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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第1章 再びのアクアレイア
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第1章 その3

 十人委員会に行ってくれと頼まれた施設は本島から少し離れた墓島にあった。ハイランバオスの肉体に入ったばかりのアンバーがアイリーンからジーアン語を学んでいた頃、防衛隊が兵舎代わりにしていた聖堂のある島だ。

 ここには王国の独立記念碑も建てられていたのだが、今は撤去されたらしく石碑は影も形もなかった。十中八九ローガンの仕業だろう。いちいち憤慨するのにも飽きてルディアはふうと息をつく。


「突然すまない、ここの責任者はどなただ?」


 部隊を代表し、アルフレッドが療養院の門を叩く。高い壁に囲まれたレンガ造りの建物は立地も含めて明らかに隔離を目的としていた。王国湾の島々にはこういった施設が珍しくない。湿地帯は病気が蔓延しやすいせいだ。


「はい、どちら様でしょう?」


 千人ほど収容できそうなH字型の療養院を出てきたのは十代と思しき良家の令嬢だった。会ったことはないはずだが、どこか見覚えのある顔をしている。しばらく考えてハッとした。ハニーブロンドや厚い唇、眉の形がユリシーズと似ているのだと。


「俺たちは元王都防衛隊だ。十人委員会の命令でこちらの患者に言葉を教えにやって来た。中を案内してもらっていいか?」


 アルフレッドはジーアン語をとは言わなかった。ルディアが口止めしたのである。記憶はなくとも世話しているのがアクアレイアの人間ならジーアン人を恐れている可能性は高い。本当の用件は様子を見てから伝えようと。


「まあ、そうですの。私はシルヴィア・リリエンソール、命に別状なくなった方々が日常生活を送れるように支援させていただいております」


 似ていると思ったのは錯覚ではなかったらしい。妹か、とルディアは清楚を絵に描いたような麗しき少女を一瞥した。

 確かあの家は女が三人、男は年長のユリシーズがいるだけだった。血縁者がこういう形で慈善活動に従事していれば彼の人気が上がるのも頷けた。


「どうぞこちらへ。あまり患者を興奮させないようにお願いしますわね」


 紹介状を確認したシルヴィアはふんわり広がる金髪と長いスカートを翻し、ルディアたちを招き入れた。説明によれば熱病も記憶喪失病も今はほぼ終息し、ここが最後の特別療養施設らしい。


「常識も何もかも一から取り戻さねばなりませんから、街に戻れるまでに大体皆さん半年ほどかかるんです。今お預かりしている方々は記憶を失って三ヶ月ほどでしょうか。意思疎通に困るほどではありませんのよ。患者同士で言葉を教え合いますし、私一人でも楽にお相手できるくらいで」


 彼女の台詞にはなぜ防衛隊などという場違いな集団をここへ寄越したのだという疑念がありありと見て取れた。兄が投獄されるに至ったきっかけを作った敵と認識されているのかもしれない。とりあえず歓迎されていないのは確かなようだ。


「お嬢様!」

「シルヴィア様!」


 中央通路で繋がった二つの病棟の西側へ足を踏み入れる。と、二百名いるという患者がわらわらと寄ってきた。少女の言っていた通りに彼らはアレイア語なら普通に扱えるようだ。特にたどたどしくもない口調で「おや? そちらの方たちは?」と尋ねられ、ルディアたちは順番に自己紹介をした。


「アルフレッド・ハートフィールドだ」

「モモ・ハートフィールド!」

「ア、アイリーン・ブルータスよ」

「ブルーノ・ブルータスだ。我々はお前たちの言語習得を手助けするべく派遣された。口頭での会話は行えるようだが、文字のほうはどうだ?」

「おお、俺たちの教師になってくれる方ですか!」


 老若男女様々な患者たちは嬉しそうに歓声を上げた。さっそくモモが彼らの輪に飛び込んで「皆ここで毎日どんな暮らししてるの?」とリサーチを始める。


「えっ!? これはもしや猫ではないです?」

「まあ、なんて愛らしい!」

「見せて見せて!」

「ずるいよ! 私にも見せて!」


 アイリーンが腕に抱いていたブルーノは早くも揉みくちゃだ。直接的な患者の観察はモモとブルータス姉弟に任せることにしてルディアはアルフレッドと一緒にシルヴィアの横についた。多少警戒され気味だったがそれはこちらとて同じことだ。後でユリシーズに報告されることも視野に入れ、無難かつ簡潔に切り出す。


