第2章 その3
レーギア宮を後にして、小一時間前と同じに大鐘楼の脇に戻ってきたモモはふうと短い息をついた。
どうにもやはり噛み合っていない気がして仕方ない。否、もう気がするとかいうレベルではなく噛み合っていなかった。
「アイリーンはまだらしいな。少し待たねばならないか」
広場を見渡す主君には兄をやきもきさせている自覚などなさそうだ。あればあったで話がもっとややこしくなるので言わないが、黙っているのもストレスだなあとげんなりする。
(けどどう考えてもモモが首突っ込む問題じゃないんだよねえ)
小さなグループで色恋沙汰が発生するとロクなことにならないと嘆いた偉人は誰だったか。意識的にか無意識にか首飾りをしまい込んだポケットに触れるルディアの手を眺めつつ、モモはもう一つ溜め息を重ねた。
主君は決して優柔不断な人間ではない。しかしレイモンドの一件に関しては決断を遅らせすぎだと評価せざるを得なかった。
(次の身体が決まったらお守りは捨てる、なんなら斧で叩き割ってくれていいなんて言ってたけど、それって本当にデッドラインじゃないのかなあ。肝心の新しい身体もいつまでに探すつもりか決まってないみたいだし……)
カーリスで一度は船に戻った兄が飛び出していった後、ルディアと交わしたやり取りを思い出す。
レイモンドのこと好きなのと、そう問いかけたら黙り込んだ。なんであんな馬鹿男をと呆れたら、そこまで言うほど馬鹿でもないと庇われて。断るつもりだときっぱり宣言したくせに。
(とりあえず姫様とレイモンドの話が落ち着かないとアル兄も落ち着かないのが続きそう……)
心配なのは主君よりむしろ兄だった。まだしも平静に動けているルディアと違い、アルフレッドは現実を受け止めきれていない。動揺があっさり見抜けるほどに。
「はあ……」
三度目の嘆息を聞き咎め、ルディアがこちらを振り向いた。「どうかしたか? 腹でも痛いのか?」との問いには半笑いで対応する。
なんて面倒なのだろう。ジーアンから王国を奪い返すことだけに専念したいこのときに、他人の恋愛問題に気を配らねばならないとは。
(でも本当、黙って見てるしかないんだよね)
兄の苦悩をルディアに伝えることはできない。根っからの善人であるあの男は、主君を困らせるくらいなら胸に秘すことを選ぶに違いないのだから。
それにもしかしたらアルフレッドがルディアに懸想しているかもというのも己の勝手な思い込みかもしれなかった。確かに二人のデートの話を聞いたときただごとでなく兄は動じていたけれど、だからと言ってそれが恋とは限らない。なら下手につつかないほうが賢明だ。少なくとも兄のほうから苦しいと告げてくるまでは。
「あっれー? アイリーンちゃんだけじゃなく、防衛隊も帰ってたんだー」
と、そのとき、国民広場に面した遠浅の海から身の毛のよだつジーアン語がこだました。
うげっと内心眉をしかめつつ、なるべく顔には出さないでモモは背後を振り返る。列をなすゴンドラが軍馬のごとく下ってくる大運河。その先頭で軽薄に笑う狐目の男を。
「ひっさしぶりじゃん。元気だった?」
ラオタオは──否、ラオタオもどきはゴンドラに二人の人物を乗せていた。一人は顔面蒼白でガタガタ震えるアイリーン。どうやら彼女は見つかって舟に連れ込まれたらしい。もう一人は「ハイランバオス」だ。今は誰が中に入っているのか知らないが、鼻から下を顔布で覆った正真正銘の偽預言者はモモにもルディアにも一瞥さえくれなかった。
「ちょっとそこで待っててよ。すぐアイリーンちゃん連れていくから」
舟の舳先に腰を下ろした狐もどきが楽しげに笑う。続いて通り過ぎていった十数艘のゴンドラにはジーアン兵がぎっしりと、最後尾には風格溢れる龍髭の老人が座しており、その全員が例外なく防衛隊に警戒的な眼差しを投げかけた。
(うわっ、あのお爺ちゃん、多分ジーアン十将の一人だよね?)
