第1章 その5
北パトリアでは冬は滅多に晴れることがない。しかし今日は薄雲の向こうに晴れ間が覗き、吹く風も柔らかかった。寒いのは寒いのでデートに絶好の日和とは言えないが、季節を考えれば上出来だろう。
「いい天気で良かったなー!」
印刷工房を出てすぐにレイモンドはルディアに話しかけた。陳腐な台詞にも彼女は「ああ」と険のない顔で頷いてくれる。昔なら「見ればわかる」と一蹴されていたに違いないのに。
(うう、夢みてーだ。こんな日が来るなんて)
二人並んで通りを歩く。手を繋ぎたかったが、いくらなんでも気が早すぎるかと伸ばしかけた指を引っ込めた。怪しい動きに勘付かれなかったか、ちらとルディアを確かめる。幸い彼女はこちらの頭部に目を向けていて、ささやかな空回りには気づいていないようだった。
「……悪いな。こういうときは多少めかしてくるものだとは思うんだが、何をどうすればいいかわからなくて」
「へっ」
どうやらルディアは熱の入ったオールバックに申し訳なさを感じたらしい。いつも通りの身支度しかしなかったことを詫びられる。
「いいって、いいって! どうせ風でぐちゃぐちゃになるんだし!」
慌ててレイモンドは整えたばかりの髪を掻き乱した。本当にデートだと認識されている事実にどぎまぎして自分でも何をしているのかわからないまま。
「え、ええっと、サールリヴィス河を見たいんだっけ!? ボート貸してくれるとこ探さねーとな!?」
緊張をはぐらかすためについ声を張り上げてしまう。彼女のほうはよくよく落ち着き払っており、いつもより穏やかなほどなのに。
「ちょっとやかましいぞ、お前。そんなに叫んだら近所迷惑だろう」
渋面でたしなめられてやっと少し冷静になれた。
俺の馬鹿。滑り続けて一日終えるつもりか。
「こ、漕ぐのはこっちに任せてくれ。ゴンドラで慣れてるし」
なんとか体面を保とうと告げた台詞にルディアは「ありがとう」と微笑む。この顔を独り占めできるだけで今日はもう満足だ。心臓をどきどきさせながらレイモンドは河岸の貸船屋を目指した。結構歩いたはずなのに、隣のルディアを見ていたら着くまであっと言う間だった。
******
サールリヴィスはアルタルーペの高峰に水源を持ち、マルゴーの首都サールを経て北パトリアの平原を突っ切り、最後はパトリア圏最北の海へと至る大河である。ほかにも交易に使われる河はあるがこれほど流域の広いものはない。勤勉なお姫様がひと目見たがるのは当然だった。
向こう岸が遠く霞む河口の小屋で二人乗りの一番小さな舟を借りる。
「早いねえ。隣村にでも用事かい?」
「そんなとこ!」
気さくに話しかけてくる船貸しに愛想よく返してレイモンドは櫂を握った。ルディアが横木に腰を下ろすと桟橋で荒縄がほどかれる。すると小舟は流れに従い、ゆっくりと後退し始めた。
「よし、そんじゃ行きますか」
帰りは楽ができそうだなと思いつつ、水に逆らい、上流へとボートを漕ぐ。ざば、ざば、と一定のリズムで響く水音と岸辺から届く小鳥のさえずり。それ以外は静かなもので、二人きりなのを強く感じた。
ルディアの視線は河岸に並ぶ各種商館に釘付けになっている。アクアレイアのように水面から直接生えたような建物はないが、その豪勢さは大運河沿いの邸宅群を思い起こすのに十分だった。
何を思って彼女はこの光景を眺めているのだろう。故郷と比較し、多方面で考察を深めているのは間違いないが、今の己にその内容を推測するゆとりなどない。
「えっと、姫様。今日のデ……予定って、細かく決めてあったりする?」
デートプランと口にするのが恥ずかしくて言い直す。彼女はサールリヴィスさえ見られれば目的の八割は達成との考えらしく「いや、大まかにしか考えていない」と返事があった。