「実は我々はアクアレイアに戻ってきたばかりでな。この奇病について詳しく聞かせてくれないか?」


 率直な問いかけに「詳しくも何も、わからないことだらけですわ」と少女は肩をすくめた。あまり言葉を交わしたくないという言外のアピールは無視して「わかっていることだけでいい」と迫る。


「最初に高熱が出るんだろう? 普通ならそのまま熱が下がらなければ死んでしまうと思うんだが、何か特効薬のようなものでもあったのか? 記憶喪失はその副作用とか」


 アルフレッドも真摯な表情で彼女に尋ねた。


「…………」


 しばし黙り込んだのち、シルヴィアは「最初はいつもの冬の病だったんです、でも……」と小さく呟きを落とす。


「でも?」

「入院患者の食事配給すら滞るほどでしたから、この冬は本当に大勢の方々が亡くなられたのですわ。私の友達も何人も……。それで多分、悲しんだ誰かがおまじないとして始めたことだとは思うのですが」

「おまじない?」


 少女の説明が要領を得ず、ルディアは眉をしかめた。だがシルヴィアの次の言葉でたちまちすべてを理解する。


「ルディア姫がお小さかった頃、重い病にかかって危篤状態になられたことはご存知でしょう? あのときルディア姫は耳に何かの薬液を入れられて一命を取り留めたそうです。藁にもすがる思いで誰かが真似したのではないでしょうか。波の乙女の慈悲が宿っていると信じ、私たちが息もできなくなった患者に施したのはアクアレイア湾の海水でしたけれど……」

「……!」


 やはりかと息を飲む。患者は一度死んでいるのだ。そしてまったくの偶然に新しい生を与えられた。脳蟲など知りもせぬ民衆の手によって。


「薬効があるとわかると皆お守りのように海水を持ち歩くようになりました。いよいよ打つ手がなくなったら耳に注いでもらうためです。ほかに薬らしい薬はありませんのよ。不可思議な話ではございますが」


 知っているのはそれだけですとシルヴィアはさっさと話を終わらせた。まだ記憶喪失者の症状や回復の過程についてなど共有できる情報はいくらでもあるだろうに、冷たくそっぽを向いてしまう。

 が、とりあえずその辺りは詰問する必要がなかった。患者の頭に入っているのが脳蟲ならルディアたちのほうがよほど詳しい。聞き出すべき情報としては十分だった。そんなことより気にかかるのは──。


(偽ラオタオがわざわざ記憶喪失者を指定してドナに呼び寄せようとしているのは意図あってのことだろうな……)


 ちっと胸中で舌打ちする。何が狙いか知らないが、用心するに越したことはない。今の「ラオタオ」はハイランバオスの味方だそうだが、アクアレイアに都合良く動いてくれるとは限らないのだ。


「そっかー、皆それじゃあ文字も読めるんだ! だったらモモ、明日は家から何冊か本持ってくるね!」


 明るい声で斧兵が早くも明日の約束をしている。患者たちは「本? 本ってどんな!?」「噂に聞くパトリア騎士物語はありますか!?」と嬉しげに飛びついた。ブルータス姉弟を囲むグループも猫の好物や習性について熱心にメモを取っている。

 生まれたての無垢な生命。まだ自分は自分の人生の続きを生きているのだと信じて疑ってもいない。


(新しい器、この中から探すべきかもしれないな)


 ルディアは地味なシャツとベストを羽織った患者たちに目をやった。彼らの中に適役がおらずとも、過去の患者リストを辿れば一人二人は好条件の人材が見つかるだろう。ただそれは、どうにも気乗りせぬ行為だったが。


「シルヴィア様、シルヴィア様! 明日モモさんにご本をお借りしていいですか?」

「ええ、もちろんいいですよ。だけど破いたり汚したりしないように気をつけましょうね。お行儀の悪い子にはお仕置きが待っていますよ」

「はい! 大丈夫です、僕たちいい子にしています!」


 患者たちは老いも若きも異様に子供じみて映る。彼らに対し、シルヴィアが母親のように接するのも言い知れぬ不気味さが感じられた。そんな思いを抱くことが既に傲慢かもしれないが。

 はたして己に奪えるだろうか?

