分終わりそうにない。何が「あなたが来てくれると本当に嬉しい」だとユリシーズは陰でこっそり毒づいた。


(いつも散々セドクティオの物真似なんぞさせておいて、こいつが顔を出すと途端にほったらかしだからな)


 くそ、とベンジーを睨みつける。さっさと帰れと念を送ってもふてぶてしいカーリス人には通じていない様子だった。更にそこにもう一人、余計な真似をする馬鹿が増える。


「あら? アルフレッドもサーコートを見たいの?」


 書見台の傍らから首を伸ばす赤髪の騎士に気づいてアニークが問いかけた。名前を呼ばれた平民騎士は「あ、いえ」と否定しかけて沈黙する。


「……申し訳ありません、アニーク陛下。俺も一緒に拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」


 控えめに願い出たアルフレッドに女帝の頬は見る見るうちに紅潮した。


「も、もちろんいいわよ! 興味あるのね!? ユリシーズとは違うのね!?」


 新たな仲間が加わってアニークは大喜びだ。「昨日はなんだか暗かったから、こういうの好きじゃないのかと思ってたわ」と彼女は頬を綻ばせる。


「ユリシーズとは違うのね、とはどういう意味です? 私も懸命にお仕えしているつもりなのですが?」


 後れを取ってはならないとユリシーズも書見台を離れ、商人の広げた大箱の傍らに近寄った。「またそんな、セドクティオみたいな言い方して」とアニークが口元をにやつかせる。

 こんなことでポイントを稼げるのだから単純な女だ。架空の騎士になりきる羞恥心とは戦わなければならないが。


「ふふっ」


 と、そのとき背後で小さな笑い声がした。ユリシーズにだけ聞き取れる低い声で「必死ですね」と囁かれ、一瞬思考が停止する。


(は?)


 南方訛りのパトリア語は聞き間違いではなかったようだ。振り返ったこちらを見やる男はさも楽しげに歪んだ嘲笑を浮かべていた。


「さあベンジー、サーコートの説明を始めてちょうだい」

「はい、ただいま!」


 水面下の軋轢に気づきもしない愚鈍な女帝にそう乞われて御用商人は笑顔で手を揉む。ユリシーズはわなわな震え、頭の中でベンジーを鞭打ち百回の刑に処した。


(こ、このコットン小太りが……!)


 怒りが噴出しないようにユリシーズは爪痕が残るほどきつく拳を握りしめていなくてはならなかった。屈辱に耐えねば栄光は掴めぬものと決まっているが、忍びがたいものは忍びがたい。いずれ必ず粛清してやると心に誓う。


「このサーコート、濃い緑色をしているでしょう? これ、かなり珍しいことなんですよ。アクアレイアでこういう深緑はまず使われませんので」


 ユリシーズの苛立ちなど気にも留めずに御用商人は命じられた説明を始めた。そのことにまたも苛立つが、女帝の前だと思い直してぐっと堪える。

 成功したければ少ないチャンスをものにしなければならない。くだらぬ男に揺さぶられている場合ではないのだ。


「そう言えばそうね。深緑ってここじゃあんまり見かけない色だわ」


 私のドレスはほとんど同じ色だけど、とアニークが古式ゆかしい衣装の裾を軽く摘まむ。ベンジーは「そうなのです。私がその深緑を選んで仕立てさせたのも意図あってのことだったのです」と得意げに胸を張った。


「どういうこと? この緑に何か秘められた意味があるの?」


 聞き手の高い関心に語り手はご満悦だ。が、余裕たっぷりの彼の態度も今日は長く続かなかった。もう一人いた熱心な聞き手が口を挟み始めたからだ。

「深い緑はマルゴー公国を象徴する色なんです、アニーク陛下。プリンセス・グローリアの住む城はアルタルーペの古城がモデルになっているでしょう? 騎士物語の作者はマルゴー人なので、主人公のユスティティアや彼の師匠格であるトレランティアは濃い緑色のサーコートを着ているんですよ」


 はたと室内の時が止まり、赤髪の騎士に注目が集まる。アルフレッドは視線にまったく気づかぬままで己の見解をまとめた。


「パトリア古王国からの独立を目指し、アレイア公とマルゴー公は共同戦線を張っていました。このサーコートが作られたのはおそらく独立戦争が始まった初期の頃だと思います。後期には兵力が分断されて、別々に戦うことになってしまったので。マルゴー兵の着ていたサーコートを取っておいたということは何か恩義があったんでしょうね。見たところ大切にされてきたようですし」

