第1章 その2
一番遅れて入室してきたユリシーズがぎょっと目を剥く。だがすぐ彼は気を取り直し、与えられた一席に腰を下ろした。
まだ三十歳という資格年齢に達していない彼が十人委員会に名を連ねるのはユリシーズがアクアレイアの最後の希望と呼ばれているからにほかならない。また現在彼が海軍を率いてラオタオ──中身は違うが──に仕えていることも大きいようだった。
(皮肉なものだな)
ルディアはちらと元婚約者を盗み見る。
声望、軍事力、発言力。ジーアンが真上にいるから振舞いには気をつけねばならないが、今の彼の手中にはかつてルディアの望んだすべてが集まっていた。さすが一度は己が結婚まで考えた男である。
「では始めてもらおうか」
着席したメンバーを見回し、ニコラスが防衛隊に促した。待機していた壁際から一歩前に出てルディアは報告を開始した。
イーグレットの過ごしたコリフォ島での日々。王の遺した最後の言葉。王がどれほど国民を案じていたか、どれほど見事に己の運命を受け入れたか──。遺言を聞いた者としてルディアは粛々と語った。覚悟の深さや誠実さを伝えるのに余計な脚色は不要だった。
「都合のいいように王国史に記してくれと仰っておいででした。残された者が生きやすいようにと。あの方は、確かに最後までアクアレイアの王でした」
顛末を語り終えると委員会の面々は一様に嘆息する。「よくよく心得ておいでじゃったのう」とイーグレット否定派だったはずのトリスタン老も呟いた。
「王国史を陛下の死で締めくくれば周辺国の民も感涙にむせぶだろうね」
そう言ったのは外交を得意とするカイル・チェンバレンだ。この中年紳士は独立派の一角らしく、王国史を利用して西パトリア諸国を扇動し、ジーアン軍に対抗しようと考えている風だった。
「しかしよ、王国史の執筆を依頼されてたコナーは今どこにいるかわからんのだろう? アウローラ姫を保護したと暗号文だけは届いたが……」
普段は国営造船所で総指揮を執るエイハブが顔をしかめる。
「連絡があったので?」
瞬きしてルディアが問うと「一方的にな」とニコラスが続けた。
「こんなときじゃというのに愚息はフラフラしておるようでの、ちっとも家に寄りつかん」
「まあまあ、きっと帰りたくても帰ってこられないんですよ。天帝に随分気に入られていたようですし、ジーアン兵に見つかったらバオゾに連れ戻されるのかもしれません」
ドミニク・ストーンの発言にルディアはお前の息子もな、と肩をすくめる。まさか我が子がハイランバオスに乗っ取られているとは思ってもいないだろうドミニクは、息子がファンを公言していた芸術家の親不孝を庇った。
「あの、アウローラ姫はお元気なのですか?」
と、ニコラスの愚痴を遮ってアルフレッドが挙手をする。騎士はルディアが娘の安否を気がかりにしていると思って聞いてくれたようだ。ちらとこちらに向けられた視線には彼らしい配慮が感じられた。
「健康状態は良好だそうじゃ。連れて帰るか迎えにきてもらうかは改めて連絡するとあった」
「王女の亡命に関しては我々のほかには防衛隊しか知らぬこと、また諸君らに協力を頼むことがあるやもしれぬ」
「はい、もとよりそのつもりです」
頷いたアルフレッドを見やってルディアも頷く。委員会から防衛隊に任務を回してくれるならコナーとは近いうちに会えるかもしれない。
ハイランバオスにも彼を守れと言われているし、蟲の親玉的存在らしい師にルディアも聞きたいことが山ほど溜まっていた。
(アークが脳蟲を生み出している。それを知っているあの人は一体何を目的に動いているんだ? あの人が昔言っていた、理想の王を探しているということと何か関係があるのか?)
