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第1章 その1

 ルディアたちがコーストフォート市に戻ったのは、極夜も明けて日照時間が伸びてきたのを肌に感じる二月初旬のことだった。

 真冬の荒波に揉まれたためにまたしても老朽化の進んだボロボロのコグ船が人影まばらな河港に入る。この時期は海側から来る商船が少ないせいか残雪の光る船着場はごく静かなものだった。


「こりゃ駄目だ。騙し騙し使ってきたが、この船もいよいよ引退だな」

「やっぱりか。随分使い古したもんなあ」

「バラして売ってもたいした額にはならなさそうだが処分するしかねーだろな。早いとこ代わりの寝床を見つけねーと」

「けどよ、これからはあのパーキンって男が俺らを雇ってくれんだろ? 話はとっくについてんだ。ひとまず皆であいつの工房に顔出しに行きゃいいんじゃねえか?」


 コグ船の点検をしていたイェンスとスヴァンテが甲板から赤レンガの街並みを見やる。威勢を誇示する市庁舎やアミクス商館が目に留まっても二人はもうさして嫌な顔をしなかった。海と別れ、陸に上がる。彼らの新しい生活はこの街で始まるのだから。


「そうだな。そんじゃいっちょ気合い入れていくか!」


 振り返ったイェンスが「野郎ども、降りるぞ!」と告げる。印刷技師に転身予定の老水夫たちは待ってましたと言わんばかりに歓声を上げて飛び出した。まだまだ一旗揚げる気概は十分ということか、我先にロープを伝う彼らの瞳は眩しいばかりに輝いている。

 ルディアたちも金細工師の印刷事業がどうなったのか確認するべく下船した。カロとの決着がついた今、一日でも早く印刷機をアクアレイアへ持ち帰らねばならない。ジーアンの支配下でいまだ経済難にあるだろう祖国のために。


「皆さんまっすぐ工房へ向かわれるんですね。私は一度診療所に戻ってもいいでしょうか? 彼に新しい身体を用意しなくてはなりませんので」


 と、河港沿いの道を駆け出した一団からハイランバオスが脇に抜け、工房街とは別方面の彼の下宿へ続く通りを指差した。医者の右手には透けた蟲の──彼曰く、あの若狐の入ったガラス瓶が握られている。


「…………」


 ルディアはその場に立ち止まり、両脇を固めるアルフレッドとレイモンド、すぐ後ろのアイリーンと目を見合わせた。ハイランバオスにはできるだけ単独行動をさせたくない。ラオタオまで加わるのなら尚更だ。


「あ、ええと、私が一緒に行ってきます。姫様たちはどうぞ工房に」


 こちらの意を汲み、アイリーンがさっと医者の背後に回った。


「見張り役などつけずとも大丈夫ですよ?」


 エセ預言者はおどけてみせたが聞かなかったことにする。なんと言われても野放しにできる男ではない。


「やれやれ。あなた方には真実しかお話していませんのに、なかなか信用していただけませんねえ」


 弱りましたと言いながらさほど弱った様子もなく、ハイランバオスは足取り軽く歩を踏み出す。そうしてひらひら手を振りながら「ではまた後ほど!」と建物の角に消えていった。


「わっ、ま、待ってください!」


 少し遅れてアイリーンが彼を追う。騎士と槍兵は胡散臭げな目つきで医者を見送った。


「…………」


 しばしの沈黙を挟んで前方に向き直る。警戒は緩めないままルディアたちもパーキンの印刷工房を目指して歩き出した。


「どうにも読めない男だな。俺たちに何を求めているんだろうか?」

「俺あいつ嫌い! 意味わかんねーことばっか言うし!」


 舌まで出したレイモンドをルディアは「こら」と窘める。


「気持ちはわかるが少し堪えろ。奴とはしばらく手を組むことになるのだからな」


 苦言を受けてレイモンドは複雑そうに顔を歪めた。この槍兵は自分のせいでハイランバオスに従わざるを得なくなったと思い込み、殊のほか強い反発心を抱いているのだ。アルフレッドの嘆息も深く、厄介なものを抱え込んだ実感は否応なく湧き上がった。それでもあのまま何もできずに終わるより良かったと思っているが。

