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第1章 その3

 翌日、祈りながら一夜を明かしたブルーノはルディアに己の決心を告げた。チャドに素性を明かして今までのことを謝罪したいと。

「わかった」と頷いた王女は手早く交代の準備を進めてくれた。コーネリアとチャドが新人指導に出払ったタイミングでアルフレッドたちが三階にロープと平桶を持ち込む。たっぷり水の注がれた桶には少々の塩が溶かされた。

 入れ替わるためには一度どちらも仮死状態になる必要がある。ニコニコ顔のハイランバオスに「仲間同士ではやりにくいのではありませんか? 良ければお手伝いしましょうか?」と問われ、思い切り場が白けた。


「バッカじゃないの? お願いねって頼むわけないでしょ」


 偽聖人を退けたのはモモである。度胸のありすぎる斧兵は手にしたロープを左右に引き、その強度を確かめた。


「まあどう考えてもお前が適役だろうな」

「うん。すぐに落とすから安心して」


 露ほども委縮せず主君を絞殺にかかるモモもモモだが、平常心で受け入れるルディアもルディアだ。身震いして順番を待つ己とは精神構造が違いすぎる。

 どさりという大きな物音を聞いてすぐブルーノも少女の手によって昏倒した。次に目が覚めたのは、床板に敷かれた毛布の上だった。


「…………」


 数度瞬き、ずっしりと重い瞼を開く。上体を起こせばまだ濡れた前髪が額にぺたりと張りついた。

 猫になったルディアのほうは己と違って軽快に跳ねる。それでいて気高さを感じさせる彼女の身振りにレイモンドが「おお、確かに姫様だ」と呟いた。


「うわー、ブルーノも一気にブルーノに戻ったねー」


 二年ぶりの肉体に戸惑うこちらにモモが大きく目を瞠る。つい目深に下ろしがちな前髪と自信なさげにすぼめた肩がそれらしく見える要因だろうか。


「改めて比べるとやはりまったく別人だな」


 そう零すアルフレッドも敢えてどこが本物との差かは言わなかった。


「ニャーア!」


 と、全身を震わせて水滴を払ったルディアが鋭い鳴き声を上げる。どうやら彼女は「早くチャドを連れてきてやれ」と命じているようだ。三階に陣取っていた幼馴染たちはやや心配そうにこちらを見たが、立ち会うのは気が引けたのだろう。「行かないのですか?」と瞬きするハイランバオスの後に続き、やがてぞろぞろ階段を下りていった。


「…………」


 一人になった途端しいんと室内が静まり返る。ああ、本当にあの人に秘密を打ち明けるのだと緊張が高まった。

 階下では今頃どんなやり取りがなされているのだろう。チャドは妻と話せることを喜んでいるに違いない。文字表を辿るぎこちない会話ではなく、じかに通じ合えるのだねと。

 想像するとなんだか胸が締めつけられた。彼を幸せにする言葉は一つだって言えないのに、ぬか喜びをさせたかもしれないと。

 思えばずっとそうだった。自分がチャドにしてきたことは。婚姻という契約を──言うなれば永遠をひたむきに貫こうとしている人に、いつか必ず終わりが来るものしか返してこられなかったのだから。

 王女の身体にいる間だけの儚い幻。その泡沫の幸福すら己は引っ繰り返そうとしている。


(……本当に言って大丈夫なのか?)


 夜のとばりに覆われた頭で大切なことを決めたのを今更になって後悔する。早鐘を打つ心臓が、滴る汗が、馬鹿者めと己を責め立てるようだった。

 言えるのか。あなたの手にした宝石は紛い物でしたなんて、本当に。

 傷つけて平気なのか? 欺き続ける覚悟を持つことはできないのか? 墓場まで持っていっても誰も困らない秘密なのに。


(でも言わないと……謝らないと……)


 このままではチャドが「ブルーノ」を見てくれる日は永遠に来ない──。


「ルディア!」


 呼吸を弾ませ、ノックも忘れて駆け込んできた男をハッと振り返る。温かな笑みを見るなり堪えきれなくなってブルーノはその場に崩れ落ちた。


「……っごめんなさい!」


 決壊する。抑え込んできた何かが。

 涙が、嗚咽が、滝のごとくに身体の奥から溢れてくる。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ずっと、今まで」


