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第1章 その2

 もう「ルディア」には戻れない。そうわかってもそこまで取り乱していない自分がルディアは少し意外だった。アウローラが仮死状態になった話を聞いたとき、自分の肉体もただでは済むまいと覚悟していたからだろうか。あるいは肉体にこだわらずとも絆は保てると思えるようになったからか。

 近況を語り合う面々を見渡し、ルディアは槍兵の明るい金髪に目を留めた。


 ──カロじゃなくて陛下の声を聞いてくれよ。


 必死に彼が言い聞かせてくれた言葉を思い出す。

 あの人は、娘がどんな姿でいても冷淡な眼差しを向けはしまい。今は自然に信じられた。オーロラの下で見た温かな微笑みを。


(それに私を『ルディア』と呼んでくれる者はほかにもいるしな)


 肩越しに赤髪の騎士を振り返る。誰より先に主君に対する忠誠を示した男は普段通りの実直さで「これからどうする?」と問うてきた。


「とりあえず最短でアクアレイアに帰る手段を整える」


 答えながらルディアは一同に話を聞けと身振りする。「トリナクリア島まではオリヤンの船に乗せてもらい、そこからは別の船でアクアレイアを目指すのがいいと思う」との方針に彼らはふむふむ頷いた。


「はーい! それじゃ帰ってからは?」


 率直なモモの質問には更に率直に「わからん」と返す。


「考えられる限りの可能性を考えてはいるが、現状を見てみなければ印刷機をどう導入するかも判断できん。最優先はとにかく帰国だ。個人的な情報交換は後にしてオリヤンに話をつけに行こう」


 すっかり着慣れた毛皮のコートを翻し、ルディアは足早に階段を歩き出した。ほかの仲間も右に倣えでついてくる。

 だが二階に降りても亜麻紙商の姿はどこにも見当たらなかった。面白そうに身代わり護符を増刷中のイェンスに聞けば「あいつなら留守中の仕事任せてた連中に会いにいったぜ」とのことで、あっさり出鼻をくじかれてしまう。


「オリヤンになんか用事か? 今日は忙しいだろうし、明日工房に来るように言っといてやろうか?」

「ああ、頼む」


 というわけでルディアたちが出航日や船賃の交渉をするには明日を待たねばならなくなった。イェンスを始め、老水夫らが和気あいあいと亜麻紙を広げる作業場を一瞥し、ルディアはふうと嘆息する。


「ぼんやりしていても仕方がないな。我々も手伝うか」

「はーい!」


 告げるや否やモモが技術指導の仕事に舞い戻る。アイリーンとエセ預言者は興味津々で活版印刷機に張りつき、アルフレッドとレイモンドは懇意な水夫のグループに加わった。ルディアはそのいずれでもなく部屋の隅でインク濃度を調整中の女のもとへと足を向ける。


(こいつがコーネリア・ファーマーか)


 アルフレッドが話していた、窒息事件が起きるまでアウローラに付きっきりだった乳母。彼女ならコナーの居場所がわかるかもしれない。


「失礼。うちの者からあなたがコナー先生の妹だと聞いたのだが」

「えっ? あ、は、はい」


 どもりながら応じた女は天才芸術家の兄と違ってどこか自信なさげだった。慇懃に所属とブルーノ・ブルータスの名を名乗ってすぐにルディアはコナーと連絡を取る方法がないか尋ねてみる。返答はまったく期待外れだったが。


「あの、すみません。兄とは交流と言える交流がないんです。お役に立てずに申し訳ありませんが……」


 噛みつきやしないのにコーネリアはやたらびくびく身を引っ込める。後ろで見ていたモモに耳打ちされたのは、彼女とルースはしばしば逢瀬を重ねた間柄だということだった。

 なるほど己の責任を厳しく追及されるのではと恐れているらしい。言われてみれば元乳母は脇目も振らずに爪の裏まで黒くして墨の鍋を掻き回していた。贖罪の方法がなければ現在の仕事に励むしかない。その気持ちはルディアにもわからないではなかった。

 邪魔しては悪いかと早々にコーネリアの側を離れる。続いてルディアが振り向いたのは抱えた猫を撫でながら新人たちを監督する糸目の貴公子であった。


「組版以外は単純作業がほとんどだから人手が増えると捗るね。ふふ、今日は久々にあなたとゆっくりしていられるなあ」


 愛撫を繰り返すチャドに対し、ブルーノはほぼ無抵抗である。その姿はまだ真相を知らずにいる恩人に、ほかには何もしてやれないからと胸を痛めているように見えた。

 声をかけるまでの数秒間、ルディアはブルーノの心中を思う。我ながら酷な頼みをしたものだ。王子を見つめる猫の瞳に滲むのは深い思慕。あんな境遇に追いやれば苦しめるのは目に見えていたはずなのに。


