第1章 その1
拍子抜けするほどあっさりと入国手続は完了した。どんな形でジーアン兵が絡んでくるかわからないと構えていたのに、商港でも税関でもルディアたちを留めたのは勤勉なるアクアレイアの役人たちだけだった。
以前と同じに積載物がチェックされ、旅先で伝染病にかからなかったかなど尋問される。外見でアクアレイア人と判別できるルディアたちはほかの外国人のように煩雑な書類記入も不要だった。すべてがまったく滞りなく王国時代と変わることなく動いている。拘束されたのは十五分ほどで、連れ帰った亜麻紙職人三名の旅券が通るとルディアたちはただちに自由の身となった。
「ああ……、帰ってきたのねえ」
青く澄んだ初夏の空、その天を突く大鐘楼を見上げてアイリーンが三白眼をすっと細める。大運河の河口に伸びた税関岬から見渡す街は穏やかで、住人に過度な緊張は見られなかった。人々は貯水槽の周囲に集まってお喋りしたり、ゴンドラで出かけたり、ごく普通にそれぞれの暮らしを営んでいる。
(ふむ。生活らしい生活はできているみたいだな)
ジーアン兵による搾取や虐待などは起きていないようでホッとした。女子供や老人も往来を闊歩できており、表面上は治安の悪化も見られない。
「どうする? まずどこへ行く?」
と、隣の騎士に尋ねられる。「とりあえずニコラス・ファーマーの家へ行こう」とルディアは答えた。
「乳母につけてくれた娘のことを伝えねばならんし、コナーから連絡が入っていないかどうかも知りたい。それに彼らの世話を頼みたいからな」
ルディアが褐色肌の亜麻紙職人たちを見やるとハートフィールド兄妹が頷く。ニコラス老は十人委員会の重鎮でコナー・ファーマーの父親だ。どうせ接触を図るなら早いほうが良かった。
「私たちはモリスさんに無事を知らせにガラス工房へ向かうわ。心配してると思うから」
白猫ブルーノを抱いたアイリーンが王国湾を振り返る。別行動の許可を願う彼女に「わかった」と短く返し、ルディアはモモとアルフレッド、亜麻紙職人たちを連れて時間貸しのゴンドラに乗り込んだ。
「よし、出すぞ」
頼むまでもなくアルフレッドが櫂を持つ。間もなく舟は流れに逆らい、広々とした水の通りを滑り始めた。
(さて、いよいよこれからだな)
ルディアは唇を引き結び、陽光を照り返す大運河を見回す。緩やかにうねりながらアクアレイアの街を貫くこの大水路は都市の大動脈であり、住人の困窮度を映す鏡だ。飛沫を上げる商船の少なさにルディアは眉を険しくした。ただ船はゼロというわけではない。塩や魚、地産の商品の売買はある程度なされているようだ。完全にいなくなったかもと恐れていた買いつけの西パトリア商人も散見される。彼らはジーアンの一部となったアクアレイアから撤退するかと思っていたのに、どこの世界にも怖いもの知らずはいるらしい。
天帝は「アクアレイアに外国人立ち入るべからず」との勅令は発さなかったらしかった。頭にターバンを巻きつけたノウァパトリア商人など昔より増えたのではと感じるほどだ。もっとも彼らの運んできた香辛料に手を出せる地元民は少なく、胡椒河岸をうろつく買い手はもっぱら西パトリア商人であったが。
「商売してるの、なんかよその人ばっかじゃない?」
「ああ、そうだな」
ハートフィールド兄妹も異常を察して顔を歪める。通りすぎる風景を睨み、ルディアはしばし黙考した。
商人とは物の集まるところに集まる生き物だ。これまではアクアレイア人がノウァパトリアで買い込んだ交易品をアクアレイアに持ち帰り、西パトリア人に売るのが当たり前だった。だがノウァパトリアの商人が直接アクアレイアにやって来て西パトリア人に交易品を売るとなると、アクアレイア人の関与する隙がない。定期商船団を組めれば物量で圧倒できるが、今のアクアレイア人の財力では眼前で行われる取引を歯軋りして見守るしかないのではなかろうか。
(やはりアクアレイアには新産業が必要だ)
まずは冷えきった懐を温めねば。東方交易は儲けも大きいが初期投資の額も大きい。だが最初の金さえ出せるようになれば一人また一人と立ち直れるはずである。
(本来はその手助けをしてやるのが貴族の役目なんだがな……)