ほかの問題で頭を埋めて、娘のことは努めて気にするまいとする。モモの話を聞いた限りでは死んで脳蟲を入れられた可能性が高いのだ。もう当たり前に己の後継者と見ていいのかもわからなかった。もし本当に身体だけしか残っていないとしたら、そのときは──。
「報告はそれだけか?」
不意の問いかけにルディアはハッと顔を上げた。刺々しいユリシーズの目がこちらをじっと睨んでいる。
「いや、コリフォ島を出た後に巻き込まれたカーリス共和都市に関する事件が二つほど。それに亡命後のルディア姫についても……」
「わかった。早くしてもらえるか」
語調は荒らげることなくユリシーズが慇懃に急かす。どうやら彼は防衛隊がこの場にいるのが不快らしく、さっさと出ていってほしいようだ。
ルディアは「では」と仕切り直し、淡々と報告を続けた。トリナクリア島でラザラスの行っていた悪事の数々、カーリスで実施されたアンディーン神殿の竣工式、そこでラザラス一派が返り討ちに遭ったことなど伝えると、委員会の面々は「またローガンが勢いづくかもしれないな」と一様に顔をしかめた。
「しかし『海への求婚』は女神に対する理解に欠けたものでした。守護精霊を失って嘆いている多くの民にとって、竣工式が血生臭い難事に見舞われたのは不幸中の幸いだったのではないでしょうか?」
視線でユリシーズを牽制しながらそう述べる。ジーアンへの点数稼ぎで黄金馬像を祭壇に据えた男はムッと眉間にしわを寄せた。
「やはりアンディーンはアクアレイア人の心の支えですから」
ルディアの言葉に白銀の騎士が卓を叩く。敵愾心露わに彼は反論を始めた。
「だとしても女神が経済的、物質的、現実的な力になってくれるわけではない。我々はやはり我々の力で活路を見出さねばならん。精霊に頼っているようでは駄目なのだ」
「だがジーアンに尻尾を振っていれば救われるわけでもあるまい? 波の乙女はアクアレイア人の心のよりどころ、いずれ独立の機運が高まった際には国の象徴的存在になるかもしれないぞ?」
ちょうどいい、反応を見て誰が独立派で誰が自由都市派かを知るいい機会だ。あえてきわどい単語を用い、ルディアはユリシーズを挑発した。こちらの思惑を知ってか知らずか白銀の騎士はぱくりと針に食いついてくれる。
「独立だと? ふん、王族にべったりの防衛隊は帝国自由都市を目指すよりもそちらに傾いたか。継承権放棄のサインをしていないアウローラ姫を擁立し、王家再興でも目指す気か?」
「そんなことまで言っていない。現時点で判断できる話でもない。私はただ、アクアレイアの民にはアンディーンが必要だと考えているだけだ」
「アンディーンが? すがりつける旗印がの間違いではないかな?」
ばちばちと火花を散らす。ユリシーズは民心を一つにするには自分がいれば十分とでも言いたげだった。ほかにも銀行家のドジソンや、アカデミーの学長クララ、エイハブやドミニクが大なり小なり彼に賛同の意を示す。顔ぶれから察するに、自由都市派は西方より財も知も富む東方との付き合いを続けたい者の集まりらしい。
一方独立派と思しき面々は、自由都市派ほど論理的でも活発でもなかった。理由はトレヴァー・オーウェンの顔を見ればわかる。彼らの多くがジーアンに対する反発、不信、恨みなどから自由都市派に回れないだけなのだ。その証拠にユリシーズの「再独立が成ったとしてその後はどうやって食べていくのだ? アンディーンが王国湾で小麦を栽培できるようにでもしてくれるのか?」との問いに答えられた者はいなかった。
「いやいや、しかし防衛隊の言うことも一理あるぞい。聖像を持っていかれた途端に死病が流行りだしたからのう」
「波の乙女に見捨てられたかと皆不安がっておったろう。心の傷が癒えるなら良いことではないか」
「カーリスで行われた竣工式の話を聞けば、アンディーンはまだ我々とともにあると考える者は増えそうだな。パニックを起こして奇行に走る人間もいなくなるだろう」
波の乙女に祈っても事態は変わらないと主張する自由都市派はさておいて、ニコラス老やトリスタン老、ブラッドリーはひとまず吉報を喜んだ。この冬にアクアレイアを蹂躙した悪疫は相当酷いものだったらしい。話を聞くに怪我で体力の落ちていたブラッドリーなど二度ほど冥府に入りかけたようだ。
「今年は息つく暇もなく次々と災難が襲ってきたよね。ようやく死人が出なくなったと思ったら患者が記憶喪失になったりしてさ」
と、そのときカイルの口から思わぬ発言が飛び出してルディアは怪訝に眉を寄せた。
「記憶喪失?」
「街で話を聞けばわかることじゃ。死の淵から多くの患者が甦ったものの、皆綺麗さっぱり何もかも忘れていたんじゃよ。自分が誰かも家族のことも、昨日まで普通に話しておったアレイア語までもな」
答えてくれたのはニコラス老だ。彼の返事にルディアは更に驚愕した。
「あ、アレイア語まで……!?」
思わずハートフィールド兄妹と目を見合わせる。死んだと思われていた人間が記憶を失くして息を吹き返す──。同じ話をよく知っていた。ほかでもない自分自身が。
(の、脳蟲……?)
