第2章 その5
「ジュリアン! ジュリアン! 明日の衣装に袖は通したのか!? 寸法を直すなら午後中にせねばいかんのだぞ!? おおーい、ジュリアーン!」
広い自邸の一階で父のがなり声が響く。暗澹たる心地でそれを耳にしながらジュリアン・ショックリーはつい今座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「叫ばなくとも聞こえています、お父様! 丈ならとっくに合わせてとっくに脱ぎました!」
引きこもるには不向きな自室の扉を開け、顔だけ廊下に出して答える。だが不要な会話はしたくないというこちらの意図は汲み取られず、父は吹き抜けの広間からドスドスと足音を立てて階段を上ってきた。
その肩や胴回りは平常の五割増しのコットンでパンパンに膨れ上がっている。縫いつけられた貴石やら金糸銀糸の放つ輝きにジュリアンは侮蔑をこめて眉をひそめた。
「……また派手なお召し物をおしつらえで」
「明日は大切な日だからな! いくらやってもやりすぎということはない! お前とて父様と揃いの仕立てで嬉しかろう? ほら、この袖のパトリア石などお前のために最上級のものだけを用意したんだぞ」
ローガンはゴマすり笑顔で手を揉んだ。ご機嫌取りの台詞など完全無視してジュリアンは大仰に嘆息する。
「……もう今日はこれ以上することないですよね? その大切な明日に備えて僕は散歩でもしてきます。この頃は家にいると心が休まりませんので」
つっけんどんな物言いに父が怯んだ隙を突き、自室から通路へと滑り出た。引き留められる前に涙目の男の脇を擦り抜ける。「では父様、ごきげんよう」と挨拶だけは丁寧に。
細い手すり越しに見やった階下では当主と跡取り息子のやり取りにハラハラする召使いたちの姿があった。広間を行き交う誰しもがレースやリボン、薄絹の婚礼衣装を整えるのに忙しそうだ。例の日が迫っていると痛感し、ただただ胸が悪くなる。父の愚行を止める力が自分にあれば良かったのに。
政敵に一人息子を誘拐され、あろうことかアクアレイア人に借りを作った。一年前、そんな一事でショックリー家の名声は地に落ちた。元はと言えば油断していた己のせいで起きた事件だ。父の威光を取り戻すためになんでも手伝うつもりでいた。
だがそれでもこれはあまりに酷い挽回策だと思う。とんでもない恥知らずの所業だと。ゆえにどうしても父への態度は辛辣になった。父のほうでは単なる一過性の反抗期だと思い込みたいようだったが。
「ま、待て、ジュリアン! 出かけるのなら護衛連れでな! ラザラス一派が街に戻ってきているという噂がある! くれぐれも気をつけて! 気をつけて行くのだぞ!」
と、大玄関を出ようとしたジュリアンの背に愛情深い忠告が投げかけられる。振り向けば青ざめたローガンが広間の私兵に早口で指示を与えていた。
「ラザラス一派が? わかりました」
こちらが答えるより早く、長い巻き髪を一つに結った女騎士がジュリアンに歩み寄る。若いながら腕の立つ、時に難しい使者の役目もこなしてみせる父の大のお気に入りだ。
彼女が一緒に来てくれるなら大勢のお供を連れて練り歩く必要はない。一礼した寡黙な女騎士とともにジュリアンは居心地の悪い我が家を後にした。
「……はあ……」
見上げれば青い空。海まで続く下り坂に軒を並べる家々には赤や黄色の春の花。降りそそぐ陽光と吹く風の快さに悲しくなって肩を落とす。
活気づく通りを歩けば歩くほど己の不甲斐なさを感じずにはいられなかった。街行く人々は老若男女貴賤を問わず、ジュリアンに気づくと嬉しそうにお辞儀してくる。
彼らのきらきらした眼差しがつらかった。カーリス市民にとってこれは祝福すべき出来事で、父の権威を大いに高める勝利なのだと思い知って。
「おや、ジュリアンお坊ちゃん!」
「ローガン殿はお元気にしておられますかな?」
「いやあ、明日は素晴らしい一日になりそうですね!」
愛想笑いを浮かべつつ適当に手を振って誤魔化す。早足で喧騒を逃れるが、声をかけてくる人間は絶えなかった。話題も明日のセレモニー一色だ。
誰もが父を褒めそやす。「あれだけの力と財産をお持ちなのだ。さぞや見事な女神のお披露目となるでしょう!」と。
本当にうんざりだ。何がおめでたいものか。恩人の国の守護精霊を無理やり奪ってくるなんて!
(ああ、こんなことになって、ブルーノさんやレイモンドさんになんてお詫びすればいいんだ……!)
