第2章 その1
遠くで誰かの叫んでいる声がする。激しくぶつかり合う物音と野次馬たちの歓声も。時折響く悲鳴に切迫感はなく、ああこれは模擬試合をしているのだと聴覚だけで十分に知れた。
(朝っぱらからカンカンガチャガチャうるせえなあ。こっちはようやく勤務が終わってさっき寝床に就いたとこだぞ?)
捕らえようとしても捕えきれない眠気を払い、レドリーはもそもそとベッドから這い上がる。誰が騒いでやがるんだと窓辺から中庭を見下ろした。
と、苦手も苦手なピンク頭がぴょこぴょこ跳ねているのが映る。模造武器を振り回す小柄な少女と目が合う前にレドリーはがばと身を伏せた。
「な、なんでモモがいるんだよ……!」
青ざめて息を飲み、カーテンの陰に隠れて再度中庭の様子を窺う。斧を手にした狂犬を相手取るのは二人の弟。だが二人とも、それでも海軍の予備兵かと嘆きたくなる押されっぷりだ。すばしっこいモモの動きに翻弄され、瞬く間にのされていく。
「モ、モモちゃんまた強くなってない!?」
「ちょっと待って! ちょっと休憩! 五分後に再開しよう!」
完膚なきまでに叩きのめされた弟たちがひれ伏しながら一時休戦を訴えた。少女は一人涼しい顔で「いいよー、その間にモモお水飲んでるね」と貯水槽の白い縁石に腰かける。
防衛隊が帰ってきたという話は父に聞いていた。だから別に、従妹の彼女の来訪に驚いているわけではない。わけではないが、なんでこんな早朝からとは思わなくなかった。たとえ親戚でもちょっと非常識だぞと。
(というかモモが来てるってことは、あいつもうちに来てるんじゃ)
弟たちとは違う赤髪を探してレドリーは階下に目を走らせた。だが忌々しいその姿は中庭には見当たらない。こんなときは使用人と一緒になって観戦していそうな父も。
なんとなくピンと来て、レドリーは忍び足で自室を出た。そのまま弟たちの部屋を抜け、骨董品陳列室を兼ねた短い通路を進む。書斎のドアにそっと耳を張りつけると予想通りに中ではアルフレッドとブラッドリーが話し込んでいるところだった。
「……そうか、それで剣が新しくなっていたわけだな」
「はい。せめて似たようなバスタードソードを持ちたかったんですが、組合の利益が薄いとかで北パトリアでは売っていなくて」
すみませんと謝罪する従弟の声はいつになく暗い。思いもよらぬやりとりにレドリーはぱちくり目を瞬かせた。
なんだって? 聞き間違いでなければ今、アルフレッドが武器を新調したとほざいた気がしたが。
(待て待て、あいつが持ってたのってうちの紋章が入った剣だろ?)