 まだ確たる自我も持たない彼らから、()って立つための肉体を。




 ******




 墓島の療養施設を出たのは夕刻。二時間ほどの滞在だったがルディアたちはそれぞれに患者と打ち解け、また明日と言って別れた。しばらくは請け負った仕事をしつつ情報を集め、今後の出方を考える日々になりそうだ。コナーから第二報が来るのも待たなければならない。


「ねえねえ、今からどうする?」


 ゴンドラの櫂を手にモモが聞く。帰りの漕ぎ手を担う彼女は妙に急いでいる風だった。


「何もないなら家に帰ってママたちにただいましたいんだけど。今まで手紙も出せなかったし……」


 なんだかんだで各方面に気配りを忘れない斧兵はちらと実家方面を見やる。そういうことならとルディアは快く頷いた。


「そうだな、それでは今日は解散しよう。明朝九時の鐘が鳴ったら大鐘楼前に集合だ。何事もなければ療養院へ直行する」

「わーい、了解!」


 国民広場のすぐ脇のゴンドラ溜まりに舟を舫い、ルディアたちは岸に上がる。


「バイバイ皆! さあ帰ろ、アル兄!」


 短いマントを引っ張ってモモはアルフレッドを急かした。が、赤髪の騎士は彼女に「すまん」と首を振る。


「先に帰っておいてくれ。俺は最後まできっちり送り届けるから」


 誰をとは言わず、騎士はルディアを振り返る。


「ええーっ? じゃあモモも残るよぉ」


 多少不満げに足を止めた斧兵にルディアは「別に構わんぞ、お前はこのまま帰っても」と手で払う仕草をした。


「こいつは言い出したら聞かないからな。家族と一緒に待っていてやれ」

「わあ! じゃそうするね! アル兄、また後でねー!」


 実家の夕飯が楽しみだという内容の鼻歌を口ずさみつつモモは颯爽と広場を駆けていく。さて、とルディアはブルータス姉弟と向かい合った。


「私も一応『ブルータス家』に顔を出しに行くが、お前たちはどうする?」


 尋ねたのはアイリーンが親に勘当された身だからだ。今までは実家を避けてきた彼女だが、さすがに今回は家族の安否を確かめたいだろう。

 アイリーンは拳を固く握りしめた。震えながらも彼女は決意を口にする。


「い……一緒に帰るわ! 見つかって叩き出されないようにこっそりとだけど……っ!」


 姉の意に応えるように猫も神妙にニャアと鳴いた。「では行くか」とルディアは再びゴンドラの縄を解いた。




 ******




 ブルータス整髪店。そう書かれた看板は、夕暮れの光を浴びて赤々と輝いていた。窓から覗く細長い店舗は薄暗く静まり返っており、人が暮らしていないのが入る前から見て取れる。

 こっそりと言っていたのにアイリーンのドアの開け方は激しかった。髪結いの客でごった返しになっていたアンディーン祭の日が幻に思えるくらい店内はすっからかんである。軋む床板と舞い上がる綿埃。備え付けの壁の棚以外何もない。


「……!」


 外壁に沿った階段を駆け上がるブルーノを追い、ルディアとアルフレッドも二階へ走った。そこも完全な空き家であり、家財道具はほとんど何も残されていない。ただアイリーンとブルーノの使っていた寝台やキャビネット、彼らの私物を除いては。


「……病気になったんじゃないと思うわ。家を出ていっただけみたい」


 内階段から同じ部屋に上がってきていたアイリーンが険しい表情で呟く。


「貴族も大勢逃げたらしいからな。ジーアン兵を恐れてのことだろう」


 アルフレッドが姉弟を慰めるように言うと彼女は「ううん」と否定した。


「その可能性もなくはないけど、違うと思う。熱病を癒すのに耳の穴に海水を入れたってシルヴィアさんが言ってたでしょう? 父が耐えられなかったんだと思うの。だってあの人は……」


 あの人は拒絶した人だから、とアイリーンの声が震える。

 ブルータス姉弟の父、理髪師であり外科医でもあるコンラッドは「ルディア」の耳に薬液を注ぎ、王女を救った功労賞まで賜った人物だ。

 姉弟はあまり多くを語らないが、どうも彼は息子の異変に勘付いていたようである。我が子が我が子ではないかもしれない可能性に。


「…………」


 アイリーンは猫の姿の弟を抱き上げてそのまま胸に押しつけた。声もなく、涙もなく。

 言葉にしなくともわかる。彼らは親に捨てられたのだ。帰る家という唯一の接点を、手紙の一つもないままに、知らない間に放棄された。その意味を理解して立ち尽くしている。


「──……」


 埃っぽい、湿った空気を嗅ぎながらルディアは静かに瞼を伏せた。励ましてやりたくとも言えることなど何もない。孤独も、罪も、自分で引き受けるしかないのだ。痛みをやわらげてくれる誰かに出会うまで。


