第2章 その2
先刻から途切れ途切れに聞こえていた幼子のぐずり声が、すぐ隣の寝室からけたたましい絶叫として響き始めたその瞬間、なけなしの集中力は弾け飛んだ。画材と本と原稿を分類もせず詰め込んだ棚だらけの狭い書斎でコナーはふうと顔を上げる。今日の作業はここまでのようだ。
「すみませんねえ、うるさくしちゃって」
椅子の上で伸びをするこちらの気配が伝わったのか、赤子を抱いた中年女がドアを開いて詫びてくる。ノックもなしで済ませられるほど気心の知れた──かれこれ一世紀近い付き合いの──彼女はコナーの筆が止まっているのに目を留めて「この子を散歩に連れ出せりゃいいんですが」と肩をすくめた。
「いや、いいさ。どうせ今日はそんなに気乗りもしていなかった」
雪深い山中の、寒々とした隙間風に凍えきっていた指先を、自分の息で温めながら首を振る。書き物机にはアクアレイア史が草稿のまま放り出してあった。以前書いたものはジーアンに置いてきたので改めて書き直しているのだ。
同じものを再度出力するだけならば労というほど労ではない。実際完成度は八割超というところまで来ていた。だが難しいのはここからだ。
歴史書が書き上がれば間違いなく政治利用されるだろう。滅びたのは王国の名前だけで、アクアレイア人の精神も肉体もジーアン人のそれに置き換わったわけではない。地理的には西パトリアに属するあの一帯がこれから動乱の地となる可能性は高かった。
(この子もまた王家再興の切り札というわけだ)
コナーは木椅子から立ち上がり、女のあやす赤子の茶色の巻き毛を撫でる。アウローラの器は既にマルゴー人の乳児のものに換えてあった。聖パトリアの尊い血を引く肉体はアークに収め、空っぽのままにしている。必要ならもとの宿主に中身を移すこともあろう。この先も数百年はアクアレイアが東西交易の中継点でいられるように。
(しかしすべてはジーアンの出方次第だな)
東西世界の軍事的均衡は崩壊してしまっている。ジーアンが再び西方へ侵攻を始めれば止められる国はあるまい。誰かが西パトリア諸国の王に悪知恵でも貸さない限り。
「──」
一人だけそういうことをやりそうな男を思い出し、その読めなさに苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを浮かべた。「どうしたんです?」と女に問われ、コナーは「いいや」と小さな王女から手を離す。
アークの使命は人類の文明を発展させること。平和が近道なら平和を、争いが近道なら争いを、状況に応じて使い分けるのみである。
時代の潮流が渦巻いている。世界は一つの強国に同化するべきか、はたまた多様性という名の危ういバランスを保つべきか。見極めるのが己の仕事だ。人々を守護し、導く者が現れるその日まで。
(いい加減あの男も引きこもりをやめて動き出すだろう。さて、そのとき私はどうしようかな?)
小さな机のすぐ上に貼りつけてある世界地図を振り返る。ここ数年、世界を揺るがす震源地であった東方の都を見やり、コナーは静かに口角を上げた。
******
──やばい、やばいぞ。
──すごいものができてしまった。
高鳴る鼓動を抑えつつバジルはごくりと息を飲んだ。
あまり手汗が滲むので仕上がったばかりの新作を落として壊してしまいそうだ。慎重に枠を持ち直し、高く掲げて出来映えにうっとりする。
天帝宮のアトリエで生活をともにする職人たちに教わったのは透明ガラスの新製法だ。ある特定の木灰を原料に混ぜ込むことで不純物を分離させ、くすみも色も除去してしまう驚きの工法である。そして今回、その板ガラスの片面に試しに水銀を広げてみたら凄まじいまでにくっきりと世界を映す『鏡』が誕生したわけだ。この一年、目覚ましい進歩を遂げている気はしていたが、またも己は技術者としてレベルアップしたらしい。
「はあ、すごい……。磨いた銅板なんかより輪郭がずっとはっきりしてる……。なんだこれ? どういう奇跡だ? 寝てる間に精霊が水銀をいい感じに固めてくれたのかな……」
一点の曇りもないガラス鏡は美しいとしか言いようがなかった。向かい合う己の顔は気持ち悪いほどにやついていたが、自制心より喜びが勝る。三つ編みを翻し、バジルは割り当てられた個室から奥宮の中庭に飛び出した。
