第2章 その4
『愛を知らずに生きてきた者が愛を怖れるのは当然です。私たちは新奇なもの、異質なものに少しの警戒も持たないでしょうか?』
『私にとって愛とは海です。あまりに広く底が知れない。泳ぎ方がわからねば溺れ死ぬよりほかありません。あの尊く美しいものもまた、確かに人を殺すのですよ』
子供の頃、友人に貸してもらった騎士物語の一節を思い出す。あれはなんの場面だったかな。どこかの国の王子と姫が恋の病に苦しみぬいて駆け落ち未遂をしたらしい、そう耳にしたプリンセス・オプリガーティオの台詞だったか。
目を閉じて明るい闇に篭っていると古いものから新しいものまで様々な記憶が甦る。そうだ、あれは主君への秘めた想いを初めて口にしようとしたサー・セドクティオに釘を刺すための言葉だった。お前は愚か者たちの真似などせず、いつまでも私の騎士でいてちょうだいと。
宮廷の恋はいつだって上手く行かない。作り話の中でさえ愛し合う恋人たちは引き裂かれ、手も伸ばせずに、苦い杯を飲んでいる。
(猫の姿でも大丈夫だったから、元の身体に戻ってもあの人は変わらないって思い上がってたのかなあ)
嘘をついていたことも許してもらえると。身分違いでも公国に帰らないなら関係ないと。謝りたいという気持ちの裏に慢心があったのではないか。彼ならきっと自分を受け入れてくれるという。
(結局僕はあの人の幸せを台無しにしただけだった)
どうして後ろめたさに耐えることができなかったのだろう。こうなる可能性はルディアが示唆してくれていたのに。
己の弱さに悲しくなる。チャドの中の『ルディア』を守ってやれば良かった。それはそんなに実体とかけ離れた幻想でもなかったのだから。
「ねえブルーノ、お水くらい飲みなよー」
心配そうな少女の声にうっすらと瞼を開く。
風はまだ少し冷たいが、パトリア海を照らす四月の陽光は眩しい。痛む目をぎゅっとつぶって甲板に背を丸め直す。
「何か口に入れないともたないよー?」
力なくニャアとひと鳴きしてブルーノは友人の思いやりを退けた。溜め息のすぐ後でモモの足音が遠ざかる。
(ごめんねモモちゃん。姉さんも、姫様も……)
アクアレイアに戻ったら無理にでも元気を出すから許してほしい。今はこの愚か者を捨て置いてほしい。
何もする気になれないのだ。呼吸をするのも煩わしく、いっそ海にでも飛び込みたくなる。それで楽になれるのは自分一人だけなのに。
(馬鹿だなあ、本当に)
分不相応な祝福を欲しがって何もかも失った。あの人を深く傷つけた。
時が過ぎればチャドがマルゴーへ帰ったこと、受け止められるようになるのだろうか。海峡を越えるとともに冬は去り、温かな春が巡ってきたけれど。
(なんでこんなに寒いんだろう……)
いつも撫でてくれた手がない。ふた月過ぎてもそれに慣れない。
深い痛みを伴うとしても一緒に前へ進みたかった。せめて彼は、そんな自分の思いだけでも信じていてくれるだろうか。
******
困ったなあと眉をしかめる。昔からブルーノは湿っぽい性格をしているが、他人に迷惑をかけるようないじけ方はしなかったのに。純情人間が失恋すると鬱々引きずる羽目になるらしい。どれだけ手酷く扱っても次の瞬間にはけろりとしているバジルを見習わせたいくらいだ。
(これ以上こじらせなきゃいいけど)
ふうと息をつき、モモはアイリーンのいる客室のドアをノックした。今日は波が穏やかなので、弟を案じて睡眠が不足しがちな彼女を休ませていたのだ。
「ごめん、モモじゃ駄目だった。アイリーンがお水と食事持ってってあげて」
布ハンモックを覗き込み、痩せぎすの女に呼びかける。だが寝ぼけた彼女はフニャフニャ言うだけで一向に目を覚まさなかった。ロープを強く揺さぶっても「駄目よ、カロ……まだ外が明るいわ……」などと幸せそうな寝言を漏らすのみである。
「ええ……」
上擦った声にドン引きして思わず眉間にしわを寄せた。不穏な空気を察してか、直後にハッとアイリーンが跳ね起きる。
「お、おお、おはようモモちゃん!?」
慌てふためくアイリーンは茹でダコのように真っ赤だった。ハンモックから落っこちて額を打つというわかりやすい狼狽ぶりにもはや突っ込む気も起きず、モモはやれやれと手を差し出す。
「はい、立てる? ブルーノが飲んでくれなかったから、お水ここに置いとくね」
長居するとアイリーンがあちこち引っ繰り返しそうなので、水筒だけ残してモモはさっさと部屋を引き揚げた。予測に違わず背後からはドスンガシャンと騒々しい物音が響く。