ごくりと息を飲み込んだ。だが何がどうなっているのか深く考える隙もなく、話は次へと進んでいく。
「あっ、そうだ! 君たち確かジーアン語話せるよね? タダでとは言わないから、施設で療養中の記憶喪失患者たちにジーアン語を教えてやってくれないかい?」
「は?」
尋ねてきたのは軍医家系で大病院を運営しているドミニク・ストーンだった。突然の依頼にルディアがぱちくり瞬くと、ドミニクは「実はラオタオにドナで下働きする人間がもっと欲しいって言われててさ」と頭を掻く。
「いやあ、はは……記憶喪失の患者ならジーアンにも悪い印象ないじゃん? なんて言われるとどうにも断れなくってねえ」
言葉を濁すドミニクに代わり、ニコラス老も「頼まれてくれると助かるよ。右も左もわからん彼らをそのままドナへ送るのはさすがに不憫でな」と言う。
実際に自分の目で確かめるのが状況把握には一番か。そう考えてルディアは了解の返事をした。
「はい、それでは引き受けさせていただきます」
「おお、ありがとう!」
答えるや否やさっそくドミニクが住所やら紹介状やらをしたためてくれる。それを遮るようにして小会議室に冷たい声が響いたのは直後だった。
「で? もう一つ、亡命後のルディア姫についてとは? 予定が詰まっているのだからさっさとしてくれ」
「……はーい」
ユリシーズの催促に目を吊り上げ、最後となる報告をしたのは当事者のモモだった。サール宮にはアクアレイア人の滞在を快く思わない勢力があり、王女は刺客に襲われて命を落とすことになったと、コーネリアはその責任を感じて北パトリアに留まったと、悔しさの残る声で少女が語る。
「ルディア」の訃報自体はマルゴーの使者が事故だと伝えに訪れていたそうで、十人委員会の面々に驚いた様子はなかった。ただユリシーズが面白くなさそうに腕を組み「山猿なんぞと結婚するからそうなるのだ」と吐き捨てる。
公国に抗議するとか、コーネリアに迎えをやるとか、そんな話題は一切出ずにこの話は終わりになった。──もはやその程度の関心なのだ。継承権を放棄済みの王女のことなど。
「そう言えばジャクリーンはどうなりましたか?」
ずっと引っかかっていたことを尋ねる。だが返答は芳しくなかった。会議中もほとんど発言していなかったトレヴァーが──ジャクリーンを溺愛していた彼女の父が──つらそうにうつむき、じっと押し黙ってしまって。
「安否不明だ。バオゾの港に停泊中、軍船内で首を吊った状態で発見されたが治療のためとラオタオに連れていかれて以降一度も姿を見かけていない」
ユリシーズの説明にトレヴァーはやつれた肩を震わせた。「そうか」と答えることしかできず、ルディアは重ねて問うのをやめる。ほかにはジーアン帝国のスパイではと委員会に疑われていたアイリーンがヴラシィから逃げ延びており、まったくのシロであったと釈明するに留まった。
「報告はこれで全部かの? では我々はまだ話し合わねばならぬことがあるのでな」
その後すぐ防衛隊は小会議室の外に出された。収穫は多かったが、すべてが望ましい実とは言えない。やはりこれから色々と解決しなければならない問題は多そうだ。
「ひとまずアイリーンたちと合流して、記憶喪失患者が収容されているという施設へ向かおう」
「はーい」
「わかった」
息をつき、ルディアは足を踏み出した。ハートフィールド兄妹も頷いて後をついてくる。
「……ん?」
そんな一行の歩みを止めたのは、続きの間のドアの陰から小会議室の様子を窺う怪しげな人影だった。なんだあれはとルディアが首を傾げると同時、赤髪の騎士が不審人物に向かって駆け出す。
最初は宮殿に忍び込んだ泥棒か何かかと思った。だがアルフレッドの反応は敵に対するそれではなかった。双眸を輝かせた騎士は再会の喜びを示す。
「アニーク姫!」
──そう異国のプリンセスの名を呼んで。
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両脇についていた護衛兵が身構える。彼らが刃を抜くに至らなかったのは、近づいてきた青年がただちにその場に跪き、恭しく頭を垂れたからだ。
「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
誰、とアニークは額に汗する。お久しぶりの相手らしいがあいにくこちらに彼と知り合った覚えはない。こんな爽やかそうな若い騎士は見るのも話すのも初めてだった。
(誰? 誰なの?)