「ま、まあ、まあまあ……」


 案外語ってくれるじゃないのとアニークが目をぎらつかせる。史実のほうはユリシーズも知識の範囲内だったが、熱っぽく「これはきっと本当に、サー・トレランティアが纏っていたのと同じ形のサーコートだと思います」と骨董品を見つめることはできそうになかった。


「アルフレッド、もしかしてあなたかなり詳しい人? なんだかそんな匂いがするわ」

「えっ、いや俺は」


 騎士の双眸に同志の魂を見取ってか、女帝がずいと隣で膝をつく男に迫る。なんだか潮目が変わってきたぞ。そう感じたのはベンジーも同じだったらしく、御用商人は急に高圧的な態度に転じた。


「ふ、ふん。そちらの赤髪の騎士殿はまあまあお勉強なさっているようです。しかし今述べられた程度のことでいい気になられては困りますよ! パトリア騎士物語愛好者の間では作者がマルゴーの出身だということくらい常識も常識ですからね!」


 ベンジーは牽制のつもりで言ったのだろう。だがあいにく彼は墓穴を掘っただけだった。「ええと……」と切りだしにくそうに口ごもる平民騎士に手厳しい反撃を食らって。


「あの、一つ訂正したいことが。独立戦争のすぐ後に騎士修行を始めたのは、作者ではなくトレランティアのモデルになった騎士のほうかと……」


 御用商人の濃紺の目が点になる。「そ、そんなわけなかろう!」とうろたえるベンジーに対し、諭す側のアルフレッドは冷静だった。


「誓いの様式や鍛錬の内容を精査すればわかります。ユスティティアの受けた指導は確かにマルゴー騎士のそれに寄っていますが、ベースはパトリア古王国のものと見て間違いありません。おそらく作者は幼い頃に公国を離れているんです。ただ師となった人が生粋のマルゴー人だったので、こういう形で混ざり合ったのだろうなと」


 赤髪の騎士は物語中の具体例を三つほど挙げて説明する。その解説はわかりやすく、無理もなく、なるほどと納得させられるものだった。


「そうだったのね……。知らなかったわ……」

「すみません、出しゃばったことを。どうしても気になってしまって」

「いいのよ、いいの! どんどん喋ってほしいくらいよ!」


 感心しきりのアニークにアルフレッドは恐縮しつつ頭を下げた。きらきらと女帝の双眸が輝きを増していく。大箱の前では御用商人が傷ついた名誉を回復しようと躍起になっていた。


「ま、まあ、認識の誤りはあれ、ご覧いただいている品々に問題はありませんから! どうでしょう? お気に召したものはございますか?」


 切り替えの早いベンジーはさっさと己の非を認める。アニークは贔屓の商人を責めることなく「そうね、全部いただくわ」とにこやかに微笑んだ。


「本当にいつも素敵なものをありがとう。三着だし、五百万ウェルスもあれば足りるかしら?」


 女帝の提示にユリシーズはぴくりと眉を引きつらせる。


「ええ、ええ、十分でございます」


 時代遅れのマントとサーコートを丁重に抱え、悪徳商人はいやらしい笑みを浮かべた。

 忌々しい。アニークに金銭感覚がないのをいいことに、いつもいつも大金をせしめおって。本来はアクアレイア人の懐に入る金だと思うとなおのこと腹が立つ。さっさと不況を打開したいのに、潤うのはカーリス人ばかりだ。


「ご、五百万って、そんなに高いはずないでしょう!?」


 驚愕の声が響いたのはそのときだった。女帝の取引にケチをつけるとは豪胆な、とユリシーズは二つ隣の男を仰ぐ。平民騎士は宮廷作法に疎いのか、正面からベンジーを非難した。


「どう値をつけても五万ウェルスが限度なのでは? アニーク陛下、普段からこんな高額で取引なさっているんですか?」

「え、ええと」

「騎士物語と同時代のものという付加価値がありますからねえ。陛下もご納得のうえお買い上げのはずですが、何かいけませんでしたかな?」


 面倒そうに御用商人は切り捨てる。口論を嫌ってアニークも「そうよ、いいのよ」と赤髪の騎士を宥めた。


「別に惜しい額じゃないし、私にとって五百万ウェルスの価値があるのは本当だもの。アルフレッド、大丈夫だから下がっていて」


 一ヶ月前に自分が苦言したときと同じ流れだな、とユリシーズは嘆息する。結局あのときもベンジーの意見が通り、助言は却下されたのだ。

 アニークは他人の考えに染まりやすい。好ましく思っている相手の主張なら余計にだ。だからベンジーのような俗物にもたやすく言いくるめられてしまう。まったくどうしようもない阿呆である。