「ごめんなさい。少し二人にしてもらっていいかしら……?」


 要望にルディアはこくりと頷いた。


「わかった。その間にもう一件用事があるのを済ませてくるよ。ここにいるのがつらければ大鐘楼の前で待っていてくれ」


 行こうと騎士の肩を押す。アルフレッドも何も言わず、すぐに階段のほうへ引き返した。




 ******




「もう一件の用事って?」


 尋ねた騎士を振り返らずにルディアは告げる。


「悪いがレイモンドの家まで漕いでくれないか?」


 それだけ言うとアルフレッドはああ、と合点したようだった。


「俺たちだけ帰ってきているのを見たら家族が心配するものな。レイモンドは遅れて帰還すると伝えに行くんだな?」


 櫂を手にした彼が少しどもった気がして顔を見上げる。だがアルフレッドは既にこちらに背を向けており、細い水路へ漕ぎ出していた。

 辺りは薄い闇に包まれ、どこからか反射した夕暮れの赤い光だけが波の上をちらちらとうごめく。引きずり込まれそうな暗い色をした海がたぷんたぷんと怪しく音を立てていた。

 無意識に手はポケットの奥を探る。ルディアは小さくかぶりを振った。

 訪れたオルブライト家の食堂は遠目にもきちんと明かりが灯っており、窓に人影が動いていた。それを見てほっと息をつく。アルフレッドは近くの桟橋にゴンドラを停めると慣れた様子で鈴付きの表口を押し開いた。


「あらー、アルフレッド君! まあまあ、ブルーノ君まで!」


 どうしたの、と垂れ目の女将がカウンターの奥でこちらを振り返る。槍兵の母親は息子と同じ砕けた笑顔の人だった。しかし瞳の色は濃く、オレンジ色の長髪もまた疑う余地なくアクアレイア人のそれである。目元にわずかに面影を残す以外、レイモンドとは赤の他人のように見えた。


「うちの子と一緒にマルゴーへ行ったんじゃなかったの?」


 尋ねる彼女にアルフレッドが「デイジーさん、実は」と槍兵が結局コリフォ島へ行ったことを教える。色々あって北パトリアまで赴く羽目になったとか、父親にも会ったとか、そんな話は省かれた。騎士はただ「俺たちはひと足早く帰ってきたけど、あいつもそのうち帰ってくるから」とだけ伝える。土産話は直接聞くほうが良かろうとルディアも不要な説明は控えた。


「わざわざ教えにきてくれるなんて、相変わらず優しい子たちだねえ。お礼に晩御飯でも食べてってよ、と言いたいところなんだけど、今日の分はもう食材使いきっちゃってね」


 申し訳なさそうに詫びられる。咄嗟に「いや、食事をせびりにきたわけでは」と首を振ったルディアを見て彼女はからからと笑った。


「デイジーさんたちは元気でやっているのか?」


 八つほど椅子が並んだだけの狭い食堂を見渡してアルフレッドが近況を問う。案ずる台詞にデイジーは頼もしい笑顔で答えた。


「うちはね、神様に守られてるのかってくらい皆元気だよ! 元が貧乏だから生活もあまり変わってなくてね。お客さんは前より少なくなっちゃったけど、質素倹約してればまあなんてことはね」


 そう聞いてルディアは胸を撫で下ろす。高齢の祖母を含めて病に罹った者もなく、これは無病息災の願いを聞き届けてくれた誰かの加護に違いないと彼女は大真面目に話した。


(イェンスかな)