「どこか行きたいところでもあるのか?」
「や、そういうわけじゃねーんだけど。遅くなっても大丈夫なのかなって」
「別に構わん。市門が閉じて帰れなくなる前に街に戻りさえしていれば問題はないだろう」
どうやら終日一緒にいられるらしいとわかって内心ぐっと拳を握る。しかも彼女の口ぶりでは、コーストフォート市内でなら日没後もしばらく付き合ってくれそうだ。
これは凄まじいチャンスなのでは? 櫂を動かす手が震えた。大それたことを期待していたわけではないが、可能性があるというだけで人は盛り上がってしまう生き物である。俄然やる気が湧いてきてレイモンドは力んで小舟を漕ぎ出した。
オールの形状が地元と違って少し扱いにくいものの、景色はぐんぐん後ろに遠ざかっていく。大張り切りのレイモンドにルディアがくすりと笑みを零した。
「疲れたら交代するぞ? 遠慮なく言えよ?」
「平気平気! つーかこれ、二本あるし座って漕いだほうがいいのかな?」
ゴンドラレースでのイーグレットとカロを思い出し、水中からオールを引き抜く。ルディアと席を代わってもらって後ろ向きの座り漕ぎを始めるとボートは更に楽に進んだ。
「おお、こりゃいいや」
肩越しに進行方向を確かめながら腕を回す。
「ほう、速いな」
存外近くで響いた声に顔を戻すとレイモンドはウッと小さく仰け反った。
(ひ、姫様がすぐ目の前に)
当たり前だが立って漕ぐより座って漕ぐほうが互いの距離は近くなる。膝は今にも触れそうだし、向かい合っているために表情もはっきり読み取れた。
真っ赤になってレイモンドは半身をひねる。いつもならなんてことはないが、デートと思うとこの近さは心臓に悪い。殺人的だ。
「と、ところで舟でどこまで行く?」
鼓動を落ち着かせるために無難な話題をひねり出す。ルディアは懐から取り出した北パトリアの地図を開き「隣村まででいいんじゃないか? 昼頃に着くようだし、そこで腹ごなしもできると思う」と答えた。
「あれっ? そんな地図持ってたっけ? いつの間に買ったんだ?」
「これはパーキンの私物を借りた。買うと地図は高いだろう」
極貧だからな私は、とルディアが軽く肩をすくめる。冗談めかした自虐だが金がないのは事実である。レイモンドは苦笑いで貧乏王女を慰めた。
「今はまあ、ちょっと財布が軽い気がするかもしんねーけど、そのうちきっとなんとかなるって。印刷業は儲かってんだし」
「だがいくら儲かっても私の懐が温まるわけではあるまい? アクアレイアに戻ったら真っ先に金策に奔走せねばならんかもしれんな」
軽い口調とは裏腹に台詞の響きは深刻だ。確かに金がなければできることはほとんどない。王国奪還など儚い夢に終わるだろう。
「うーん。親父の身代わり護符みたいに二者協同でヒットが出せたら俺らにもでかい見返り期待できるんだけどなー」
こういうのはどうだろうとレイモンドは思い浮かんだアイデアを話す。読み書きできない人間にも売れる商品の開発だ。たとえばパトリアアルファベットの発音表だとか、挿絵つきのよく使う語句一覧とか。単語さえ読めれば文法がわからなくても日常生活の助けになるし、ほかの護符も売りやすくなる。実際イェンスの護符は縁結びを祈願したものも無病息災を祈願したものも身代わり護符と混同されて「一枚でいい」と言われることが多々あるそうだ。だが効能が明確になれば一人が二種類、三種類と買ってくれるようになるかもしれない。
「ほう、なるほど。文字表は確かに需要がありそうだ」
ルディアはこの案に感心した様子だった。単にレイモンドが子供の頃あれば便利だったなと思うものを口にしただけだったのだが。
