第3章 その1
浅く広い緑の湾を横切ってゴンドラの群れが行く。まだ少しぎこちなく舟を漕ぐのはジーアンから連れてきた蟲兵だ。同乗するのも仲間だけ。手には各々虫眼鏡を握り、今朝は十二艘の舟で墓島近辺の海域を探っている。
海と言ってもアクアレイアを取り巻くそれはさほど高い波を立てない。国の境界をなす砂洲が防波堤の役目を担い、内海を穏やかに保つのだ。川から流れ込む淡水と外海の潮水が入り混じるこの湾を潟湖と呼ぶのはまこと理に適う。アクアレイアはまさに巨大な塩沢で、遠き故郷レンムレン湖を彷彿とさせた。
(ここに棲むのが同じ蟲なら我らの旅も終わりを迎えられたのにな)
ファンスウは絵画の龍に描かれるような細い口髭に手を添えながら嘆息する。調査を開始して約一ヶ月、成果はあまりに少なかった。五十人も投入して確認できたのはアクアレイア湾内ならどこにでも蟲がいるわけではないということくらいだ。アークの手がかりはいまだゼロ。無能の仕事も同然だった。
それでも地図には詳細に観察の結果と己の見解を書き込んだ。そのうち何か閃きが降りてくるのを期待して。
「ファンスウ様、ご覧ください。この付近は大量にいるみたいです」
と、同じ小舟に乗り込んだ同胞の一人がファンスウに呼びかけてくる。彼は手桶にすくった海水をこちらによこして「今までで一番多いのでは?」と興奮気味に付け足した。
「……一、二、三……確かに多いな」
虫眼鏡を通して手桶を覗き込み、ファンスウは同胞に頷く。潮流の関係か、アクアレイアには〝蟲溜まり〟とでも呼ぶべき脳蟲の大生息地がいくつか存在するようだった。ほかのゴンドラからも「います、います」と報告が相次ぎ、どうやら墓島一帯は脳蟲たちの楽園らしいと判明する。
だがやはりわかるのはそこまでだった。脳蟲とアークにどういう関係があるのかは相変わらずさっぱりだ。
(推測の材料がなさすぎる)
脳蟲発見の×印をつけた地図を睨んでファンスウはせめて考察を深めようとした。蟲溜まりは今のところ外海寄りの島にのみ見られ、陸沿いの島では一つも見つかっていない。
(塩の濃さか? こうもはっきり生息数が分かれるのは)
×印は圧倒的に本島の東、つまり海門から潮水が侵入してくる方面に偏っていた。だがそれにもばらつきはあり、断定はしきれない。
脳蟲自身が喋ってくれればいいのだがなと背後の島を振り返る。
申し訳程度の灌木が生える低い島には無数の墓標と小さな聖堂、高いレンガ壁に囲まれた隔離施設が窺えた。あそこの収容患者はすべて蟲の宿主だ。彼らがアークとは何か知ってさえいれば調査も捗ったのだけれど。
(いや、問いかけられる相手ならいるか)
療養院で新たな任務に就いているという防衛隊、彼らの連れたアイリーンを思い出し、ファンスウは腕を組み直した。存外大胆な連中だ。国から逃げたと聞いたときは二度と帰ってこないだろうと思ったのに。
(一体何を考えている? 危険を冒してなぜ戻った?)
