第2章 その3
早馬から受け取った書状を狐男がうんざり顔でユリシーズに投げてきたのは司令官室に着いた直後のことだった。
「やれやれ、今度は女帝とそのお供たちをお迎えに上がれだと」
ジーアン語で書かれた指令をアレイア語で説明しながらラオタオが嘆息する。彼は帝国上層部に足として使われるのが不満らしい。つい今しがたこのドナの砦まで船で送り届けさせた相手を前に、なんともご立派な文句である。
「女帝というとアニーク陛下で?」
尋ねるとラオタオは前々からアニークがアクアレイアに来たがっていたことを教えてくれた。そう言えば防衛隊の隊長がバオゾ滞在中に仲良くなったとか聞いたなと思い出す。誉れ高き海軍が馬鹿女の使い走りとは、と胸中で舌打ちした。
しかしノウァパトリアまで船団を出す口実ができたのは良いことだ。商船にかけられる関税よりも軍船にかけられる関税のほうがはるかに安い。通行税に至っては無料である。これは痛手の上に痛手を被った現在のアクアレイアにはありがたい話だった。
(この冬に流行した熱病は酷かったからな。長らく栄養状態が悪かったせいでばたばた患者が死んでいった)
暖かくなってきたこともあり、死者はもうほぼ出ていないが都市に蔓延する暗いムードはどうにもしがたい。耐えがたきを耐え忍んでいる民衆にはできるだけ吉報を持ち帰ってやりたかった。
(何かもっと、皆が大きな希望を持てるようになればいいのだが……)
首の皮一枚で繋がっているような状態をそう何年も続けられない。なんとか再開に漕ぎつけた交易もジーアンに儲けの大半を持っていかれている状態だ。早く抜本的な打開策を講じなければならなかった。
「そんじゃゆりぴー、また出航準備お願いね」
「はっ」
ラオタオに一礼し、司令官室を後にする。衛兵控室を一歩出ればドナの砦のそこかしこから酒の匂いが漂った。
野獣どもは昼間から浴びるほど飲んだくれているらしい。享楽に満ちたこの砦で一番まともに過ごせるのがラオタオの部屋とは笑えない冗談だ。
「……!」
「あっ、ごめんなさい!」
螺旋階段を下ろうとしてユリシーズは幼い少女とぶつかりかけた。発育不良の細腕に重たげな酒瓶が二本も抱えられていて、我知らず眉をひそめる。
「こちらこそすまない。怪我はなかったか?」
「ええ、ユリシーズ様で良かった。ジーアン兵の誰かだったらどうしようかと思いました」
少女はこちらの顔を見て安堵を示すと足早に宴会場へと駆け去った。彼女の消えた中庭から響く下品な嬌声と笑い声がいっそう胸をむかつかせる。
どこの無法者どもか知らないが、ドナは今、働きも戦いもしないジーアン人の巣窟と化し、退廃の一途を辿っている。彼らの世話に従事するのは地元の女子供たちだ。上客を求めてアクアレイアの高級娼婦まで海を越えてくる始末で背徳を留めるものは何もない。厳格な家庭で育ったユリシーズには信じがたい、放埓な暮らしがここではまかり通っていた。
(まったく……。獣同然の蛮族どもめ)
とはいえドナが一大消費地と化したおかげで特需が発生中だというのもまた事実である。抜け目ない商人たちはアクアレイアではなかなか売れない高級品をこぞってドナで売りさばくようになっていた。
(今の間になんとかアクアレイア人が生き残る道を模索せねばな)
自分が祖国の期待を一身に背負う存在だという自覚はある。王家は追われ、大多数の貴族も逃げ出し、海軍はいつ解散させられるかわからない。ラオタオのお気に入りとして側付きに抜擢されたユリシーズに国の命運は託されている。そう言っても過言ではなかった。
(守るのだ。あの女にはできなかったことを私はやり遂げてやる)
思い出すルディアの顔は強張っていて、ふんと小さくかぶりを振った。感傷を振り切るように大股で港へ向かう。
自分は二度と恋などしない。あんな愚かな恋は二度と。
******
城壁の縁を流れる川越しに、一生帰らぬはずだった都を見上げて嘆息する。
小高い山の頂に威容を示す宮殿は周辺で採れる岩塩と同じ色。暮れる夕日の照り返しにより日中は白い壁が今は薔薇色に燃えている。
以前なら美しいと見とれただろう光景を無感動にただ眺め、チャドは迎えが来るのを待った。関所でもある街の入口の城門塔は「第二王子がお戻りだぞ!」とてんやわんやの大騒ぎだ。
すぐに通してくれるかと思ったのに、彼らは自分をまるで異国の客人のように扱う。一報を耳にしたティルダが石橋を渡ってくるまでチャドは衛兵たちの詰め所に留められた。
「チャド! ああ、本当にチャドなのね?」
「ただいま戻りました。円満に別れてきましたので、例のアクアレイア人たちに追手を差し向ける必要はありません」
そう伝えると姉は「ええ、ええ、わかったわ」とやつれた顔にほっと安堵の笑みを浮かべる。誰から見ても弟想いの良い姉だ。こうしていると自分たちの間には何事も起こらなかったように思える。
「戻ってくれてありがとう。あなたなら自分の犯した過ちに気づいてくれると信じていました」
無事で良かったと抱きしめてくる彼女の涙は本物だろうが、本当にこちらの話をわかったのかはわからなかった。さも清らかに振る舞いながら裏に回ればまた真逆の命令を出すかもしれない。出さないかもしれない。それは己の関与できることではないし、関与する権限もない。
「お父様と三人で、まずはよく話し合いましょう」
指導者然としたティルダに手を引かれても意外に嫌悪は湧かなかった。その代わり何も感じることができない虚無の深さに少し驚く。はたして己はどこに怒りを置き忘れてきたのだろう?
城門をくぐる姉の背中をじっと見つめる。隙だらけなのは刺されてもいいと思ってくれているからか、刺されはしまいとたかをくくっているからか。
姉はよく、わきまえなければなりませんとチャドを諭した。人間には生まれや能力、そのほか様々な要因によって望めるものの上限が定められているのだと。星まで手は届かないし、海の底まで潜ることが不可能なように、精神にも行いにもはみだしてはいけない線がありますと。
──あなたは公爵家の男です。もしあなたがその境界を踏み越えてしまえば罰を受けるのはあなただけじゃない。あなたはマルゴーという国の名前と運命を背負っているの。それだけは忘れないでね。
聡明な姉。いつも正しかった姉。きっとこれで良かったのだ。
愛したものは可憐で儚い幻だった。最初から存在しない人だった。
(本物の恋だと思ったのに)
泣きながら「ごめんなさい」と床に額を擦りつけた彼に、自分は手を伸ばせなかった。境界を踏み越えることができなかったのだ。国のためだともっともらしい理由をつけて、誓いは無効だったなどとほざいて、本当は。
(……私には、あの子が自分の知らない人間に見えたんだ)
愛とは一体なんだったのか。愛とは我が身を滅ぼすとしても想う人のもとへと向かう心のことではなかったのか。
橋を渡り、二重になった城壁の奥へと進む。堅固な境界線に再び囲まれる。
サールリヴィスの豊かな流れは今日も北へと多くの塩を運んでいた。
自らに任じられた尊い仕事をこなし、ただ粛々と。