大弱りできょろきょろ周囲を見回すが、蟲でもなんでもない一般兵士たちは耳打ちなどしてくれない。自分でこの場を切り抜けるほかなかった。
(ど、どうしよう……。きっと『アニーク』の顔見知りよね。私のこと姫って呼んだし)
ああ、もう、ノウァパトリア宮でならともかくアクアレイアに来てまで未知の知人と出くわすなんてついていない。ユリシーズに早く物語の続きを読んでほしくて小会議室の様子を見にきただけなのに、こんな面倒が起きるなら部屋で大人しくしておけば良かった。
どうしよう。赤髪のつむじを眺めて考え込む。宿主の記憶がなくて困るのはこんなときだ。正しい対応が皆目見当さえつかない。
(あんまり身分高そうな人じゃないし、女帝に自ら声をかけるなんて無礼者、とか言って手打ちにしてしまおうかしら? 衛兵に追い出してもらうのが一番手っ取り早いわよね……)
宮廷内で作法をわきまえなかったのだから自業自得だ。だが結局アニークが騎士の非礼を責めることはなかった。顔を上げた男があまりに好みのど真ん中だったからだ。
「あの、ところで後日また改めてお礼に伺っても構いませんか?」
(サッ……、サー・トレランティア!?)
生真面目そうな太い眉、その下のまっすぐな眼差し。作中随一の推し騎士の若かりし頃はこんな青年だったに違いないという風貌。一気に体温が上昇し、困るだの困らないだのどうでも良くなる。
(何!? 誰!? カッコイイ!)
先程までとはまったく別の切実さでアニークは彼の名前を知りたくなった。なんなら趣味や好きな食べ物、愛読書や座右の銘も。
「ど、どちらさまだったかしら? お礼ってなんのこと?」
忘れてしまった素振りで尋ねる。すると騎士は面食らった顔で答えた。
「あ、ええと、俺は王都防衛隊の隊長だったアルフレッド・ハートフィールド……なんですが……」
微妙な空気にドギマギしつつ「そう、そうだったわね」と応じる。どうやら迂闊な発言をしたらしく、彼はアニークを変に思った様子だ。
(ああっ! 忘れちゃうような関係じゃなかったってこと!? やらかしたわ。ううー、なんとか好意的に解釈してくれればいいけど……)
渦巻く不安の嵐の中、アニークは表面だけはなんとか平静に会話を続ける。
「お礼を言われるようなこと、あなたにして差し上げたかしら?」
こうなったらできるだけツンと澄まして女帝然としているしかない。これは公の顔なのだ、使い分けをしているのだと示せば相手のほうが勝手にあれこれ想像して納得してくれるはずである。今までも困ったときはこの手でどうにか乗りきってきた。今回も乗りきれると信じよう。
「覚えておられませんか? コナー・ファーマーに託して、俺にパトリア石のピアスを賜ってくださったでしょう。分不相応ではありますが、この通り今も大切に持ち歩いています」
アルフレッドと名乗る騎士は懐に手を差し込み、柔らかい布に包んだ小さな貴石をアニークに示した。明るい青緑色の美しき球体。己の片耳で輝くものとそっくり同じその石に、びっくりしすぎて息を飲む。
(こ、この片方だけでもお気に入りの私のピアスを半分あげちゃうような相手だったの!?)
道理でさっきから鼓動が静まらないはずだ。きっと「アニーク」もこの男に熱を上げていたに違いない。だってユリシーズが霞むくらい、思い描いていた理想の騎士に近いのだから。
「そ……、そうね。お礼に来たいと言うのなら、いつでも訪ねてくるといいわ。アルフレッド・ハートフィールドと名乗れば通すように伝えておきます。ではまたね」
ボロが出ないうちにアニークはそそくさと退散した。ドレスの裾を淑やかに引きずり、護衛兵を後ろに伴い、ずんずんと通路を引き返していく。
(アルフレッド! なんて素敵な騎士かしら! すごいわ、さすが騎士物語を生み出した西パトリアね!? あんなドンピシャな人に会えるなんて!)
胸は高鳴るばかりだった。今さっき目にした騎士の顔を脳裏に思い浮かべるだけで頬がたちまち赤くなり、どうしましょうと狼狽する。どうすればいいかなど決まりきっているのだが。
新たに芽生えた欲望でアニークの心はいっぱいになっていた。
なんとしても彼を自分に仕えさせたい。側に置いて騎士物語を朗読させたい。ほかに一体何を望むことがあろう?
