第2章 その7
招かれざる客が訪れたのは昼過ぎ、ローガンが愛息とともに身支度を終えた直後だった。重用する女騎士がすまし顔を少し乱して現れて「あの、亜麻紙商のオリヤン殿といつぞやのアクアレイア人です」と耳打ちする。
「何!? アクアレイア人だと!?」
そこで狼狽しなければまだ良かったのだが、なんとも間が悪かった。行進用の台座に乗せた乙女像を見上げて悦に浸っていたものだから、不意打ちすぎてつい大声を出してしまったのだ。
「えっ!? 来客ってまさかあの方々ですか!?」
喜色満面で隣のジュリアンが振り返る。つい先程まで面白くなさそうに頬を膨らませていたくせに。一体この子は何がそんなに嬉しいのだ。いくら善行を積んだとて所詮連中はごうつくばりのアクアレイア人だというのに。
「儀式の前だぞ! 追い返せ!」
会わせたくない気持ちが勝り、そう命じるも「お父様!」とどやされて結局何も言えなくなる。間もなく広間にこだました不遜な声にローガンは強く眉根を寄せた。
「──我が子の命の恩人に随分な態度だな」
振り返れば大玄関には忌々しいアクアレイア人どもの色彩豊かな頭が四つも並んでいる。前より増えているではないかと隠しもせずに舌打ちした。
「ふん、何が恩人だ。お前たちへの借りならパーキンの印刷機を返してやった時点でチャラになっとるわ! いつまでもせこせこと鬱陶しい。商売人よりも借金取りのほうが向いているのではないか?」
「お父様!」
金の袖を振り上げてジュリアンがこちらを睨む。相応の礼を尽くしてくれと息子は無言で訴えた。だが長年煮え湯を飲まされてきたアクアレイア人相手にへりくだるなど到底できるはずがない。この場で縄にかけないだけ感謝しろと言いたかった。
「で、一体なんのご用ですかな? 商談なら後日にしていただけませんかね。実は大切な式典の直前で、こう見えて忙しいのですよ」
青髪の剣士も赤髪の騎士もピンク髪の少女も黒髪の美青年も無視して最奥に立つ亜麻紙商に話しかける。馴染みの豪商は人当たりのいい笑みで「いやあ」と薄いこめかみを掻いた。遠回しに迷惑だと伝えているのに帰る気はなさそうだ。この男もアクアレイア人の味方かとうんざりする。
「なんの用かだと? わかっていて聞くのはよせ。こんな悪趣味な婚礼衣装を着せおって、貴様こそ女神をなんだと思っているのだ?」
勝手に家に上がってきた非常識な客人は勝手に広間をつかつか進んで台座を彩るレースやリボンを引っ張った。ともすると聖像に被せた薄絹のヴェールが裂けそうで、大慌てで止めに入る。
「こ、こら! 触るな!」
制止はすぐに聞き入れられたが向けられる殺気は増すばかりだった。青髪の剣士──確かブルーノと言ったか──は侮蔑も露わに冷たく言い放つ。
「公開処刑も同然だな。仮に生きたまま捕らわれていれば、陛下もこんな目に遭わされていたわけか」
無意識にローガンは息を飲んでいた。耳から毒でも流し込まれたかのようにたちまち背筋が凍りつく。
「き、貴様、私に竣工式を取りやめろと言いたいのか?」
かぶりを振ってローガンは声を張り上げた。こんな若造に気圧されるなんて共和都市を率いる者には許されない小心だ。ラザラス一派を黙らせておくためにもこれ以上隙は見せられない。
「別に? ただ私は、アンディーンは二股をかけられて大人しくしているような女ではないと警告しに来てやっただけだ。ああ、ジェイナスは双子神だから三股ということになるのかな?」
暗に旧来の守護精霊で満足できない愚か者めと罵られ、頭に血が上ってくる。水面下でラザラスたちが「このままではジェイナスの怒りに触れる」とデマを流していると報告されたばかりだったから、なおのこと苛立ちが募った。
「……っ! 聞き苦しい負け惜しみを! 波の乙女を寝取られたのがそんなに悔しかったのか!? そうかそうか! アンディーンは我々カーリス人が貞淑な妻に躾けてやるから安心して見ているがいい! 神殿も、アクアレイアのものよりずっと素晴らしい神の家にしてみせよう!」
さあ帰れ、と顎で促す。だが青髪の剣士は頑として聖像の前を退かなかった。それどころか痴れ者の強欲を嘲笑う口ぶりでローガンを煽ってくる。
「アンディーンがカーリスなどに加護や恩寵を与える気になるとは思えんがな。まあせいぜい嫌われないように努力することだ。知っているか? この石像の内部にはご神体である真球のブルーパールが埋め込まれている。扱いを誤れば一族郎党子々孫々に至るまで災いが降りかかるぞ」