 そう繰り返すしかできないこちらにチャドはおろおろと歩み寄った。


「ど、どうしたんだいルディア? 姉上やマルゴーのことはもういいと言っただろう? 何をそんなに泣くことがあるんだい?」


 私は今の生活だって気に入っているよと慰めようとする彼に「違うんです」と首を振る。


「違うんです、ずっと『ルディア姫』じゃなかったんです。僕は──」


 チャドにはどう見えているのだろう。泣き伏して詫びるこの姿が。愛しい女と乖離していくこの姿が。


「今のこれが僕の本当の身体なんです……! 今までずっと僕は姫様のふりをして……『ルディア姫』のふりをして……っ」


 言葉が詰まって話せない。チャドがどんな顔をして聞いているのか見上げることさえできなかった。

 ああ、自分は自覚していた以上に罪の意識を抱えていたらしい。落ち着いて説明しようと思っていたのに、少しでもわかってもらおうと思っていたのに、とてもそんな風にはできない。「必要に迫られて」「仕方なく」──そんな風に己の所業を語ることは。

 まだ昼を過ぎて少ししか経っていないのに目の前が真っ暗だった。ひと言も発さない、身じろぎもしない男がブルーノには酷く恐ろしかった。




 ******



 昨日に引き続き、二階の作業場にはなごやかなムードが流れていた。見習い二日目のイェンスたちが大張り切りでこなす一連の工程を猫の姿でルディアはくまなく観察する。

 総勢二十名の水夫たちは効率良く印刷機を回すのにぴったりの人数に思えた。文字の読める者は植字架に一行ずつ文字型を並べ、組版を作る。やはり文字の読める者が並びをチェックし、インク係がインクを塗った。仮刷りの後はまた誤字脱字がないかのチェックだ。ここを通った組版はプレス係により本格的な印刷にかけられた。刷り上がった紙はインクが乾くまで棚で干され、使用済みの組版は増刷の見込みがなければバラされる。ほかには裁断、仕分け係などがいた。製本作業は複雑だからかまだ誰も教わっていないようだ。


「なあ、インク塗ったり紙並べたりするだけで生きていけるってすごくねえか……?」


 これまでとの生活の違いに涙もろい水夫の一人が目を潤ませる。ただ彼らも植字工以外は誰でもできる仕事なのはわかっていて「とっととパトリア文字を覚えちまわなきゃな」と慢心は見せなかった。


「コーネリアさん。いや、コーネリア先輩! ここに入ってる文字はこいつの大文字でいいんですかい!?」

「はっ、はい、そうです。その通りです」

「コーネリア先輩! 俺の組版も見てやってつかあさい!」

「あっはい、ど、どの辺りですか?」


 読み書きに関しては申し分ないコーネリアはあちこちで引っ張りだこである。無骨な海の男たちに元乳母はやや腰が引けていたが、嫌なわけではないらしく丁寧に彼らの出来を見てやっていた。男所帯で青春を空費してきた老水夫らは若い女性が親切にしてくれるだけで俄然やる気になるらしい。我も我もと高い意欲を示す彼らにルディアは微笑を噛み殺した。


「そう言えば今朝オリヤンに声かけといたぜ。落ち着いたらこっちに顔出しに来ると思う」


 不意に男の声が響く。見下ろせば足りない文字型を補充しにきたイェンスが活字箱の並んだ棚の最上段から作業場を眺めるルディアを見つめていた。了解代わりにニャアと鳴く。すると近くで聞いていたモモが「すごいね、モモたち何も言ってないのにわかったの?」と目を丸くした。


「ふふ、イェンスさんには偉大な祭司がついていらっしゃいますからね」


 なぜか得意げにハイランバオスが会話に加わる。偽預言者は頭から無視してモモはイェンスに問いかけた。


「レイモンドのパパはあの超売れ筋の身代わり護符の作者さんなんだよね?」

「ああ、それがどうかしたか?」


 イェンスのほうはいきなりパパなんて呼ばれてびっくりしたようだ。しかし斧兵は相手が身構えたことなど気にせずいつもの調子で話を続けた。


「レイモンドに小遣いくれってお金せびられたりしてない? 大丈夫?」

「おい、モモ! 何聞いてんだ!」


 植字架の並ぶ一列からすかさずレイモンドの怒声が飛んでくる。「答えなくていいぞ!」と叫ぶ息子に破顔してイェンスは問いかけに応じた。


「わははは、せびられたせびられた。護符売り出す前だったけどな!」

「わー、やっぱりー」

「こら! 親父! 余計な情報与えんな!」


 二人はたちまち打ち解けた雰囲気になり、親しげに話し始める。荒々しい日々を生きてきたイェンスと獣じみた一面を持つモモは根底で通じ合うものがあるらしく、もう昔からの知り合いのようである。