 私の言うことをなんでも一つ聞いてくださるのでしたら──。

 あの日瀕死のレイモンドを見下ろしてハイランバオスはそう言った。要求は既に飲んでいる。「私を仲間にしてください」という想定外も想定外の要求は。


「力を合わせてアクアレイアを取り戻しましょう、だもんな。どの口が言ってやがんだって話だよ」

「ああ、裏で王都陥落の糸を引いていた人間の言葉とは思えない」


 二人の言にルディアも「そうだな」と同意した。本当に、そんなことをしてなんのメリットがあるのか理解不能だが、ハイランバオスはヘウンバオスからアクアレイアを取り上げる気でいるらしい。それもただあの国が天帝のものでさえなくなればいいようで、ジーアン人を追い払った後アクアレイアが王国に戻ろうと共和国に発展しようと彼は一向に構わないらしかった。


(祖国奪還に向けての支援は惜しみません、か)


 喜色満面で告げられた台詞を思い出し、また頭を悩ませる。あんな男を信用などできるわけがない。とはいえ申し出を断れる立場でもなかったが。


「こっちに都合のいい話ばっかりってのがなんか気持ち悪いんだよな。確かに目的は被ってんのかもしんねーけど、身内のことペラペラ喋りすぎっていうかさー」


 渋面の槍兵に傍らの騎士がこくりと頷く。


「本当に怪しすぎる。裏の取れた情報以外は話半分で聞いておこう」


 用心を促すアルフレッドにルディアもレイモンドも異論はなかった。

 不気味とまでは言わないが、やはりこの同盟はあまりにこちらに利する点が多すぎる。ハイランバオスは帝国の実態をほとんどリークしたのではないかと思うし、蟲の生態についても同じくだった。

 特に驚かされたのは、アークなる人智を超えたクリスタルの存在だ。脳蟲はアークによって生み出されたとか、一定濃度の塩水に触れたときだけ孵化するなどということはアイリーンさえ知らなかった。蟲たちには親玉ともいうべき特別な一体が存在し、フスやコナーがそれに該当するということも。

 この件に関してはフスにも確認を取ったので間違いないと思われる。祭司は「ちょっと教えすぎじゃないか?」と困惑していたほどだった。それでもまだルディアたちはアークについて何も知らないも同然のようだったが。


「どうかアクアレイアの海とコナーを我が君からお守りください……だっけ? おちょくられてるとしか思えねーよ」

「仲間や国に害をなそうとしているわけだからな。巣を守ろうとするのが蟲の本能のはずなのに、解せないどころの話じゃない」


 槍兵と騎士の間でルディアは一人考え込む。「いくら寿命が近いと言ったってここまで方向転換するものか?」と怪しむアルフレッドの声が脳裏をよぎったハイランバオスの笑い声と重なった。


 ──どんなに骨折りを続けても無駄と悟れば己のために生きようという気にもなりますよ。


 あの男の生き甲斐は、今はただ天帝の生き様を見届けることにあるらしい。その人生の終幕を己の命と魂で輝かせられたらなお良いと、レンムレン湖探しにはひとかけらの未練もないと言い切った。

 動機も信念も行動もルディアには皆目理解できなかった。ハイランバオスが正気でものを言っているのかも。だが王国の奪還もコナーの保護も頼まれなくともやるべきことには違いない。利用できる駒ならばハイランバオスだろうとなんだろうと利用するのみだった。

