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第1章 その6

「さっむ! なんだこれ!」


 急に冷え込みすぎだろとレイモンドは眉をしかめてコートの襟を引き寄せる。隣村まで辿り着き、ボートを降りた時点では肌が少々汗ばんでいたから寒風も心地良かったが、昼食を終えて小料理店を出た現在はそんなもの温もりを奪う悪鬼悪霊でしかなかった。


「午後は雪になりそうだな」


 曇天を見上げる王女と小舟を繋いだ桟橋へ急ぐ。触れる外気は身が切れそうなほど冷たい。太陽が再び顔を出してくれるように祈りながらこじんまりしたボートに乗り込む。今朝は穏やかだった風は、今や川面が小さく波立つほどに強まっていた。レイモンドはルディアが足を滑らせないようにそっと手を差し伸べた。


「危ねーだろ? ほら」


 彼女は一瞬躊躇して見えたが、すぐに王女らしい気品ある仕草でエスコートの手を取り返す。ふわりと地上を離れた足は、間もなくレイモンドのすぐ側に降り立った。


「ううっ、水の上は更に寒い。もう一杯あったかいスープ飲むんだった」


 二の腕を擦りつつ横木に腰を落ち着ける。ロープを外せば小舟は河の流れに乗ってひとりでに走り出した。

 掌の感触が消えてしまうのが惜しくてなかなかオールを持つ気になれない。ルディアも特に急かさなかった。漕げばそれだけ早く風のない場所に行けるのだが、二人きりの静かな時間も終わってしまう。都市の喧騒とて悪いものではないのだが。

 ふーっと吐き出した霧状の息を見つめる。これだけ寒けりゃ不自然じゃないよなとレイモンドは再び手を──今度は両手を差し出した。


「つ、繋いでたほうがあったかくね?」


 多少どもったのは気にしないことにする。が、返ってきたのは「ポケットにでも入れておけ」というつれない言葉だった。せっかく勇気を振り絞ったのにちょっとあんまりすぎやしないか。


「いや、その、そろそろデートっぽいことしたいなっていうか?」


 めげずにレイモンドは食い下がる。こんな機会は二度と来ないかもしれないのだ。そう思ったら出した手も簡単には引っ込められなかった。


「…………」


 ルディアはしばし逡巡したのち、しょうがないなという顔で右手だけこちらに投げてくる。名状しがたい感動とともにレイモンドはその手をぎゅっと包み込んだ。


「…………」


 たちまち体温が上昇し、あれ、あれ、と困惑する。さっきはスマートに舟に案内できていたのに、今は一気に膨らんだ緊張で全身が固まり、高鳴った心臓が破れてしまいそうだった。

 ルディアを見れば居心地悪そうに目を逸らす。その反応はどう見ても嫌悪を示すものでなく、照れ隠しのそれであった。


「……!」


 目を奪われる。薄赤く染まった頬に。悪態をつけない唇に。

 もっと踏み込んでみていいんじゃないか? そんな予感がレイモンドの背を押した。


「あ、あのさ……」


 だがレイモンドは二の句を継がせてもらえなかった。まだ草も生え揃わない岸辺を眺めるルディアの呟きに阻まれて。


「地元民はやはり寒さに強いな」


 視線の先に目を向ければ小さな村の小さな丘に数人の少女が集まっていた。娘たちはひっきりなしにお喋りしつつ色とりどりの旗や造花、祭り装束らしき晴れ着の汚れをはたき落としている。雪が降る前に片付けようというのだろう。口と同様に白い手もまた忙しなく動いていた。


「もうじき春か。新しい季節の訪れを祝う風習はどこにでもあるらしい」


 ルディアがカーニバルを思い出して言っているのはすぐに知れた。航海禁止の長い冬が明けるのを船乗りたちは心待ちにしている。一年で一番盛り上がる一週間だ。飲めや食えや、歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎ。仮面で普段の己を隠し、代わりに真実をさらけ出す。