彼らはこちらの正体を知っているはずだ。窮地に陥ったダレエンとウァーリを救い、あなたたちはジーアン人かと尋ねたのは防衛隊の隊長だと聞いている。こう堂々と帰還したからには何か思惑があるのだろう。帰国後すぐに記憶喪失患者の世話を始めたことも引っかかる。彼らに問えばあるいはこの難問を解く糸口を掴めるのかもしれないが──。
「どしたの龍爺? 難しい顔しちゃってさ」
不意に間近で響いた声にファンスウはハッと目を上げた。見れば一艘の小舟がすぐ横につけていて、座した狐が案じるようにこちらを覗き込んでいる。
「別に難しい顔などしておらん。お前さんがいつもたるんどるだけじゃろう」
「ええーっ!? その言い方酷くない!?」
「うるさいのう。お喋りなぞしとらんで目と手を動かせ、怠け者め」
嘆息と小言でかわしてファンスウは兵にゴンドラを進めさせた。ラオタオは聡い男だ。下手な受け答えをして頭の中を悟られたくない。
ヘウンバオスやほかの仲間はどうか知らないが、ファンスウは彼をまったく信用していなかった。証拠はなくともハイランバオスと繋がっている可能性は十二分にある。そんな男に相談事などできるはずがない。
だから昨日のうちに書簡を出しておいたのだ。バオゾの天帝に一通と、もう一通はパトリア古王国で探索中の狼と蠍に宛てて。
(防衛隊に接触する必要は間違いなくある。だがそれはこやつのいないところでやりたい)
捕縛も尋問もラオタオには任せたくなかった。狐が監視の目を盗んで悪さを企む気がしたからだ。昨日彼がアイリーンを見つけたときも、何もせず帰してやるように促したのはそういう理由からである。
それに一応防衛隊は身内の命の恩人だった。ダレエンとウァーリ抜きで縄をかけるわけにいかない。
(挙動次第では急いで捕らえねばと思っていたが、どうも逃げる気はなさそうだしの)
ファンスウは再び療養院の立つ扁平な島に目をやった。桟橋に舫われた舟はおそらく防衛隊のものだろう。昨日の今日で普通に出勤しているところを見ると隠れる気さえないのが知れる。
(少々不気味ですらあるな。肝の据わった者がまとめる組織らしい)
自然な素振りでファンスウは視線を片手の地図に戻した。兵に移動の指示を出しつつ頭の隅で別の思考を巡らせる。防衛隊の目的は何か。彼らはこちらにどんな形で害をもたらすことができるか。
ラオタオは論外としても、ほかの蟲とも問題を共有できないのが痛かった。ウェイシャンは出来が悪すぎて聖預言者のふりと狐の監視に手いっぱいだし、女帝も頭が足りなさすぎる。そもそもアニークに関しては天帝から彼女の好きにさせてやれ、つまらぬ些事で煩わせるなと厳命を受けていた。蟲兵も完全にこちらの味方だという保証はない。程度の差はあれ皆ドナの退役兵と同じような、くさくさとした不満を秘して働いているのだ。
(今は従順に見える者も、ずっとそれが続くとは限らん)
裏切りの余波はファンスウの心にも甚大な悪影響を及ぼしていた。不信とはまったく嫌な根を張るものだ。わずかでも疑う気持ちが生じればたやすく口を閉ざさせる。
(焦って動くことはすまい。それこそ奴の思うつぼよ)
奔放で過激な詩人。天帝の片割れはどこで何をしているのやら。
「…………」
重い嘆息をファンスウは喉奥に飲み込んだ。墓島から遠ざかると「いました」という兵の声は減っていく。海の色はさっきと同じに見えるのに、何が違っているのだろう。
(……いつから何が変わっていたのだろうな、我々も)
緑の潟湖をゴンドラが渡る。幾千の白い波頭が輝きながら砕けていく。
******
ジーアン兵を乗せた舟は墓島に上陸しないらしかった。彼らが場所を変えるのを見てルディアはなんだと拍子抜けする。昨夜も何もなかったし、今日こそしょっぴかれるだろうと待ち構えていたのだが。
(案外相手にされていないな。それともよほど忙しいのか?)