本来長男の自分が受け継ぐはずだった由緒正しい片手半剣。義理堅さだけは一級の従弟がそれを手放したなど信じがたい。一体何があったのだと目を瞠る。
だがいくら耳を澄ませても詳しい経緯は語られなかった。報告はもう済んだ後らしく、若き騎士を力づける父の低い声だけが響く。
「そう気に病まなくてもいい。縁があれば再び手元に返ることもあるだろう。正直に打ち明けてくれたこと、私は誇らしく思うぞ」
瞬間的に膨らんだ反発心にレドリーは顔を歪めた。舌打ちを堪えてぎゅっと指先を握る。
厳格で知られるブラッドリーもお気に入りの優等生には甘々だ。大切な武具の管理を怠るとは何事かとたまには叱ってやればいいのに。
(昔っから親父はこうだ。俺が何かやらかしたときは言い訳の一つもさせちゃくれないくせに)
いつもいつもアルフレッドだけが褒められて、レドリーは努力が足りないと首を振られる。未曽有の大不況に見舞われたアクアレイアでなんとか東方との交易を続けている今でさえ。どんなにレドリーが必死に資金繰りしても、父はウォード家を継げもしない従弟にばかり目をかけるのだ。
(ふん。アルフレッドなんか全然たいしたことねえのにな)
二十五歳にも満たない若さで海軍の頂点に立つ幼馴染を思い浮かべて憤りをやり過ごす。ユリシーズが祖国の未来を背負って生きていることに比べたら、従順なだけのアルフレッドなど才覚と呼べる何かが備わっているのかどうかも疑わしい。
しかも彼が所属していた防衛隊はとうに解散扱いなのだ。仕えるべき王女もいなくなったのだから、とっとと表舞台から消えてほしかった。
いけ好かない年下の従弟に立身出世の道が残されていると思うとそれだけで苛々してくる。こんな風につい会話を盗み聞きしてしまうのもいい加減最後にしたかった。
「お前のことはアニーク陛下も気にかけてくださっていたぞ。防衛隊にどんな功績があるのか熱心に尋ねておいでだった」
だがしかし、希望は儚く打ち砕かれる。父の発言にレドリーはぴくりと耳を跳ねさせた。
目を開き、息を詰め、気配に勘付かれないように頬までぴったりドアに押しつける。書斎から漏れ聞こえたのは更に腹立たしいやり取りだった。
「え? アニーク陛下がですか?」
「ああ。しきりにお前に会いたがっておられたよ。謁見するなら今日の午前にでも行ったほうがいいんじゃないか?」
アルフレッドが女帝の目に留まった。そんなことを耳にしてはとても冷静でいられなかった。なぜなら国中の兵という兵を見て回ったあの騎士物語狂いがお気に召したのは、今までずっとユリシーズ一人だけだったのだから。
(俺なんか『髪の色はいいんだけど……』って溜め息つかれたんだぞ!? な、なんでアルフレッドには会いたがるんだよ!)
自分が垂れ目で従弟が吊り目なこと以外容姿には大差ないのに納得いかない。なぜ、どうしてこいつばかりとレドリーはギリギリ歯軋りした。
「で、でも伯父さん。さすがに昨日の今日ではちょっと……。献上品の一つも用意できていませんし」
すぐ挨拶に行けと勧めるブラッドリーに対し、アルフレッドは慌てた口調で不可能を告げる。従弟曰く、女帝には相応の返礼をしなければならないそうだ。どんな品が喜ばれるのか教えてほしいとアルフレッドは律儀に乞うた。
「だったらちょうどいいのがある。こちらへ来なさい」
近づいてくる足音にハッとしてレドリーは側の台座の裏に回る。身を隠すとほぼ同時、ドアが開いて書斎から父と従弟が歩み出た。
「ちょうどいいもの?」
「質に入れてもいくらにもならない古いマントなんだがな。あの方のお好きな騎士物語と同じ年代のものなのだ。色々とコレクションして楽しんでおられるようだから、良い機会が巡ってきたら差し上げようと思っていてな」
ブラッドリーはレドリーの向かいに立つブロンズ像に手を伸ばし、留め具を外してマントを脱がせる。それは刺繍や縫い取りで飾られた権威のための衣装ではなく、暖かくて長いだけの極めて簡素な戦士のための防寒具だった。
「ほら、これだ。お前が持っていきなさい」
古いという言葉通りに赤い布地は色褪せている。今この時代にこんな装束を喜んで身に着ける貴族はどこにもいまい。だがそれでも、女帝のために取っておいた希少品を簡単に譲り渡す父がレドリーには信じがたかった。