「お前らオリヤンの船で帰るのか? 出航できるようになったらすぐ?」

「なるべく早くそうしたいよね。アクアレイアが心配だし」

「そっか、じゃあ賑やかなのも今のうちか」

「うん。レイモンドのパパも、アクアレイアが平和になったら遊びにおいでよ。モモたち案内してあげるから」


 少女の誘いに一瞬イェンスが息を詰める。少しの間を置き、彼は「そうだな」と呟いた。


「いつかまた、そっちにも行けたらいいな」


 声はどこか寂しそうだった。振り返ったレイモンドが視線を落とし、黙ったまま植字架に向き直るのをルディアは一人静かに見守る。

 彼は父親に「絶対来てくれ」なんてことは言わなかった。イェンスには面倒を見ねばならない仲間がいて、簡単には北パトリアを離れられないとわかっているのだ。彼らが船を手放すつもりであることを考えると尚更難しい希望だと知れる。二人が親子で過ごす時間をできるだけ長く取り戻したいと願っていても。


「バウッ! バーウッ!」


 と、そこに突如ムク犬の声が響いた。階段をコロコロと滑り下りてきた畜生は面白げに足を鳴らし、天井を見上げてバウバウとまた吠える。

 この犬の正体はラオタオだと聞かされていたためルディアには嫌な感じしかしなかった。モモも何かされたと直感したらしく「あっ! さては覗いてたんでしょ⁉」と三階を指差して叱る。


「ワフッ、ワフッ」


 ニタニタと犬はいやらしく笑った。夫婦の会話を盗み聞きするなどまったくデリカシーのない。


「どういう躾をしているんだ?」


 顔をしかめ、作業台から立ち上がったアルフレッドが偽聖人に詰め寄った。ハイランバオスは足元のムク犬を撫でながら「まあまあ」と騎士をなだめる。そのすぐ横で天井を見上げ、じっと耳を澄ませていたレイモンドが呟いた。


「……ちょっと静かすぎねーか?」


 怪訝顔の槍兵に一同は目を見合わせる。飼い犬の鼻息をふむふむ聞いていた医者に「様子を見てきたほうがいいかもしれませんよ」と助言され、ルディアは階段脇のアイリーンに目をやった。すると彼女は自分を棚上げして「確かにブルーノ一人じゃ説明にもたついてるかも……」などと零す。

 すぐさま床に飛び降りてルディアはタッと三階へと駆け出した。フォローが必要なら早い段階で入れてやったほうがいい。猫の姿ではコミュニケーションにも限度があるが、放っておくよりはましだろう。


「わっ! 待って、モモも行く!」


 ルディアの後を追いかけて防衛隊の面々とアイリーンもついてくる。

 ぴたり閉ざされた三階ドアの向こうからは不穏なすすり泣きが聞こえていた。この時点でもう悪い予感しかしなかったが、開けないというわけにもいかない。結局皆に背中を押されたアルフレッドが戸を叩いた。


「……殿下? 入っても構いませんか?」


 問いかけに対する反応はなかった。待てど暮らせども状況は変わらず、仕方ないのでもう一度だけノックして騎士がドアを開け放つ。中ではチャドが呆然と、しゃくりあげるブルーノを見つめて立ち尽くしていた。


「……あの、チャド王子?」


 怖々と呼びかけた騎士を振り返り、糸目の王子は「よくわからない」と首を傾げる。本当に不思議そうに。


「よくわからない。こちらが元々の姿だとか、ずっと中身は違っていたとか、本物は──本物の王女はあなたのほうだとか……」


 次第に震えが増していく声。ルディアを捉えた細い目がたちまち歪められるのを見て動揺の深さが知れた。


「秘密にしててごめんなさい」


 さっとモモが歩み出る。少女はチャドがすべて知ったのを悟ると深々と頭を下げて謝罪した。潔いその態度に貴公子は却って怯む。

 モモはルディアに「入れ替わるところ見せてあげていい?」と問うてきた。ブルーノを一瞥すれば、彼は両手で顔を覆って小さく縮こまっており、とても話せる状態に見えない。引き継いでやったほうが建設的かと判断し、ルディアは斧兵に頷いた。