 そう、やるべきことは山積みなのだ。考えるべきことはもっと。


「俺たちに協力させるだけさせといて、最後は全部持っていくぐらいのことはやりそうだよなー」

「確かにその可能性は高い。裏を掻かれないように奴の動向にはしっかり目を配っておかなければ」

「おい、そろそろ静かにしろ。人通りが増えてきた」


 ルディアは人差し指を立て、二人の会話を切り上げさせた。広場が近づき、寒風吹きつける大通りにも賑わいが満ちてきている。街中では誰が何を聞いているか知れたものではない。ジーアンの話題など出さぬほうが賢明だ。


(敵は我々と型違いの脳蟲か。一筋縄ではいかないだろうな)


 工房に向かい歩きながらルディアはこっそりポケットに左手を突っ込んだ。直すだけは直したが返せないまま放置している首飾りを指で探る。少し傷んだ革紐と、まじないの彫られた小さな牙を。

 考えるまでもなくやればすぐ終わることだ。それなのに己はまだ見て見ないふりをしている。こんなものはさっさと手放し、ほかの重大な問題に頭を使うべきなのに。

 らしくないなと苦笑した。決断を先送りにするなんて。

 それほどに恐れているということだろうか?

 終わらせてしまうことを。

 次へと進んでしまうことを。



 ******



 またあのお守りに触れている。彼女の指がポケットに寄せられるたび意識がそこに向いてしまう。そんな己の過敏さに落ち着かない気分でアルフレッドは前方に目を逸らした。

 意気揚々と進むイェンスたちの後ろ姿は既に遠く豆粒大になっている。工房の場所はわかるから置いていかれても困りはしないがゆっくり歩きすぎたようだ。ルディアもあまり遅れてはと思ったのか先程よりも歩調が速い。その左手はもうどこにも触れていなかった。

 ぶんぶんとかぶりを振り、アルフレッドは薄灰色の空を見上げた。

 無礼にもほどがある。こんな風にじろじろと主君を観察するなんて。


(気にしすぎだぞ。大体俺がどうこう言うべき話でもないじゃないか)


 ポケットに何が入っているかなど知らなければ良かった。それかルディアがレイモンドに渡すべきものをさっさと渡してくれていれば。躊躇しているように見えるから却って気になってしまう。それはそんなに勇気を要する行為なのかと。


(本当に、俺が勘繰る話じゃない)


 表面上は平静を装い、アルフレッドは石畳の道を歩いた。工房通りへ折れて道なりにしばらく行くとトンテンカンテンと工具の音がやかましくなってくる。雑多な響きはどこか懐かしく耳を傾ければ無心になれた。パーキンの仕事場に着く頃には胸のもやもやもだいぶ静まり、内心ほっと息をつく。


「あのモミアゲ、勝手に借金増やしてねーといいけどな」

「よせ。会うのが不安になるだろう」


 元はワイン蔵だったという地下倉庫への階段を前にレイモンドとルディアが足を止めた。パーキン・ゴールドワーカーは本当にどうしようもない男らしく呼吸するようにトラブルを巻き起こすそうだ。街を離れていた間に投獄されてしまったかも、いや借金取りに追われて蒸発した可能性もある、などと最悪の予想を済ませたうえで二人は地下に降りていく。

 ──結果から言えば悪い展開には少しもなっていなかった。驚かされるのは驚かされたし、金細工師の借金額も増えてはいたのだが。


「おおっ、レイモンドにブルーノ! ナントカ隊の隊長さんも!」


 最初にアルフレッドの視界に入ったのは床を埋め尽くす大量の文字型だった。整然と箱に収められたそれらで倉庫は足の踏み場もない。中心に座すパーキンも周囲に活字箱が積み上がっているせいで頭しか確認できなかった。

 見渡す限り金釘サイズの文字型、文字型、文字型だ。神話集を一冊刷るだけでもパトリアアルファベットを刻んだ金属活字が十万個以上必要だとは聞いていたが、こうして見るとすさまじい量である。またその出来を一つ一つ丹念にチェックする職人にも感嘆を禁じ得なかった。


