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第2章 その1

 フスの天候予測はよく当たる。三日ほど待てば出られるだろうと霊妙な右手が告げた通り、ルディアたちはパトリア聖暦一四四二年二月十四日、北東の風吹くコーストフォートの河港に集まった。

 冬は大抵どの船もドックに引っ張り上げられて、船底にこびりついた藻類の除去や防水剤の塗り直しなどの修繕を受ける。この日も広い港にはオリヤンの船団くらいしか見当たらなかった。商売人の影もなく、うすら寂しい光景だ。だがせっかく見送りにきてくれた北辺人一行が無遠慮な衆目に晒されるよりはずっといい。常より高い、黒々とした波の打ち寄せる桟橋でルディアは彼らに向き直った。


「ありがとう。何から何まで本当に世話になったな」

「よしてくれ、水くさい」


 丁重な一礼にイェンスが熊頭を横に振る。


「こっちだってお前らにはいくら感謝しても足りねーんだ。新しい職のことも、レイモンドのことだって」


 そう言って彼は隣の息子に目をやった。槍兵は旅立つルディアの隣ではなく留まる北辺人たちの列にはみ出さないで並んでいる。船が出たらすぐに工房へ戻るためか、厚手の毛皮のコートのほかは軽装だ。

 レイモンドを残していくと伝えたとき、まだ我が子と一緒にいさせてくれるのかとイェンスは涙ぐんだ。半年前には有り得なかった親子の笑みは彼らの仲を取り持った赤髪の騎士にも向けられている。


「何もかもお前らのおかげだよ、本当に」


 ありがとうなとイェンスが繰り返す。尽きない感謝の気持ちを込めて。

 彼にとっても、レイモンドにとっても、ルディアにとっても、人生の転機となった半年だった。長い忍耐と劇的な変化。アルフレッドが来なければ事態はもっと悪い方向へ進んでいただろう。収まるところにすべてが収まり、本当に良かった。


「叶うならイーグレットと一晩飲み明かしたかったぜ。話したいことは山ほどあるし、きっと盛り上がったのにな」


 残念そうにイェンスが肩をすくめる。もう一度父に会えたら。その空想にはルディアも惹かれるところがあった。

 けれどもすぐに考えるのをやめる。再会なら己は果たした。あの人の優しい微笑とも、温かな言葉の数々とも。これ以上望むのは強欲というものだ。


「そういやあいつ、ヒゲ生やしたんだな。髪も伸びてたし、体つきもがっしりしてさ、すっかり一人前の王様って感じだったぜ」


 そのときふと思い出したように元神官が呟いた。なぜイェンスが父の風貌を知っているのだとルディアはぱちくり瞬きする。レイモンドかアルフレッドにでも聞いたのだろうか。それにしては実際にあの人と会ってきたような口ぶりだが。


「ああ、俺は視えてたんだよ。あの夜俺たちの真上にオーロラが出たときに、カロを止めるあいつの姿がさ」


 戸惑うルディアにイェンスは霊感鋭い自身の双眸を指差して笑う。彼曰く、イーグレットが娘を守ろうとしたからこそ彼は心底からルディアの存在を受け入れられたということだ。


「元気でな。カロをがっかりさせねーように、しょうもない理由で死ぬんじゃねーぞ」


 元神官はそう言ってルディアに右手を差し出した。握手はしないほうがいいと及び腰だったのが嘘のように。

 ごく自然に頬が緩む。それにあの幻と邂逅した人間が自分とカロだけでないことも嬉しかった。イェンスが視たと言うのなら、あのときあの人が側にいてくれたことをもっとはっきり信じられる。


「父があなたに出会わせてくれたのだと思う。どうか末永くお達者で」


 心をこめて手を取るとイェンスはこちらの腕をぐいと引き、老いてはいるが逞しい胸にそっとルディアを抱き寄せた。「イーグレットの娘なら俺の娘も同然だ。困ったときはいつでも頼れよ」との言葉に目頭が熱くなる。


「その言葉だけで勇気が出るよ。じゃあな、イェンス。スヴァンテたちもまたきっと、いつかどこかで」


 イェンスから身を離し、ルディアは空中で揺れるフスの右手と北辺人たちに別れを告げた。出航準備の整った帆船からは既に「おーい」とオリヤンの呼ぶ声が響いている。そろそろ船に乗り込まねばならない。