「今年はうちの祭りには間に合わねーだろうなあ」


 今すぐ出航したとして一ヶ月弱ではアクアレイアに帰り着かない。残念だとレイモンドが肩をすくめるとルディアは「そもそも祝祭などやれる状況にないはずだ」と現実的な予測を告げた。


「来年も、再来年も、カーニバルなど夢のまた夢かもしれん」


 どこまでも冷静な彼女が悲しい。なんとか気分を盛り上げようとレイモンドは「でもさ、先のことはわかんねーじゃん?」と問い返した。


「アクアレイアを立て直して、ジーアン兵を追っ払うのに、そりゃ一年や二年じゃ済まねーかもしんねーけど。俺も一緒に頑張るしさ」


 ぎゅっと両手に力をこめる。ルディアは熱弁にたじろいだ様子で「悲観しているわけではない。私とて全力を尽くすつもりだ」と苦笑した。


「じゃあもっと明るい話しようぜ。カーニバルが復活したら何がしたい? 俺今までは美味いもんが食えりゃなんでも良かったけど、次は派手に仮装したいな。ビシっと決まったかっこいいやつ!」

「きちんとすると金がかかるぞ。財布の紐を緩められる自信はあるのか?」

「うっ、確かに。……いやいや、けどやっぱみすぼらしい恰好はできねーや。俺、王女様にダンス申し込みてーんだもん」


 こちらの台詞にルディアが大きく目を瞠る。そのまま微動だにしなくなった彼女にレイモンドはおずおずと尋ね直した。


「……駄目かな?」


 軽口や冗談の類でないのは声のトーンで伝わったはずだ。構わないと言ってくれることを期待してじっと見つめる。だがルディアは固く沈黙を守るのみであった。


「ほら、その、無礼講じゃん? 仮面もつけるし誰が誰なんてわかんねーし。親父も母ちゃんに一曲一緒に踊らないかって誘われたのがなれそめだったとか言ってて」


 イェンスの名を出すとまた彼女の態度が変わる。「いつの間にかそんな話までするようになったんだな」と柔らかく微笑まれ、ドキンと胸がときめいた。


「い、いや、そうじゃなくて、今は俺と踊ってくれるかって話を……」


 軌道修正を試みたものの、ルディアのほうはこのまま父の話に持ち込みたいらしく「お前たちが和解して私も嬉しい。会えて良かったな」と続けられる。なんだか彼女がダンスの返事を誤魔化したがっているように見えて思わず声を張り上げた。


「お、俺は! 親父にも会えて良かったと思ってるけど……、それよりもっとあんたに会えて良かったって思ってるよ!」


 またしてもボートに流れる時が止まる。表情を消し、うんともすんとも答えないルディアを見ていたら段々と不安になった。

 自分でも気づかない間に困らせるようなことを言ってしまったのだろうか。確かにぐいぐい迫りすぎた感はあるけれど。


(つーかこれ、どっちかっつーと昨日の話蒸し返される流れなんじゃ……)


 予想に違わず彼女は「でもイェンスとは、別れてしまえば次いつ会えるかもわからないだろう?」と尋ねてくる。この後はどんなことを言われるか、ここまで来たら簡単に想像がついた。


「お前、やっぱり印刷機が完成するまでこの街にいてくれないか?」


 問いかけにレイモンドはがっくりと肩を落とす。デートの真なる目的は視察ではなく説得にあったらしい。道理であのタイミングで声をかけられたわけである。


「……嫌だって言ったじゃん」


 これでもかというくらい眉根を寄せて返事をした。けれど彼女も譲らない。「こんなに早く父親と離れて本当に後悔しないか?」とまるで懇願するように訴えてくる。


「俺はさあ、あんたの側にいたいんだよ……!」


 どうしてそこを無視するのか、もどかしさで胸が焦げつきそうだ。

 レイモンドはうつむいて歯を食いしばる。握りしめていた手に力をこめたら彼女をうろたえさせたらしい。「どうしてもか?」と問いかける声に引き下がる色が見えた。


「……すまない。気を悪くさせてしまったな」


 話を持ち出した当人にもうやめようと打ち切られると途端に罪悪感が湧く。たった一人の父親なのに、惚れた女の頼みなのに、お前は頷いてやれないのかと責める声がした。


(でも今更、何ヶ月も離れ離れで過ごすなんて無理だ。姫様だって同じように思ってくれてるから強くは言わないんじゃねーのか?)