「ですがアニーク陛下、昨日俺にマントを譲ってくれた伯父は、こんな年代品は二束三文でしか売れないと」


 下がっていろと言われたのにアルフレッドは下がらなかった。それどころかますます顔を険しくしてベンジーに問いただす。


「ただ同然で買い取ったものを高値で売りつけているんじゃなかろうな?」


 騎士に凄まれ、悪徳商人は一瞬身体をビクつかせた。だがすぐに「適正価格で商売しているに決まっているでしょう。私は御用商人ですよ!」と言い返す。


「ならいくらで買ったのか教えてくれ。まずはその緑のサーコートから」

「え、えーと、これはですね……」


 おかしなことに彼は具体的な購入額を口にしなかった。商人ならいつも懐に入れている手帳に一、二週間分の収支くらい記録してあるはずなのに。

 ユリシーズはおろおろしているベンジーと鋭い目つきのアルフレッド、二人を見守る不安げなアニークの顔を見回す。

 もしかして今がベンジーを失脚させる千載一遇の好機なのではなかろうか? そう断じ、今まで閉じていた口を開いた。アルフレッドの援護射撃をしてやるつもりで。


「アクアレイア人がアニーク陛下にこういった品を直接お持ちできればいいのですがね。どうも強欲な御用商人が宮廷から傘下の商人以外を締め出しているようでして」

「えっ!?」


 目論み通り「そんなことをしているのか」という顔でアニークがベンジーを怪訝に見やる。すると御用商人は汗を垂らして弁明した。


「わ、私はセンスのない人間が陛下のもとに大挙して押し寄せないように調整しているだけでございます! 誰も私ほど騎士物語に精通しておりませんし、アニーク陛下の目に適う品か、ただ古いだけのガラクタか区別もつけられないのですから!」


 こう聞いて間抜けな女帝は「確かにそうね」と流されかける。「選別に対するねぎらいとしてお金を払っていると思えばまあ別に……」などと言い出すのでユリシーズはずるりと足を滑らせかけた。

 反対にベンジーはほっと安堵の息をつく。落ち着きを取り戻した御用商人は勝ち誇った顔で平民騎士を振り返った。


「そういうわけです。これ以上難癖をつけるのはおやめいただけますかな? もとより私と陛下の取引にあなたが口を挟む権利などございませんし!」

「ええ、今まで通りで構わないわよ。ベンジーに任せておけば間違いないってわかっているんですもの。多少高くついたって私は全然気にしないわ」


 くそ、と陰で拳を握る。今日こそこのカーリス人に泡を吹かせてやれるかと思ったのに。

 だがまだ勝負は決していないようだった。アルフレッドは「しかし」と強い抗議に出る。女帝にここまで食い下がれる人間は宮廷でもなかなかいないぞと感心するほどだった。


「選別役は彼でなくてもいいはずでしょう。俺に騎士物語を教えてくれた人は正直もっと詳しいですし」

「なんですって!?」


 ガタッとアニークが立ち上がる。先程アルフレッドに惨敗を喫したベンジーは大慌てで「いやいやそんな、私と競える人間なんて!」と首を振った。


「昨日のマントの持ち主がそうです。それにほかにも騎士物語のファンは大勢います。読書会を開いたり、交流会を開いたり、情報交換も盛んですし」


 自分自身も何度かそういう集まりに連れて行ってもらったとアルフレッドは女帝に語る。元値も言えない男などに任せなくとも目利きのできる商人くらい探せば山ほど見つかると。

 そんな集会があったのかとユリシーズは未知の世界に目を瞠る。アニークは甲冑に羽織らせた赤いマントを振り返り「確かにあれは私の感性に突き刺さる献上品だったわね……」と頷いた。

 赤髪の騎士はなお続ける。ひたむきな、良心に訴える真摯な声で。


「こういった品を今まで手放さずにきた人は、きっとあなたと同じようにあの時代の騎士を愛しているんです。彼らにも正当な対価を与えてはくれませんか? 一人の商人だけに過大な対価をお与えになるのではなく」


 アニークは沈黙した。足りない頭でも自分が何を踏みつけているかくらいは理解できたものらしい。もし本当にベンジーが微々たる買い取り額しか払っておらず、故意にレーギア宮からアクアレイア商人を追い払っているとしたら、彼女も物語の愛好家を──己の同志を不当に扱っていることになるのだ。

 なかなか巧い運び方をするじゃないかとユリシーズは赤髪の騎士を見やった。アルフレッドにアニークを操る意図はなく、本当に正義感だけで物申している風だったが、その誠実さがまた女帝の胸に響いているようだ。