軽快に運河を遡っていく舟の上で溜め息を押し殺した。真珠橋を越えた先のファーマー邸。そこに着くまでに目に入った、住人不在の屋敷の数は片手では数えきれなかった。外国商人に買われたと思しき建築物を含めれば逃亡貴族の痕跡は二十を越えたのではと思う。
頭の痛い事態だった。これでは彼らの担ってきた海軍も、評議会も、ろくに成立していないのではなかろうか。
******
貴族の屋敷は通常広い運河沿いにあり、ほとんどが個人商館を兼ねている。一階には船を横付けできる桟橋、石造りの頑丈な倉庫、商談のための応接間が設けられ、二階より上が居住部となっていることが多い。仕事の場と団欒の場を分けているのが中庭で、回廊奥の階段から大人たちのやり取りを覗き見するのがアクアレイアの令息令嬢の英才教育であった。
ファーマー家の間取りもこれと似たもので、ルディアたちはどこかがらんとした応接間で当主を待つ。約束なしの訪問だったが老婦人は「今日はもうじき帰ってきますので」と快く一行を中に入れてくれた。浅黒い肌をした同行者についても「紹介したい職人です」のひと言で済んだくらいだ。世代的にはロマと誤解して煙たがってもおかしくないのに老婦人はこういった面会希望者には慣れている風だった。
「ここにあった絵、外しちゃったんだね」
と、部屋を見回していたモモが呟く。
「えっ? お前来たことあるのか?」
アルフレッドが不思議そうに問いかけると「そうじゃないよ。額縁外した痕があるじゃん。売り払ったのかなあ」と少女は穏やかでない台詞を述べた。
だろうなとルディアも湿気で傷んだ壁紙に目を向ける。ファーマー家でさえこんな状態にあるのだ。もっと小規模な商売を営んでいた者たちはどうなっていることやらと嘆息は尽きなかった。
「おお、おお、久しぶりだの、防衛隊諸君。どこぞで野垂れ死んだかと案じておったぞ」
ニコラス老が現れたのは昼過ぎで、少々疲れた様子だった。さっと椅子から立ち上がり、ルディアたちも挨拶の一礼をする。
「すっかり遅くなって申し訳ありません。これまでのこと、報告に伺いました。それと旅先で知り合った者が我々に亜麻紙職人を三名貸してくれましたので、その紹介も」
「ほう、亜麻紙職人とな?」
職人たちが会釈するとニコラスはルディアを見やって説明の続きを求めた。
彼らの出自やアクアレイア人に授ける予定の技能について、紙はぼろ布からも作れ、困窮した人々の救済措置になるかもしれないことを伝えると老賢人はほほうと頷く。
「ありがたいのう。見ての通りアクアレイアは貧しくなってしまってな。値のつくものが売れるなら助かる者も多かろうて」
「ええ。ともかくあなたのもとへ連れてくれば適切な環境を整えてくださると思いましたので」
「ああ、さっそく工房なり人なり用意しよう。おおい婆さんや、こちらの方々を客室でもてなして差し上げてくれい!」
ニコラス老は素早すぎるほど素早い対応をしてくれた。船上で覚えた片言のアレイア語で亜麻紙職人たちは防衛隊に別れを告げる。
これで少しずつアクアレイアにも紙作りが広まっていくだろう。レイモンドが新しい印刷機を持ち帰ってくる頃には、困らない程度の紙が生産されているはずだ。
「──」
一瞬よぎった明るい顔を散らすようにかぶりを振る。「で、ここからは内密の話なのですが」とルディアがニコラスを振り返ると、老人は「うむ、わかっておる。イーグレット陛下のことじゃろう?」と細い顎の先で勝手口に続く扉を示した。
「内緒話は箱の中でじゃ。それにこれから定例会議の時間での」
「定例会議? ということは、十人委員会は機能しているのですね?」
ルディアの問いにニコラスは「一応な」と渋面で答える。老人曰く、評議会は事実上解散となり、数の減った王国海軍も今やラオタオお抱えの護衛船団と化したそうだ。予測が当たり、ルディアは無言で顔をしかめた。
「二百人いた元老院も今ではたった五十人じゃ。この五十人が評議会の分まで行政を担当してくれておる。じゃが厳しいな。貴族でも満足な金を持っている者はほとんどおらん。どうにか凌いではおるが、このままではいずれ元老院も解散の憂き目に遭おう」
「元老院に残っているのが五十人だけ、ですか」
最悪ではないにせよ、崖っぷちにあることを思い知らされて声を失う。