「アル! モモ! 姫様のこと頼んだぜ!」


 小走りに前へ出てきたレイモンドが騎士と斧兵に念を押す。兄妹は拳を掲げ、任せておけと頷いた。


「そっちも風邪引かないようにね」

「ちゃんと親孝行するんだぞ」


 握り拳を突き合わせ、三人は短いさよならを済ませる。ルディアが「行こう」と促すと桟橋に立ち止まっていたほかの面々も歩き出した。


「わあーっ! 素敵な船ですねえ!」

「わうわうっ!」


 ハイランバオスとムク犬が先頭切って甲板に上がる。アイリーンにブルーノ、モモにアルフレッドが一人ずつその後に続いた。

 最後に歩を進めたのはルディアだ。が、縄梯子に足をかけたところで「あ! ちょっと待って!」と声がかかる。なんとなくそうなるだろうなと思っていたが、案の定引き留めてきたのはレイモンドだった。


「あのさ、やっぱりこれあんたが持っててくれねーか?」


 藪から棒に先日渡した首飾りを握らされ、ルディアはえっと瞠目する。不要になったのだろうかと思わず顔を見上げたが、そういう意味ではないらしい。レイモンドは「離れてる間も俺のこと思い出し……いや! 違う違う、今のは違う。忘れてくれ」と咳払いして説明を始めた。


「次に会ったとき、言葉で返事が貰えるかどうかわかんないだろ? あんたが俺とは絶対ないって思ったら捨ててほしい。だけどちょっとでも可能性があるうちはポケットに入れといてほしいんだ」


 迷惑じゃなかったら、と子犬のような眼差しで見つめられる。

 突き返すべきだと思ったのに、なぜか咄嗟にそうできなかった。多分手を、お守りと一緒に握られたままだったから。


「……直してくれてすげー嬉しかった。だからなるべく、俺のところに戻ってきたらいいなって思ってる」


 熱を帯びた低い声。聞き慣れなくてざわざわする。早く船に上がらなければならないのに、もたもたしている場合ではないのに、神経毒でも盛られたように動けない。


「まあそれは、あくまで俺の希望なんだけどさ」


 名残惜しそうに、離れがたそうに、革紐の結び目を撫でていたレイモンドの指が引っ込められるまでルディアはひと言も口をきけなかった。

 強い危機感を覚える。己のこんな現状に。

 どんな返事でも平気だからと言いたげな男を見上げ、ルディアは小さく眉根を寄せた。槍兵の謙虚さが嘘だとは思わないが、剥がれやすい塗装であるのは間違いない。

 人間は欲深だ。その気はなくてもいつの間にか、他人のものさえ自分のものだと履き違える。


(こいつ自分が残された理由をまるでわかっていないな)


 つきかけた溜め息を飲み込んでルディアはお守りの首飾りを懐に押し込んだ。冷却期間を置きたいと、もっとわかりやすく伝えたほうが良かっただろうか。上限つきの恋なんてしないほうが互いのためだと。


(なんのためにわざわざ私が『ルディア』として生きていくことを宣言したと思っているんだ?)


 自分には守るべき国がある。今すぐにではなくたって、レイモンドも結局はユリシーズと同じ道を辿るかもしれない。それなのにあんまり一途な振舞いを見せないでほしかった。拒絶の言葉を考えるだけで両手では足りない夜が必要なのに。


「……パーキンのこと、任せたぞ。必ず新しい印刷機とともにアクアレイアへ帰ってきてくれ」

「ああ、首根っこ引っ掴んでも連れてくよ。あんたも道中気をつけて」


 揺れる心はひた隠し、事務的にやり取りを終えて縄梯子を掴み直す。甲板に上がると待ち構えていたアルフレッドが船縁を越える手を貸してくれた。


「よーし、全員位置についたな? 錨を上げろー!」


 出航の号令でにわかに船上が活気づく。オリヤンお抱えの水夫らは右へ左へ忙しく駆け回った。先程ルディアが使用した縄梯子も巻き取られ、甲板の隅に投げられる。完全に行き来不可能となった桟橋を見下ろせばこちらを見つめるレイモンドと目が合った。