「じゃあやるね」


 置きっぱなしだった水桶が再び傍らに寄せられる。先刻と同じ手順を踏んでルディアはブルーノと入れ替わった。わななくチャドの目の前で。


「──……」


 わずかな空隙を体感したのち、意識ははっきり目を覚ます。馴染んだ身体で起き上がったルディアはもう彼に臣下の振る舞いは示さなかった。


「こちらの都合で告げられず、今まですまなかった。あなたには迷惑をおかけしたな」


 ブルーノとは違いすぎる、毅然とした声で詫びる。「待ってくれ」とチャドは乞うた。頭を抱え、同じ台詞を幾度となく繰り返して。


「待ってくれ……」


 真っ青な額が、崩れそうな膝が、見る者の同情を誘う。そのときルディアに少し遅れてブルーノも目覚めたが、チャドは視線をやっただけで白猫を抱こうとはしなかった。それどころか逃げるように後ずさり、ふらふらと階段のほうへ向かっていく。


「……しばらく一人にしてほしい……」


 足を引きずり、手すりにすがり、チャドは無人の四階へと上がっていった。パタンと扉が閉められた音をルディアたちは無言で聞く。


「……かなりショック受けたっぽいね」


 モモの呟きにブルーノがびくんと震えた。いたいけな猫の姿で落ち込まれると不憫で目も当てられない。


「お前は命令に従っていただけなのだから気にするな。チャドをたばかったのは私だし、それはチャドとて理解してくれるよ」


 慰めは耳に入らなかったらしく、階段を見上げたままブルーノは完全に硬直している。アイリーンが落ち着かせようと抱いてみても無駄だった。どうしたものかとアルフレッドやレイモンドも途方に暮れる。

 階下からネッドの大声が響いたのはそのときだった。


「皆さーん!! オリヤン・マーチャントさんがお越しですよー!!」


 待っていた亜麻紙商が訪れたらしい。

 ルディアはふうと息をつき、下り階段に頭を向けた。ゆっくりとブルーノをなだめてやる時間もないようだ。

 ここは一旦頭を切り替えることにして、剣士の足でルディアは一階に下りていった。




 ******




 正直であることがいつも幸福を招くとは限らない。そう言った主君の懸念が的中し、虚脱しきった幼馴染をちらと見やってアルフレッドは眉根を寄せた。

 ブルーノは姉にしがみつき、凍えたように震えている。月並みな励まししか思い浮かばずに結局何も言えなかった。勇気ある行動だったと、せめて称えてやりたいのに。

 一階に着くまでどんよりした重い空気は消えなかった。パーキンの明るい声が漏れてきてようやく少し息をつく。

 金細工師は亜麻紙商と定期取引契約を結ぶべく地下倉庫から出てきたようだ。互いに益の多い商売になりそうだと握手する彼らを見るに、話は上手く運んだらしい。二人の側では作業を抜けてきたと思しきイェンスが梱包された護符の荷袋に囲まれて腕組みしていた。


「やあ、君たち。私に用があると聞いたがどうしたんだい?」


 傷のある顔をこちらに向けてオリヤンが問う。さっそくルディアが歩み出て豪商に切り出した。


「すまない。実はもう一度船に乗せてもらいたいんだ」


 サールリヴィス河が使えなくなった事情を明かすとオリヤンは「そんなことか。構わないよ」と快諾してくれる。親切な亜麻紙商は「トリナクリアまでの費用も気にしなくていい。なんなら彼に払ってもらえ」と顎で旧友を示した。


「おお、いいぞ。老後の悩みはなくなったし、今人生で一番羽振りがいいからな!」


 イェンスは上機嫌にからから笑う。主君が「そこまでしてもらうのは悪い」と固辞しても北辺人たちは「甘えとけ、甘えとけ」と首を振るのみだった。


「私の船は最新型にしたばかりだから、三月まで待たなくても風さえ良ければ西パトリア海を下れるよ。この冬は予定外に長く滞在してしまったし、商談の事後処理が終わったら早めに出航しようと思っているんだ。構わないかね?」

「いや、むしろ助かる。なるべく早くアクアレイアに戻りたいんだ。事後処理にはどれくらいかかる?」

「まあ数日というところかな。君たちはいつでも船に乗り込めるように荷物をまとめておいてくれ」

「ああ、承知し……」

「こ、こら待てブルーノ! 承知したじゃねえ!」


 帰国の段取りがつきそうでほっとしたのも束の間、パーキンからストップが入る。なんだなんだと金細工師に目をやれば「アレキサンダー四号が完成するまで三ヶ月、どんだけ早くても二ヶ月はかかるぞ!」とのことだった。