「こんなに型を増やしたのか? 印刷はどこでやってるんだ?」


 ルディアも目を丸くして金細工師に問いかける。

 用紙類を保管していた棚もインクを乾かすためのスペースもすべて活字箱に領土を明け渡しているのだ。印刷機自体見当たらないし彼女の疑問はもっともだった。


「アレキサンダー三号なら上さ! 思った以上に護符が売れて、ここじゃ在庫管理に手狭になってきたもんで建物丸ごと買い取ったんだ。アトリエの連中も怖がって別の場所に引っ越したがってたみたいだしな」


 文字写りの最終確認をする手は止めず、パーキンが答える。不動産を買えるほど儲かっているというだけで驚きだったのに、金細工師は更に驚きの発言を続けた。


「そんで俺は今、アレキサンダー四号を製作中ってわけ! せっかくこの街で俺様の印刷物が売れに売れてるってのに、何もかも引き払ってアクアレイアに向かうなんて大馬鹿者のすることだろ!? どうせなら二号店を出してやろうと思ってさ!」


 おお、とレイモンドが称賛の拍手を送る。パーキン曰く今度の融資は相当な好条件で貸しつけてもらえたらしい。二台目を作る費用にしても試行錯誤したこれまでに比べれば格段に安くなるし、数年で完済できる見込みだという話である。


「すごいじゃないか。借金は増やしているかもと思っていたが、まさか印刷機まで増やしてくれるとは思ってもいなかったぞ」

「へへっ、ありがとよブルーノ。けど本当にすごいのはここからだぜ! 俺はなあ、今に世界中にゴールドワーカー印刷所をおっ建ててやるのさ!」


 識字率の高いアクアレイアへ行けばもっとでかい仕事ができるとパーキンは目をぎらつかせる。文字型も五十万個は用意するという頼もしい台詞に主君は喜びを隠さなかった。


「それは本当に楽しみだ。早くサールにいる仲間とも合流してアクアレイアに帰りたいな」


 ルディアの笑顔を見ていたら己の胸まで弾んでくる。アルフレッドはこくりと頷き「ああ、マルゴーに急がないとな」と拳を握った。

 パーキンが「あっ」と間の抜けた声をあげたのはそのときだ。


「そういやそのサールから客が来てるぜ」


 予想だにしない言葉にアルフレッドたちは「えっ⁉」とどよめいた。しかも客人は三人連れで、パーキンの発行した新聞を頼りにレイモンドとブルーノを訪ねてきたそうである。


「だ、誰だ?」


 ルディアの問いに金細工師は「おっかねえ女の子だよ」と額をサッと青ざめさせた。たったひと言でピンと来てアルフレッドたちは目を見合わせる。


「お前らが海へ出てったすぐ後に来てさ、しばらく帰らないぞっつったら働くから泊めてほしいって。今ちょうど二階でイェンスたちに活版印刷機の使い方説明してんじゃねえかな」

「……!」


 脱兎のごとく駆け出したルディアに続き、アルフレッドとレイモンドも地下倉庫を後にした。三人連れというのが引っかかるがおそらくモモに違いない。残り二人は誰だろう? それにサールでの護衛任務はどうしたのだ?


(理由もなくモモは持ち場を離れたりしない。宮殿で何かあったんだ)


 階段を一気に上がり、石工の捨てていった元アトリエの扉を開け放つ。広い一間になっている一階ではパーキンの弟子とは思えぬ好青年のネッド・リーが種類ごとに護符を仕分ける梱包作業に追われていた。