「なるべくさっさと追いかけるから、俺のこと待っててくれよな!」


 五枚もの帆に風を受け、船は早くも進み出していた。懸命に手を振る槍兵があっという間に後方に遠ざかる。「また会おうぜ!」と叫ぶ北辺人たちの声も、呆気ないほど遠く、遠く。


(なんて速度だ。これから真冬の海に出ようというのに)


 耳元で風が吠える。ごうごうと猛々しく、軽い板なら吹き飛ばしそうに。

 けれどどんなに煽られようと最新技術で建造されたオリヤンの大型船はびくともしなかった。イェンスたちのコグ船は少しでも航路を逸れれば難破必至の大揺れであったのだが。


(まさかこれほど頑丈な船だとはな)


 時代が進歩しているのを感じる。近い将来、海が凍るほど北方の港でもない限り、季節を問わず一年中どこでも交易できる日が来るだろう。それどころか今までより遠隔の地へ旅する商人、新たな交易路も出現してくるに違いない。アクアレイアだけこの波に乗り遅れるわけにいかなかった。


(待っていてくれと頼まれても、止まれないんだ、レイモンド)


 ルディアはポケットの更に深くに首飾りを追いやった。雑事にかまけている暇はない。己のなそうとしている難事の大きさを考えれば。

 アクアレイアを取り戻す。そして二度と誰にも踏み荒らさせはしない。

 今はほかの願望は封じてしまわねばならなかった。よしんばそれがどんなに抗いがたい引力を持つとしても。




 ******




 幼馴染が麦粒ほどに小さくなり、河口の奥に霞んでいたコーストフォートが完全に見えなくなって、アルフレッドはようやくふうと小さな息を吐きだした。いつかのように「やっぱ俺あっちに乗るわ!」とレイモンドが追いかけてくるのではないか、代わりに自分が船から降ろされるのではないかと内心気が気でなかったのだ。

 オリヤンと今後の予定を話し合う主君にも後ろ髪を引かれるような素振りは見えず、少しずつ胸のつかえが取れてくる。そんな己をどうかと思う気持ちも膨らみつつあったが。


「オリヤンさんの船、ものすごくおっきいね。モリスさんのガラス工房が六つくらい入りそう!」

「最新型の帆船ってこんなところまできてるのねえ」


 傍らでモモとアイリーンが商船を見回す。頑健さや積載量の多さにはしゃぐ女たちとは対照的に、ブルーノは姉の腕で依然打ちひしがれていた。目新しいはずの造船技術にかけらの興味も示さずに、虚ろに下を向いている。

 当たり前に側にいた相手と別れて平常心を保てずにいるのは主君よりむしろこの幼馴染のほうだった。王女のふりを続ける間にブルーノはチャドに対して並々ならぬ愛着を抱いてしまったらしく、食べ物も喉を通らない状態が続いている。

 気がかりだが、できることは何もなかった。慰めの言葉もかけ尽くし、後は時間が解決してくれるのを待つくらいしか。


「ああ、ごめんなさいね、ブルーノ。すぐに船室で休ませてあげるわね」


 アルフレッドの視線に気づいてアイリーンがオリヤンを振り返る。どの客室を使えばいいか船主の指示を仰いだブルータス姉弟はややあって甲板下に続く階段に消えていった。


「こんな立派な船を買っちゃうなんて、オリヤンさんってすごいんだねー」


 モモは二人にはついていかず、ルディアと亜麻紙商の間に入って称賛の声を上げている。孫娘でも相手にしている気になるのか、オリヤンは細い目を更に細めて彼女に応じた。


「ありがとう。しかし本当はこんな船、私には分不相応なんだ。トリナクリアでは金銭の相続が血縁者にしか認められていないからね。こうして時々大きな不動産にしては素寒貧(すかんぴん)になっているのさ」


 早く帰って商品を売ってしまわないと破産の危機だと亜麻紙商が笑う。それでこんなに慌てて航海に出たのかと納得した。オリヤンは自身の窮乏も顧みずカロとルディアの決着を見届けてくれたらしい。


「ほう。そっちでは船が動産ではなく不動産扱いなのか。奥方はとっくの昔に亡くなっているのだろう? 誰に財産を譲る気なんだ?」


 他国の相続法に関心が向いたのかルディアが亜麻紙商に尋ねる。オリヤンは「うちの水夫や寄る辺のない亜麻紙職人たちに、家の代わりになるものくらい残したくてね」と遥か南東──リマニの方角に目をやった。