「なっ」
瞠目し、ローガンはアンディーン像を見上げた。ブルーパールなんて宝石は見たことも聞いたこともない。もちろん乙女像内部のご神体についてもこれが初耳だ。
「嘘をつけ! 脅かして女神を取り戻そうとしたってそうはいかんぞ! 大体なんで貴様が神殿縁起にも書かれていないようなことを知っている!?」
「イーグレット陛下が仰っていたからだ。コリフォ島で、我々とともに最後の時間をお過ごしであられたときにな」
「な……っ!?」
そうだったか、こいつはコリフォ島でイーグレットの護衛を務めていたのか。ならばカーリスの兵士らがイーグレットを生け捕りにし損ねたのもこの剣士のせいだったかもしれないと悔しさで拳を握る。
「数ある宝石類の中でも真珠は特に傷つきやすい。聖像のどこに埋め込まれているかまでは知らんから、うっかり腕など折らんように気をつけろよ。王家が重んじていた式典作法も教えてやれずにすまないな?」
不敵に笑んでブルーノはフードのついた薄いマントを翻した。なんという腹の立つ男だ。竣工式の中止を要求するのではなく「お前たちはアンディーンの崇め方を知らない」と突きつけることで儀式の失敗を予告するとは。
「知ったことか! カーリスにはカーリスのやり方がある! 帰れ帰れ!」
息子の前であるのも忘れ、ぶんぶんと両腕でアクアレイア人どもを振り払う。もはや一秒たりとも相手をしていたくなかった。こんなくだらない戯言に付き合っていたら耳が腐り落ちてしまう。
タタッと屋敷の奥のほうから軽い足音が響いてきたのはそのときだ。そちらに目をやり、ローガンは「ヒッ!」と仰け反った。
「い、犬じゃないか! なんてものを連れてきてるんだ!」
恐怖する人間を面白がるように茶色の大きなムク犬がローガンに寄ってくる。至近距離まで近づくと無礼な犬は「バウッ!」と意地悪く吠え立てた。
「あああ! 早く帰れ! もう本当に帰ってくれ!」
「言われなくたってもう帰るさ。貴様の顔を見ていたら剣を抜きたくなるからな!」
ブルーノが出口に向かうとほかの客もぞろぞろと帰り出す。やっと難事から解放されて胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は身内に裏切られた。
「あ、あの! レイモンドさんは今どちらに? 新聞で読んだのですが、傷の予後はどうだったんでしょうか?」
立ち去りかけた剣士の腕をおずおず引いてジュリアンが尋ねる。ブルーノはパーキンの印刷物が──ローガンがずっと目をつけていた新技術による通信が──これほど遠い街まで届いていたことに驚きながら愛息に答えた。
「あいつなら北パトリアでぴんぴんしている。心配無用だ」
「……!」
返答にジュリアンが頬を綻ばせる。一方ローガンはますます鼻持ちならなくなるのみだった。
イーグレットをカーリス人の手で始末できなかったのも、印刷機をこの手にできなかったのも、この猪口才な剣士のせいだ。あんなに可愛くて素直だったジュリアンが「父が失礼をしてすみません」などとアクアレイア人に平謝りをするようになってしまったのも。
「ジュリアン! そんな奴らの見送りなんぞせんでいい!」
玄関扉を開けようとした息子を無理矢理引きはがす。不満げな目で睨まれたが、人に見られて悪い噂を立てられるよりよほど良かった。ショックリー家の跡取りがアクアレイア人と懇意にしていると思われたら政変ものだ。
パタンと大玄関の閉じる音を聞いてようやっと息をつく。嫌なタイミングで訪れおって。
ローガンは苛立ちをぐっと堪えて唇を噛んだ。あの剣士の話を聞いていたら本当に竣工式が失敗に終わる気がしてきたではないか。
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白亜の館を後にしてしばらくすると、静かに成り行きを見守っていたモモが「ご神体なんてあったんだねー。全然知らなかった」と零した。咄嗟の演技に騙されたのはローガンだけではなかったらしい。付近を見回し、人通りがないことを確かめてルディアは「いいや」と首を振る。
「はったりだよ。いずれ聖像を取り返すまで丁重に扱わせるための方便だ」
「えっ嘘だったの!? モモ信じちゃったじゃん!」