「ええっ!? 先月からずっとやってるのにまだ進捗そんなだったの!?」


 モモの反応に胸をえぐられたパーキンが「ううっ、一人で作ってるんだからしょうがねえだろ!」とかろうじて言い返す。


「それに昨日来たばっかりの新入りどもが工房一つ任せて安心できるレベルになるまでは、親方が旅に出るわけにいかねえだろうが!」


 確かにそうだとアルフレッドは納得する。実際の指南役はネッドのほうでも責任者は近くにいたほうがいい。ただでさえイェンスたちは誤解を招きやすいのだから。


「弱ったな。私も早く商船団を帰したいんだ。何ヶ月も航海を遅らせるわけにいかないんだが」


 少なくとも二月中にはコーストフォートを発ちたいと言う亜麻紙商に「無茶ですって」と金細工師が首を振る。


「お前ら、旦那様の船で帰るのは諦めろ! アレキサンダー四号が完成したら適当な船乗り継いでアクアレイア目指しゃいいだろ?」

「それはできん。王国に戻るまでにまた一年過ぎてしまう」


 船の性能から言ってもオリヤンと帰るのが一番いいとルディアはかたくなに譲らなかった。とはいえ今は金細工師が動けないのも事実である。


「パーキンには印刷機が出来上がり次第アクアレイアに来てもらうんじゃ駄目なのか?」


 アルフレッドがそう尋ねるとルディアは渋面で却下した。


「こいつを一人で来させるなどできるはずがないだろう。それこそ狂気の沙汰ではないか! ……仕方ないな。うちへの案内役として一人残すしかないか」


 主君の発言に思わずごくりと息を飲む。一人だけコーストフォートに残ってもらう。その役目、自分が指名されるのではとアルフレッドはうろたえた。

 ブルーノは猫になっているうえに精神状態も危ういし、アイリーンではやや頼りない。うら若い少女のモモを男やもめに置いておくのはまずい気がする。となるとレイモンドと己しか選択肢がないわけだが、今はこの幼馴染より重用される自信が湧いてこなかった。一年前ならそんなこと、きっと少しも不安に思わなかったのに。


「レイモンド、頼まれてくれるか?」


 だが意外にも白羽の矢は槍兵のほうに飛んでいった。幼馴染は「なんで俺⁉ 絶対やだ!」と猛烈に拒絶する。今度こそこちらかと身構えたが、ルディアはほかの人間に任せるつもりはないようだった。


「お前が一番パーキンのしょうもなさを知っているだろう。それにできるだけ長く残ったほうがいい理由もある」


 彼女の視線がちらりとイェンスに向けられる。暗にもっと父親といてやれという意味だろう。レイモンドはしばし逡巡したものの、しかし結局首を縦には振らなかった。


「……俺はあんたとアクアレイアに帰るって決めてんだ。一人だけ残るなんて無理だ」

「レイモンド」


 あのなとルディアが眉をしかめ、説得のために口を開く。口論に発展しそうな予感がしてアルフレッドが割り入ろうとしたときだった。上階から女の声が降ってきたのは。


「あの、もしかしてもうアクアレイアへ戻るのですか?」


 狼狽した様子で問いかけてきたのはコーネリアだ。足早に階段を下りてきた彼女は「あの、私、この街に残ってはいけないでしょうか?」と問いを重ねた。


「えっ、まさかあんたがパーキンを連れて帰ってきてくれるとか?」


 喜色を浮かべたレイモンドだが、そこはすぐに否定される。


「あ、ではなくて……。私この工房で、植字工としてずっと働きたいんです。実家に戻ったところで私……ただ居づらいだけですから……」


 話しながらコーネリアはどんどん表情を暗くした。モモがふうと息をつき、「そうだね。コーネリアさんにはそのほうがいいかもね」と冷徹な目を向ける。すると彼女はますます身を縮こまらせてしまった。


「すみません……」

「いいよ、別に。まだマルゴー兵にも狙われてるかもしれないし、無理に帰国する必要ないでしょ」


 妹はコーネリアの今後には一切関心なさそうだ。ルディアが「まあ残りたいと言う者に帰れとは言わないが……」と元乳母の希望を認めるとコーネリアも多少安堵した素振りを見せる。


「色々とご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません……」


 涙混じりの謝罪の意味がよくわからずにアルフレッドは疑問符を浮かべた。補足を求めて隣の妹を窺うが、モモは白けた表情で元乳母を見やるのみである。しばらくして顔を上げるとコーネリアは二階の作業場へ戻っていった。