 オリヤンはジーアン帝国が東パトリア帝国の南半分に食指を伸ばしたとき「天帝に支配されるより見知らぬ島へ逃げたほうがましだ」とトリナクリアにやって来た職人一族を保護したらしい。それから本格的に亜麻紙の製造販売に乗り出して大成功を収めたそうだ。アルフレッドはオリヤンの豪邸も褐色肌の職人たちも見たことがないが、彼の屋敷に逗留していたルディアは「なるほど」と合点した様子だ。


「そう、当時は東パトリア帝国内でしか用いられていなかった高度技術が結構流出したんだよ。逆に天帝に囲い込まれたものも多いと思うがね。ジーアンに連れ去られたという君たちの仲間が無事に戻ってきたら、何か面白い技を習得しているかもしれないよ」

「面白い技か」

「バジルなら確実に身につけてるだろうけどねえ……」


 ルディアとモモが深々と嘆息する。アルフレッドも肩をすくめずにはいられなかった。

 ジーアンの首都、それも天帝宮に囚われているだろう彼を助け出すのは骨の折れそうな話である。なんとか自力で脱出してくれればいいが、ひとりぼっちでは期待もできまい。


「おや? 今どなたか天帝と仰いましたか?」


 と、そこに目を輝かせたハイランバオスがムク犬連れで寄ってくる。今の今まで船首近くできゃっきゃと海を眺めていたのになかなか鋭い聴覚だ。


「ちょうどいい。天帝宮に集められた職人がどういった扱いを受けているのか教えてくれ」


 さして動じた気配もなくルディアがエセ預言者に尋ねる。ハイランバオスの返答によれば「監視の目さえ気にならなければ素敵な暮らしを送れますよ! 三食おやつに昼寝つきで二十四時間仕事に没頭し放題! 東西南北の名だたる研究者、技術者と情報交換できますし、持とうと思えば弟子だって持てます! 世事に関心のない隠者タイプからはこの世の楽園と言われていますね!」とのことだった。


「五年くらいほっといて大丈夫なんじゃない?」

「こら! モモ!」


 妹のあんまりすぎる言いように思わず声を張り上げてしまう。アルフレッドが「いくらなんでもバジルが可哀想だろう」と叱るとモモは「うわっ、アル兄聞いてたの?」と引き気味に眉をひそめた。


「そりゃモモも元気で帰ってきてほしいとは思ってるけどさー、バジル一人のために時間も戦力も割いてられないのは事実だし……」

「事実だとしても言い方というものがだな」


 あれだけ自分を好意的に見てくれる相手になんて冷たい態度だろう。いや、そもそもモモは身内に対しても容赦などしないが。


(バジルがモモを好きなのはバジルの勝手だと考えているんだろうな)


 恋心を向けられたからと同じだけの恋慕を返してやる義理はない、特別扱いする気はないし、優しさを求められても困ると。反論する余地もない正論ではあるけれど。

 まったく人の世は尽くした分だけ報われるようにはできていない。積年の愛も努力も認められるのはひと握りだ。


(だからって諦めてしまったら、本当に振り向いてもらえなくなる──)


 無意識にルディアに目をやって、アルフレッドはぶんぶんとかぶりを振った。自分のいない間にレイモンドが主君の中で特別な人間になったように、友人のいない間に自分も差を縮めなければ。そんな浅ましい発想がもたげてくるのが信じられず、憂鬱は深まった。

 すぐ側ではハイランバオスがムク犬と戯れながら「ジーアンのこと、もっとお話ししましょうか?」などとルディアに接近している。この油断ならない男が同乗している船において味方が一人減ったことを嘆くならまだしも、自分がほっとしているなんて思いたくなかった。


(関係ない。レイモンドと姫様がどうでも)