「あっ、皆さんおかえりなさい! 長旅お疲れさまでした!」


 妹さんが来てますよと親切な声に教わる。やはり「おっかない女の子」とはモモのことらしい。礼だけ告げてアルフレッドたちは二階へ足を急がせた。


「……でー、パトリア文字の読める人には組版っていう作業をしてもらいたいんだけどー。とりあえず最初は皆でアレキサンダー三号を使ったプレスの方法を見学して……」


 耳慣れた、物怖じしない高い声が階上から響いてくる。北辺の荒くれ者らがお行儀良く並んだ向こうに「モモ!」と大きく呼びかけると、妹は短く結んだ二つの髪をぴょこんと跳ねさせ、丸い瞳を大きく瞠った。


「アル兄!? それにレイモンドたちも!」


 インクの塗り方を実演していたらしき彼女は一旦手を止め、腕に抱えていたインク壺も床に下ろしてこちらへと駆け寄った。


「なんだ、身内か?」

「アクアレイア人だと思ったらまたお前らのお仲間か」


 中断に気を悪くした風もなくイェンスとスヴァンテが振り返る。兄妹の再会を優先して一歩下がってくれた彼らに「わわっ、ごめんね」とモモが詫びた。


「えーっと。皆、ちょっとだけ待っててくれる? ほんとはモモが技術指導の担当なんだけど、モモ大急ぎでアル兄たちに相談しなきゃいけないことがあるの。こっちの都合で本当にごめん! すぐに代わりの人を連れてくるから!」


 皆に頭を下げてからモモはアルフレッドたちの腕を引いた。どうやら三階に交代要員がいるらしく、妹は作業場の奥の階段に急ぐ。


「モモ、お前なんでコーストフォートに? 任務はどうした? サールで何があったんだ?」


 背後から投げかけたアルフレッドの質問にモモは「後でね」と答えなかった。叱られるのがわかっているとき彼女がしばしばそうするように、ただ現場へと連れられる。


「えっ……!?」


 三階に上がってすぐモモ以上になぜここにいるのか不明な人物と目が合った。

 一人はコーネリア・ファーマー。コナーの妹で十人委員会にアウローラ姫の乳母となるよう命じられていた女性だ。

 もう一人はチャド・ドムス・ドゥクス・マルゴー。服装こそ一般市民のそれに変わっているものの、マルゴー公国の第二王子にして我らが主君の夫である。こじんまりした机に向かって印刷前の組版作りに勤しむ彼の姿にはルディアもレイモンドも面食らった様子だった。


「ど、どうしてあなたがパーキンのもとで植字工など……」


 糸目の王子にルディアが尋ねる。するとチャドは「やあ、やっと帰ってきたようだね、ブルーノ君。久しぶり」と返事した。


「驚かせてしまってすまない。実はちょっと国にいられなくなったんだ」


 残念そうに貴公子が肩をすくめる。尋常ならざる事態にアルフレッドは眉をしかめた。


「国にいられなくなった? そりゃどういうことなんです?」


 続いてレイモンドが問いかける。だが幼馴染のほうは発した問いに答えてはもらえなかった。チャドが口を開く前にニャアと猫の鳴き声が響いたからだ。


「ウニャア、フニャア」


 見れば随分と毛並みの良い、青い目をした長毛種の白猫が悲しげにこちらを見上げている。ルディアの足元に擦り寄って頼りなく震えるその猫をチャドは優しく抱き上げると「おお、よしよし。泣かないでおくれ、私の可愛い人」と愛おしげに頭を撫でた。


(なっ……)


 まさかと頬を引きつらせ、アルフレッドはモモを見やる。妹は嘆息し、無言のまま首を振った。


「……ッ」


 反射的に大部屋を一瞥したが、六台の作業机と組版の道具以外は何もない。ただ整然と活字箱と木の枠が並ぶだけだ。モモとチャドとコーネリアがここにいるなら姿があって然るべきもう一人は、その高貴な肉体は、室内のどこにも見つけられなかった。


