第3章 その9
――夢を見ていたような気がする。コリフォ島で、俺は一人で蛍を見ていて、そこにあの人がやって来る。
「強情な娘だが、よろしく頼むよ」
後ろで手を組み、穏やかに微笑むイーグレットに「はい」と答えた。答えた瞬間目が覚めて、光の海から現実に引き戻されてしまったが。
「……姫様?」
呟くと枕元にいたルディアがこちらに被さるようにして「大丈夫か? 痛みはないか?」と尋ねてきた。ぼんやりしつつ起き上がり、レイモンドは辺りを見回す。
(あれっ? 傷開いてなかったっけ?)
円錐形に張られたテントの中はほんのりと明るかった。どうやら今は昼過ぎらしい。煙出しのための隙間から曙の光が差し込んでいる。地平線の向こうに隠れた太陽が少しだけ光を分けてくれる時間だ。
「いや、なんともねー。すげー元気」
ぽんぽん腹を叩いても不快な感覚は一切なかった。返事を聞いたルディアはさっと立ち上がり、「知らせてくる」と飛び出していく。
アルフレッドやアイリーンを連れて彼女はすぐに戻ってきた。三人の後にはイェンスとカロも続く。うおっと一瞬身構えたが、憔悴したロマにもう殺意は感じられなかった。
「……俺はもう行く。イェンスにでも読んでもらえ」
レイモンドの顔を見てカロは何かを投げてくる。放られたのはあちこちしわだらけになった一通の手紙だった。
「読む間ちょっと待ってくれよ」
引き留めるとカロはテントの入口で顔をしかめる。どうして報復をやめたのかとか、もうルディアに危害は加えないだろうなとか、こちらは知りたいことだらけなのだ。そう簡単に見送るわけにいかなかった。
「それが例の、イーグレットからお前宛ての遺書か?」
イェンスの問いにロマが頷く。「また懐かしい暗号だな」と便箋を開いて父はうっすら目を細めた。
レイモンドが眠っている間、どうやらイェンスがカロを落ち着かせてくれたらしい。事情もある程度聞いたようで、ルディアに「読むぞ」と確認を取る。
「ああ、頼む」
緊張気味に彼女は頷いた。レイモンドも、アルフレッドも、アイリーンも、揃ってごくりと息を飲む。
正真正銘これが最後のイーグレットの肉筆だろう。どうかルディアを励ます一通でありますようにと祈るレイモンドの傍らで、イェンスはゆっくりと王の遺言を読み上げ始めた。
「……君に手紙を書くのはこれが最後になると思う。君はいつでも私を案じてくれているのに、一緒に逃げようという君の申し出に応えることができなくてすまない。私はコリフォ島へ行く。しかしこれは強制されてのことではなく、自らの意志でだ。どうかアクアレイアの民を恨まないでほしい」
枕元に腰を下ろしたルディアがぎゅっと拳を握りしめた。聞き入る皆の表情は真剣そのものだ。
なぜなのか、夢の続きを見ている気がしてレイモンドは瞼を伏せた。あの人が側にいる錯覚さえする。本当にここにいてくれているなら嬉しいけれど。
「君には話したいことが山ほどあるのに、果たしていない約束もまだたくさん残っているのに、時間というのは待ってくれないものだね。情勢がもっと落ち着いて、王国に平和が訪れたら、今度こそ君と別れ別れになっていた二十年間のやり直しをするつもりだったんだ。本当だよ。……けれどもはやそれも叶うまい。だからここに一つだけ白状しておく。
君が「いい夫婦になれ」と言ってくれたのに、私の結婚生活は最初から破綻していた。妻はグレディ家の手先で、私には彼女を変えることができなかった。ルディアが生まれてからも状況は悪くなる一方だったよ。宮中から私の味方はいなくなり、ディアナは儚く世を去って、娘はグレース・グレディの操り人形と化した。何もかもめちゃくちゃにされたのに、私にはグレースを憎む気力も残っていなかった。君をアレイア地方から追いやって以来、私は自分を責めてばかりいたんだ。何を失い、何を奪われても、己の不甲斐なさが悪いと考えることしかできなかった。いつしか何にも逆らわなくなり、自分は無価値だ、王としての資格など――いや、生きる資格さえないと考えるようになっていた。私は孤独だった。君との友情も永久に損なわれた気がした」
つらい懺悔に胸が痛む。もっと早くルディアに出会えていれば、もっと力になれることがあったかもしれない。戻せない時間を悔やむのは不毛なことだと承知しているが。
「そんな私にある転機が訪れた。ルディアが重い病に倒れたのは私が死を考え始めた頃のことだ。娘を回復させるのに私は必死だったけれど、内心では彼女がいなくなったらまた自分にかかる重圧が増すと怯えていただけかもしれない。私は卑怯な臆病者になっていた。ルディアも少なからずそうなっていた。……だがあの子には奇跡が起きたのだ」
うつむくルディアが心配で、ちらちらと顔を覗いた。大丈夫だと言ってやりたい。あの人の手紙にあんたが縮こまるようなこと書いてあるはずないだろうと。しかし口を差し挟む余地もなくイェンスの朗読は続いていく。
「熱が下がって次に目を覚ましたとき、あの子は何も覚えていなかった。私への親愛を示してはいけないとグレースに強く戒められていたのに、あの子は私の手を握り返してくれた。初めて君の右眼を見た、遠い日のことを思い出したよ。私はもう一度立ち上がろうと決心した。今度こそ娘とともにグレディ家と戦おうと。
