第2章 その8
高らかな鐘の音がごった返しの円形広場に三時を告げる。待ち望んだ儀式の始まりが訪れたことを知るや否や民衆は騒ぐのをやめ、花売りも焼菓子売りも大道芸人も見物客の一人となった。
ひそひそとさざ波めいた囁きがそよ吹く風に運ばれる。カーリス人の聴覚は少しずつ近づいてくる車輪の音に釘付けだ。
「おお、来たぞ!」
「どれ? どれが女神アンディーン?」
「見えないよぉ!」
「やだ、ちょっと! 押さないで!」
観衆の前に愛らしい子供らが花を撒き撒き現れると広場は一斉に沸き立った。手前の女に肘をぶつけられそうになり、ルディアはおっとと身をかわす。
どんどん増えるカーリス人に押される形でルディアたちは広場のほぼ中央に立っていた。右前方に目をやればこじんまりした新アンディーン神殿が、正面に目をやれば何列かの人垣の奥に今日の花道が窺える。
竣工式など名ばかりなのはすぐ知れた。花撒きが先導を務めるのは一般的に結婚式のみである。アクアレイアでのアンディーン祭が求婚に留まるのに対し、ローガンはその先へ踏み込もうというのだ。最初からわかっていたことだが、実際目にすると想像以上に反吐が出る。本当に短絡的にこのパフォーマンスを選んだのだなと。
ルディアの胸中とは対照的に、花籠を手にした子供たちは誇らしげに神殿へ歩く。恍惚とした笑顔のまま彼らは空っぽの祭壇を囲み、恭しく膝をついた。
次に広場に現れたのは新郎新婦を乗せた車だ。重たげに、実にゆっくり進むそれを幾本もの縄で引くのは逞しく麗しい青年たち。意外にも聖像の左、花婿の席に座すのはローガンではなくジュリアンだった。少年は唇を曲げ、少しも嬉しくなさそうに晴れた空を睨んでいる。
(なるほどな。成人が近い一人息子のお披露目の意味もあるのか)
ローガンはというと黄金の車から少し遅れて歩いていた。武装した兵に周りを固めさせ、王様気取りで手なぞ振っている。大切そうに抱いている箱の中身が女神につける指輪だろう。どんな財宝を贈っても意味がないのに愚かなことだ。
(そうだ、全然意味がない。こんな中身の伴わぬ儀式は)
ルディアは虚飾に満ちた行列をねめつけた。アンディーンの本性はあんな石の像ではなくどこまでも広がる海である。アクアレイア人は彼女の姿を聖像に彫刻こそすれ海に面した大神殿より遠く引き離すことはしなかった。求婚も、いつだって海そのものにしてきたのだ。たとえ精霊祭の日にどんな嵐が来ようとも。
(アクアレイアに戻ったら詳細に知らせてやろう。カーリス人は結婚ごっこですっかり満足していたと。アンディーンの心にかなうような行為は一度だって見られなかったと)
耳に入った噂では、聖像を奪われたアクアレイアでは疫病が猛威を振るい、多数の死者を出したという。貴族は他国に逃げ散じ、残った海軍も若狐に顎で使われ、女たちはドナに住まう退役兵に媚びへつらって暮らしていると。
竣工式の様子を聞けば祖国の民もいくらか安堵するはずだ。だからきちんとこの目で見届けねばならない。くだらない、低俗下劣なこのお遊びを。
「アンディーン! アンディーン!」
「アンディーン! アンディーン!」
広場を包む大音響。無知蒙昧を自覚せぬ盛り上がり。フードの下でルディアはぎりりと奥歯を噛む。
そのときだった。拍手喝采の中を行く乙女像に何かが投げつけられたのは。
新郎新婦を乗せた金襴の車はちょうどルディアたちの目の前にあった。丸い影が視界を横切って飛んでいき、次に見えたのは台座にべっとりついた赤色。辺りに散った残骸から、それがつい先刻まで広場で販売されていたラズベリーパイだと察するのにたいした時間はかからなかった。
「うわっ!」
「なんだなんだ!?」
パイは次々飛んでくる。異変にどよめきが巻き起こり、民衆は不安げに周囲を見渡した。
飛距離が足りずにルディアの頭に落っこちてきたパイもある。アルフレッドが庇ってくれて事なきを得たが、頭がジャムまみれになった人間は既に一人や二人ではなさそうだ。
(なんだこれは? まさかハイランバオスの仕業か?)