「わあーっすごいすごい! この鏡は世界に革命をもたらしますよ! これは誰かに自慢したっていいですよねえ!?」
興奮過剰なひとり言を呟きながら大股で柱廊を歩む。ここの通路は大部屋・小部屋・各アトリエと大多数の生活空間に面しているので騒ぐのはマナー違反だが、どうしても我慢できなかった。だってすごいものができたときはすごいと叫びたいではないか。やったやったとそこら中を走り回りたいではないか。
「タルバさん! タルバさーん!」
それでもできるだけ控えめな声でバジルは衛兵の名を呼んだ。天帝宮の奥庭と奥宮を繋ぐ細いトンネルの出入口で、見張りに立つ年若いジーアン兵が顔を上げる。
「よう、どした?」
こちらを見やって青年は表情を明るくした。遊牧民らしい羊毛の帽子、模様の入った立襟の装束、少し黄色がかった肌、三白眼気味の双眸は短い髪と同じ暗めの亜麻色で、どこからどう見ても典型的なジーアン人だ。だが彼は最初にバジルをアトリエに放り込んだ恐ろしげな男たちと違い、職人の技能に大きな関心を持って接してくれる、半ばこちらの仲間のような存在だった。
「その顔はまた面白いもん作ってきたな?」
「ふふふ、これを見てください!」
バジルは得意満面で背中に隠していた鏡を差し出す。吊り目を瞠り、タルバは「うわっ!」と仰け反った。
「か、鏡? びっくりさせんなよ、もう一人誰か増えたのかと思っただろ!」
青年はバジルの持つ四角鏡をまじまじ見つめる。銅や錫を磨いたものでないことは彼にもひと目でわかったらしい。ほうと感嘆の息をつかれる。
「こういう宝は見覚えがないな。献上すれば女帝陛下のお気に召すんじゃないのか?」
奥宮における最上級の褒め言葉を頂戴し、バジルは「いや、そんな」と鼻の下を指で掻いた。見え見えの謙遜を咎めもせずにタルバは「これなら天帝陛下にお見せしたって恥ずかしくないぜ」と続ける。
「お前の作る物はすごいよ。この間のレースガラスも貴人方に大好評だったんだぞ。よく次々とアイデアが湧き出すな?」
「いやいやいや、ほかに何もすることがないので捗ってるだけですから。この程度、たいしたことじゃありませんって」
さすがにこそばゆくなってきてバジルはぶんぶん首を振る。しかしタルバは職人という存在への憧憬を隠そうとしなかった。
「俺も何かを生み出す技術を習得しとくんだったなあ。何年生きてたって結局何も残せないなら最初からいなかったのと同じなんだ」
声に混じった寂しげな響きにややたじろぐ。青年の顔を見上げると、快活な目が陰っているのに気づかぬわけにいかなかった。
詳しいことは知らないが、現在タルバは人生の岐路に立っており、天帝宮で働き続けることに迷いがあるそうだ。バジルは彼に兵士だって名誉ある職だと言って聞かせるのだけれど、いつも曖昧に首を振られる。
──辞めるなら少しでも時間のあるうちに辞めたほうがいいんだよ。仲間も皆そうしてる。
──でもまだ俺、どっちがいいのかわかんなくて。
──生まれてきたの無駄だったって思いたくないからせめて子供でも欲しいけど、世話になった人たちを置いていくのは踏ん切りがつかなくて……。
タルバがそれ以上語ろうとしないのでバジルも深く聞けずにいる。ただ彼が軍を抜けてしまうと話し相手がいなくなるのがつらかった。
天帝宮にはアクアレイア人が一人もおらず、学者も職人も通常は地域ごとのコミュニティから出てこないためバジルは一人になりやすいのだ。仲間外れにされているわけではないし、時には共同研究もするけれど、しかしやはり一番話しやすいのは年頃も近く気さくなタルバなのである。
「どうする? その鏡、俺が女帝陛下のところに持っていこうか?」
「あ、いえ、これはまだ記録を取りきれていないので……」
「──おいタルバ、伝令だ」
と、そこにあまり見かけたことのないジーアン兵が駆け込んでくる。さっと鏡を背後に隠すとバジルはすぐ脇の彫像の陰に退いた。
「こんな時間に伝令? 珍しいな。何かあったのか?」
「何かあったどころじゃない。実は今さっき……」
異国の友人はやって来た男と何やらごにょごにょ話し込み始める。「えっ!? ヘウンバオス様が!?」と気になる声が響いてきて、つい耳が大きくなった。
(ヘウンバオスがなんだって?)