息を飲み、モモは隣のルディアを見上げる。まずい展開なのではと彼女からの指示を待つが、主君は黙して動かなかった。逃げる機を窺う様子もまったくなく、広場の奥のゴンドラ溜まりからラオタオもどきと偽預言者、アイリーンの三人が歩いてくると儀礼的に頭を下げ、モモにも同じようにさせる。
「大鐘楼に用があるって言うから送ってきたんだけどさあ、仲間と待ち合わせだったわけね」
行きなよと背中を押されたアイリーンがよろけてルディアの肩にぶつかった。どういうつもりかまったく読めない表情でラオタオもどきはねっとりこちらを観察する。遠慮を知らぬ双眸に上から下まで眺められ、気分が悪いといったらなかった。
「良かったら今度皆でドナまで遊びにおいでよ。今ならバジル君もいるしさ、歓迎するよ?」
弓兵の名に主君の耳がぴくりと跳ねる。思いがけない誘いにルディアは強気なジーアン語で答えた。
「機会に恵まれれば、是非」
返事を聞いたラオタオもどきは満足そうに踵を返す。レーギア宮へと向かう彼の後ろには無言を貫く偽ハイランバオスが続き、ゴンドラから上がってきたほかのジーアン兵たちも門の奥に一人また一人と消えていった。
「うう、本当にごめんなさい。実家は借り直せたんだけど、帰りにあの人たちに出くわしちゃって」
広場から一団がいなくなるやアイリーンが己の不運さを詫びる。嘆く彼女の懐ではずっと隠れていたらしいブルーノが慰めるような鳴き声を上げていた。
「どうするの? 完全に目つけられちゃった感じだったけど」
見逃がしてくれてないでしょあれは、とモモはルディアを振り返る。すると主君は「これでいい」と意外な返答を口にした。
「これでいいって、なんとかなるわけ?」
「なんとかできねばお前たちを率いて戦う資格などあるまい。まあ案ずるな、私にも考えがある。今は今すべきことをなそう」
療養院に向かうべく貸しゴンドラを探すルディアに臆した態度は見られない。大丈夫だという確信を持って彼女は動いているようだ。
主君がなんとかなると言うのなら己もとやかくは言うまい。どういう考えか具体的に説明しないのも時機じゃないとか何か理由があるのだろう。
モモは数冊の本を押し込んだ鞄を肩に持ち直し、岸に寄ってきたゴンドラに乗り込んだ。今すべきなのは十人委員会に任された仕事を果たすこと。そして実績をしっかり次に繋げることだ。
独立問題に経済問題、更には恋愛問題と、降りかかる困難は留まるところを知らない。だが停滞したくないうちは心の刃を研ぎ澄ませておかなければ。
そうモモは唇を引き結んだ。
無慈悲にも試練は二つや三つどころでは終わらなかったのだけれども。
******
再訪した療養院は和気あいあいと過ごした昨日とはまったくの別世界だった。ルディアが扉を開くと同時、患者たちが一斉に会話を止めて席を立つ。
「……おい……」
「ああ……」
ざわめきとともに凍りつく空気。敵を睨むような彼らの視線。
談話室のあちこちで怯えたように身を寄せ合う患者たちは誰もこちらに寄りつこうとしなかった。顔には嫌悪と猜疑が満ち、全身を固く強張らせている。それは明らかに弱者が搾取を行う強者に示す系統の反応だった。
「ど、どうしたの? モモ約束通り、騎士物語持ってきたんだけど……」
瞠目した斧兵が尋ねても患者からの返事はない。その代わり、中央通路からやって来た少女が「あら、ごきげんよう」と刺々しい声で挨拶してくる。
「少しほっといたしましたわ。売国奴が今日はお一人少ないのですね」
シルヴィア・リリエンソールの言い様にルディアはぱちくり瞬きした。拒絶的な態度なら昨日も取られはしたけれど、今日のそれは比較にならない過激さだ。売国奴など、厭味の域を越えている。
「な、何それ!? モモたちそんなんじゃないけど!?」
怒ったモモが食ってかかるとシルヴィアはふんと鼻を鳴らした。「あなた方の目的はとっくにわかっていますのよ」と彼女は冷たく言い放つ。
「お兄様から聞きましたの。防衛隊の皆さんは私の患者にジーアン語を教えるために来たんですってね?」
シルヴィアがそう言うや、患者たちは素早く彼女の後ろに逃げ込んだ。「善人ぶって油断させるなんて」「俺たちをドナに売るつもりだったとはな」と彼らは口々に防衛隊を罵倒する。ドミニク・ストーンに任された依頼の内容は完全に筒抜けのようだった。
(あ、あの男、十人委員会の守秘義務を軽んじて妹に何をぺらぺら話しているのだ!?)
