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第1章 その4

 己の出る幕はなさそうだ。それがルディアに対して受けた第一印象だった。

 初めて彼女に会ったのはレーギア宮で開かれた二国合同会議でのこと。迫りくるジーアン騎馬軍に対抗するため同盟強化の必要を説くアクアレイアに父が縁談を提案したところ、彼女自身が「お受けします」と返事した。

 凛とした声の響きを覚えている。冷徹に将来を見通す二つの目も。この人の夫になれば自分は一生日陰で過ごすことになる。漠然とそう予感した。

 わかっていたのだ。部屋住みの次男では政略結婚の駒としてしか祖国の役に立てないのは。アクアレイアに婿入りしてもたいした地位は望めまい。世継ぎとなる子を作る以外、王国はよそ者に何も認めようとしないはずだ。

 そんな鬱屈した思いを抱いて迎えた挙式当日のことはもっとよく覚えている。美しく着飾った彼女を。「マルゴー人の伴侶なんて」と憤る民衆を前に青ざめて震える彼女を。


 ──ああ、私が彼女を支えなければ。


 唐突に、神聖な啓示のように、高鳴る胸に恋は住み着いた。あの幸福の瞬間を幾度反芻しただろう。目立たず大人しく歩むことを強いられた暗い道に一筋の光が差した。諦めかけていた後半生に愛という意義を見いだした。

 夫婦は永遠に一つである。よしんばそれがどんな形の結びつきであろうとも。誓いは厳粛な契約であり、死が二人を分かつまで、己には伴侶を守り、慈しむことが許された。故郷を捨てるなどという選択ができたのは夫たる者の義務があると言い訳が立ったからだ。自国より配偶者が大事でも何も間違った話ではないと。

 今その約束は失われた。愛したものは、一瞬我が手に留まっていた幻に過ぎなかった。彼女には──否、彼には戻るべき肉体があり、彼の生きてきた人生がある。どう考えても本来は己の妻になり得た人ではない。婚姻はルディアとなされたのであって、彼のほうが横入りしたのは明らかだった。


(私はなんだったんだろうな……)


 一人になれればどこでもいいと入った安宿の傾いたベッドに沈み込む。

 部外者だという自覚はあった。どこまでいっても自分はマルゴーの第二王子で、ある程度は秘密を持たれても仕方ないと。だがそれでも、別の人間と夫婦の真似事をさせられていたなどとは考えもしなかった。


(あんまりじゃないか、こんなのは……)


 欺かれるのが己の宿命なのだろうか。姉や父の行いをようやく「マルゴーのためだった」と飲み込めるようになったばかりで、今度は「アクアレイアにもアクアレイアの事情があった」と飲み下さねばならないのか。


(違う。政治的判断などどうでもいい。私の心にのしかかっているのはもっと……)


 起き上がる気力も湧かず、思考の闇に沈んでいく。思い出すのは控えめな、泣き出しそうな王女の笑い顔だった。

 酷い話だ。あの子のほうはいつか終わりが来ることを知っていて、己だけが愛の不滅を信じていたなんて。

 ずっと他人行儀だった。触れてもどこかすまなさそうで。

 今はわかる。どうしていつも何も求めようとしなかったのか。


(……これからどうする? 今まで通り彼らに同行できるのか?)


 同じ問いかけを繰り返す。頭の中でぐるぐると。答えなどわかりきっているのに別の光を探そうとして。

 正当な結婚でなかったなら契約は無に帰すだけだ。前と同じマルゴー人に、部屋住みの次男に戻るだけ。その現実を受け入れがたくて強く拳を握りしめた。

 輝く星を手に入れたと思ったのにあっさり零れ落ちていく。

 永遠に輝く宝だと思ったのに、こんなにもあっさりと。




 ******




 昨夜からどうもレイモンドの様子がおかしい。露で湿った鎧戸を開き、早朝の淡い光を作業場に採り込みながらアルフレッドは幼馴染を盗み見た。

 やはり彼は不自然にそわそわしている。亜麻紙を運ぶネッドに恋人との仲はどうだと立ち入ったことを尋ねたり、市の名所を教わったり、そうかと思えばオールバックの金髪に櫛を当てて服の埃を払い落とし、妙に動きが忙しない。一体全体なんなのだろう。暇なら印刷機のカバーを外して業務開始の手伝いをしてほしいのだが。


「おい、レイモン……」


 そう思って声をかけようとした矢先、徒弟部屋のほうからルディアが階段を下りてきた。「じゃあ後は頼んだぞ」と肩越しに呼びかける主君のすぐ後ろには「はーい!」と返事の良い妹が続く。

 モモは普段着だがルディアはコートを着込んでおり、外出するつもりなのが知れた。更に主君はもう一着揃いの毛皮を抱えている。


「アルフレッド、私はこれから近辺の視察に出る」


 お呼びがかかったと思ったのに、コートを手渡されたのは自分ではなく奥にいた幼馴染だった。レイモンドは嬉しそうに、だが意外でもなさそうに防寒着に袖を通す。やや呆け気味のこちらにはまだ勘づいていない様子でルディアは続けた。


「このままだとサールリヴィス河を使わずに帰りそうだろう? あの交易路をろくすっぽ見ないで出発するなど有り得ない。今日はこいつを漕ぎ手にして、ついでにコーストフォートの重要施設も拝んでくる」


 なるほど主君は小舟に乗るための付き人を必要としているらしい。


「だったら俺も行こうか?」


 人数の多いほうが楽だろうと申し出るが彼女は「いや、レイモンドがいれば十分だ」と軽くかわした。


「お前たちはブルーノの側にいてやれ」

「あ……」


 傷心の友人の名を出されてはこちらも頷く以外ない。アルフレッドは歯切れ悪くならないように気をつけながら「わかった」と了承した。何も二人きりで行く必要はないんじゃないか。そう口が滑りそうになるのを堪えて。