「あとさ、身代わり護符も『これのおかげでこんなピンチを切り抜けました』とか体験談をチラシに載せればもっと売り上げ伸びるんじゃね?」
「ほう? お前の発想、面白いな。庶民目線というかなんというか私には到底思いつかん」
褒められて照れて頭を掻く。こんな話ならいくらでもできるぞとレイモンドは『海へ出る者の心得』や『ためになる雑学集』の提案をした。どちらも船客と船乗りがターゲットで、海上で過ごす長い時間を潰すのを目的とした本だ。堅苦しい書物ではなく、前者なら「金曜日に出航した船は難破しやすい」とか「海神の加護を授かりやすいのは八月生まれのブルネット」とかまことしやかに囁かれる噂を載せる。後者なら「カード遊びの気まずくならない断り方」や「船に酔ったら取るべき行動」といったところだ。
本と言えば重厚かつ学術的な歴史書や神話集のことだと考えていた王女にはこの大衆的緩さは衝撃的だったらしかった。青い目を瞠るルディアに「確かに船上で読むにはちょうど良さそうな手軽さだ」と頷かれる。
「お前、実はこの方面の才能があるのかもしれないな。イェンスに護符生産の依頼をしようと言い出したのもお前だったし……」
「へへっ。あれはまあ、まぐれ当たりかなって感じだけど」
「そんなことはないと思うぞ。ちなみにアクアレイアで印刷機が本格的に稼働し始めたら何が一番売れると思う?」
「そうだなー。線だけきっちり引いてあって、あとは全部空欄になってる帳簿とか?」
「ああ! それは実用性が高い……!」
会話が弾んでいることをレイモンドは秘かに喜ぶ。色気のかけらもない話題だが、こんなに真剣に聞いてくれるならなんだって構うものか。
レイモンドはニコニコと舟を漕ぎ続けた。気がつけば瀟洒な赤レンガの建物は視界の奥に青く霞み、両岸には木漏れ日輝く美しい森が広がっていた。
******
満面の笑みを浮かべて槍兵はたわいのないお喋りを続ける。胸にこみ上げるやるせなさをぐっと堪え、ルディアは彼に合わせて笑った。
こんな子供だましの逢瀬が嬉しくて仕方ないらしくレイモンドは空や水辺の美しさをしきりに称えつつボートを進める。いつ見ても締まりない顔の男だが、今日はとりわけ楽しそうだ。心から幸福を味わっているのがありありと伝わる。
(これを渡したらどうなるかな)
ありそうなリアクションを考えながらルディアはポケットの膨らみに触れた。もっと瞳を輝かせ、はちきれんばかりの笑顔を見せるだろうか。それともただ仰天して、口を開くだけだろうか。
何にせよ喜んで受け取ってくれるはずだ。お守りを渡した後でレイモンドにしなければならない話は、彼を酷く落胆させてしまうだろうが。
嘆息を飲み込んでルディアは川面に目を向ける。視線を追ってレイモンドも周囲の光景を見回した。
「一、二、三……俺ら以外も行き来してる船多くね? まだ冬なのに」
「サールリヴィスは年間を通して水量が安定しているし、ちょっとの寒さでは凍らんそうだからな。季節に関係なく商売に精を出せるのだろう」
ほら、とルディアは川上から連続して流れてくる無人のイカダ群を指差す。最後のイカダには男が一人乗っていたが、ほかのものはロープで雑に結ばれているだけで荷も何も積まれていない。
「なんだあれ?」
不思議がる槍兵に「おそらく上流の人間だ。ああして下流まで材木を運んで、イカダをばらして売り払ったら徒歩で村まで帰るんだ」と教えてやる。するとレイモンドは感心した様子で「はあー、なるほどなー」と頷いた。
「昔はアクアレイアでもああやってマルゴー杉の取引をしていたらしいぞ」
「マジか。今でもやってくれりゃいいのにな」
「間に住むパトリア人にちょろまかされるようになってから船でニンフィまで買いつけにいくようになったんだ」