愕然と拳を震わせるルディアにシルヴィアは「ほら、何も否定できないではありませんか!」と鼻息を荒くする。と思ったら、少女はたちまち暴言を吐く元気をなくして今度はめそめそ泣き始めた。
「ああ……! すべて私の思い違いならどんなに良かったか。上からの命令である以上、いつかは私があなたたちからドナ行きになる三十名を選ばなければならないのですね。なんて残酷なことでしょう!」
振り返り、患者たちと向かい合ったシルヴィアは白いハンカチを涙で濡らす。彼女の発言にうろたえたのは当の記憶喪失患者たちだった。
「ええっ!? 僕はジーアン語なんて習いませんよ!?」
「そ、そうです! もう少し良くなったら皆とアクアレイアで働くんです!」
血の気の引いた顔で訴える彼らに対し、残念そうに少女は小さく首を振る。
「いいえ、私たちに拒否権などないのです。どんなに嫌だと言ったって、時が来れば防衛隊はあなたたちを引きずっていくでしょう。そうね、でも……」
芝居がかった仕草でシルヴィアは患者たちに腕を広げた。そうしてあまりに信じがたい、卑劣極まりない台詞を口にする。
「もしあなたたちが心清く、私の愛する兄を敬い、賢く優しい人間になる努力をするならリリエンソール家が全力で守りましょう! だけど悪い子はドナに行ってもらいますよ? 悪い子はアクアレイアにいる資格がありませんから。 ね、皆、いい子でいてね? 私の言うことをよく聞いて、ずっとアクアレイアにいてちょうだいね?」
──なんて悪質な脅迫だ。シルヴィアは彼女や彼女の家にとって都合良い者でなければ切り捨てると言っているのだ。それなのに少女の世話になってきた患者たちは露ほどの疑いも持たず「わかりました!」「僕らきっと正しい人間になります!」などとシルヴィアに誓ってみせる。
(お、お祖母様と同じやり口の女がこんなところにもいたとは……)
無害な花のような顔をして随分な腹黒ではないか。やはりあのユリシーズの妹ということか。
「では皆さん、こんな方々は放っておいて行きましょう。あちらの棟で仲良く楽しくお勉強しましょうね」
「はい、シルヴィア様!」
患者たちはもはや防衛隊を悪の代行者としか見なさなかった。目も合わさず、頼んだ本を受け取りもせず、彼らはシルヴィアを囲んで東棟へと移動する。
ついていける雰囲気ではなかった。ルディアたちは椅子の散らかる西棟一階の談話室にぽつんと取り残されてしまった。
「……ど、どうするのこれ?」
さすがのモモもひくひく頬を引きつらせている。あわよくば記憶喪失患者の記録を取ろうと狙っていたらしいアイリーンの嘆きも深かった。
「ミャア! ミャア!」
猫なら敵視されまいと考えてかブルーノが床に降りる。そのまま彼はドアの隙間をくぐって中央通路に出ていった。
「……仕方ない。一度やり方を考え直そう」
そう言いつつどこか安堵している己にルディアは胸中で嘆息する。次の身体を選ぶとか、まだそんな段階ではなさそうだなど。
患者のいない病棟は静かだった。何も思い煩わずに眠れた頃の夜のように。
******
(あ、あの女、十人委員会の依頼を軽んじて余計な真似をしてくれおって!)