 それとも内心煙たがられているのだろうか。愛を訴えられたところでダンスの相手にもできないと。


「…………」


 信頼を得ているという自信がぐらつく。黙り込んで目を伏せられると彼女が何を考えているか少しも読み取れなくなった。

 全部自分に都合のいい勘違いだったのではないか。そんな疑念に囚われる。


「姫様、俺……」


 焦燥に駆られるまま何を口走ろうとしたのだか。レイモンドが横木から腰を浮かせるその前にルディアがするりと手を離した。一瞬で冷えた温度に狼狽し、瞠目して息を飲む。


「レイモンド」


 重大な決意を秘めた眼差しで彼女はじっとこちらを見据えた。ずっとコートのポケットにしまわれていた左手が右手に代わって突き出される。ルディアは何やら見覚えのある海獣の小さな牙を握り込んでいた。


「えっ? これって俺のお守りじゃ」


 新しく貰ったのはつけてるよなと首の裏に指をやる。革紐の感触を確かめると同時に「私が拾って直したんだ」と彼女が言った。


「ずっと返そう返そうと思ってはいたんだが、お前には本当に助けられたから、きっちり礼をしなければと考えていたら遅くなってしまった。すまない」

「ええ!? 姫様が自分で!?」


 びっくりして声が裏返る。受け取ったアザラシの牙の首飾りは以前より少し短くなっていたものの問題なく身に着けられた。革紐の切れた部分は刺繍糸で縫い合わされており、あのルディアが針仕事などしたのかと度肝を抜かれる。簡単な修繕と言えば簡単な修繕だが、布に比べて皮革は固くて針が通りにくいのに。


「あ、ありがと」


 感激して礼を言うと「こっちの台詞だ」と返された。


「お前のおかげで私はもう一度ルディアになれた。もう自分が何者か、悩んで立ち止まることはないだろう。身体はなくなってしまったがそこまで動じてはいないんだ。これからも私はあの人の娘として、アクアレイアの王女ルディアとして生きていく」


 彼女らしい前向きな言葉に嬉しくなる。レイモンドは「お、俺だって!」と張り合うように力説した。


「俺だって、あんたのおかげでアクアレイア人になれたんだ。ずっとどっかで自分だけ皆と違うって感じてた。でもやっと、そんなことどうだっていいって思えるようになったから」


 首から下げたお守りを握ってルディアの青い目を見つめる。わざわざこんな贈り物を用意してきてくれたのだ。特別な好意を感じないではいられなかった。

 自信がまた舞い戻る。近づきたい気持ちがぐんと膨れ上がる。


「私は何もしていないよ。お前にしてもらったことばっかりだ。レイモンド、本当にありがとう」


 改めて感謝を述べられる。彼女の謙遜にレイモンドは「んなことねーって」とかぶりを振った。

 水面を風が吹き抜ける。飛び散った細かな飛沫はきらきら光り、ルディアをいっそうまばゆくした。


「俺、あんたを守らなきゃって思って初めて本物のアクアレイア人になれたんだ。あんたのことを本気で好きになったから……」


 思いの丈をぶちまけることに抵抗はなかった。どうせ彼女にはもう知られている。カロの襲撃を受けたときうっかり口にしてしまったし、その後も言葉にしなかっただけで隠そうとはしてこなかった。