「あー、パトリア古王国か。あそこはほんとセコい真似ばっかしてくるよなー」
イカダの列が通りすぎると今度は細身の中型帆船とすれ違う。グリフィンが翼を広げる緑地の旗はマルゴーの公用商人のものだった。それだけで塩を満載した船とわかる。
岩塩が公国の主要産物であることはレイモンドも知っていたようだ。船影を見送りながら槍兵は「サールって確か塩って意味だっけ?」と尋ねてきた。
「ああ、そうだ。昔からアルタルーペで採れる岩塩は全部サールに集められ、北パトリアに高値で輸出されてきた。サール公の宮殿は舐めるとしょっぱいと噂されるくらいだ」
答えながら、ルディアは近年新しく開発された岩塩採掘の手法を思い出す。岩塩窟に水を流し、たっぷりと塩気を含んだその水を回収して乾かして、塩の結晶を得るというやり方だ。それまで地道に掘り出していた岩塩を簡単に手に入れられるようになったので公爵はよほど潤っているはずである。その証拠に緑の旗の帆船は五隻、六隻に留まらなかった。
だがマルゴーは不思議と豊かになる兆しがない。傭兵たちは依然苦しい生活を強いられており、どこに儲けが消えているのか謎だった。
(そう言えば今の岩塩採掘方法を考案したのはコナー先生だったな)
一定濃度の塩水が脳蟲を孵化させる──そんなエセ預言者の声が耳に甦り、ルディアは腕を組み直した。そのままついとレイモンドからも目を逸らす。
コーストフォートを旅立ったら、アクアレイアに帰ったら、直面しなければならないのは現実だ。のんびりとボート遊びに興じている時間はない。けれど一体どんな言葉で自分はそれを彼に伝えればいいのだろう?
「姫様、風冷たくない?」
寒けりゃコート使っていいよと槍兵が優しく笑う。己の態度のわかりやすさなどこれっぽっちも気に留めていない口ぶりで。
「いいよ、着ていろ。風邪を引くぞ」
「俺は身体使ってあったまってるし」
「私も別に寒くない」
極力なんでもない風にルディアは首を横に振った。
感謝している。その気持ちに嘘はないのに、望むものは返せないとわかっているのが心苦しい。
せめて今日という一日を少しでも穏やかに過ごしたかった。
宣告の時ができるだけゆっくりと訪れるように。
眩しげに細められた両の目がまだ夢を見ていられるように。
******
「もーっ! アル兄また間違ってるじゃん! これで今日何回目!? ほんっといい加減にして!」
やり直しと突き返された植字架をアルフレッドはまじまじ見つめる。どこが修正すべき箇所なのか一瞥では発見できず、それがますます作業監督たる妹をげんなりさせたようだった。
「集中力なさすぎじゃない? 気づいたら手止まってるし、文字型戻す場所もずらしちゃうし、見本ページごっちゃにするし、挙句の果てに窓の外ぼーっと眺めてインク壺蹴っ飛ばすしさあ」
モモの指摘が耳に痛い。アルフレッドは居た堪れない気分で「すまない」と項垂れた。だが反省の色を見せたところで容赦してくれないのが彼女である。「手伝いっていうか、ほぼ邪魔になってるから。アル兄そんなに外が気になるなら散歩でもしておいでよ」と戦力外通告を出される。
このポカ連発では仕方ない。アルフレッドは深々と息をつき「わかった」とコートを取りに四階へ向かった。モモの言うように気分転換に出かけたほうが良さそうだ。少し頭を切り替えてから作業場に戻ってこなくては。
(何をこんなに動揺しているんだ、俺は?)
視察でもデートでもどちらでもいいではないか。既に散々言い聞かせてきた言葉をまた積み重ね、効果のなさを思い知る。
認めなければならなかった。自分が焦燥を抱いていること。
(でもなぜだ? 俺は姫様の寵愛を受けたいなんて考えたこともないぞ?)