そうか、そうか、姉のほうは知らぬ間にあのロマとまとまっていたか。王国滅亡の前後で実にいろいろな事情が変わったのだなと改めて実感する。
(変わらないのは毎日の稽古だけかあ。まあそういうもんだよねえ)
手合わせの相手を求めてモモは甲板に戻った。船上をぐるりと見渡し、青色の頭を探す。
が、せっかく見つけたルディアは声をかけられそうな雰囲気ではなかった。主君は船縁で海を見つめ、一人物思いに沈んでいる。近くを通りすぎる水夫はいても彼女を構おうとする者はいない。人を寄せつけぬ後ろ姿にモモはまたも眉をしかめた。
(うーん、なんか誘っても楽しくなさそうだなー。今日は姫様に相手頼むのはやめとこ)
早々と撤退を決め、踵を返す。主君と少し距離を置いて素振り中の兄もいたが、そちらはもっと声をかける気にならなかった。
近頃のアルフレッドにはどうも闘志を燃やしきれない。いつ見ても「悩んでいます」と顔に書いてあるし、注意散漫もいいところなのだ。今の兄からなら一本どころか十本でも百本でも取れそうだった。
まったく情けない男だ。ちょっと主君がデートしたくらいでここまで調子を落とすなんて。伯父が聞いたらどんな顔をすることやら。
(皆して変な感じ。モモたちこのままアクアレイアに戻って大丈夫なのかなー)
上手く言葉にできないが、どうも何か噛み合っていない気がして仕方ない。以前は齟齬など感じたこともなかったのに。
(どんな状況でもモモはモモのやるべきことをやるだけだけどさあ……)
手合わせが無理なら走り込みでもするかと屈伸を始める。
風も波も緩やかで空は気持ちのいい青だ。それでも船は、海の上にある限り常に揺れている。なぜか今はそんな当たり前のことが気にかかる。
******
「……九十八! 九十九! 百!」
日課の素振りをやりきってアルフレッドは剣を下ろした。呼吸を整え、頬を伝う汗を拭う。吹き抜ける風に身を晒せば湿った肌はすぐに乾いた。巡る血潮と適度な疲労。汗を流して気分爽快なはずなのに今日も心は晴れてくれない。
ちらとルディアを盗み見てアルフレッドはまた目を逸らした。彼女はこちらに背を向けて船尾近くの船縁にもたれかかっている。
ハイランバオスが妙な悪さをしないように、アルフレッドはなるべく主君の側を離れないことに決めていた。出航から約二ヶ月、現在のところ偽預言者に不審な動きは見られない。ルディアもまた普段通りの彼女だった。レイモンドがおらずとも、不意にその名が話題に上ることがあっても。ただそれは、主君が今日この甲板に立つまでの話だったが。
「…………」
アルフレッドは再びルディアに目を向けた。もうかれこれ一時間ほど彼女はああして何もせず海を眺めている。頭を休めるなんてほとんどしない人だから気になった。何を考えているのだろう。何が気がかりなのだろう、と。
(次の寄港地がカーリス共和都市だからか?)
思い当たるのはそれくらいだ。あの街にはローガン・ショックリーがいる。主君の愛する父親を死に追いやった黒幕が。
(心を宥めているのかもしれない。怒りで判断を誤らないように)
だとすれば支えにならねばと拳を握る。剣を鞘に片付けるとアルフレッドは不自然にならないように注意してそっと主君に近づいた。
「ひめさ……」
小声で呼びかけたその瞬間、ルディアがパッと身を翻す。何かを隠すように左手がポケットに突っ込まれたのを見てアルフレッドは瞬きした。
「……それ、まだあいつに渡せていなかったのか?」
端から垂れた革紐を見やって問えば彼女は「いや、渡すのは渡したんだが」と口ごもる。それ以上説明がないので事情はさっぱり飲み込めなかった。
が、レイモンドが別れ際にルディアを呼び止めていたことを思い出し、あのときに返されたのかなと思い至る。要らないと言われたとは考えにくいから、つまりこの首飾りは。
「…………」
想像に動じた己を誤魔化す術がわからずに沈黙する。つい立ち入ったことを尋ねそうになってアルフレッドは唾を飲んだ。もしや二人は想い通じ合ったのか、なんて。
「ああ、こんなところにいらしたのですか」
と、そのとき帆柱の向こうから偽預言者とムク犬が現れた。アルフレッドは反射的に主君を守るように立つ。
「何か用か?」
問うたルディアの声に先程までの気まずさは滲んでいなかった。
空気が塗り替わったことに、とにもかくにも安堵する。
「ええ、ご挨拶をしておこうと思いまして」