それからは毎日、大変だったが張り合いもあったな。記憶の底に沈めていた君との思い出も徐々に甦らせることができるようになった。ルディアは二度とグレースの色に染まらず、君の予言した通り、父親思いに育ってくれた。私は全身全霊であの子を守ってきたつもりだ。できることはなんでもしたし、なんにでも耐えた。くじけそうになったときは、君が名前をくれた娘だろうと自分を奮い立たせて」
イーグレットの肉声が聞こえてくるようだ。脳裏にはコリフォ島で見た王の素顔が甦る。
「カロ、君に頼みがある」
イェンスは震える声で呟いた。ロマを踏みとどまらせたのだろう、あの人の最後の願いを。
「……私に代わってこれからは、君があの子を守ってくれないか?」
息を飲むいくつもの音が響いた。アイリーンがカロを見やり、痩せぎすの肩をわななかせる。ルディアもまた目を瞠り、手紙を読むイェンスを仰いだ。
「ルディアはコリフォ島へやらず、マルゴー公国に逃がすつもりだ。だが王家の血が流れる以上、あの子も真に平穏には生きられないだろう。いや、私は身の安全以上にあの子の心を案じているのだ。
私はルディアを思うばかりに『誰も信じてはいけない』などと言い聞かせて育ててしまった。それが心残りでならない。私が側にいなくなればあの子には誰が残るだろう? チャド王子には遠慮が拭いきれないようだし、ユリシーズはあの子に牙を剥いた。
ずっとでなくて構わないのだ。あの子が誰かを見つけるまで、私にとっての君に等しい誰かに巡り会うまでの間、あの子の支えになってほしい。あの子を助けてやってほしい。
自分の過ちから出た心配を他人に押しつけるものではないとは承知している。だがこんなことを頼めるのは君だけだ。私のために親身になってくれたように、あの子を見守ってくれないか?
私が人生で最も暗く深い闇に落ちたとき、光をくれたのはルディアだった。生まれ変わったあの子が私を救ってくれた。そして私はどうにかこの世に生きながらえて、君との再会も果たせたのだ。君が頷いてくれたなら私は思い残すことなく旅立てる。
今こうして王宮を去る決断を迫られて、私は私が何者であるか悟った。冠を外されても、玉座を追われても、私はアクアレイアの王であることをやめないだろう。なぜなら私の王たる背中をルディアがどこかで見ているからだ。
……許せ、友よ。二十年前ならきっと君と逃げ出した。しかし私は変わってしまった。私は父になったのだ。最後まであの子が私を誇ってくれるように、私は王である自分を捨てられない。私のこの頑固な願いを認めてほしい。王国の誰のせいでもないのだ。たとえ民衆が引き留めてくれたとしても、私の選択は変わらなかった。それは確かだ。
長々と自分の事情ばかり書きつけてすまない。勝手だが、ルディアのことは君に任せる。その代わり、私はどんなに遠く離れていても君を思い続けるよ。君のまっすぐな眼差しが、いつも、君のいないときでも私の弱さを振り払ってくれたように。
君を見ている。ずっと、君がどこにいようとも。忘れないでくれ。私たちの歌も旅も続くのだ。親愛なる友よ、君の人生に幸多きことを――」
終わりまで読みきってイェンスが喉を詰まらせる。
涙が出るのは信じたことが正しかったからだろうか。それともあの人の想いが温かいからだろうか。
「……っ」
ルディアの頬が濡れて光る。それを見て、思わず肩を抱き寄せた。
「なんでお前まで泣いているんだ」
「泣くだろそりゃ……! 良かったな、姫様。ちゃんとあの人が言ってくれて。娘だって言ってもらえて本当に良かった……」
アイリーンは号泣し、貰い泣きでイェンスまでぐすぐすと鼻を啜る。目頭を押さえた騎士は「そうか、そういう手紙だったか」と頬を綻ばせた。
「遺言を守る自信はないが、復讐も続けられない。……これからどう生きればいいか、少し一人で考えさせてくれ」
じゃあなとロマは玄関代わりの布を捲くる。慌ててアルフレッドが「あっ! 望郷の歌は!?」と尋ねた。
「リュートをよこせ。返すついでにジェレムに直接教えてもらう」
突き出した手に古びた楽器が渡されるとカロは今度こそテントを去る。振り返ればテントに残ったアイリーンが「きっとまた戻ってきてくれるわ」と涙を浮かべて呟いた。
そうなればいい。いや、そうなるに決まっている。イーグレットの用意してくれた「めでたしめでたし」が簡単に覆るはずないではないか。
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なんだか不思議な気分だな。お前の姿は見えないのに、お前と一緒に歌った歌を口ずさむとお前の声が重なる気がする。
俺の犯した過ちを、お前は許してくれたんだろうか。
俺の抱いた憎しみを、お前は認めてくれたんだろうか。
だとしたらつくづく愚かな男だ。だが俺はそんなお前だからこそ心を許して友達になったんだったな。
イーグレット、これから俺たちはどこへ行こう。お前が側にいてくれるなら俺はどこにだって行ける。
そのうちアクアレイアへも足を延ばそう。今はまだ胸が痛むけれど、いつかそのうち。
お前の愛してきたものを、俺にも愛せる日が来たら。