主君にとって一番の騎士でありたい。忠誠心を認めてほしい。そう願えども主従の一線を踏み越えたいと欲したことは。
「……はあ」
解決不能な悩みを持て余しながらアルフレッドは壁際の階段を上った。徒弟部屋に辿り着くと数回のノックをしてからドアを開く。
「ウニャ……」
中には小さな先客がいた。先日までチャドが使っていた毛布の上で横になり、じっと動かずにいる猫が。
「ブルーノ、一緒に街に出ないか?」
そう声をかけてみるが力なく首を振られる。起き上がる余力もないのか友人は寝そべったままだった。
無理に連れ出しても意味がないか。防寒着を着込んですぐにアルフレッドは徒弟部屋を後にする。
「食事くらい取るんだぞ?」
去り際にそう呼びかけるのが精いっぱいだった。ルディアには側にいてやれと命じられたが、実際にできることはあまりに少ない。
(せめて王子がどの宿にいるかわかればブルーノも気が休まるかな)
どうせあてどなくぶらつくだけだし、探してみてもいいかもしれない。己の無益に過ぎる散歩もそれなら多少意義ができる。
(宿屋が並んでいそうなのは河沿いか……)
ルディアとレイモンドが向かった先だと気づくのに数秒もかからなかった。もっともらしい理由をつけて自分が行きたいだけではないのか。否定しきれぬ疑念を払ってアルフレッドは歩き出す。
工房を出て見上げた空はうっすら曇り始めていた。冷え込んできたら二人も早く帰ってくるかなと考えてしまい、ぶんぶんと思考を散らす。
らしくない。本当に。
「……はあ……」
溜め息を一つ落とし、足早にアルフレッドは河港へ向かった。大抵の都会がそうであるようにコーストフォートの街もまたよそ者の苦悩にはなんら関心を示さなかった。
******
馬鹿だなあ、と自分で自分が嫌になる。
アルフレッドが入ってきたときチャドが戻ってきてくれたのかと期待した。足音に震えてしまって顔を上げられもしなかったくせに。
ぶるりと凍えてブルーノは身を丸める。
──ならばもし何事もなく自分の身体に戻れる状況だったなら、私の知らぬ間にあなた方は入れ替わり、私は深い迷宮に閉じ込められていたわけだね?
耳の奥では糾弾の声が響いていた。あの言葉がすべてだろう。彼は最初から自分が裏切られていたことを悟って怒りを口にしたのだ。
言い訳のしようもない。そんなことできるはずもない。
今ならそれがどんな傲慢な考えかわかるのに、昨日の己はそれでもチャドの側にいたいと告げようとしていたのだ。嘘つきの罪を軽んじて。
このうえまだ弁解したい気持ちを捨てきれていない己が殊更信じがたかった。一瞬でも幼馴染にチャドを探してきてもらおうかと考えてしまったことが。
(会ってどうするつもりだったんだ? 一人にしてほしいって頼まれたところだったのに)
初めてあんなにはっきりと拒絶された。何があっても、いつも味方になってくれた人なのに。
背を向けられたら自分には何もできない。何も言えない。
何年もブルーノを無視し続けた父親に何も喋れなくなったように。
******
探そうとしていた男は案外すぐに見つかった。海へと注ぐサールリヴィスの河港を守る石積み堤防にぽつんと佇んでいたからだ。チャドは今にも水底深く倒れ込みそうに見え、アルフレッドは慌てて彼のもとへすっ飛んだ。
「殿下!」
叫んでからしまったと口元を覆う。幸い周囲に人気はなく、誰にも聞かれはしなかったようだ。振り返った男が抑揚のない声で「君か」と呟く。細い目がこちらの足元に向けられた。
「一人かい?」
そう問われ、ブルーノがいるかいないか確かめられたのだと察する。
「あ、はい。俺だけです」
たまたま港に用があってと言い訳したが、チャドに信じた様子はなかった。しかしこちらを突っぱねることはせず、黙って隣に並ばせてくれる。