一瞬別れたエセ聖人を疑ったが、すぐにそうではないと気づく。聖像にパイを投げつけようとする男の一人が目に入り、去年の記憶が甦ったのだ。「あいつリマニで倒したごろつきじゃないか」と。
「気をつけろ、何かおかしい。ラザラスの手下が紛れ込んでいる」
すぐさまルディアは仲間に注意を促した。パイ投げは止まず、あちらこちらで人々がきゃあきゃあ叫び声を上げている。
聖像もジュリアンも汚れて真っ赤だ。怒ったローガンが「やめさせろ!」と護衛に怒鳴った。悪戯者の取り締まりに向かった兵は三割ほどであっただろうか。だがそれでも生じた隙は十分だった。
「今だ、かかれ!」
誰かの──おそらくラザラスの号令が響く。一斉に剣を抜く音がして、悲鳴が広場にこだました。
「ローガン、覚悟!」
「旦那様!」
「のわああああッ!?」
あっという間に広場はラザラス派とローガン派の揉み合う戦場へと変わる。一般市民は押し合いへし合い逃げ惑った。その波に飲まれ、たちまちルディアは仲間の姿を見失う。
「姫様!」
「モモ! アルフレッド! オリヤン!」
どこだと叫ぶが見回して探す余裕はない。突き飛ばされずに踏みとどまるので精いっぱいだ。
甘酸っぱいラズベリーが香る中を激しい剣戟の音が響く。ふと気がつけば刃閃く小競り合いは目と鼻の先であった。
「おのれラザラス! これほど味方を増やしていたとは!」
「我らの双子神に後ろ足で砂をかけたローガンに未来はない! ジェイナスの守る扉は閉ざされたぞ!」
切り結ぶ兵士たちは辺り構わず剣技を放つ。とばっちりを避けて横飛びするも今度は「貴様、ラザラスの手の者か!?」と別の兵士に切っ先を向けられた。
「こっちだ!」
すんでのところで誰かの腕が伸びてきて、人波に引き込まれる。見上げるとアルフレッドが「ここにいたら帯剣しているというだけで巻き添えを食らうぞ!」とルディアの手首を掴み直した。
「モモとオリヤンは!?」
「さっき二人で逃げるのが見えた! 俺たちも行こう!」
土煙が舞い上がる。逃げ道を探す人々が進路を塞ぎ、建物さえもろくに見えない。
まったく酷い混乱だ。右も左もわからぬままルディアは広場をひた走った。痛いほど力をこめる忠実な騎士に手を引かれて。
******
走って、走って、どこまで逃げたか。
腕はいつまで掴んでいたのか。
港を目指していたはずが切り立つ崖に突き当たり、アルフレッドは砂利道を行く足を緩めた。どうやら道を一本間違えたものらしい。海は見えるが埠頭は遠く、辿り着いたこの場所には断崖を下る脇道などもないようだった。
「……すまない、戻ろう。こっちじゃなかった」
すぐ横で汗だくになって呼吸を荒らげている主君に土地勘のなさを詫びた。大パニックの市民広場を抜けてきたはいいものの、カーリス人の街で迷子では状況が好転したとは言いがたい。早く安全圏であるオリヤンの商船に帰らねばならなかった。
「ちょっと待て、走りすぎてくたびれた。少し休んでからにしないか?」
ここまで来れば平気だろうとルディアが道端にへたりこむ。街の外縁らしい岬には深い緑が生い茂り、涼しい木陰ができていた。そうそう人の訪れそうな場所ではないし、まあ大丈夫かとアルフレッドも息をつく。念のために右手は剣から離さなかったが。
「……死んだかな?」
ぽつりとルディアが問いかける。「わからない」とアルフレッドは率直に首を振った。
最後に見たときローガンは甲冑騎士らの真ん中で威勢良く指示を出していた。ジュリアンも車中に身を伏せていたし、凶刃は届かなかったのではと思う。
「生きている可能性のほうが高いんじゃないか?」
「やはりか。ラザラスの奴、再起を焦って自滅したな」
カーリスの内乱もこれでほぼ終局かとルディアが短く息をつく。彼女としては今しばらく身内同士で争っていてほしかったようだ。共和都市の攻撃対象がまたアクアレイアに移らぬように。
「おそらくすぐにローガン派による残党狩りが始まるだろう。我々はもう街に入らないほうがいい」