 現にルディアは告白を受けても意外に感じてはいない様子だった。ただ少し困ったような苦笑いなのが引っかかる。


「レイモンド……」


 意を決し、レイモンドは昨日の考えを実行に移すことにした。悪い結果にはならないはずだと握り込んだお守りを信じて問いかける。


「ひ、姫様はさ、俺のことどう思ってる?」


 聞かせてほしい。緊張で息切れしながらそう乞うた。これまではそれどころではなかったかもしれないけれど。これからだってそれどころではないのかもしれないけれど。

 こうなれば後には引けない。きちんと返事を貰うまで小舟の上で何時間でも粘るつもりだった。だがこの時点でレイモンドは、ルディアが早々に自分たちの問題に終止符を打とうとしていたことにかけらも気づいていなかった。

 拳を握り、気まずそうに船底を見つめていた王女が顔を上げる。なぜそんなつらそうにこちらを見るのかわからずにレイモンドはうろたえた。カロの件も片付いて、晴れてアクアレイアへ帰ろうという段になって、どこにまだ苦悩の種があるというのか。


「……私はお前の気持ちには応えられないぞ」


 低いがはっきりした声に突き放されて硬直する。これ以上は目を合わせては話せないとでも言うように彼女はまた少しうつむいた。


「アクアレイアに戻ったら私は新しい肉体を探す。国を守るのに有用な、より利点の多い肉体をだ。男か女か、若者か年寄りかもわからない。夫や妻がいる可能性もあるし、聖職者の可能性もある。いずれにせよ確かなのは私にとって婚姻は政治の手段ということだ。お前が何を望んでも私には叶えてやれない」


 それが王族の生き方だし、自分はルディア以外になる気はないと彼女が言う。きっぱりと、レイモンドを説き伏せようとするように。

 ルディアのつむじを見下ろしてレイモンドはぱちくり瞬きした。想定しない返事ではあったが、それよりむしろ彼女の誤解に驚いて。


「ええっと、姫様……? ごめん、俺、付き合ってほしいとか言うつもりではなかったんだけど……」


 仮にも相手は王女様で、結婚歴もある一児の母なわけだしと言外に含める。そもそもルディアが恋愛だけに生きられない立場であるのは百も承知だ。


「は?」

「いや、だから、気持ちだけ知りたかったっていうか」


 怪訝な顔で覗き込まれてややたじろぐ。好きな人の胸の内を明らかにしたいというのはそんなにおかしな欲求だろうか。なんの進展もないにせよ己がどの位置にいるかくらいはっきりさせておきたいではないか。それは確かに、結婚は無理だと明言されてショックはショックだけれども。


「なんて言われても平気だから、教えてくれよ。全然特別なんかじゃないとか、意識したこともないとか、それならそれでしつこくしねーし、俺だってあんたを困らせたいわけじゃねーから」


 ルディアの困惑が目に見えて慌ててレイモンドは言葉を継ぎ足す。なんとか彼女に理解してもらいたかった。自分が求めているものは、今は一つだけなのだと。


「俺ほんとに、姫様に何かしてほしいとかじゃないんだって。生まれて初めて好きになった人にどう思われてるのか知りたいっつーだけなんだ。ふられても俺は、ユリシーズみたいにはならねーし」


 恨んだり裏切ったりしないと約束する。信じることに臆病な彼女がどこまで本気だと思ってくれるかわからないが、それでもできるだけ真摯に。


「姫様は俺のこと好き? 好きじゃない?」


 嘘偽りない答えが聞きたくてまっすぐにルディアを見つめた。期待外れでも構わなかった。そんなことで消えてしまうほど弱い想いではないから。


「……私はお前のことなんて……」


 なんとも、という台詞の途中で震えすぎた声が詰まる。歪んだ顔を横に背け、ルディアはぐっと白い指先を握り込んだ。

 初めて見る表情だ。こんなとき彼女はもっと、呆れるほどたくさんの仮面をつけかえながら話してきたくせに。今はそのどれも手に取れずに狼狽しているように見える。


「……どうして私の気持ちなんて無意味なことを言わせようとする?」


 強い語調で責められる。「お前にしてやれることは何もない。それで十分答えになっているだろう」と。


「いや、なってねーから聞いてんだって」


 良くも悪くもはっきり言うべきことならルディアははっきり口にする女だ。それなのにこれほど言いよどむということは、初めから隠し通すつもりでいたことなのだろう。


(ああ、姫様やっぱり……)