王子の視線はまたすぐに流れる大河へ戻された。昨夜は近くに泊まったのか尋ねたかったが、どう切り出すか迷って結局沈黙する。
張りつめた横顔には気安く語りかけることのできない何かがあった。拒絶だとか、虚脱だとか、そういったものではなく、悲壮さに似た何かが。
「ここにいると岩塩運びの船がよく見えるんだ」
ぽつりとチャドが呟いた。河岸に船を舫わせて、その先の商館に重い荷袋を担ぎ込む水夫を遠く眺めながら。
河川航行用の船は大きくとも中型止まりだ。大型商船の停泊場である港まで彼らがやって来ることはまずない。だがこうしてまめまめしい働きぶりを観察するにはこの距離からでも十分だった。
「私がこうして悩む間も彼らは懸命に生きている。なんだかそれが申し訳ない気がしてね……」
チャドは重い息を吐いた。
サールリヴィスを下ってくる岩塩商はすべてマルゴー人である。同胞の姿に彼が何を感じたのかはわからない。ただ王子の心が想い人よりも故郷のほうに向いていることはなんとなく察せられた。
「立場ある人間が弱さを見せるのは良くないことだな」
自嘲気味に貴公子が笑う。どうするべきかはわかっているんだと。
「……ブルーノはいい奴です」
「もちろんだとも。あの子に失望などしていないよ」
アルフレッドが咄嗟に幼馴染を庇うと肯定的な返事があった。だがチャドは自身の婚姻そのものは肯定しない。「いつだってあの子は本当に優しかった」と囁くのと同じ口で告げる。「けれど彼は私の伴侶ではない」と。
「……何度考え直しても同じ結論に達するんだ。私が結婚したのは誰なのか? 私と結婚することを選んだのは誰なのか?」
あの子じゃない、とチャドは繰り返した。心痛の滲む声で。
「私はマルゴーに帰らねば。公爵家の一員として、祖国に対する責任を果たすために」
決断を口にしてやっと心が固まったという風に、彼は深くゆっくりと頷く。これが正しいことなのだと自分に言い聞かせるように。
「ですがその……愛しておられるのでは?」
アルフレッドの問いかけにチャドは高貴な人間らしい返事をよこした。
「今まで私が妻を第一にできたのは、結婚という神聖な誓いがあったからだ。君も騎士ならわかるだろう? 正式な誓いがどれほど強力な大義名分となってくれるか。夫婦だからと言い訳できなくなった以上、身を引く以外に道はないのだ」
「殿下、しかし……」
「一国の王子が庶民に懸想して国を捨てるなど許されない。君の主君は自分の恋を叶えるために民に背を向けるような女か?」
夫婦ではなく他人だったということはそういうことだとチャドが言う。胸の奥底に何をしまい込んでいようとも、そんなことはもっと大きな義務の前には意味を失うのだと。
「望めばともにいることはできるのかもしれないが自分を納得させられそうにない。……目が覚めた。だからマルゴーに帰るよ」
苦しげな声がそう告げた。アルフレッドは何も言えず、踵を返したチャドを見つめる。
「今夜にでも挨拶に行く。ルディア姫にひと言もなく立ち去るわけにいかないからね」
宿を聞く意味はもうあまりなさそうだった。アルフレッドは遠ざかる背中を見やり、ぎゅっと拳を握り締めた。
──俺は卑怯だ。役割をわきまえた王族なら恋よりも優先すべき義務があると聞いてほっとしている。
かぶりを振ってアルフレッドは来た道を引き返し始めた。ともかくチャドがブルーノを恨んではいないこと、教えてやれば少しは幼馴染を元気づけられるだろう。騙すような形になってしまったが、気に病みすぎる必要はないと。
的外れな考えをしていることには露ほども気づかず、アルフレッドは冷たい風に吹かれながら工房街へ逆戻りした。見上げた空には先刻よりもどんよりと重い雲が垂れ込めていた。