「……ありがとうございました、チャド王子。我々を慮って、先に話をさせていただいて」


 ぺこりと頭を下げたルディアにチャドは「何、気にすることはない」と首を振る。相変わらず彼は完璧な紳士であり、憤慨するとか動転するとか心を乱すあらゆることと縁遠く見えた。


「あなたには本当に感謝しています。亡命の件でも、モモたちの件でも」

「結果だけ見れば何もできなかったようなものだよ。新しい人生を始める道がまだ残っていることは、ありがたいと思っているがね」


 チャドはゆっくり窓辺に移動し、騒々しい工房街を見下ろして呟く。信じてきたものに裏切られて彼も傷ついただろうに。声に嘆きの色は薄く、猫の毛を梳く長い指は慈しみに満ちていた。


「こうして彼女の魂だけは守れたんだ。ほかのことまで気に病むまいと思っている。彼女がどんな姿になろうと我々は夫婦なのだし、夫婦は互いを尊重し、支え合うものだろう? 話が終わるまで待つくらいどうということはないさ」


 愛情深い受け答えに白猫の双眸が震える。つらそうに仮初の伴侶を見上げる彼に気づいてルディアもしばし沈黙した。

 ブルーノを苛んでいるものがなんなのかは想像がつく。心から好意を寄せてくれる相手に嘘をつかねばならぬ苦しみは己とて経験済みだ。

 このままにはしておけないなとひとりごちた。背負わせてしまったものを、すべて引き取ってやることは難しくとも。


「で、君たちはこの先どうするか決まったのかい?」


 潜めた声でチャドが聞く。ルディアは頷き「私たちはアクアレイアへ戻ろうと思います」と答えた。


「彼女も一緒に?」

「いえ、それはまだ直接聞けては」


 この返答に驚いたのはブルーノだ。猫は窓枠に身を乗り出し、別行動の予定はないですと言いたげに見上げてくる。


「そうか、猫の口は不便なものだからね。良ければこれを使うといい」


 チャドの取り出した簡易文字表をルディアは「いえ、結構です」と断った。その代わり、きっちりと意思疎通の可能なことを打ち明ける。


「我々は入れ替われるので、人の口を得るくらい造作ありません」


 えっと声を漏らしたチャドにルディアは続けた。


「私にもアンディーンの加護があって、あの蟲がここに宿っているのです」


 そう頭を指差すと利発な王子が拳を打つ。


「ほう、君も? ……ああなるほど、つまり二人の間でなら肉体を交換できるわけか」


 おろおろするブルーノを脇に、ルディアは「そうです」と返事した。聞き耳を立てていたアルフレッドたちも驚きのあまり凍りついている。部外者であるチャドに対し、突然何を言い出すのだと。


「はーい! 皆さんお疲れさまでした! 今日の作業はおしまいでーす!」


 と、そのとき、業務終了を告げにネッドが現れた。健康的な筋肉質の肉体に爽やかな笑顔を乗せた青年は「寝場所とか決めちゃいたいんで四階に上がってくださーい! ちなみに僕たち徒弟は全員雑魚寝でーす!」と呼びかける。


「えっ!? まさかあんた、俺たちと寝食をともにする気か!?」

「そんなこと言う北パトリア人初めてだぞ!?」


 動揺するイェンスたちにネッドはへへっと鼻の下を指で掻いた。


「実は僕、イェンスさんの護符には何度か命拾いさせてもらってるんですよね。なので皆さんをお世話させてもらえるの、光栄に思ってます!」


 照れくさそうに言い切った兄弟子にはぐれ北辺人たちは胸を打たれたようである。感激の波に包まれた老水夫らは誰からともなくネッドを囲み、あれよと言う間に肩まで組んだ。「ほ、本当だな!?」「その言葉信じるぞ!?」「ええ、本当です! さあ行きましょう、案内します!」と彼らは団子状態のまま四階へと連れ立っていく。