「あれ? お前らどっか行くの?」


 と、そのとき頭上でイェンスの声が響いた。階段を仰ぎ見れば新入り徒弟の北辺人たちが今日も印刷に励むべく連れ立って下りてくるところで、たちまち彼らの輪に囲まれる。


「ああ、俺とこの人だけな」


 昂揚した身振りで主君を示すレイモンドにイェンスは「おおっ?」と色めき立った。ルディアと息子を交互に眺め「そうかそうか、頑張れよ」と元神官は意味深な頷きを繰り返す。

 台詞に滲む冷やかしめいた応援の意図については考えたくなかった。二人は至極真面目な用事で出かけるのだと、アルフレッドは誰より己に言い聞かせる。そんなものは付け焼刃の対応でしかなかったが。


「そろそろ行こう、レイモンド」

「おう、じゃーな皆!」


 買えたらお土産買ってくると言う幼馴染にモモが「パイ! ケーキ! 焼き菓子!」と注文する。


「そんなに持てるか!」


 そう眉をしかめながらもレイモンドの笑みは終始崩れなかった。

 上機嫌に、鼻歌混じりに、幼馴染は階段を下り始めたルディアにくっついて遠ざかる。取り残されたような気分でアルフレッドは二人の背中を見送った。


(……早く植字を始めよう。働いていればそのうち気にならなくなるはずだ)


 嘆息を飲み込んで踵を返す。それなのに他意のないひと言に後ろからぐさりと心臓を刺された。


「船乗りさんは割とどっちもいけるって聞きますけど、あの二人ってやっぱり付き合ってるんです?」

「はあー!?」


 まさかと答えたのはモモだ。


「んなわけないじゃん! 絶対ないない!」


 妹は引きつった顔の前でぶんぶん手を振って否定する。

 だが尋ねたネッドは「だっておすすめのデートコース聞かれたんですよ? 少なくともレイモンドさんは意識しているんじゃないですか?」と拳を握って反論した。

 他人の色恋に無関心でいられないのが古今東西人間の性らしい。徒弟たちの注目は一斉にアルフレッドに集まった。一番仲がいいのだから何か聞いているだろうという顔だ。


「いや……、単に視察だと思う」


 それだけ答え、アルフレッドはさっさと話を切り上げた。否、切り上げようとした。話を蒸し返したのは意味ありげに腕組みをしたイェンスだった。


「俺はデートだと思うぜ? そんな約束してたらしいし」

「おおお!?」


 マジかと作業場がどよめく。北辺人たちはルディアの正体を知っているのでイェンスの息子とイーグレットの娘がかあ、と喜ばしげだ。


「すげえな。なんかこう、運命的だな」


 感動するスヴァンテにアルフレッドは一人心を曇らせた。運命なんて言葉を持ち出さないでほしい。どんな努力も太刀打ちできない力があるなどあまりに虚しいではないか。


「ええーっ? デートの約束ってほんとにぃ?」


 なお疑わしげにモモが尋ねる。妹はイェンスの発言がまったく信じられないらしく、詳しい説明を求めた。


「や、その、レイモンドの奴、最初は俺の船に乗るのが本気で嫌だったみたいでな。コーストフォートまで大人しくしてる代わりにご褒美としてデートしてくれって頼んでたらしい」

「なーんだ、レイモンドが一方的に言ってるだけじゃん。びっくりしたあ」


 モモはみるみる脱力し、「本当に付き合ってたらどうしようかと思ったよ」とほっと胸を撫で下ろした。アルフレッドのほうはまだ、安心にはほど遠い胸中だったが。


「いやいや、けどひょっとしたらマジで上手く行くかも」

「だからないって。モモが聞いたニュアンスだと完全に仕事目的だったもん。確かにレイモンドに話したいことがあるから二人で行きたいとは言ってたけどさあ」

「えっ!?」


 無意識に大きな声が出てしまい、皆を振り返らせてしまう。アルフレッドは誤魔化すように咳払いをして「話したいこと?」と問い直した。


「うん、昨日レイモンドには新しい印刷機が完成するまでコーストフォートに残ってほしいって言ってたじゃん? もう一回説得する気なんじゃない?」


 モモはルディアから直接そうと聞いたわけではないようだ。だが「でなきゃ残り少ない時間はパパと過ごせって言うでしょ」との憶測は納得の行くものであった。彼女が例のお守りを──特別な意味があるらしいそれを──ポケットに隠していることを思い出しさえしなければ。


「その話まだ引っ張ってたのか? 親のことなんか気にせずに、若者は青春を楽しみゃいいのにな」


 誰が汝の明日在ることを知らんだぞ、とイェンスはアレイア語で歌う。彼は明らかに息子の幸福、今日の成功を願っていた。

 祝福すべき親子愛の発露に気が重くなる。咎め立てするような要素を一つも見つけられなくて。


「はいはい。お喋りはこのくらいにして皆いい加減手を動かそうねー」


 話に飽きたらしいモモに促され、徒弟たちはそれぞれの担当場所に分散した。アルフレッドも流されるまま植字架の前に腰を下ろす。


(姫様からレイモンドに話したいこと……)


 ぶんぶんとかぶりを振り、思い煩いから逃れた。

 あと何百回同じことを繰り返したら自分は悟れるのだろうか。こんなことは他人が口を挟む問題ではないと。騎士は黙って主君についていくだけだと。

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