(王都防衛隊とか言ったわね。急いでどんな組織か調べなくちゃ。『アニーク』と彼がどんな関係だったのかも……!)
騎士物語風に仕立てたドレスの陰で拳を握る。
身体の芯が熱かった。こんな熱がどうやって今まで己の内に隠れていたのかと不思議なほど。
足は浮きそうなほど軽い。まるで満天の星の下、ダンスでも踊っている気分だった。
******
「まったく、さっきのはちょっとヒヤヒヤさせられたぞ。お前は時々衝動的に突っ込んでいくからな」
「す、すまない」
ルディアの小言にアルフレッドは縮こまる。妹にも「人前であんな話したら向こうも困るかもしれないじゃん」となじられてゴンドラの端で肩をすぼめた。風にそよぐ葦原までもがアルフレッドに呆れているかのようだ。
アニークに名乗り直さねばならなかったのが少々ショックで、ガラス工房に向かう小舟に乗り込んですぐ「なんだか前と雰囲気が違ったな」と零したら、二人から返ってきたのが「当たり前」との見解だった。
「天帝宮で孤立無援だったときと比べるな。あの女は今や東パトリア帝国皇帝という権力者なのだぞ」
「婚前に仲良くしてた男がいるなんて普通聞かれたくないでしょ。今は天帝のお妃なんだよ?」
軽率を戒める言葉にどんどん肩身が狭くなる。アルフレッドには頭を下げる以外なかった。
(だけどそれなら本当に忘れられていたわけじゃないんだな)
口には出さずにほっとする。バオゾで過ごしたあのひとときが彼女にとって価値なきものに成り下がったなら悲しいと沈んでいたのだ。己の働きは無意味ではなかったと信じたい。
「まあ顔色は悪くなさそうで良かったんじゃない? 固いオレンジ食べるしかなかった頃はちょっとやつれてたもんね」
「ああ、そうだな」
モモの台詞にこくりと頷く。アニークに関しては夫のことなど心配も多いがひとまず健康上の問題はなさそうで安心した。やはり人間元気でなければ何もできない。伯父も先の戦争で負った傷や病気のために酷く痩せてはいたけれど、動けるまでに回復して良かった。
(時間ができたらウォード家を訪ねてバスタードソードのこと伝えないとな)
あの人は気づいただろうか。腰に帯びた剣がひと回り小さくなっていることに。紛失したとは言いづらいが、楽な武器に持ち替えたとも思われたくない。やはりきちんと説明に赴かなければ。
「あ、そうだ。アル兄からアニーク陛下に謝っといてくれないかな。モモさ、コナー先生に『ピアスは赤い花と一緒に渡してくれ』って頼まれてたんだけど、あの時期そんなの咲いてなくって」
「わかった。伝えておくよ」
妹は「ありがとね!」と礼を述べた。そうこうする間にアルフレッドの漕ぐ舟は工房島へと近づいていく。窓からこちらが見えたのか、桟橋に着く頃にはアイリーンらがモリスとともに表に出てきて青い顔をますます青くさせていた。
「たた、大変よ、皆! アクアレイアで記憶喪失病っていうのが流行ってるんですって! そ、それがどう考えても脳蟲が関わっているとしか思えないの。いいい急いで街に調べにいかなきゃ」
「その話ならついさっき十人委員会で聞いてきた。防衛隊が患者の語学教育を任されたんだ。ちょうど今から療養施設に向かう予定だ。乗ってくれ」
「ええっ!?」
「早く早く! 船の上で説明するから!」
モモがアイリーンの腕を引っ張ってゴンドラに乗せる。ブルーノも猫の足で軽やかにジャンプして小舟の横木に飛び移った。
「相変わらず忙しないのう」
食事の支度をして待っているから頑張っての、とモリスが手を振る。親切なガラス工にアルフレッドは「ありがとう! ジェレムたちとは上手く行ったよ!」と声を張り上げた。
「アイリーンから聞いたぞい! こっちこそ礼を言う!」
レンズが光って眼鏡の奥は見えないが、モリスの声は嬉しげだ。ここに彼の愛息がいれば心の曇りは一切なくなっていただろう。
(早くバジルも助けてやらなきゃ)
やることが山積みだ。本当に、余計なことに頭を使う暇がない。ぐっと櫂を握り直し、アルフレッドは潟湖に佇むアクアレイア本島を見つめた。
吹き抜ける夏の潮風。燦然とした光もまた王国が王国でなくなる前と同じに明るく街を照らしている。
できることをやっていこう。それがきっと、自分や主君のためになる。