アルフレッドはこくりと頷く。気の立っているカーリス人がアクアレイア人を見つけて穏便な対応をしてくれるとは思えなかった。主君の言うように出航まで大人しくしているのが賢明だ。
「息は整ったか?」
商港へ急ごうとアルフレッドはルディアに手を差し伸べる。その手を掴んで身を起こし、彼女はぶふっと唐突に吹き出した。
「ど、どうした?」
「ふふっ、お前、頭がすごいことになっているぞ」
言われて左手で髪を触るとベタっとしたものがくっつく。ルディアを庇って被弾したラズベリーパイだ。走って逃げるうちに大半は落ちていたが、ジャムはまだしつこくこめかみに絡まっていた。
「髪と同じ色だから気づかなかった。ほら、これで拭け」
珍しい出し物を楽しむ顔で彼女が言う。かあっと頬を赤くしてアルフレッドは差し出されたハンカチを受け取った。
「す、すまない。洗って返す」
主君の前でみっともない。そそくさと汚れを拭き取り「それじゃ行こう」と呼びかける。するとまたしても大きく腹を抱えられた。
「今度は髪が斜めに跳ねたぞ。笑わせてくれるな」
堪えきれないと言うようにルディアが肩を震わせる。そんなにおかしな髪型になっているのだろうか。自分では確かめられないからわからない。
「これで直ったか?」
こめかみを撫でつけながら尋ねると主君は屈託ない笑みでこちらに長い指を伸ばした。
ほんの一瞬、なんの他意もなく手が触れて、呆気なくまた離れていく。
「よし、では行くか。ここまで来れば港はすぐだ」
「…………」
腕を取りたい衝動とアルフレッドは戦わなければならなかった。先程まではそうする理由があったけれど、今はそんなもの何もないから。
(レイモンドなら、理由なんて考えないで動くんだろうか)
半歩後ろに張りついたまま手は剣以外に触れなかった。……触れられるわけがなかった。
******
「あっ! 良かった、二人とも無事みたい!」
亜麻紙商の大型帆船に兄と主君が連れ立って戻ってきたのを見つけ、モモは安堵の息をつく。己とオリヤンもつい先程ほうほうの体で帰還したばかりで、探しに出るかここで待つべきか悩んでいたところだったのだ。
「そっちも五体満足で何よりだ」
オリヤンの投げた縄梯子を上ってきたルディアが言う。アルフレッドも肩の荷が下りたというように全身を弛緩させた。
「髪を洗いたいんだが、水桶を借りていいだろうか?」
「ああ、いいとも。そこの溜め水を使うといい」
フードを脱いだ兄を見て「うわ、アル兄頭べたべたじゃん!」と顔を歪める。綺麗好きの自分にはカーリス人のやり方が二重に信じられなかった。せっかくの美味しいスイーツをこんなことに使うだなんて。
「汚いなあ、拭いてあげるから早くそこ座って! ああもう、ほんと信じらんない! あいつら食べ物を粗末にするなって教わらなかったのかなー!?」
「モモ、痛い。もっとそっと拭いてくれ」
甲板に座す兄の頭を濡れ布巾でごしごし擦る。文句が聞こえた気がしたが、力加減は変えないままでべたついた頭皮を拭った。
「モモ、頼むからもう少し優しく! 髪が抜ける!」
「ハゲたらハゲたときでしょ! これじゃハンモックに虫が湧くよ!」
「あっはっは! それは困る、しっかり汚れを落としてもらえ!」
騒々しい若者たちに微笑ましげな視線を向け、オリヤンが「大丈夫そうだね」と頷く。荷揚げ関係の仕事を片付けてくるという亜麻紙商を見送ると、モモは再び洗浄に戻った。
「あいたたた……。まだ頭がひりひりするぞ」
「ダニに刺されたら痛いし痒いしもっと悲惨だよ? ほら、モモにありがとうは?」
「あ、ありがとう……」
「オッケー、行って良し!」
「はは、良かったなアルフレッド」
楽しげに兄妹のやり取りを見守っていた主君の顔色が変わったのはその直後だ。アルフレッドが立ち上がったのと同時、ポケットに手を入れたルディアが身を固まらせた。