天帝の名前に反応し、無意識に前のめりになる。そんなバジルを人相の悪い兵士が「おい」と睨みつけた。
「ヒッ! す、すみません! 盗み聞きするつもりでは」
震え上がるバジルに対し、男はぞんざいに首を振る。兵士の口から出てきたのは「職人ども、大急ぎで虫眼鏡を百本作れ」という想定外の注文だった。
「へっ!? む、虫眼鏡を百本!?」
面食らって尋ね返す。そんなものを何に使うのだと瞬きしていたら「余計なことは考えずにさっさとしろ! これは天帝陛下のご命令だ!」と叱られた。
「バジル・グリーンウッド。お前はいつアトリエを出ろと言われてもいいようにしておけよ」
更に男は名指しでバジルに告げてくる。虫眼鏡の発注は奥宮の職人全体への通達らしいがこちらは個人への指令なのが引っかかった。
「な、な、なんでです……?」
なんだか嫌な予感がする。おっかなびっくり理由を問う。問いかけに対する返答は、あまりに無慈悲なものだった。
「お前はラオタオ様のいるドナへ移ってもらうことになっている」
「ラッ……!?」
一気に目の前が暗くなる。聞き間違いだと思いたかった。狐目の酷薄な男と廃墟同然だったドナの記憶が甦り、愕然と立ち尽くす。その間に伝令の兵士は足早に細いトンネルを引き返していった。
「なっ……なっ……、なんでよりによってラオタオ……様のところなんですかあああ!?」
半泣きでバジルはタルバにすがりつく。だがあいにく彼も天帝の思惑までは聞かされていないらしく、明瞭な答えは返ってこなかった。
「多分お前がここの職人連中で一番腕がいいからだと思うけど……。ドナってことは、退役兵のための贅沢品をお前に作らせたいんじゃないか?」
あの綺麗なレースガラスとか、と青年が人差し指を立てる。苦心して工法を編み出した作品が己を窮地に追いやるなんてとバジルはさめざめ泣き伏せた。こんなことならもっと大人しく目立たないようにしていれば良かった。
「そんなに嫌かよ? めちゃくちゃ怯えてんじゃねえか」
「嫌に決まってますよ! ジ、ジーアン人のあなたに言うのもなんですけど、あの人ちょっと加虐趣味がきついじゃないですか……!」
「あ、ああー、まあな」
バジルの必死の訴えにタルバはしばらく考え込む。真剣な表情で何を悩んでいたのかはわからないが、顔を上げた彼の「よし、決めた」という声には強い力がこめられていた。
「俺も衛兵引退してお前と一緒にドナへ行く!」
「ええっ!?」
思いがけない提案にバジルは目を丸くする。自分としては彼がいてくれれば頼もしいが、タルバはそれでいいのだろうか。
「ほ、本当に退役する気なんです? 簡単にそんなこと決めちゃ駄目ですよ! きっとお給料いいんでしょう? 宮廷勤めの兵士と言えば普通は一生安泰で、各方面にモテモテで」
「ははっ! お前はいい奴だな、バジル。けど俺も、この一年考え抜いたことなんだ」
ドナへ行くよとタルバが言う。一抹の後ろめたさの滲む声で、それでも心を変えるつもりはなさそうに。
「向こうに着いたらガラス作りを教えてほしい。深くは話せないんだけどさ、実は俺、もうすぐ死んじまうかもしれなくて……。だけど何か残したいんだ。一つでも多く、自分の生きてきた証を」
真摯に「頼む」と乞われてバジルは口ごもった。ガラス作りくらいいつでも好きなだけ教えるけれど、もうすぐ死ぬとはどういう意味だ?