「…………」


 足音の遠ざかるわずかな間、沈黙が訪れる。静寂を破ったのはレイモンドの低い声だった。


「……一応もっぺん言っとくけど、俺絶対にやだからな」


 再度の主張にルディアがやれやれと息をつく。彼女が返事をする前に友人は有無を言わせぬ勢いで畳みかけた。


「そりゃ俺だって名残惜しいけど、あんたと一緒に帰ることのほうがよっぽど大事なんだから!」


 ぶんぶんと首を振って唇を尖らせるレイモンドに「お熱いねえ」とパーキンが肩をすくめる。金細工師は明るい声で笑いつつ自信満々で続けた。


「大丈夫、大丈夫。心配しなくてもちゃーんとアクアレイアまで行くからよ! 俺だってフイにしちゃいけねえチャンスくらいわかってらあ」


 パーキンがそう胸を叩くので居残りメンバーの件はうやむやになる。自分が引き受けることになるかもと冷や冷やしていたアルフレッドはほっと胸を撫で下ろした。ルディアはどうも、パーキンを一人にするのにまだ抵抗があるようだったが。


(それにしても離れ離れになるような指示を出すなんて、もしかしたら姫様がレイモンドを──というのは俺の勘違いだったのか?)


 主君に目を向け、落ち着いたその横顔をまじまじ見つめる。思い過ごしならそれでいい。色恋がルディアを愚かにするとは思わないけれど、不安の種などないほうが。


「ねえアル兄、レイモンドってあんなに姫様のこと好きだったっけ?」


 モモの問いにアルフレッドは身の奥を張りつめさせる。どう答えればいいかわからずに曖昧な相槌で濁した。

 ルディアのほうは以前とさして変わりなく見えなくもない。しかし幼馴染のほうは、モモが不思議がるほどに昔と変わりつつあるのだ。





 ******




「ひとまず私は二、三日商館に張りついていないといけないんだ。それ以降はいつでも出発できるように準備を整えておいてくれるかね?」


 そう告げて慌ただしく出ていった多忙な豪商を見送ると、レイモンドたちはすることもないので二階の作業場へと引き揚げた。

 パーキンの工房では朝夕二回しか食事を取らない方針らしく、老水夫たちは休みなくせっせと働いている。レイモンドも手伝いを頼まれている植字架の列に腰を下ろし、作業の続きを再開した。気を抜くと溢れ出そうになる溜め息を押し殺して。


(ひでーよ姫様、一緒に帰ろうって言ってたのに)


 気を抜くとすぐ口が曲がりそうになる。いや、彼女が自分たち親子のために言ってくれたのは重々承知しているけれど。


(基本的に自分以外を優先する人なんだよな)


 いかなるときも国のため、民のため。負担を軽くしたいとか悩みをわかってほしいとか、そんな理由では指一本動かさない。責任は全部被ろうとするし、他人に寄りかかることもなかった。そんなだから目を離せないのだ。知らない間にまた余計な我慢を始めてしまいそうで。


(チャド王子とブルーノのことも、どうするつもりなんだろ)


 天井を見上げ、眉間に深いしわを刻む。

 正直言ってあの貴公子の反応は意外だった。正体が誰であっても愛しい人に違いはないとブルーノを抱きしめるかと思ったのに。

 すぐに受け入れられなかったのは相手が男だったからか、嘘をつかれていたからか。それとも──。


「レイモンド、そこやらかしてるぞ」

「えっ!? うわ、ほんとだ」


 隣に座ったイェンスの指摘を受けて嵌め込んだ文字型を抜く。改めて見本を確認し、カチャンカチャンと正しい活字を並べ直した。

 くそ、みっともない。考え事などしているから簡単な綴りを間違えるのだ。


「さすが、早いな」

「やめろよ。ポカしたばっかだぞ」


 褒められた気恥ずかしさでそっぽを向く。イェンスは「ほんとに早いって。お前はなんでもよくできるなあ」と手放しの絶賛を続けた。

 こそばゆさにのたうち回りそうになる一方、胸がぎゅっと締めつけられる。三ヶ月くらいなら残ってやるべきなんだろうなと。イェンスはどうしてほしいとも言わないけれど。


「文字ってすげーな。イーグレットはいいものを教えてくれたと思ってたけど、死ぬまで俺らを食わせてくれるもんだとは全然思ってなかったよ」


 感謝しなきゃなと父が呟く。頷きながらレイモンドは記憶の中の柔和な笑みを思い出した。これからは一日ずつ遠くなっていくだろう笑みを。


「……感謝してるなら長生きしろよな」


 ぽろりと口から零れた言葉にイェンスが瞬きする。嬉しげに「ああ」と返事した男はその後も飽きずにあれこれ話しかけてきた。おかげで終業まで退屈はしなかったが。


「はーい、それじゃ今日はここまででーす!」


 呼びかけにハッと顔を上げる。見ればネッドが今日はもう一階から上がってきていた。

 昨日はもっと遅くまでやっていなかったっけと窓の外を確かめる。空はまだ赤くもなく、日暮れには一時間ほどありそうだ。老水夫たちも不可思議そうにサボり癖などなさそうな兄弟子を見つめている。