 なんとなく熊皮を羽織った男を思い出す。イェンスにどれほどの力があるかルディア自身は半信半疑だが、彼の功かもしれないと考えることに害はない。

 ポケットの上からそっとお守りに触れた。これからもこの一家が悲しみから守られているようにと。


「だけどあの子がアクアレイアに戻ってくる気があっただなんて嬉しいねえ」

「え?」


 なんの気なしに呟かれた言葉にルディアはきょとんと目を瞠った。デイジーもまた何気ない会話のひとひらとして続ける。


「あの子は誰とでもすぐに仲良くなるけどさ、冷めたところがあったでしょ? もし国の外で稼ぐ手段を見つけたら、ここには戻ってこないんじゃないかって思ってたんだよ」


 母親の勘も当てにならないね、と彼女は快活に笑った。「父親の残したお守り渡したの、早すぎたかな」との台詞には心の中で首を振る。

 彼女は一番いいタイミングでレイモンドに道しるべをくれた。そしてそれは、レイモンドだけでなくルディアも救ってくれたのだ。


「……また来るよ。困ったことがあったら言ってくれ。できるだけ力になる」


 ルディアが言おうとしたことをアルフレッドがごく自然に口にする。騎士にしてみれば幼少時から出入りしている食堂だ。当然の気遣いだったに違いない。


「片付けで忙しい時間に失礼した」


 一礼してルディアも食堂を後にした。そんなに時間の経った感覚はなかったのに、外に出たらもう真っ暗になっていた。


「ありがとう、アルフレッド」


 傍らの騎士を振り返りつつそう告げる。今更ながらルディアはレイモンドの家に行くことだけを考えていて、何をどう話すべきか頭になかったということを自覚した。アルフレッドが必要な話をしてくれて助かった。そういう意味で口にした「ありがとう」だった。


「……別に、感謝されるほどのことじゃない」


 騎士は酷く戸惑ったようにかぶりを振る。

 自分がどんな顔で礼を言ったか、ルディアは考えもしていなかった。騎士がどんな思いを抱いてこちらを見つめていたのかも。このときにはもうすべてが瓦解に向かっていたのに。歪に噛み合った歯車が、みしみしと音を立てて。




 ******




 女帝のくだらぬお遊びからやっと解放されたのは六時の鐘が鳴った後だった。海軍の定期報告も受け、さっさと休むべく自宅へと戻ってくると、ゴンドラを着けた玄関で妹が待ち構えていた。


「今日療養院に防衛隊の方々がお見えになられましたの。委員会に派遣されたとのことでしたので、お兄様とお話ししたくて」

「ああ、ドミニク・ストーンの出した指示だ。しばらく面倒を見てやってくれ。連中をのさばらせない程度にな」


 答えつつユリシーズはつかつかと中庭を抜け、階段を上がり、奥にある自室へ向かう。シルヴィアはその一歩後ろを淑やかについてきた。

 召使いの目がないことを確認し、音もなく二人で室内へ滑り込む。見られたところで心優しい妹が兄をねぎらっているとしか思われまいが。


「──王都防衛隊のブルーノ、本当にあれがルディア姫なのだな?」

「ええ、間違いありません。私をアレイアハイイロガンに封じていたのが憎きあのルディアですわ」


 かつて宮廷を支配していた女狐は、後ろ手にドアを閉めながら愛らしい顔に不似合いな酷薄な笑みを浮かべた。


「そのご様子ではお兄様もあの者たちにお会いしたようですわね?」

「やめろ、必要もないのに兄などと。反吐が出る」


 眉をしかめて吐き捨てるとグレース・グレディが物言いたげに肩をすくめる。拾ってやったのはこちらなのに調子に乗って不愉快な女だ。どいつもこいつも女には本当に振り回される。


「お気をつけあそばせ。あの子たちはきっと帝国自由都市を目指そうなどとは考えもしないはずですから」


 鋭く彼女を睨みつけ、言われずともわかっていると視線で答えた。グレースは巧みな話術でこちらを操ろうとしてくるがそうはいかない。今の彼女の主は自分だ。

 人語を解する野生の鳥が窓辺に降り立ったのは昨夏。冬になり、病死した妹の耳に海水を注げと教えてくれたその鳥は、まんまと人の肉体を得た。

 御しきれば利になる相手だ。手を切るつもりは更々ない。だが近頃日増しに尊大になっていく彼女の態度は気に食わなかった。


「昔愛した女だからとほだされないでくださいましね? 若い男は往々にしてつまらぬ移り気で身の破滅を招くのですから」

「休ませる気があるのなら黙っていろ。せめて夜食の一つでも持ってこい」


 先程よりもきつく睨む。グレースは「だってお兄様が十人委員会でのお話をお聞かせくださらないのですもの。不安になってつい」と微笑した。

 何もかもわかったような顔をして、腹の立つ。


「そんなに言うなら教えてやる」


 十人委員会がジーアン語を習得している防衛隊に患者の指導を依頼した件を話しつつ、ユリシーズはルディアの横顔を思い出していた。

 もうずっと、ニンフィに左遷されていた頃から彼女はブルーノ・ブルータスの姿をしていたらしい。言われてみれば防衛隊の中心は常に彼女だった。


(誰がほだされるものか)


 ルディアが今後どう足掻こうと王家はもはや過去の遺物だ。アクアレイアを救えるのは、この国に必要なのは、彼女ではなく己である。

 証明しろと言うなら証明してやろう。あの女に自らの敗北を認めさせてやる。

 そうすれば長く足を囚われていた沼を出て先へ進める。──そんな気がする。

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