ハイランバオスは恭しく頭を下げた。曰く、カーリスに到着したら彼は船を降りるつもりだそうである。
「なんだ。アクアレイアまで来ないのか?」
「この身体のまま戻ったら即見つかって牢獄行きではないですか。王国再興のためには根回しも必要でしょうし、しばらく古王国に留まる予定です。なに、心配は無用です! 各地に仲間を潜り込ませておりますから!」
エセ聖人はパトリア古王国内に複数の味方がいることを仄めかす。訝りつつもルディアが「わかった」と頷くと彼はにこやかに微笑んだ。
「アクアレイアはラオタオの管轄です。本物のラオタオは今ここにおりますが、ラオタオのふりをしてくれている蟲も敵ではありませんからどうぞご安心を」
「ふむ。ジーアンの連中はラオタオが別人になっているのを知らないのだな? なんという名の蟲が将軍役を務めているんだ?」
ハイランバオスは返事の代わりにそっと人差し指を立てる。教えるつもりはないらしい。食えない詩人に主君もやや顔をしかめた。
この男、やはり協力体制を築く気など更々ないのではなかろうか。何が仲間だと毒づきたくなる。
「アンバーがどこでどうしているのかもそろそろ話してほしいんだがな」
めげずに彼女は要求を重ねた。ラオタオがアンバーとアイリーンを一時捕縛していたことはわかっているぞという顔だ。しかしこれにもハイランバオスはチッチと人差し指を振ってみせた。
「彼女は我々の人質ですから、ちょっとお教えできませんね」
不穏な回答にアルフレッドはルディアと目を見合わせる。これ以上聞き出すのは得策でないと断じてか主君は嘆息で話を区切った。
「お前が古王国にいる間、連絡はどうやって取ればいい?」
「必要になれば私からいたします。あなた方はアクアレイアでのんびりお待ちください」
慇懃無礼にもハイランバオスはこちらを一段低く見ていることを隠さない。結局すべて彼の都合で事を運ぶつもりなのだ。少なくともルディアにも自分を利用させてやろうという計らいは感じられなかった。
「ではアクアレイア奪還、頑張っていきましょうねっ!」
白々しくウィンクするエセ聖人の周囲をムク犬が楽しげに走り回る。文句をぶつける気も起きず、アルフレッドは黙って彼らを見送った。
ハイランバオスが立ち去るとルディアも船室で寝てくると言い出す。いつの間にか首飾りの革紐はポケットの奥に見えなくなっていて、何か聞ける雰囲気ではなくなっていた。
「お前も適当に休めよ。帰国後は忙しくなるぞ」
波の音に、船の軋みに、彼女の足音が掻き消される。後ろ姿から目を逸らすことができないままアルフレッドは甲板にじっと立ち尽くした。
******
掌に硬い感触を握り込む。薄暗い通路を一人歩きつつルディアは小さく息を吐いた。
(また捨てられなかったな)
ものの数秒で終わることなのに何をやっているのだろう。迷うなど己らしくない。
指に絡む革紐はまるで蜘蛛の糸のようだ。振りほどいたと思わせてべっとり張りついたままでいる。
(どうせ駄目になるのならひと思いに終わらせたほうがいいのに)
少しでも可能性が残っているうちはと言った男の顔を思い出し、ルディアは薄く瞼を伏せた。それがいかに頼りない希望かは自分のほうがわかっていた。
これからより重要になるのは献身的な支えではない。もっと現実的な力だ。そしてどう考えてもレイモンドにルディアの求める政治力はなかった。
(次の港はカーリスか)
前回のほんの短い滞在の記憶が脳裏に甦る。あんたが死ぬなら俺も死ぬ、と耳の奥で熱い声がこだまする。
真剣に言っているのはわかったが、真実だとは思ってもいなかった。本当に死にかけてまで彼が自分などを守ってくれるとは。
ポケットの首飾りをぎゅっと握る。刻まれたまじないを親指の腹でなぞって眉根を寄せる。
レイモンドが腹に大穴を開けたあの日から、彼のことを思うとき、それまでなかった感情が混じり始めた。気づかぬように気づかぬように気をつけていたつもりだったが、自分はとっくの昔にもう──。
(……早く捨ててしまわないと)
手が届きそうに見えたって叶わないものはある。レイモンドにも己自身にも希望など残すべきではない。
頭では明らかなことが実行となるとどうしてこうも難しいのか。いっそ波がさらってくれればいいのにと馬鹿げたことを考えて自嘲する。
やはり最初に突き返すべきだった。忘れるために離れたのに、こんなものを持っていたら結局毎日思い出してしまう。