「しまった、荷物が出しっぱなしだ」

「あっ! 私も!」


 昨日までその四階で寝泊まりしていたらしいチャドとコーネリアが慌てて後を追いかけていくと二階にはルディアたちだけが残された。

 どうしてチャドにあんなことをと言わんばかりの面々と視線を合わせることはせず、ルディアは窓際のブルーノを振り返る。


「……お前、チャドに自分の正体を明かしたいか?」


 問いかけにブルーノは固まった。「話したければ話していい」と続けると白猫はうろたえきって二つの目玉をきょろきょろさせる。


「王女の身体がなくなった今、どうしても隠さねばならん秘密でもなくなった。もちろん誰にでも明かせる話ではないが、チャドに言うか言わないかくらいはお前に決めさせてやれればと思っている」


 告げながら、ルディアの脳裏には北の果てで見た父の幻が甦っていた。

 己の口であの人に真実を明かせていたらという思いは、すべて解決した今も苦い後悔として残っている。

 せめてブルーノにはどちらか選ばせてやりたかった。彼に嘘を強要したのはほかでもない自分なのだから。


「ただな、ブルーノ。正直であることがいつも幸福を招くとは限らない。一晩じっくり考えてお前の思うようにしろ。結果がどうあれ責任は私が持つ」


 それだけ言うとルディアは猫に背を向けた。医者とムク犬が興味深そうに、アイリーンは不安げに、アルフレッドとモモとレイモンドは次の言を待つように、じっとこちらを見つめている。


「……アクアレイアに戻れば忙しくなる。先延ばしにしないほうがいい問題は一つずつ片付けておこう」


 生きると決めたら現実がはっきりとした形を持って迫ってくるようになった。先延ばしにしないほうがいい問題は、自分も一つ抱えている。

 もう海の上ではないのだ。きっぱりと、伝えるべきことは伝えなければ。




 ******




 その夜ブルーノは一睡もできなかった。仲良く床に横になり、いびきの合唱を繰り広げる新入りたちがうるさいせいもあったけれど、それ以上に己の頭がうるさくて。

 話したければ話していい。そんな許しが出るなんて考えもしていなかった。自分は秘密を抱えたまま彼の前を去るのだと、ブルーノ・ブルータスに戻るのだと思い込んでいた。

 大部屋の最奥、まだしも踏まれる恐れの少ない壁際で寝息を立てるチャドの枕元に丸まる。起きているときと大差ない糸目の寝顔を見つめつつブルーノはどうするべきか思案に暮れた。

 猫の器を与えられ、目覚めた日から胸にあるのは罪悪感のみだ。ルディアの身体を守れなかっただけでなく、本物でもない妻のためにチャドに国まで捨てさせて、と。

 自分を責めずにはいられなかった。肝心なことは結局何一つ知らない彼が、どこまでも優しくしてくれるから尚更。


(ずっと騙しててごめんなさいって、謝ってもいいのかな)


 そうしたいと願う心とそうしていいのか惑う心が揺れ動く。

 チャドからすれば知りたくないのではなかろうか? 骨身を砕いて尽くした相手が本当の妻ではなかったなんて。姫を演じる偽者のために何もかも犠牲にしたなんて。

 ルディアはきっと自分がルディアのふりを続けても何も言わない。チャドと自分がどこかの田舎に引っ込んで二度と表舞台に出てこないと約束すれば快く見逃してくれる。それが多分一番丸く事を収める方法だ。

 だがそんなこと許されていいはずなかった。何もできなかったくせに、自分だけ戦線離脱して安穏と日々を送ろうなんて。


(卑怯者もいいところだ)


 かぶりを振り、ブルーノはチャドの首元に顔を埋める。

 わかっていた。今を逃せば一生言えないままなのは。ずっと心苦しく思ってきたことも、自分の本当の名前さえも。


「……眠れないのかい?」


 不意に伸びてきた温かい手に引き寄せられる。夢うつつの貴公子は「そこにいては冷えるだろう、お入り」とそっとブランケットの端を捲り上げた。深く考えるのは避けて潜り込む。言われるがまま寄り添ってしまうその理由を。


「今日のこと、私に教えてくれるのは後でいい。私はあなたの夫としてずっとあなたを守るから、恐れずに進みたい道を決めなさい」


 本当に非の打ちどころのない伴侶である。チャドの優しさに触れるたび己の至らなさが恥ずかしくなる。一瞬でも打算的な誤魔化しを考えたこと。


(やっぱり明日ちゃんと謝ろう)


 自分はあなたの妻ではないと、彼に言わなければならない。誠実でありたいと願うなら。本気で悪いと思っているなら。


(でなきゃきっと、この先の道は続かない……)


 目を閉じて心臓の音を聞く。

 いつまでもそれが途切れぬように。

 いつまでも、いつまでも、ともに過ごせる夜が巡ってくるように。

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