「ニャアア、ニャアア」


 哀切な鳴き声にアルフレッドは息を飲む。縮こまった白猫は王子の腕で悲嘆に暮れるばかりである。


「チャド王子、コーネリアさん、二階の人たちに印刷のやり方を教えてあげてもらっていい? モモたちちょっと今までのこと話し合いたくて」


 沈痛な面持ちでモモが乞う。


「ああ、構わないとも。君たちの身の振り方が決まらないことには私も動きの取りようがないからね」


 快く頷いてチャドはコーネリアに目配せした。

 突然の来訪者たちに固まっていた元乳母はやりかけの植字架を気にしつつもおずおずと立ち上がる。彼女を階下に促してチャドも白猫を作業台に座らせた。


「あなたはここに残るといい。私がいてはしにくい話もあるだろう」


 ただの猫への呼びかけとは思えぬ言葉に背筋が冷える。とどめに王子は猫の額に口づけた。たびたび彼が最愛の妻にしていたのと同じように。


「……っ」


 ルディアとレイモンドもぱちくりと白猫を見やる。考えたくない可能性だが、やはりそういうことなのだろうか。この白猫の中にいるのは──。



 ******



「……カロには会えたの?」


 チャドとコーネリアが立ち去ると妹はやや気まずそうに切り出した。ハッと顔を上げ、アルフレッドはモモに答える。


「あ、ああ。こっちはどうにか片付いたよ。もう心配いらないと思う」


 返答に妹はふうと重い息をついた。「えらいね。アル兄はちゃんと自分の仕事を果たしたんだ」と呟く彼女は珍しく塞ぎ気味だ。


「……何があったんだ?」


 怖々と問いかける。項垂れた白猫が微動だにせず困惑は深まった。

 見守るルディアとレイモンドも怪訝に眉を寄せている。モモはくるりと主君のほうに向き直ると頭が腹にくっつくのではと思うほど深く謝罪した。


「ごめんね姫様。謝って済む問題じゃないのはわかってるけど、モモもほかにどう言えばいいか……」


 そのまま彼女はアルフレッドを公国から送り出して以降の顛末を語り始める。モモによれば、公爵家を始めとして宮中は敵だらけだったらしい。ティルダとルースの繋がりも予測できず「ルディア姫」を守りきることができなかったとモモは悔しげに歯噛みした。


「なっ……」

「あの副団長がかよ……!」


 愕然と息を飲む。あれだけ猛省していたグレッグ傭兵団から裏切り者が出たことにも驚いたが、それ以上に王女の肉体が失われたというのが衝撃で。

 モモは続けた。遺体の頭は潰れていて、首の骨も折れていたと。置き去りにして逃げる以外は選ぶ余地もなかったと。


(じゃあ姫様は、もう二度と元の姿には……)


 気のきいた台詞などひねり出す余地もないまま振り返る。立ち尽くす主君に大丈夫かと問おうとして、アルフレッドは既に別の手がルディアの肩を支えているのに気がついた。


「……大丈夫だ。モモ、それから?」


 ルディアが問う。血の気の引いた真っ白な顔を上げて。レイモンドも長々と彼女に触れてはいなかったが、案じる視線はいつまでも外さなかった。

 ざわ、と胸の底が騒ぐ。己が気遣うより先に行動していた幼馴染を苦々しく思う理由はないはずなのに。


「そう、それで、崖から落ちたブルーノの本体を助けてくれたのがチャド王子だったの。耳から蟲が這い出すところもばっちり見られてたみたいで、モモも何も説明しないわけにいかなくて」


 妹はブルーノが万一に備えて塩水の入った小瓶をチャドに持たせていたのだと言った。勝手な真似をして申し訳ないと詫びるように猫はますます暗い顔をうつむける。


「今ね、チャド王子は『この猫に愛しい妻の魂が宿っている』って思ってるの。暇さえあればブラッシングしたりリボンつけたり、相変わらずのラブラブぶりだよ。口にしたことはないけど新しい身体さえ見つかれば夫婦でどこかに居を構えたい、身分なんか捨ててもいいって考えてるみたい。この頃はブルーノと意思疎通しやすいように自作の文字表まで持ち歩いてるくらいだし」