「あ、いいんです、いいんです。今日は僕、皆さんとご飯食べに行きたいなと思ってまして」

「へえっ!? メシ!?」


 ネッドの誘いに北辺人たちがどよめいた。その困惑ぶりは昨日の比ではない。「メシってパンとかスープのことだよな?」「同じ鍋からすくうやつだよな?」などといつまでもざわざわしている。


「市門の外に荷運び人がよく集まる居酒屋があるんですよ。見た目はあばら家同然というか、かなりボロボロなんですけど」


 好青年すぎる好青年がにっこりと笑いかけると老水夫らは目を見合わせた。案じているのだ。いくらネッドが一緒でも入店を拒否されるのではと。

 だが彼らもコーストフォートに住み着くなら工房に引っ込んでいるだけではいけないと薄々気づいているようだった。一人、また一人と一歩踏み出そうとする者が現れ始める。


「そ、そうだな。俺らこの街に骨埋めるかもしれねえんだしな」

「あ、ああ、居酒屋でメシ食うくらいできなきゃだぜ」


 次第に勇気が増してきたのか「よし、行くか!」と円陣が組まれる。日没と同時に市門が閉まってしまうとのことで大急ぎで後片付けが行われた。


「なんだ、お前ら来ないのかよ?」


 と、スヴァンテがルディアにぶつくさ言っているのが目に入る。コーネリアだって来るのにと副船長は不満げだ。


「すまないな。また今度誘ってくれ」


 断りを入れる彼女の横には同じように首を振るハートフィールド兄妹がいた。まあ王子様置いていけるわけないよなとレイモンドも外食は断念する。どんな料理が出てくるかちょっと気になっていたけれど。


「じゃあ気をつけてなー!!」


 意気揚々と工房を後にする一行を見送り、レイモンドたちは玄関を閉めた。ネッドのおかげでイェンスたちも街に溶け込んでいけそうだ。問題は多発するだろうが、あの兄弟子が間に入ってくれるなら将来に希望が持てる。


「さーて、俺たちの夕飯はどうする? 出来合いを買ってきてもいいし、俺がここの厨房借りても……」


 くるりとターンしようとしてレイモンドは心臓が止まるかと思った。階段の踊り場に亡霊じみた男がぼうっと立っていたからだ。


「うわっ!? チャ、チャド王子!?」


 素っ頓狂な叫び声に驚いた様子もなく、生ける屍は「しばらくここを出ようと思う」と告げてくる。瞬間、アイリーンの胸で大人しくしていたブルーノが不格好な跳躍を見せた。白猫はチャドの足元に駆け寄るが、王子は何も見えていないかのようにのたのたと階段を下りてくる。


「ここを出てどこへ?」

「……まだ決めていない」


 立ち塞ぐように前へ出たルディアの問いには力なく首が振られた。チャドは取り繕おうともせず現在の心情を吐露する。


「はっきり言って混乱している。一人になって考えたいんだ。何もこの街から出ようというんじゃない。……ただ今は、誰とも一緒にいたくない」


 よく見ればチャドは荷物を背負っておらず、靴も旅向きのそれではなかった。コーストフォートを出ることはないという王子の言葉を信用してかルディアがそっと身を引いて玄関までの道を開ける。

 チャドはそのまま出ていきそうに思えたが、不意に扉を押す手を止めて静かにこちらを振り返った。


「……あなたが私に真実を話す気になったのは、王女の身体がなくなったからか?」


 問いかけにルディアが答える。「ああ、そうだ」ときっぱりと。


「ならばもし何事もなく自分の身体に戻れる状況だったなら、私の知らぬ間にあなた方は入れ替わり、私は深い迷宮に閉じ込められていたわけだね?」


 鋭い問いに一瞬空気が凍りつく。しかしルディアが怯むことはなかった。


「否定はしない。今も別に、あなたに打ち明ける必要があったわけではない。ただブルーノが隠したままでいることを選ばなかったというだけだ」


 返答にしばしチャドが黙り込む。ブルーノに何か言ってくれるかと期待したが、特別な言葉は何もなかった。無言のまま、今度こそ出ていこうとする彼にルディアが再度呼びかける。