無限に溜め息が溢れ出る。
現在ショックリー邸では、六十年もの長きに渡りアクアレイアの守護精霊であった波の乙女ことアンディーンの聖像が厳重保管されていた。明日の竣工式が終われば女神は正式にカーリスのものとなる。いけ好かないライバル都市も今度こそ終わりだと市民は大いに盛り上がることだろう。しかしジュリアンは罪悪感で居た堪れなくなるばかりだった。
(本当に信じられないよ。助けた子供がカーリス人でも、親の仇の息子でも、あの人たちは非道な真似はしなかったのに)
気がかりなのはそれだけではない。多くの民は加護が増えると単純に喜んでいるが「今まで祀ってきた双子神ジェイナスを大切にしたほうがいいのでは」という声もまったく聞かないわけではなかった。確かにアンディーンのほうが神格は上なのだが、ジェイナスの熱心な信者たちの間では「これならラザラスに市政を任せたほうが良かった」と話す者もいるらしく、ジュリアンの不安を増大させている。
(そりゃそうだよ。そりゃそうなるよ。こんな強引なやり方じゃ)
父は「今反対している連中もアンディーンのもたらす恩恵が素晴らしいものだとわかれば自然に口をつぐむさ。神格が上がるということは宗教面でも聖王にグンと近づくということだぞ。カーリスの発言権はいよいよ強まるではないか!」と話す。それもわからないではないが、そんな理屈では無視しきれない胸騒ぎがするのもまた事実だった。もしアンディーンを迎えた直後に難破する船でも出たらジェイナス信者が「言わんこっちゃない!」と騒ぎ出すのは目に見えている。疑いが飛び火すれば人々は簡単に掌を返すだろう。そうなったらショックリー家は今度こそ──。
「ジュリアン様、こちらへ」
と、そのとき、三歩後ろについてきていた女騎士がジュリアンの肩を掴んだ。もう一方の彼女の手は腰から下げた剣の柄に伸びている。突如高まった緊迫に息を飲み、ジュリアンはそっと辺りを見渡した。
女騎士の鋭い双眸が睨みつける路地裏に目を留める。するとどこか見覚えのある男が二人、サッとこちらに背を向けた。
薄汚れた衣類に身を包んでいるが肩布の余り方を見れば元は上等のお仕着せだったのが窺える。あんな服を着古しているのがどこのどういう人間かも。
「……あいつらリマニで見た気がする」
呟くと女騎士は「ラザラス一派が潜伏しているという噂は確かなようですね」と答えた。
「竣工式が終わるまで不要な外出は控えましょう」
助言に従い、ジュリアンはただちに来た道を戻り始めた。短い息抜きだったなと少なからず落胆しながら。
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停泊地が近づくと、にわかに船上が慌ただしくなる。切り立つ険しい山々を背負い、青く深い入江を抱いた階段状の白い街。あれがカーリス共和都市かとアルフレッドは目を細めた。
カーリス人は大抵どこの港にもいるが、彼らの本拠を見るのはこれが初めてだ。断崖によって防護され、海に対してのみ開かれた天然の要害。地形は以前防衛隊が勤務していたニンフィに近い。けれどその規模は段違いだ。遠目にもカーリスはアクアレイアに引けを取らない海洋都市であるのがわかる。
「この辺りの海域からは人さらいに注意してほしい。ラザラス一派の海賊行為が今も続いているかもしれない」
オリヤンの「くれぐれも人気のない海岸に近寄ったりしないように」という呼びかけに、甲板に集まっていた仲間たちが頷いた。危うく家族を奴隷として売り飛ばされるところだった人形芝居一座の話やカーリスで起きた内部抗争の話はアルフレッドも聞き及んでいる。十分に警戒せねばと唇を引き結んだ。
「港に着いたらまずは情報収集だな。カーリス人ならアクアレイアの窮状には詳しかろう」
多少の皮肉をこめてルディアが近づく共和都市を見やる。腕組みした主君にアイリーンがおずおず尋ねた。
「アクアレイア人がカーリスをうろついたりして大丈夫かしら?」
強気に胸を叩いたのはモモだ。
「大丈夫! 心配ならアイリーンとブルーノは船に残ってなよ。モモたちだけで行ったほうが何かあったとき対処しやすいし」
「ううっ、そう言われるとつらいけど、その通りだから仕方ないわね……」
非力を自覚しているアイリーンは申し訳なさそうに頭を下げた。無理に同行してもらうよりもここに姿のない白猫と一緒にいてくれたほうがありがたい。アルフレッドが促すまでもなく「そうしてくれ」とルディアも命じる。
「じゃあモモとアル兄と姫様で潜入捜査だね!」
久々の任務らしい任務に妹はめらめら瞳を燃え立たせた。このところ彼女はよほど退屈な思いをしていたようで、敵地に赴くというのに心なしか嬉しそうだ。
「君たちだけでは色々と不都合もあるだろう。カーリスなら顔がきくし、私もお供させてもらうよ」
「本当か? それは助かる」
願ってもないオリヤンの申し出に主君が謝意を表明する。どうやら顔ぶれは決まったらしい。アルフレッドはそっとルディアの横につき、馴染みきらない剣の握りを確かめた。
「ここで皆さんとお別れとは寂しくなります。よよよ」
「バウバウッ!」
名残惜しそうに泣き真似してみせるハイランバオスとムク犬は放置して各自準備を整える。間もなくオリヤンの新型帆船は共和都市の賑わう港へと入っていった。