青ざめた主君を仰ぎ、モモは「?」と首を傾げる。ルディアはすぐに反対のポケットも探ったが何も見つからなかったようで、今度は目を皿にして足元を見回し始めた。
「な、何? 姫様どうしたの?」
見上げたルディアの額にはじわりと汗が滲んでいる。縄梯子をかけた船縁に駆け寄って桟橋に目を凝らす彼女はいつ船を飛び出してもおかしくなさそうに見えた。
「何か落とし物でもした? 船の外には出ないほうがいいと思うけど……」
残党狩りが始まっているだろうしと付け加える。わかっているからルディアも足を留めているのだとは思うが。
「もしかしてあのお守りか?」
モモの知らぬ事情を察したらしい兄が主君に問う。硬直したまま返事がないのが十分な返事だったようで、アルフレッドは「俺が行く」と汚れたフードを被り直した。
「アルフレッド!」
「日が沈むまでに見つからなければ戻ってくる。あなたは船で待っていてくれ」
告げるや否や兄は縄梯子を伝い、猛スピードで桟橋を駆けていく。どうして止めないのだと瞠目し、モモはルディアを振り返った。常の彼女なら行くなと命じているはずだ。今はあまりに危険すぎると。アルフレッドとてまずは主君を諫めただろう。
「……お守りってなんの話?」
怪訝にモモは問いかけた。上手く言葉にできないが、何か噛み合っていない気がして仕方ない。以前は齟齬など感じたこともなかったのに。
どこかおかしい。今までと何かが違う。兄もルディアも二人ともだ。
「いや、実は……」
彼女は話しづらそうで、まだ少し上の空だった。自分たちはこのまま祖国に帰っても大丈夫なのかと小さな疑いが生じるほどに。
******
先刻ルディアがハンカチを貸してくれた崖の木陰に小さな牙は落ちていた。そっと地面に跪き、首飾りを拾おうとして手を止める。「見つからなかった」と報告すればどうなるだろうと考えて。
「…………」
くだらない空想だ。落ち込む彼女を思い浮かべてしまう前に雑念を振り払う。
革紐を掴んでアルフレッドはポケットにお守りを押し込んだ。幸い残党狩りの手はまだここまで伸びておらず、岬は静穏そのものである。トラブルに巻き込まれる前に船へ戻れそうだった。
(姫様……)
見たことのない顔をしていた。人前で取り乱すなど滅多にない人なのに。
勇ましく、逞しく、常に前を見据えている。それが自分の知るルディアだ。ほかの彼女はほとんど知らない。強くあろうとする彼女しか。
港へと歩を速めつつ、アルフレッドは初めてルディアに謁見した日のことを思い出していた。防衛隊の結成が決まり、主従の誓いを立てたあのとき。
──隊長はあなたに任せます。心ばえ正しく立派な騎士になってください。
伯父から貰った片手半剣に美しい王女が口づけを授けてくれた。それだけで胸がいっぱいになったのを覚えている。素晴らしい人が己を騎士にしてくれた、彼女に仕えている限り己は騎士を名乗っていいのだと。
なぜ色褪せて思えるのだろう。本物の宝石の輝きを前に、宝物だったガラスビーズがつまらなく見えるように。もっといいものを賜った者がいたとしても自分には関係ないと、どうして納得できないのだろう。
帰り道は短かった。絡まった心の糸がほどけないままアルフレッドは主君の待つ甲板に上がった。
「どうだった?」
傾き始めた太陽が作る濃い影でルディアの顔がよく見えない。
「あったよ」
できるだけ平静にお守りを渡せば彼女は小さく息を飲んだ。
「……すまない。手間をかけさせた……」
うつむいたルディアの目の端が光って見えたのは錯覚か。
肩をすくめて嘆息した妹が船室に引き揚げる。アルフレッドはただぼんやりと王女の前に立っていた。あるいは何か褒美があるかもと期待を抱いていたのかもしれない。
出航許可が下りたのはそれから一週間後だった。封鎖の解けたカーリス港を後にして船はトリナクリア島へと向かう。リマニでオリヤンと別れると次の船に乗り換えた。
その後は特に問題らしい問題もなく、六月下旬、アルフレッドたちはついに祖国へ帰還することとなる。