「実際にご自身で適正価格をお確かめになってみてはいかがです? 御用商人の数が増えれば語り合う場も増えるかもしれませんし」


 もうひと押しで崩せそうだなとユリシーズはそう言い添えた。思った通り、アニークは「わかったわ……」とうつむきがちに返答する。


「お待ちください!」


 慌てたベンジーは粘ったが「ならこのサーコート、どこの誰から買ったものなのか教えてくれる?」との問いかけに完全に黙り込んだ。


「……とりあえず持ってきてくれた品は全部買い取るわ。悪いけど今日はもう帰ってちょうだい」


 女帝の目にはありありと失望の色が浮かんでいる。諦め悪く居残ろうとする青年の首根っこを引っ掴み、ユリシーズは御用商人を控えの間に突き出した。


「ご機嫌麗しゅう、ベンジー殿。それではまたお会いできる日を心待ちにしております」


 そんな日は二度と来ないと確信を抱きつつ慇懃に別れを述べる。必死だなと笑ってやっても良かったが、同じレベルまで下がってやる必要は感じなかった。

 女帝という上客を失ったベンジーは顔面蒼白で膝をつく。いずれはアニークの寵愛を盾にドナまで進出するつもりだったろうに、気の毒なことだ。

 冷酷に扉を閉ざし、ユリシーズは胸中で高笑いした。痛快な気分でいられたのはそこまでだったが。


「ありがとう、アルフレッド……。私ったら自分のことしか見えていなかったみたいだわ」


 膝をついたまましょんぼりと肩を落としたアニークが呟く。


「知識が増えて視野が広がったって喜んでいたけど全然そんなことなかった。私が気に入るようなものをずっと大事にしてきた人は、私と同じようなものを好きかもなんて、少しも考えたことなかった……」


 今までの己を恥じ、猛省する彼女の姿に直感的にまずいと悟る。アニークは平民騎士の手を取ると心からの感謝を述べた。


「気がつけたのはあなたのおかげよ。本当にありがとう」


 不吉な予感がむくむく膨らむ。せっかく蠅を追い払っても番犬役が交代したのでは意味がない。女帝の第一の騎士は己でなければ。


(しまった。うっかり目立たせすぎたか)


 ユリシーズはちっとアルフレッドを睨む。赤髪の騎士は握られた手に戸惑いながらも「いえ、別に、たいしたことは言っていないです」と謙遜した。その声に少なからぬ満足感を滲ませて。




 ******




 叱られたからこんなにどきどきしているのかしら。

 まだ心臓が早鐘を打っている。彼から手を離せずにいる。


(あんなにはっきり主君に物を言えるだなんて、本当にサー・トレランティアみたい)


 そう考えてアニークはすぐに違うと首を振った。トレランティアよりずっと素敵な騎士だからこんなにどきどきしてしまうのだ。決して似ているからではない。


(いえ、それも違う。多分私、彼に似ているからトレランティアを好きだったのよ)


 その考えはすとんとアニークの腑に落ちた。

 蟲は最初に寄生した宿主の心を核に人格を形成する。同じヘウンバオスから分裂し、共通する記憶を有する仲間でも性格がばらばらなのはそのためだ。

「アニーク」はきっとアルフレッドを好きだった。片方しかないピアスを特別に感じたのも、騎士物語に夢中だったのも、自分の中に残った「アニーク」がそうさせたのに違いない。


(ああ、私、この人を探しにここまで来たんだわ)


 ぐらぐらと揺れる頭で手を離さなくちゃと考えた。無礼になるから彼からはほどけないのにいつまでもこうしていたらおかしいと。

 ありったけの力を込めて腕を下ろす。それでも視線は逸らせなかった。まだ少し、あともう少し、側で見つめ合っていたくて。


(こんな気持ち、ヘウンバオス様にも抱いたことない)


 ぎゅっと閉じた瞼の裏に夫の顔を思い浮かべる。大っぴらにさえしなければヘウンバオスはおそらく咎めないだろう。あの人はアニークの短い生に同情的だし、きっと最後まで好きなことだけやらせてくれる。


「アクアレイア人にも手を差し伸べてくださいとは言いましたが、これまでのような高額を出す必要はありませんから。アニーク陛下が相応しいと思う値をつけてくださいね」


 アルフレッドはアニークが恥じ入るあまり震えていると勘違いしたらしい。遠慮がちにかけてくる声は柔らかく温かかった。それが耳に心地良くて、つい脳髄をとろかせたまま間抜けな返事をしてしまう。


「ううん、平気よ。ちょっとくらい浪費したって。天帝陛下は私には、とても寛大でいらっしゃるから……」


 騎士物語を愛する仲間にならいくらでも払っていいとアニークは微笑んだ。けれどなぜなのかアルフレッドは「え?」と眉間にしわを寄せる。まるで有り得ない聞き間違いでもしたかのように。


(あら? わ、私また何か変なこと言ったかしら?)