 自分は自分の忠誠を貫くだけ。そうすれば望む信頼はきっと得られる。彼女はいつだって部下の働きをしっかり見てくれているのだから。

 重用される騎士ではありたいが寵愛を求めているわけではない。そうだろうと強く己に問いかける。胸のざわつきが静まるまで。


「ジーアンか。それよりも今はアークについて聞かせてほしいな。まだ隠していることがあるんじゃないのか?」


 苦悩するアルフレッドに勘付いた様子もなくルディアがエセ預言者を促す。すると彼は「これ以上は秘密です」と人差し指を立てて首を横に振った。


「だってあんまり喋ってしまっては面白くないでしょう? 詩も人生も手探りだから楽しいのですよ」


 仲間にしろとは言われたものの、ハイランバオスが真の意味で仲間入りする日は来なさそうだ。どこまでも愉快犯といった態度の男にアルフレッドは顔をしかめる。


(姫様の身に危険が及ばないように、もっとしっかりしなければ)


 誰にも見られないように剣の柄を握る手に力をこめた。どんなときも主君を支える。それだけが歩むべき騎士の道だ。


(今はとにかく、王国やジーアンやアークのことを考えよう)


 蟲を生み出す神秘のクリスタル。アレイアのアークを管理するのはコナー・ファーマーだとハイランバオスは言う。バジルの救出もアクアレイアの奪還もなさねばならない大仕事だが、コナーの保護もその一つだろう。天帝の魔手が伸びる前にどうにか彼を探し出さねば。

 あの飄々とした天才画家は今頃どこで何をしているのだろうか──。




 ******




 先刻から途切れ途切れに聞こえていた幼子のぐずり声が、すぐ隣の寝室からけたたましい絶叫として響き始めたその瞬間、なけなしの集中力は弾け飛んだ。画材と本と原稿を分類もせず詰め込んだ棚だらけの狭い書斎でコナーはふうと顔を上げる。今日の作業はここまでのようだ。


「すみませんねえ、うるさくしちゃって」


 椅子の上で伸びをするこちらの気配が伝わったのか、赤子を抱いた中年女がドアを開いて詫びてくる。ノックもなしで済ませられるほど気心の知れた──かれこれ一世紀近い付き合いの──彼女はコナーの筆が止まっているのに目を留めて「この子を散歩に連れ出せりゃいいんですが」と肩をすくめた。


「いや、いいさ。どうせ今日はそんなに気乗りもしていなかった」


 雪深い山中の、寒々とした隙間風に凍えきっていた指先を、自分の息で温めながら首を振る。書き物机にはアクアレイア史が草稿のまま放り出してあった。以前書いたものはジーアンに置いてきたので改めて書き直しているのだ。

 同じものを再度出力するだけならば労というほど労ではない。実際完成度は八割超というところまで来ていた。だが難しいのはここからだ。

 歴史書が書き上がれば間違いなく政治利用されるだろう。滅びたのは王国の名前だけで、アクアレイア人の精神も肉体もジーアン人のそれに置き換わったわけではない。地理的には西パトリアに属するあの一帯がこれから動乱の地となる可能性は高かった。


(この子もまた王家再興の切り札というわけだ)


 コナーは木椅子から立ち上がり、女のあやす赤子の茶色の巻き毛を撫でる。アウローラの器は既にマルゴー人の乳児のものに換えてあった。聖パトリアの尊い血を引く肉体はアークに収め、空っぽのままにしている。必要ならもとの宿主に中身を移すこともあろう。この先も数百年はアクアレイアが東西交易の中継点でいられるように。


(しかしすべてはジーアンの出方次第だな)


 東西世界の軍事的均衡は崩壊してしまっている。ジーアンが再び西方へ侵攻を始めれば止められる国はあるまい。誰かが西パトリア諸国の王に悪知恵でも貸さない限り。


「──」


 一人だけそういうことをやりそうな男を思い出し、その読めなさに苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを浮かべた。「どうしたんです?」と女に問われ、コナーは「いいや」と小さな王女から手を離す。

 アークの使命は人類の文明を発展させること。平和が近道なら平和を、争いが近道なら争いを、状況に応じて使い分けるのみである。

 時代の潮流が渦巻いている。世界は一つの強国に同化するべきか、はたまた多様性という名の危ういバランスを保つべきか。見極めるのが己の仕事だ。人々を守護し、導く者が現れるその日まで。


(いい加減あの男も引きこもりをやめて動き出すだろう。さて、そのとき私はどうしようかな?)


 小さな机のすぐ上に貼りつけてある世界地図を振り返る。ここ数年、世界を揺るがす震源地であった東方の都を見やり、コナーは静かに口角を上げた。

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