「な、何か悪い病気なんです?」
「そんな感じだ。まあお前にはうつらないよ」
「う、うつる心配をしたわけじゃ……!」
タルバは笑ってバジルを安心させようとする。恵まれたジーアン人の若者と思い込んでいた自分が急に恥ずかしくなった。重い事情の一つもなく上級兵士が下級職人に憧れるはずなかったのに。
「……僕に任せてください! 四ヶ月、いや三ヶ月で一人前のガラス工にしてみせます!」
握り拳で胸を叩くとタルバがふふっと吹き出した。
「ありがとう。やっぱりお前、いい奴だな」
くしゃくしゃの笑顔から憂いが消えてほっとする。死病ではあるが肉体的な苦痛はないそうで、少しだけ胸を撫で下ろした。
「お医者さん紹介しましょうか? 友達の実家が薬屋で、ツテが使えると思うんですけど」
「いや、いいよ。気持ちだけ貰っとく」
断られてから医療は東のほうが進んでいることを思い出して縮こまる。何かできたらいいのにともどかしい気持ちでタルバを見上げた。アクアレイア人の自分がジーアン人と馴れ合いすぎるのは危険ではないかと感じながら。
(いや、けど、タルバさんはいい人だし……)
軍を抜けるなら戦場で殺し合いになる可能性は低いだろう。だったら彼とは本当の友人になれるかもしれない。無意味に傷つけ合ってしまったヴラシィやドナの人々とは違って。
「さあ、とっとと荷物をまとめろよ。ドナだったらアクアレイアは対岸だし、ラオタオ様のご機嫌次第で家に帰れるかもしれないぜ?」
「うわわっ!」
思いきり肩を押されてつんのめった。転倒しかけたバジルを見やってタルバはいたずらっぽく笑う。
「虫眼鏡の件は俺が皆に伝えといてやるよ」
そうだった、至急の納品があるのだったと思い出し、バジルは慌てて自分のアトリエへ駆け戻った。彼の言うように一時帰国のチャンスが巡ってくるかもしれない。しっかり準備しておかなければ。
(帰れなくてもモモたちに連絡くらいはできるかも)
そう考えると頑張る勇気が湧いてくる。バジルはよし、と拳を握った。
(ラオタオは怖いけど、僕は戦い抜いてみせるぞ。モモ、見ていてくださいね……!)
思い浮かべた愛しい少女は妄想でさえ「なんでモモがバジルなんか見てないといけないの?」と言いたげだったが気にせず荷造りを進める。現実の彼女は更につれないかもしれないが、それでもやはりもう一度会いたかった。決して濁ることのない、勇ましく強いあの瞳に。
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「ええっ!? あの素敵なレース柄のガラス器を作る職人をドナへやってしまうですって!?」
寝耳に水の報告にアニークはまどろんでいた緋色のソファから飛び上がった。驚愕はすぐさま立腹に変わり、女帝らしい威厳ある態度など忘れさせる。
「ヘウンバオス様はそうやって退役兵のご機嫌ばかりお取りになるのね……!? 私のことなどまったく全然これっぽっちもお気にかけてはくださらないのよ! うわああん!」
怒り任せに掴んだクッションを思いきり床に叩きつける。伝令ついでに立ち寄ってくれた衛兵はうわっと屈み、気の毒そうにアニークを見上げた。
彼のこの表情が今の自分のすべてを物語っている。閉じ込められた籠の鳥。そのうえ半ば捨てられた。
(酷い、酷いわ、ヘウンバオス様。あのレースガラスの繊細な模様を辿るのは日々のせめてもの気晴らしだったのに! どうして私ばっかり我慢しなくちゃいけないの……!?)