 頭に浮かんだ考えが自惚れでなければいい。次はどんな立場の人間になるか知れず、希望を持たせられぬなら秘しておこうとしてくれたのだという考えが。


(この人も俺のこと──)


 頼りない膝の上でわなないていた両手を掴んで引き寄せる。今にも泣きだしそうな顔で彼女は「お前には言わないし言いたくない」と首を振った。言ってしまったら互いに傷つくだけではないかと諭すように。

 誤魔化しきれていないルディアに思わず吹き出しそうになる。指を絡めても払われなかった二本の腕はもっとわかりやすく多弁だった。

 嘘も言えず、黙り込むしかないくらいには大切に思われているのだ。それがわかって本当に嬉しい。


「じゃあいいや。今は聞くのやめとくよ」


 急に追及の手を止めたので意表を突かれたルディアが目を丸くする。


「俺ちょっと色々考え直すわ。あんたの頼み事も引き受ける。新しい印刷機ができてからパーキン連れてアクアレイアを目指すよ」


 そう続けると彼女は更に驚いてぽかんとこちらを見つめ返した。


「その代わりさ、向こうでもう一度会ったとき今日の返事を聞かせてほしい。アクアレイアに帰ってみなきゃ、あんたの次の身体がどんなかも、政略結婚が必要かどうかもわかんねーだろ? だったらさ、俺に可能性があるかないかも未確定じゃん」

「そ、それはそうだが……」

「なっ、だからこの話はまた今度! 日暮れまでたっぷり時間あるし、今日はデートを楽しもうぜ!」


 ルディアの両手を温めながら明るく告げる。呆気に取られる想い人にできるだけ屈託なく笑いかけた。彼女がまたごちゃごちゃと帰国後の心配を始めないように。貼り付けた爽やかな笑顔とは裏腹に、内心は湧き上がる様々な感情でぐちゃぐちゃだったが。


(ああ、くそ! 俺はなんて馬鹿野郎なんだ! 全然のんびりしてる場合じゃなかったじゃねーか!)


 レイモンドは胸中で激しく己を非難する。以前よりも心を通い合わせている程度のことでいい気になって、何を寝ぼけていたのだろう。こちらが離れ離れなど嫌だと駄々をこねているうちにルディアはうんと先のことまで考えていたというのに。これでは置いて行かれても仕方がない。

 確かに彼女と付き合いたいとか結婚したいとか大それた願望はまだ己の考えになかった。だがそれでは駄目だ。一生彼女についていくなら、ずっと支えになるつもりなら、こちらも将来を見越して動ける人間にならなくては。


(でなきゃ本当に政治で再婚しちまうぞ、この人)


 ほかの誰かにルディアが攫われるところなど黙って見ているなどできない。そうなる前になんとかしたければ自分が王女の隣に並んで遜色ないレベルまで成長する以外なかった。それはおそらく、ルディアにくっついて後を追い回すだけでは不可能なことだ。


(金だ。とにかく金を稼ぐんだ)


 脳をフル稼働させて目標金額を試算する。

 今どんな状態なのかは知らないが、アクアレイアはあくまでも商人の国だ。有力者というのはつまり大金持ちのことであり、貴族になりたいとかあの子と仲良くしたいとか、大抵のことは金さえ積めばなんとかなる。それに今王女は文無しなのである。自分の稼ぎが増えれば増えるほど彼女の助けになるはずだ。


(明日から一秒も無駄にできねーぞ。ほんとに真面目に頑張らねーと)


 レイモンドは一人秘かに心に誓う。ルディアに見合う大人物になることを。

 やっと金だけに頼ることなく生きていけると思ったのに、まだまだ自分には金貨銀貨が必要らしい。まったく妙な運命だ。





 ******




 ──なんだこれは? どうしてこんな展開になった?