湧き上がる怒りを堪え、ユリシーズはいらいらと足を揺する。眉間のしわは濃くなる一方で、不愉快は永遠に続くかに思われた。
「ああっ、やっぱりすごく決まってるわ……!」
ユリシーズの着せてやった甲冑の上に先刻のマントをつけたアルフレッドは「ええと、その、お褒めにあずかり光栄です」とさして嬉しくなさそうに礼を言う。着付けなど本来見習いのやる仕事だ。それをわざわざ手伝ってやったのだから、女帝に対して作り笑いくらいしろと怒鳴りつけてやりたかった。
「新しい任務が入らなきゃずっと通ってくれるのよね? 本当に嬉しい! 今最高に幸せよ! 物語を読み合わせたり、作中の料理や飲み物を再現したり、してみたかったことが山ほどあるの! 付き合ってちょうだいね!」
一人だけ頬を赤くしてアニークがキャッキャとはしゃいでいる。自分が彼女のサロンに加わったときよりも遥かに喜ばしそうに。
「見れば見るほど素敵だわ。だけど剣は、あなたにはこんな細いのよりさっきの片手半剣のほうが合ってるわね。肩も腕もとっても逞しいんだもの!」
先程からアルフレッドを褒めちぎる言葉しか聞いていない気がするのだが、こんな眉の太い地味顔男のどこが琴線に触れたのだろう。わからない。女帝の好みが全然少しもわからない。
「そうだわ! ユリシーズとあなたでお揃いの剣を作るのはどう!? あなたの剣は返すのが遅くなるし、二人ともバスタードソードの使い手だし、並んだらすごく映えるんじゃない!?」
アニークの示した恐るべきアイデアにユリシーズは戦慄する。どうしてこう次から次へとしょうもないことを考えつくのだ、この馬鹿女は。
「おっ、お揃いですか……?」
「そうよ、お揃いよ! 同じ騎士として仲良くしてほしいし、いいでしょう?」
「は、はあ……。アニーク陛下がそう仰せなら……」
(もっと強く拒まないか、この軟弱者!)
いつにも増して熱狂した女帝の暴走は止まらなかった。あっという間に鎧やマントもひと揃え探すことが決まり、知らず乾いた笑みが漏れる。
(辛抱だ。辛抱するのだ。ここでこの女に気に入られておけば関税引き下げを訴える際に確実に通しやすくなるのだからな)
「では今日にでも鍛冶屋を手配しておきましょう」
ユリシーズはできるだけ柔和な声で申し出た。「あら、珍しいわねユリシーズ。あなたはいつも衣装遊びは嫌がるのに」とアニークが目を丸くする。
「それはまあ、嫌がっても聞き入れてくださらないと学びましたからね」
「あら、その言い方! とってもサー・セドクティオっぽいわ!」
機嫌を取るのは簡単だが、自分まで馬鹿になった気がしてしまうのが難点だ。しかも今後は寵愛という限られたパイを奪い合わねばならないのである。
「立派な装備を仕立てましょうね、アルフレッド」
アニークはにこにこと赤髪の騎士に微笑みかけた。好意に満ちたその双眸を横目に見やり、ユリシーズは胸中で舌打ちする。
(ちっ。防衛隊ごときに何かできるとも思わんが、それでもあの女の腹心だ。警戒はしておかんとな)
どうして自分がルディアの騎士と同僚になどならなくてはならないのだろう。しかも揃いの剣に鎧とは。
苛立ち混じりにアルフレッドを睨みつける。だが彼から反応は返らない。
主君に置いていかれた男は女帝の前でさえ気もそぞろで、陰鬱な思いを持て余しているようだった。