療養院の屋上に干されたシーツの隙間からゴンドラの群れを眺める。王国湾を行くジーアン人たちは何やら熱心に水底をさらっては虫眼鏡で観察していた。脳蟲について知りたいのならこちらに聞けばいいものを。
(まあいい。捨て置いてくれるならそれはそれで一向に困らん)
モリスに借りた望遠鏡を下ろしてルディアはくるりと踵を返す。螺旋階段をずんずん下ると西棟の一階を占める談話室の扉を開けた。
「あ、おかえりー」
「裏庭の様子はどうだったかしら? ブルーノは大丈夫そうだった?」
広々とした一室には昨日と同じくモモとアイリーンしかいない。患者たちはシルヴィアに囲われて相変わらず東棟にこもっていた。
二人の座るテーブルにルディアも腰を落ち着ける。元々は患者に応急処置を施す部屋であったためか、椅子や机は染み込んだ消毒液の臭いがして鼻の奥がツンとした。
「いや、裏庭はよく見えなかった。意外に垣根が茂っていてな」
「なーんだ、じゃあ上り損じゃん」
「そうでもないぞ。もう行ってしまったが、先程まで近くの海をジーアン兵がうろうろしていた。どうも水質を調べている様子だったな」
「ええっ!?」
モモとアイリーンが同時に声を引っ繰り返す。窓の外を警戒して斧を掴んだ果敢な少女にルディアはくつくつ笑いながら呼びかけた。
「身構えずとも平気だよ。行ってしまったと言ったろう」
「で、でもさー」
「こちらにやって来る気配はなかった。いいから作業を再開しよう。どこまで進んだ? 見せてくれ」
座り直すように顎で示すと斧兵は渋々椅子に腰かける。アイリーンが机上の亜麻紙を回してこちらに見やすくしてくれた。インク壺に立てかけられたペンを取り、余分な黒い雫を落としてルディアは下書きと向かい合う。
「うん、この図表はわかりやすいな。絵も上手いしこれで行くか」
「ほほ、本当? 上手いだなんて嬉しいわ」
スケッチの出来を褒めるとアイリーンが青白い頬を朱に染める。生物の特徴を捉えるのが得意な彼女は思った通りなんでもそこそこ描けるらしい。図中の薬瓶や診療台、カーテンやドアは白黒画ながらどれも何を示すものか一目見て識別できた。
「馬とか羊とか天幕とか、見慣れたものならお手本なしでも描けると思うわ。多分だけど」
「よし、じゃあ絵の入るものは全面的にお前に任せるぞ。私とモモは発音表と文法の基本事項をまとめるとしよう」
「はーい、モモ発音表のほう頑張るねー」
テーブル端の紙束から一枚ずつ亜麻紙を引き抜いて各自作業に取りかかる。ルディアたちは患者と隔絶されている間、ジーアン語の教科書を作って過ごすことに決めていた。嫌がられても煙たがられても指導はせねばならないのだ。後で困らないようにできるだけの準備は整えておきたかった。
(イラスト付きの頻出語句に発音表、ほかに何があれば便利だとレイモンドは言っていたかな)
コーストフォートで雑談がてら聞いた話を思い返す。存外有益な発言をするのである、あの男は。何度もそれに助けられてきた。遠く離れた今でさえ。
「…………」
油断していると会話の内容ではなくて彼の声や表情が甦り、ペンを持つ手がしばし止まる。見咎められないように息をつき、かぶりを振った。不要な感情を持つのではないと。
(今考えるべきは患者の態度をどう軟化させるかだ。話を聞く気にさせんことには教科書など糞の役にも立たないし、何より彼らのためにならない)
東棟では昨日に引き続き反吐の出る洗脳教育が行われていた。シルヴィアは授業と称してリリエンソール家の正義を説き、未来のために帝国自由都市化を目指すのがいかに重要か弁舌を振るっているのである。
窓の外からこっそりと参観したルディアたちは怒りを通り越して呆れたが、制止や抑止はできずにいた。「いい子」でいなければドナ行きになる脳蟲たちは無批判にシルヴィアの価値観を受け入れる。分断は深まる一方だった。
(こんなときあいつがいればな)
またしてもいない男を脳裏に思い浮かべてしまい、深々と嘆息する。彼ならきっと患者たちともすぐに打ち解け合えるだろう。だが槍兵はいつ帰るのかも不明だし、あまり頼りすぎたくもない。
(ブルーノが頑張ってくれているんだ。私は私にできることをして待とう)