意思を持つ存在となり、二年にもならぬ己を憐れんでくれたのは嘘だったのかと泣けてくる。あの方を思えばこそ側近くに留まったのに、どうしてドナで遊び暮らす連中ばかりがいい目を見て、こちらは旅行の願いさえも聞き届けてもらえないのだろう。死ぬ前に一度でいいから西パトリアの地を踏んでみたい。それ以外の望みは今まで一切言わないできたのに。
(こんな暮らしを強いられるくらいなら私もさっさと抜ければ良かった)
天帝から分裂した蟲であるというプライドが、弱りきった夫に対する同情心が、アニークを天帝宮に引き留めた。だがそんな砂の城はもはや崩れかかっている。
(ヘウンバオス様が最後に来てくれたのはいつ? 薔薇水を全身に振りかけてあの方を待った夜は……)
次々と減っていく同胞の召使い。ただの人間に囲まれて生活するのはいつもどこか気が張った。心細さに寄り添ってくれたのはサー・トレランティアだけである。いかなるときも主君のために行動する堅物騎士。
アニークは長椅子脇の書見台を振り返り、騎士物語を手に取って胸にきつく抱きしめた。もう何度読み返したことだろう。これだけが今の自分の生き甲斐だ。
(サー・トレランティアの見たものを私も見たい。たったそれだけのことじゃないの……)
抑え込んできた不平不満はもはや爆発寸前だった。一年前の自分なら「願いを叶えてくださるなら残りの人生はすべてヘウンバオス様に捧げます」くらい誓っただろうが、今は嘘でも言えそうにない。たとえ根っこが同じでも、私の人生の花も実も私にしか育てられない大切なものだ。
(つぼみのまま死んでいくのが可哀想だと仰せなら、快く見送ってくださればいいのに)
短い一生をせめて納得いくように過ごしたい。あの方はそれをわがままだと言うのだろうか。千年も夢という名のわがままに仲間を付き合わせてきたのはほかでもないヘウンバオスなのに?
(別にあの方をなじりたいわけじゃないけど……)
さして大きいとも思えぬ願いを断られ続けるのはつらい。女帝の身体で旅に出るのがいけないのなら別の身体と交換すると言えば「今は必要最低限の手も足りないのだ」と十将たちに却下を食らうし、待てば待つほど後回しにされるばかりで。
「……もういいわ! 私だってもう勝手にやるわ……!」
荒んだアニークの宣言に衛兵は「ええ!?」と声を引っ繰り返した。彼は目を白黒させてアニークをたしなめる。
「女帝陛下、いくらなんでもそれはまずいです。ただでさえ大変なときなのに思いつきで勝手な行動をなされては……」
「何がまずいの? アクアレイアはジーアン領よ? 自分の伴侶の国なのに、皇帝が自由に出歩けないはずがないでしょう!?」
「は!? ま、まさか国外に出るおつもりで!?」
「そうよ! そのおつもりよ!」
絶対に西パトリアへ行ってやる。そして物語に出てくるような騎士を探し、誠心誠意己に仕えさせるのだ。このまま何もせずに終わるなど耐えられない。憧れの世界を見ないで終わるなど。
「──アニーク、ここか?」
そのとき聞き知った声がして、アニークの専用図書室に美しい青年が入ってきた。豊かな金髪を結い垂らし、豪奢な毛織の装束を身に着けた、世界で最も尊い男が。
「ヘ、ヘウンバオス様!?」
晩春からついぞ見かけなかった天帝の来訪にアニークは仰天する。滴る血を思わせる双眸と目が合うと石化したように動けなくなった。
(ま、まさかさっきの話聞かれてたんじゃ……)
冷や汗が頬を伝う。だが懸念はただちに払拭された。荒れた室内を見回してヘウンバオスが告げたのは「今まですまなかったな」という謝罪の言葉だったからだ。
「えっ……」
にわかに胸が高揚する。ついに自分にも順番が巡ってきたのだという予感。それは今度こそ裏切られなかった。アニークの夫は、父なる彼は、切ない願いを忘れずにいてくれたのだ。
「ファンスウに船の用意をさせている。調査団と一緒にお前もアクアレイアへ行くといい」
調査団とはなんのことかアニークにはわからなかったが、行っていいというひと言だけで歓喜には十分だった。アクアレイアに旅立てる。まだ見ぬ騎士に会いに行ける。そう思っただけで踊り出しそうになる。
「あ、ありがとう、ヘウンバオス様!」
抱きついて感謝を示すアニークにヘウンバオスは痩せた頬を綻ばせた。
「元気になってくださって嬉しいわ」
そう言って額をすり寄せる。
「お前が笑顔になってくれて嬉しいよ」
彼も同じく囁いた。
「本当に本当にありがとうございます! 私めいっぱい楽しんできます!」
暗鬱に陥りがちな心が今日はどこまでも晴れやかだった。この先に待つ嵐の気配など微塵も感じさせないほどに。