政治が貴族のものなのは、それが無給の名誉職であるからだ。言い換えれば政治をする時間と金のある者だけが政治に関わる資格を維持できるわけである。農地を持たないアクアレイアという国は豪商たちの稼ぎに支えられてきたのだ。
経済的なダメージが、今は人的ダメージにまで広がっている。このままでは元老院の解散だけでは済むまい。苦い思いでルディアは下唇を噛んだ。
「っと、いかんいかん。鐘が鳴り始めたわい」
そのとき外からゴーン、ゴーンと大きな音が響いてきて、ルディアは目玉をひん剥いた。この打ち方は十人委員会の招集の合図である。これから定例会議とは聞いたが、まさか鐘で呼び出しがあるとは思わなかったのだ。
「ひ、秘密裏に集まっているのではないのですか!?」
驚いて問うと老賢人は「いや、相変わらずレーギア宮の小会議室に集まっておるよ」と答えた。
「どういうわけかジーアン人はあの重い関税以外、我々に以前と同じ暮らしを許してくれているんじゃ。彼らのやることに関しては確かに治外法権じゃが、アクアレイアのことはほぼアクアレイア人のみで決められるし、過大な要求も抑圧もない。連中は我々と関わるつもりがないのかと思うほどでな」
ニコラスは裏の水路に通じる勝手口を開いてこちらを振り返る。急いでくれと促され、ルディアたちは船室付きの豪華なゴンドラに次々と乗り込んだ。
「わあ、すごい! ソファがついてる!」
「こら、モモ!」
はしゃぐモモにアルフレッドがシッと人差し指を立てる。対面型の座席の奥に腰を落ち着け、ルディアは中を一瞥した。なるほどここなら密談に相応しい。外界とは水と壁によって切り離されるし、漕ぎ手が信用に足る者なら安心して話ができる。
「よっこらせと」
最後にニコラスが小さな部屋の扉を閉めて内側から鍵をかけた。
「お前たちの報告は委員会の面々とともに聞くとしよう。それより先に伝えておきたいことがある。実は今、東パトリアの女帝がレーギア宮に滞在しとるんじゃ」
「えっ!? アニークひ……、あ、いや、女帝陛下がですか?」
「こら、アル兄!」
半ば身を乗り出したアルフレッドに今度はモモがシッと人差し指を立てた。ニコラスの言うことには、女帝の外遊に付き添ってジーアンの名高い将の一人であるファンスウも来ているらしい。日頃から頻繁に顔を出すラオタオも一般のジーアン兵も中庭に天幕を張っているそうで、粗相のないようになとのことだった。
「知っとるかね? ドナがジーアン退役兵の放埓極まりない街になったこと。彼らが贅沢をしてくれるおかげで我々はなんとか食い繋いでおるが、このままでは絶対にいかん。このままでは……」
ニコラスは眉間に深いしわを寄せてぼやく。
レーギア宮に向かう間、老人はアクアレイアの現状を事細かに教えてくれた。収入の絶えた多くの人間が食べていくために自らドナへ渡ったらしい。裏町の娼婦らなど退役兵の街ができた翌週にはアクアレイアから姿を消してしまったそうだ。
アンディーン像は奪われるし、奇病は流行るし散々だ、と老人は嘆く。更に聞けば空っぽになった大神殿の祭壇には新しく東方の神が祀られたらしかった。それ即ち、天帝ヘウンバオスを象徴する黄金の馬の像が。
「ええ!? ジーアン人、好き放題やってるじゃん! アクアレイアのこと全然放っといてくれてないじゃん!」
話が違うとモモが叫ぶ。許しがたいという表情でアルフレッドも拳を握った。
「それが馬像を据えたのはアクアレイア人なのじゃよ」
「ええっ!?」
にわかに船内がどよめく。ニコラスは嘆息とともにアクアレイアが現在二つの派閥に分かれつつあることを打ち明けた。
「十人委員会でも意見は二つに割れておる。我々はジーアン帝国からの独立を願っているが、彼らはジーアン帝国内の都市として力をつけ、自治権の永続を認めてもらおうとしているのじゃ」
「えええっ!?」
再びゴンドラが揺れた。永久自治権の獲得。それはルディアの頭にもなくはなかった考えだが、ニコラスの口ぶりでは大きな支持を集めているようで驚く。
「帝国自由都市──ジーアンに属しはするが、必ずしも帝国の命令に従う必要なく、自由に自分たちを治めていいと認められた都市のことじゃ。実はドナがその第一号でな」
「……!」