シルヴィアに防衛隊は悪だと吹聴されている現在、まともに患者と関われるのは白猫の彼だけだった。愛らしい姿を最大限利用してブルーノは患者たちの気を引く努力をしてくれている。ないよりはまし程度の接触ではあるが。
(今はじっと待つときだ。流れがこちらに来たときに引き寄せられればそれでいい)
ルディアは順序立てて解説できるように亜麻紙にジーアン語とアレイア語を書き連ねた。これが完成する頃にはシルヴィアに一度物申さねばなるまい。
******
焼き魚の香ばしい匂いに釣られて鼻孔が大きく膨らむ。手入れされずに枝葉を伸ばした生垣が暗がりをなす庭の一角でブルーノはニャアとひと鳴きした。
裏口を見張っていた少年がシッと指を立てる。皿を手にした中年男は──と言っても患者の中身は一歳未満の赤子蟲ばかりなのだが──ちらちらと背後を気にしつつ膝を曲げ、白猫のふわふわの毛を撫でてきた。
「うん、うん。魚にありつけて嬉しいか。けどちょいと静かにしてくれよな。シルヴィア様は猫の鳴き声が苦手なんだそうだ」
ナアとできるだけ小さく返事してブルーノは差し出された昼食にかぶりつく。足音を忍ばせて木陰に集まった数名の患者たちはそれだけで大いに喜んだ。
「うわあ、食べてる食べてる」
「猫ちゃんって可愛いなあ」
「ああ、可愛い。この小ささが堪らない」
「こっちの水も飲んでいいぞ。ミルクのほうがいいだなんて贅沢言うなよ」
「うわあ、飲んでる飲んでる……」
気分はかなり複雑だが、愛嬌さえ振りまいていれば彼らはブルーノを仲間の輪に入れてくれる。目的は人気者になることではなかった。患者たちの内緒話を聞くためにブルーノはここにいる。
「……なあ、三十人は絶対ドナに行かなくちゃいけないんだよな? 皆は誰が選ばれると思う? もし選ばれたらどうしたらいいんだろう?」
こちらの食事が落ち着くと誰からともなく不安が漏れた。彼らが生きるのは狭い世界だ。話題は常に限られたものだった。
「おいおい、お前シルヴィア様のお話ちゃんと聞いてたか? 素行不良は一発アウト、あとは成績順だって説明があったじゃねえか。真面目に勉強してれば妙なとこ連れてかれる心配はねえよ」
「うん。けどさ……」
「けどさ?」
暗い顔をした少年に目つきの悪い中年男が首をかしげる。「お前は賢いんだし大丈夫だって、マルコム」と力づけられてもマルコムと呼ばれた短髪の少年は思案深げに黙り込んだままだった。
「どうしたんだよ? 何か引っかかってることでもあるのか?」
ほかの仲間も彼に問う。しばし逡巡したのちにマルコムはぽつりと呟いた。
「本当に成績順になるのかなって思ってさ」
「はあー? お前さっきから何言ってんだ?」
不可解そうに眉をしかめて「シルヴィア様の言うことが信じられねえのかよ」と中年男がマルコムに迫る。
「やめてってオーベド、ただでさえ顔怖いんだから」
と凄まれた少年は素早く木の裏に逃げ込んだ。
「ちょっと思っただけだから、意味とかないし気にしないで。ってかそろそろ教室戻って暗唱の練習したほうが良くない?」
マルコムは空になったブルーノの皿を掴むとひと足先に裏庭から退散する。暗唱という言葉が胸に刺さったか、残った面々も仕方なさそうにそれぞれ重い腰を上げた。
「やれやれ、全然のんびりできないな」
「だけどいつ抜き打ち試験されるかわかんないしね」
「猫ちゃん、悪いが俺たちゃ行くよ。明日も魚が欲しかったらお利口にしてるんだぞ」
「またねー」
小さく手を振って患者たちはこそこそと建物に戻っていく。ぽつんと一匹で取り残され、ブルーノは閉ざされた重い扉を見上げた。
中の様子を覗きにいこうかと思ったが、シルヴィアに追い出される展開しか浮かばないのでやめておく。冒険は禁物だ。踏み込みすぎれば失敗する。己はそんなに上手くやれないということをしっかり自覚していなくては。
慎重さが重要だった。優しい人に優しいままでいてほしいなら。
「…………」
ブルーノはタッと茂みの脇を駆け、ルディアたちのいる西棟に引き返した。
王女の身体を守れなかった償いに、少しでも役に立たねばならない。自分が何を失ったかなんてもう忘れねばならなかった。