「早ければ四日後には、私たちはアクアレイアに向けて発つ」

「……わかった。それまでには私も自分の行き先を決めておくよ」


 弱々しい頷きを残してチャドは工房を後にした。追いかけようとした白猫の眼前で扉を閉めて。


「ええっ……!? ちょ、ちょっと冷たくね!?」


 思わずレイモンドは眉をひそめる。昨日まであんなに熱を上げていたくせに、今日は目も合わせないどころか振り切って行ってしまうなんて。

 チャドの態度の豹変ぶりにブルーノは愕然としていた。アルフレッドも困惑気味に閉ざされたドアを見つめる。モモもさすがに気の毒そうに屈んで猫の背を撫でていた。


「結婚してると思ってた人と結婚してなかったんだもの。動揺してないほうがおかしいわよ」


 ぽつりと漏らしたのはアイリーンだ。まあそれは確かにな、とレイモンドもひとりごちる。一夜ならず愛を交わした恋人に「別に付き合っているつもりはなかった」と言われたら落ち込みは激しかろう。


「今は驚いてるだけで、冷静になればいつもみたいに話しかけてくれるんじゃないかしら?」


 アイリーンは優しく弟を慰めた。外野から面白げにこちらを見ている医者とムク犬を睨みつつ、レイモンドもブルーノの側に寄る。

 打ちひしがれた白猫は、しかし誰のいたわりも受けず、薄暗い部屋の片隅によたよたと歩き出した。構わないでくれと言わんばかりのその姿に深々と皆の嘆息が漏れる。チャドの心が落ち着くまではブルーノも元気にはなれなさそうだ。


「……どうする? モモたちも食事にする?」

「そうだな。買い出しに出かけるか」


 留守番はアイリーンに任せてレイモンドたちは夕市へ赴くことにした。寒いからコートを取ってこなくちゃとモモが徒弟部屋に駆け出し、アルフレッドがすぐ後に続く。背中を見ると追いかけたくなるのかムク犬もダッと飛び出した。ハイランバオス、ルディアも防寒着を取りに階段を上がっていく。

 なんだかなあと晴れない気分でレイモンドも歩き出した。彼ほどの愛妻家が一日であんなことになるなら「好き」とは一体なんなのだという気がしてくる。自分のそれが簡単に冷めるとは思えないが、ルディアのほうはどうなのだろうと。


(いや、つっても気持ち確かめたわけじゃねーけどさ)


 数歩前を行くルディアの背中をじっと見つめる。

 触れても怒らなくなった。馬鹿と言われる回数も減ったし、気づけば彼女の視線を感じる。どういう種類の好意かまではわからないが、信頼されてはいるはずだ。それが急に、あんなよそよそしく変わったらと想像しただけで身震いする。


(聞いてみたいっちゃ聞いてみたいけど……)


 こちらのことをどう思っているか。そんな機会が巡ってくればの話ではあるけれど。


「ぶっ」


 障害物にぶつかって足が止まったのはそのときだった。なんだなんだと顔を上げたら途中でルディアが立ち止まっていて、平静そのものの目と目が合う。


「レイモンド、明日空いているか?」

「へ?」


 唐突な問いかけの意味を測りかねて瞬きした。ルディアは至極真面目な顔で「印刷工房を手伝う以外の用事がないなら出かけよう。あの約束、まだだっただろう?」と言ってくる。


「……へっ?」


 本当にわけがわからず聞き直す。だが彼女はレイモンドの当惑など素知らぬ顔で話を続けた。


「コーストフォートにいられるのもあと数日かもしれないからな」


 約束ってまさか。まさか。

 汗がだらだら流れてくる。隙間風は冷たいのに、真っ赤に染まった顔面からだらだらと。

 約束って、まさかあの約束なのか? 本当に?


「デ、デ、デー……?」


 単語をはっきり言い切ることもできないまま問いかけた。彼女は「ほかに何があるんだ」と呆れた様子でさっさと踵を返してしまう。嬉しさのあまり叫びかけたがなんとか喉奥に飲み込んだ。


(デ、デートだ……! 姫様とデートだ……!)


 諸々あったここ数日の出来事は早くも吹き飛びかけていた。ルディアのことだからデートという名目で交易関連の視察に付き合わされるだけかもしれないが、そんなことはどうでもいい。どこへ行こう、何をしよう。

 レイモンドは突如訪れた至上の幸福に胸弾ませた。

 コーストフォート万歳であった。

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