目と鼻の先に富と自由を謳歌する街がある。それがアクアレイア人に「無理に再独立を目指さなくていいんじゃないか?」と思わせている要因のようだ。
なるほどな、とルディアは深く息をつく。なんのためにそんな街を作ったのかは解せないが、また厄介なものができたらしい。
「独立派と自由都市派か……」
すぐ横でアルフレッドが息を飲んだ。二派に別れ、醜く争うカーリスを見てきただけに、故郷がそんな有り様と聞いた騎士は複雑そうだ。
「とは言え独立派も自由都市派も今すぐに何かできるわけではないからのう。とりあえずまだ十人委員会の結託が乱れるような事態にはなっておらんよ」
そう聞いて少しほっとする。ルディアは老練な政治家諸氏を思い出しつつ、ふと頭にもたげた疑問を口にした。
「ところで十人委員会は、まだ十人という単位を保っているのですか? 陛下や王女、クリスタル・グレディの抜けた穴を埋めた者が?」
この問いに対する返答は三度目の激震をもたらした。更に彼が自由都市派の筆頭だという事実も聞かされる。まったくいつも行く手を塞いでくれる男だ。
新しく十人委員会に任じられたのは三名。コリフォ島基地の司令官であったトレヴァー・オーウェン、同じく元海軍中将ブラッドリー・ウォード、そして最後の一名は──。
******
「ずっと、ずっと、あなたをお慕いしておりました。そう言えればどんなにかこの胸が楽になるかわからない。それなのにあなたは私に杯の酒を漏らすなと仰せなのですね。ああ、あなたへの愛が憎しみに変わりそうです! どうして一番側にいる私に一番酷いことをなさるのです? 我が姫よ!」
「ああっ! いい、いいわ、サー・セドクティオ! その台詞たまらないわ、本当に最高よ!」
「そうですか。それでは私はそろそろ大事な会議が始まりますので」
パタンと書見台の騎士物語を閉じ、ユリシーズはワガママ女帝にお辞儀する。そのまま退席しようとしたのに空気の読めない馬鹿女はユリシーズのマントをぐいと後ろから引っ張った。
「こ、ここでひと区切りにするつもり!? あなた空気が読めないの!?」
ものすごい山場じゃない、とアニークが先程までユリシーズの腰かけていた椅子を指差す。座して続きを朗読しろということだろう。これ見よがしに嘆息できたらどんなにかこの胸が楽になるかわからない。内心で皮肉を呟きながらユリシーズは「私にもほかに仕事があるのですよ」と訴えた。
「うう、あなたの整った顔、サー・セドクティオのイメージにぴったりだから全部の台詞を読んでほしいのに……」
「私のいない間は商人でも呼んで時間をお潰しください。またあなたのお好きそうなのが登城しておりましたよ。騎士の中の騎士の剣、是非とも女帝陛下にご照覧いただきたいとか言って」
「騎士の中の騎士の剣、ですって!?」
色めき立ってアニークが衛兵に控えの間の商人を呼んでこさせる。ふう、と小さく息をつき、ユリシーズは今度こそ女帝の前を下がろうとした。
「まあ、片手半剣だわ! セドクティオ──じゃなくてユリシーズ! あなたの剣と同じじゃない!?」
辞去しようとしているのに無視しておいでおいでされる。仕方なく女帝の側に近づけば愛想笑いの下級商人が「いい品でしょう」と黄色い歯を覗かせた。
(ちっ、みすぼらしいなりで宮廷に上がりおって)
こんな者にまでアニークの騎士物語趣味が伝わっているのかとうんざりする。最初にこの女が「素敵な騎士……! まるで本の中から出てきたみたい!」とユリシーズを外遊中の側付きにしたいと言い出したときは「ラオタオより上の者の考えを知るチャンスかも」と喜んだのだが。
「ん? この剣の紋章は……」
と、バスタードソードの柄に入った鷹の意匠に目を留める。鈍い赤色の鞘もどことなく見覚えがあった。
(鷹の紋章と言えばウォード家の……)
ゴーン、ゴーン。そのとき大鐘楼で二度目の鐘が鳴り響いた。女帝の部屋に使いを送るのは失礼かと考えた十人委員会の面々が鐘を撞かせてユリシーズに早く来いとせっついているらしい。
「申し訳ありません。一旦下がらせていただきます」
ユリシーズは一礼すると部屋を出て小走りに小会議室へと向かった。そこに新たな波乱の種が顔を出しているとも知らず。