(なんだよ、そんなもんあるなら俺に持っていかせろよ。そうすりゃ俺だってユリシーズの隣に立てるかもしれないのに)
感情を御しきれない。二人の間に飛び出してわあわあと吠え立てたくなる。そんなことをしても悪者にされるのはこちらだとわかっているのでやらないが。
「いいんですか? ありがとうございます、伯父さん」
当たり前に受け取るアルフレッドもアルフレッドだ。ウォード家のためには長男のレドリーが女帝と繋がりを持つほうがいいのでは、と彼は提言するべきなのに。
縄張りが侵される。取り分を持っていかれる。いつまで己はこんな理不尽に耐えなくてはならないのだろう。
「……アルフレッド、お前は今までルディア姫によく尽くしたな」
と、そのとき唐突に父が切りだした。室内に流れる空気が変わった気がしてレドリーは目を上げる。
違和感を覚えたのは自分だけではなかったようだ。急になんだという表情でアルフレッドもブラッドリーのやつれ顔を見上げていた。
「二人目の主君を持つのは恥ずかしいことではない。今はまだ気持ちの整理がついていないかもしれないが、この先のことも少し考えてみるといい。お前を望んでくれる人は必ず見つけられるはずだ」
続く言葉でなんの話かようやく悟る。要するに、父はアルフレッドに新しい奉公先を探せと言っているわけだ。このまま埋もれさせるにはお前はもったいない男だと。
「伯父さん……」
アルフレッドは瞠目し、首を振ったようだった。そのささやかな拒絶の意味を読み取れるほどレドリーはこの従弟について知らない。知らないが、だからと言って好意的に解釈できるものでもなかった。
(俺は全然、そんな風に親父に褒めてもらったことないのに)
いつかユリシーズに父親の愚痴を零したら、彼は笑って自分の家も同じだと言った。甘やかされて腰抜けになるよりずっといいさ、我々は軍人なのだからと。
「俺は、俺はずっとあの人の騎士でいるつもりです! 十人委員会がまだ俺を防衛隊の隊長だと考えてくれているのなら、尚更ほかの主君なんて」
荒ぶった声にハッとする。台座の陰から二人を見やれば珍しく興奮した様子で従弟が食ってかかっていた。
「いや、すまん。私が少々急ぎすぎた。……悪かったな、気にしないでくれ」
詫びるブラッドリーにアルフレッドは肩を震わせ、小さく小さく息をつく。気まずさを払拭するように父は窓辺に足を向け、中庭に視線を落とした。
「声がやんだと思ったら、どうやらモモが飽きたらしい。そろそろ朝食の時間かな」
話題はすぐに無難なものに切り替わる。だがそれも長々とは続かなかった。
「……みたいですね。俺たちはおいとましたほうが良さそうです」
朝早くからありがとうございましたと模範的な礼を述べる従弟とともに父は展示室を後にする。ややあって中庭へ続く階段を下る足音が響いた。
「……くそっ」
薄着になった騎士像を見上げてレドリーは眉をしかめる。
気分が悪い。胸がむかつく。いつになったらアルフレッドは視界から消えてくれるのだろう。
起きているのがばれないうちにレドリーは自室へ引き返した。ベッドに潜り込みながら、階下でひと仕事片付けてから寝るのだったと悔いる。そうすれば大嫌いな従弟たちを門前払いにできていたのに、本当に間が悪い。
******
「なんだその大荷物は? お前は療養院に何を持ち込む気でいるんだ」
呆れた声でルディアに問われ、アルフレッドは「す、すまん」と謝罪する。
両手に抱えた銀縁の大箱には先程の古いマントが入っていた。できれば自宅に置いてきたかったが、九時の鐘が鳴ったので待ち合わせを優先したのだ。
「これはその、伯父さんから、アニーク陛下に献上する用にと譲られて」
しどろもどろにアルフレッドは大鐘楼の脇に集まった仲間たちになりゆきを説明する。相談もなくブラッドリーを訪ねたこと、何か言われるかと思ったがルディアからの苦言はなかった。抱え込んだ贈り物に関しても「まあわざわざ今から持ち帰る必要はあるまい」と受け入れられる。
「ブラッドリーの言う通り、返礼の品ができたなら早めに女帝を訪ねたほうが良さそうだな。ゴンドラに積んで濡れても困るし」