 モモはブルーノがルディアの代役であったことは伝えずにいたようだ。この不可思議な線虫はいわば魂の結晶で、王女の肉体は滅びたが心はここに生きているとの説明で押し通したらしい。何も知らないコーネリアには「チャド王子はショックで頭がおかしくなった」と誤魔化して。


「やっぱこいつがブルーノなんだ?」


 レイモンドが手を伸ばすと作業台の猫は小さく身を震わせた。

 しょげ返った替え玉に対し、ルディアはしばらく考え込む。


「……そうか。私が王女に戻る日はもう来ないのか」


 ぽつりと漏れた呟きにアルフレッドは思わず声を荒らげていた。


「王国再興を願うならあなたは今もルディア姫だろう!」


 馬鹿なことを言わないでくれと顔面を歪める。すると彼女は苦笑して「自暴自棄で言ったんじゃない」と首を振った。


「私に与えられていた権限も制約もこれで帳消しになったという話さ。聖王に連なる王家の血も、チャドとの婚姻関係もな」


 主君の発言にぎくりとしてアルフレッドは身を強張らせる。言われてみればその通り、彼女はもはや物理的には「夫のある身」ではないのだった。チャドが縁を保ちたいと望んでいるのもルディアではなくブルーノだ。そして彼女の口ぶりは、あえて伴侶を引き留めようとはしていないように響いた。


「とにかくお前だけでも助かって良かった。長いこと難しい役を務めてくれて礼を言う。ありがとう」


 優しいねぎらいにブルーノは涙目で首を振る。こういうときは責められないほうがつらい。取り返しのつかない事態だけに、アルフレッドにもサール宮を出てきたことが悔やまれた。自分がいれば撃退できた敵だったかもしれないと思うと余計に。


「でもコーストフォートで再会できて不幸中の幸いだったね。王子様連れての逃避行だったもんだから、モモたちマルゴーじゃお尋ね者同然でさ。あちこちで捕まりそうになって本当に大変だったんだから」

「ん? お尋ね者? ……ってことはもしかして、俺たちサールリヴィス河を遡ってマルゴー経由で帰ったりしちゃまずいんじゃね?」

「そうか、そうだな。牢獄にぶち込まれでもしたら厄介だ。予定を変更せねばなるまい。ううむ、オリヤンに相談し直すか……」

「オリヤンって誰? こっちの味方?」


 教えてとせがむモモに、今度はルディアがこれまでの旅路を語る番だった。積もる話は山ほどあり、時間が駆け足で過ぎていく。

 互いの現状を把握する頃には三時の鐘も鳴り終わり、診療所で用を済ませたアイリーンたちも顔を出してきた。


「うわっ、ほんとにハイランバオスじゃん」

「おや? また防衛隊の方がいらしたんですか? よろしくお願いいたします。これから一緒に打倒ジーアンで頑張っていきましょうね!」


 顔面のしわというしわを寄せ、モモは「こいつらも仲間なわけ? ほんとのほんとに?」と医者と医者の連れてきたニタニタ笑いの茶色いムク犬を眺める。ブルーノのほうは姉の無事な姿を見て少しほっとした様子だった。


「また大所帯になってきたな」


 ひいふうみいとルディアが人数を確認する。その横顔はもういつもの彼女と変わらない。

 無くなったのに。彼女が彼女であることを証明できる唯一の方法が。

 民衆は王女を死んだと見なすだろう。ならばこの先、彼女はどうするつもりなのか。


(王国再興を願うならあなたは今もルディア姫だろう……か)


 自分の発した言葉の矛盾にアルフレッドは押し黙る。仮にジーアン軍を撤退させ、王国が再び独立を宣言できるようになったとしても、彼女をルディアと認めるのはほんのわずかの者だけだ。

 それでもルディアは王族として生きることをやめはしないだろうけれど。

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