 騎士の渋面にアニークは動揺した。考えても考えてもアルフレッドの表情が何を意味しているのかわからず、おろおろとうろたえる。


「……アニーク陛下。あなたが自由気ままに使うその金も、どこでどうやって集められたものなのか一度お考えくださいますか?」


 諭されてようやくアニークは自分の発言の愚かさに気がついた。サーコートやマントが誰のもとから持ち込まれるのか先程学んだばかりなのに、想像力がなさすぎではと自己嫌悪する。この世に突然降って湧いたものなどないのだ。先日手に入れたバスタードソードが彼の持ち物だったように。


「ご、ごめんなさい。そうよね。私のお金は国のお金なのよね」


 真っ青になって詫びると騎士はすぐ厳しい顔をやわらげた。「いいんですよ、少しずつで」と励まされ、余計に自分が情けなくなる。


「変えようとしたってなかなか変えられないものはあるでしょう。思考だって訓練です。考えるようにしてみようと意識するところからじゃないですか」


 声はどこまでも穏やかだ。アルフレッドは別に怒ったわけではないらしい。そうとわかってほっとする。

 これからは「どうせもうすぐ死ぬのだし、自分さえ楽しければそれでいい」なんて考えはやめにしよう。多分彼はそんな意識の女は嫌いだ。


「本当にごめんなさい。私ももう少し、趣味にばかり没頭しないで皇帝として成長できるように努力するわ」


 縮こまりながらアニークは生活改善を宣言した。そんな己にアルフレッドはとても優しく頷いてくれる。

 胸の高鳴りは激しくなる一方だ。

 滑り落ちた恋という名の大穴は奈落の底よりも深かった。




 ******




 一体どういうことだろう、天帝がアニークに寛大とは。

 がっくりと肩を落とす女帝にフォローを入れつつアルフレッドは思案する。虐げられているよりいいが、状況が不可解すぎて飲み込めない。ヘウンバオスはアニークを見下していたし、アニークだってヘウンバオスを嫌っていたのに。どうして二人は和解するに至ったのだ?


(結婚して身内になったからなのか? だがそれでも、アニーク姫があの男に甘えたり頼ったりするなんて……)


 先刻の彼女は天帝との確執など綺麗に忘れてしまったようだった。考えれば考えるほど謎は深まり、混乱する。こうして目の前にいるアニークは天帝宮で過ごした彼女と変わりなく見えるのに。


「やっぱり今日は読み合わせはなしにして、街に出てみようかしら。考えたら私まだアクアレイアを全然視察していないのよね」


 女帝はちらと書見台に目をやると誘惑を振りきって顔を背けた。反省は本物らしく、アニークはサーコートの放り込まれた箱さえも見ないようにして通り過ぎる。


「うん、うん、そうするわ。私だってプリンセス・オプリガーティオくらいの才女を目指さなきゃ! アルフレッド、ユリシーズ、あなたたちもついてきて街を案内してくれる?」


 目標が定まって女帝はやる気になったらしい。すぐに控えの間の兵が呼ばれ、舟の準備が命じられた。


「外出なさるなら我が家のゴンドラをつけさせましょう。船室もありますし、安全で快適です」


 すかさず申し出たユリシーズにアニークは「ありがとう」と屈託ない笑みを向けた。朗らかで明るい、誰でも心を開きたくなるような笑みだ。

 そんな彼女を見ていたらなんとなく毒気が抜ける。夫との仲を詮索するなど下世話だったなと息をつき、アルフレッドは疑念を頭から追いやった。


「アルフレッド、これからも私にいろいろと教えてね。騎士物語と関係のない話でも、私一生懸命聞くから」

「光栄です、アニーク陛下」


 アニークといると気持ちが楽だ。彼女はこちらの言葉を重んじ、素直な心で聞いてくれる。失いかけていた自信を取り戻させてくれる。

 己の存在にも価値が──、何か価値があるのだと。




 時折ふと違和感がもたげることはあったものの、レーギア宮での新たな日々は何事もなく過ぎていった。御用商人はあれ以来取り次いでもらえなくなったらしく、代わりにちらほらアクアレイア商人が訪れる。中でも伯父の紹介してくれた貴族はベンジー以上にアニークの気に入りとなったようだ。

 羨むことも、嘆くことも、打ちのめされることもない、平穏な日々だった。とりあえず二週間だけは。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