先にレーギア宮へ行こうと主君はあっさり予定変更を告げた。自分の浅慮のためになんだか申し訳なくなる。療養院へ向かうことは前日に決まっていたのだから伯父に会うのは後回しにすれば良かった。ルディアの顔を見る前に心を落ち着かせたかったという理由は存在したにせよ。
「本当にすまない。アニーク陛下にお会いするのは俺の私用も同然なのに」
「謝るほどのことじゃないさ。それに私も東方の情報はできるだけ手に入れておきたい。却って好都合だ」
大鐘楼の斜め向かいに鎮座する宮殿を見上げた彼女の言葉に嘘はなさそうでほっとする。確かに今のアニークとなら対面して得られるものは多そうだ。
国民広場を歩き出したルディアに並びアルフレッドも一歩踏み出す。隣には「あー良かった! かさばる箱持って帰るの手伝わされなくて!」と上機嫌な妹が続いた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと待ってもらえるかしら」
と、歩き始めた一同を引き留めたのはアイリーンだ。弟猫を腕に抱いた彼女は「宮廷なんて私には不相応だし、皆がそっちに行ってる間にやりたいことがあるのだけど」と申告してくる。
「やりたいこと?」
ルディアが問えば彼女は「ええ」と頷いた。
「私たちの家、誰も住んでなかったでしょう? 新しい人が入る前に借りられないかしらと思って……」
どうやらアイリーンは借家の持ち主を訪ねてみるつもりらしい。一瞬案じる顔を見せたルディアに彼女は穏やかに首を振る。
「わかってる。父さんや母さんが戻ってくるかもと考えてるわけじゃないの。ただ私たちの育った場所を私たちのために残しておきたくて……。つらくても忘れちゃ駄目なことが、きっとあそこにあるはずだから」
逃げないことを決めた目でアイリーンはそう告げた。「防衛隊も本島に拠点があれば便利じゃない?」と明るく問われ、主君は「まあな」と頬を掻く。
カロの一件を乗り越えて、アイリーンは少し強くなったようだ。晴れやかな彼女の笑みにルディアもふっと口元を緩める。
「わかった。お前たちの好きにしろ。できそうなら今日にでも契約してこい」
主君はこの姉弟に関してあれこれと気を回すのはやめにしたらしい。行けと命じる代わりに手で払う仕草を見せる。
アイリーンはぺこりとお辞儀し、街のほうへと歩き出した。
「用が済んだら戻ってくるんだぞ! 危ないところへ行かないようにな!」
「だ、大丈夫よぉ!」
心温まる二人のやり取りを見守りながら、アルフレッドの胸中はなぜなのか冷える一方だった。昨日ルディアと、幼馴染の家を出てからどこかおかしい。すぐに良くなると思った思考のもやもやがどんどん悪くなっている。
デイジーにレイモンドの帰還について伝えた後、アルフレッドはブルータス整髪店にアイリーンたちを迎えにいったはずだった。それなのに記憶がろくに残っていない。どれだけぼんやりしていたのか自分でも呆れるほどである。
モリスの工房にきちんとルディアを送ったのか、どうやって家に帰ったのか、ほとんど覚えていなかった。はっきりと思い出せるのは、軒先で揺れる灯りに照らされた彼女の柔らかな微笑だけ。幼馴染が関わるときだけ覗かせる、見たことのない別人の顔──。
「おい、我々も行くぞ。何をぼさっとしているんだ?」
アルフレッドと名指しされ、ハッと声の主を振り返る。怪訝そうにこちらを見やるルディアの隣に追いつけば「女帝の前ではしっかりしてくれよ」と肩をすくめられた。
「ああ、すまない。気をつける」
この間まで彼女が普段通りなら自分も普段通りだった。そう振る舞うことができた。だが今は、彼女の前で自分が無理をしているのがわかる。
(いや、姫様のせいじゃない。きっと伯父さんに変なことを言われたせいだ)
二人目の主君を持つのは恥ではないなんて。ブラッドリーは王女が死んだと思っているから仕方のないことだけれど。
(俺は姫様についていく。二度と側から離れない)
つらいことがあったとき、ブラッドリーに会えばいつも悩みなど忘れられた。だが今回に限っては己が甘えすぎていたようだ。
もっとしっかりしなくては。騎士の務めを果たすために。