「ああ言っておけばパフォーマンスに使うにしろ用途が限られてくるだろう。盗まれたり壊されたりしたら更に厄介な事態になるからな」
今できる最大限の努力はした。それでも嫌がらせ程度の対応しか取れないのがつらいところだが手勢が四人ではいかんともしようもない。ローガンの目を盗んで牛五頭分の重さの像を船まで運ぶなどという芸当は考える前から不可能と知れた。胸糞悪いがアンディーンはカーリスに預けておくしかない。
「ひと通り中を見てきてくれたんだよな? どうだった?」
「バウウ!」
隣の騎士がムク犬に問う。ハイランバオスの通訳によれば私兵の数は二百を超え、いずれも気合いの入った重装備とのことだった。
「やはり連中によほどの問題が起きないと──いや、起きてもアンディーン像をどうこうするのは難しいな」
深々とついた嘆息にハートフィールド兄妹が目を見合わせる。二人とも心底歯痒そうだった。
生まれたときから当たり前に存在していた大神殿。そこに今、なんの神像も置かれていないとは信じがたい。
しかし現実にアンディーン像はショックリー邸の広間にあった。あれが今後カーリスの所有物になるなど考えただけで虫唾が走る。王国民の精神的損害を考えると尚更気が滅入った。祈りも祭りもすべてはあの乙女に捧げられてきたのに。
「──殺しましょうか?」
と、そのとき、詩人の口から物騒な言葉が飛び出した。
「え?」
聞き間違いかと尋ね返す。振り向いたルディアに偽預言者は顔色一つ変えることなくいつもの薔薇色の笑みを浮かべた。
「あの男、殺しましょうか? 少なくとも儀式は延期になりますよ?」
あまりにさらりと提案するのでその場は水を打ったように静まり返る。惰性で進んでいた足も止まった。不釣り合いなほど青い空が不穏過ぎる男を無言で見下ろしている。
「あなたが手を汚す必要はありません。カーリスに潜り込ませている私の仲間にやらせましょう。どうなさいます?」
「…………」
しばし逡巡したのちにルディアは首を横に振った。
「いや、いい。何もするな」
期待した返答と違ったか、ハイランバオスはつまらなそうに肩をすくめる。
「そうですか。まあ突然『殺せますよ』と言われても、お願いしようかなとは言いづらいですよね。我が君ならサクッと言っちゃえますけども」
緩くうねる黒髪で手遊びしながら詩人はそううそぶいた。天帝と比べるのは勝手だが、こちらにはこちらの事情がある。遊牧民とは考えも異なる。そんな意を込めて切り返す。
「道徳的なためらいで不要と言ったわけではない。ラザラスがここのトップになるよりはローガンのほうが数倍ましというだけだ。トリナクリアとカーリスの結びつきが強まればアクアレイアがやりにくくなるからな」
なるほどと頷いてハイランバオスは指を離した。
「そういうことなら詩的盛り上がりに欠けても仕方ありません。素敵な場面に巡り会えそうな予感がしたんですけれど……。暗殺も襲撃もなさらないなら我々はこの辺りでおいとまさせてもらいましょうか。ではまた後日、近いうちに!」
「ワンワンッ」
偽預言者とムク犬はこちらが別れを告げる間もなく爽やかに駆け去っていく。通りを行く屋根付き馬車の陰に隠れ、二人はすぐに見えなくなった。
どこまでも勝手な連中だ。仲間なんて言葉を持ち出すのならそのふりくらいしてみればいいものを。
「どうするね? 一旦港に戻るかい?」
坂の下、遠く眼下に広がる湾を示してオリヤンが問う。ルディアは「いや」と首を振った。商館へ向かったところで話を聞けるカーリス人は一人もいまい。今頃彼らはわらわらと市民広場に集まっているはずだ。
「このまま竣工式へ行こう。屈辱的でも現状把握は正確にせねばならん」
必要な情報はそこで手に入るだろうと嘆息混じりに肩をすくめた。波の乙女の輿入れだ。カーリス人がアクアレイアの現状を肴にしていないわけがない。
「ほんっと腹立つよね。カーリス全焼してくれないかな?」
「こら、モモ、声が大きい」
「アル兄だってお祭りって顔してないじゃん」
ハートフィールド兄妹が憤りを制御しようと奮闘するのを横目にルディアは長い息を吐いた。左手は無意識にポケットのお守りを探る。もう彼に頼ってはいけないとわかっているのに。
(国のこと以外考えるな)
落ち着くために目を伏せた。耳の奥の残響は振り払いきれなかったけれど。