 一日デートに付き合って、それで終わりにするつもりだったのに。個人的な感情には蓋をして、この先は国のためだけに生きていこうと決めていたのに。


「姫様、舟返したらどこに行く? 美味いパイ焼いてくれる店聞いたんだけど、そこ寄ってみる?」

 にこやかに尋ねてくる槍兵に戸惑ったままおずおず頷く。いつも自分が一番不安に思っていることをねじ伏せてしまう男に。

 レイモンドは「俺はユリシーズみたいにはならない」と言った。それこそがルディアの最も恐れていた事態だった。心から愛してくれた人間を深く傷つけ、また失ってしまうのは。

 だけどこんなこといいのだろうか? 所詮自分はアクアレイアのためにしか生きられないのに、思い続けてもらっても許されるのだろうか?


(レイモンドのためには私のことなどさっさと忘れさせたほうが……)


 繋いだ指の背を撫でられ、思考がたちまち吹き飛ばされる。目と目が合うと槍兵は熱っぽく囁いた。


「俺、姫様の口から好きだって聞けるように頑張るから。だからちょっとだけ待っててくれよな」


 手が、耳が、全身が、見る間に赤く染まるのがわかる。

 失敗だったかもしれない。いざとなれば本心なんていくらでも誤魔化せると考えたのは。


「お前がどんなに努力したって時勢というものがあるんだぞ……」


 か細い声でそれだけ言うのがルディアにできる精いっぱいだった。へらへらとよく笑う男は「わかってるよ」と取り合おうともしなかったけれど。




 ******




 結局ルディアたちが印刷工房に帰ったのはとっぷり日が暮れてからだった。玄関を開けたら徒弟たちがいない代わりに一階で旅装のチャドが待っていて、余韻に浸る暇もなく現実に帰らされる。


「サールに戻ることにした。河の旅なら季節も昼夜も関係ないし、今夜発とうと思っている」


 告げられた言葉は特に意外ではなかった。自分がチャドでもそうしたと思う。果たすべき義務を個人の幸福よりも重く感じているなら。


「本来は妻であるあなたを支援しなければならないのだろうが……すまない。とてもそこまでできそうになくてね」

「構わんさ。ずっと正体を伏せてきたんだ。急に伴侶と思えというほうが無茶だろう」


 やり取りは穏やかで、チャドは騙されてきたことを怒っている風でもない。彼もまた宮廷人だ。やむにやまれぬ事情を汲んでくれたに違いなかった。


「では私はこれで」


 軽い会釈とともにチャドが玄関へ踏み出す。その背を見上げて瞳を震わせる猫に気づいてルディアは貴公子を呼び止めた。


「待ってくれ」

「うん? なんだい?」


 振り返った元配偶者に「一つ言い忘れていた」と告げる。


「アウローラがまだ生きている可能性がある。今ここで詳しい話はできないが、いずれこの件で連絡することがあるかもしれない」

「アウローラが? ……わかった、心しておこう」


 こくりと頷き、今度こそチャドは出ていった。猫の鳴き声に未練を示すこともなく。


(やはりそうだ。チャドでさえ婚姻の相手でもなければ国より優先することはないのだ)


 同情と謝罪の意を込めて、ルディアはブルーノを抱き上げる。


「……すまなかったな。本当に、つらい役目を担わせて」


 聞いているのかいないのか、白猫は呆然とするのみだ。アイリーンやモモの心配そうな眼差しに反応することもなかった。


「何度も言うが、チャド王子はお前のことをいつも優しかったと仰っていたぞ。求めていた結果とは違ったかもしれないが、お前の誠実さは十分伝わっていたと思う」


 アルフレッドがそう幼馴染を慰める。だがこれもブルーノには効果なかったようである。白猫は消沈し、ただじっと黙りこくった。そうしていないと心がばらばらに砕けそうでもあるかのように。



 コーストフォートでの日々は足早に過ぎていった。

 ルディアたちはこの三日後、再び海原に出ることになる。

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