第3章 その3
見上げた空は爽やかな青。吹く風は柔らかく、絶好のお祭り日和だ。宮殿前の国民広場に集った人々のざわめきも明るい。
午前九時、高らかなファンファーレを響かせて楽隊を乗せたガレー船が登場した。細部まで彫刻され、金箔を塗られた豪華絢爛の巨船である。ゆったりと流れる大運河に黄金の影が揺らめくと民衆は「おお!」と身を乗り出した。
漕ぎ手には偉丈夫揃いの海軍から、これまた見目麗しい男たちが選出されている。当然ユリシーズも櫂の一つを握っていた。これから父が彼のいる甲板にやって来るかと思うと不安だが、逆に考えればそこは最も動きにくい場所でもあった。何しろ祝祭船の乗員は百名に上るのだ。衛兵に守られた国王に近づくのは至難の業に違いなかった。
(大丈夫。何もできやしない)
そう自分に言い聞かせ、ルディアは眼前のガレー船を見やった。ムカデの足のような櫂が一斉に漕ぐのを止める。船は広場の正面にお行儀良く停止した。
「今年こそ乙女の愛を勝ち取ってみせるぞ!」
「ぬかせ、指輪は俺のもんだ!」
広場から突き出した大鐘楼の麓では指輪目当ての人々がゴンドラを浮かべ、金襴の儀礼船を見上げている。飛び込ませるのはレイモンドだけだがルディアとアルフレッドも乗りつけた小舟で参加者の群れに混ざっていた。不審人物を見つけたらすぐに捕らえられるようにだ。
広場側にはバジルとモモを配置済みである。仮面をつけたカロとアイリーンも岸を埋める群衆に溶け込んでいる。その混雑の最前列、特等席で祭典見物に興じる聖預言者にはアンバーを張りつかせた。
猫の目が悪行を監視しているとはグレディ家もまだ勘付いていないだろう。とは言えこちらも一派の計画を具体的に掴んでいるわけではないが。
アンバーの報告によれば、ユリシーズとクリスタル・グレディの打ち合わせは「当日は予定通り」のひと言で済んでしまったそうだ。主犯の尻尾を掴むのはなかなか難しそうだった。
陰謀の糸を引いているというハイランバオスは護衛役以外の王国民と関わりらしい関わりを持っていない。自らグレディ家に出入りして海軍に警戒されるミスも犯していなかった。これなら「ひょっとしてグレディ家は敵国と通じているのでは」と疑われても「ユリシーズが屋敷を訪問するのは婚約者に会っているだけだ」と言い訳できる。まったく周到なことだった。
「今日の良き日に、アクアレイアの新たな歴史を刻もうぞ!」
と、大運河に海軍提督の雄々しい声がこだました。気がつけばトランペットの音が止み、重低音の厳めしい演奏が始まっている。
ルディアは顔を上げ、衛兵たちが儀礼剣を掲げて並ぶ国民広場を振り返った。ほどなくしてアーチと列柱に飾られたレーギア宮の壮麗なる正門がゆっくりと開かれる。
「イーグレット陛下、イーグレット陛下!」
「アクアレイア王家、万歳!」
奥から姿を現した父に拍手と歓声が巻き起こった。まだ君主の威厳が健在なことにルディアはホッと息をつく。
だが少なからぬ嘲りも聞こえた。「相変わらず生っ白いことで」と揶揄する声にムッと目を吊り上げる。
(あのアルビノは生まれつきだ! 海で日焼けしていないからではないぞ!)
頭の天辺から爪の先まで新雪のごとく真っ白な父、イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイア。白鷺王と人は呼ぶ。敬意ではなく皮肉を込めて。
ビロードのマントを引きずり、王は黄金の祝祭船に乗り込んだ。グレディ家の謀略についてはカロから知らされているはずだが、特にルート変更はしないらしい。人々の見守る中、ガレー船は例年通り墓島へと漕ぎ出した。
(お父様……)
身の安全を優先するなら生誕祭自体取りやめにすれば済んだ話だ。父がそうしなかったのは、王と民が心を一つにできる日を台無しにしたくなかったからだろう。
人心掌握を図るのは王家存続のためだけれど結局それが国民のためになる。アクアレイアのような小国は一致団結しなければ弱い。内部分裂が生じた途端他国の干渉を許す羽目になる。
(ルディアは承知いたしております、お父様)
岸を離れたガレー船を追いかけて子供たちが走り出す。埠頭には色とりどりのリボンを投げる娘たち。どちらも見慣れた建国記念日の風物だ。来年は父の隣でこの景色を眺めたい。王国に身を捧げる者として。
「さーて、そろそろ出番かな」
船影が遠ざかると大鐘楼の麓に蠢く人々は念入りに準備運動を始めた。乙女の指輪を手にすれば大抵の願いが叶えられるのだ。全員真剣そのものだった。
「レイモンド、ざっと見てどうだ?」
剣に手をかけながら問う。半裸の槍兵は声を潜めて「一応全員地元っぽい」と返事した。
「そうか、ではやはり……」
事が事なので最後までは口にしない。アルフレッドとレイモンドに伝われば十分だった。
ルディアたちは神妙な面持ちで指輪を狙う同胞を振り返る。この中の誰が刃を隠した刺客なのだろう。疑い出すと誰も彼も怪しく思えた。
(お父様、何があろうと必ずルディアがお守りします……!)
墓参りを終えた船が大運河に戻ってきたのはそれからおよそ三十分後のことだった。イーグレットの周辺警護に隙はなく、ユリシーズも今のところ櫂漕ぎ椅子に腰を落ち着けて精を出している様子だ。このまま何もせずにいてくれと祈る。
「これより指輪奉納の儀を始める!」
国中の民が見守る中、黄金船はアレイア海と向かい合った。錨が下ろされ、名だたる貴族が甲板に整列する。海軍兵士も櫂を置き、立ち上がって敬礼した。
広場ではお仕着せの楽隊が待っていましたと今日一番美しい旋律を奏で出す。波を模した装束の踊り子たちも群舞した。
否が応でも祝祭は華やぐ。辺り一帯を熱気が包む。注目を一身に集め、王は右手を振りかざした。
指揮に従いトランペットが響きを強める。技巧を凝らして群衆を魅了する。その盛り上がりの最高潮で音楽の花は散らされた。世界はパッと無音になった。
いよいよだ。固唾を飲んでルディアは儀式を見守った。
静寂を背負い、船首へ歩み出たイーグレットが金の指輪を天に掲げる。降り注ぐ陽光を反射して、きらめき輝く黄金に人々は万感の溜め息をついた。
「海よ、お前を我らの伴侶とする」
後ろ姿でもよく通る父の声。アクアレイアの在り方を簡潔に示したこの宣言は、建国の翌年にはもう始まっていたと聞く。独立戦争に立ち会った老人の中には小さく復唱する者もいた。両手を合わせ、波の乙女に祈る者も。
「永遠に存在するお前とともに、我らもまた不滅であるように。海よ! 精霊アンディーンよ! お前を愛し、お前に愛されんことを!」
王の手を離れた金環は流星のごとく滑り落ちた。大鐘楼の天辺で祝福の鐘が鳴らされるや、待ち構えていた者たちが我先に大運河へと飛び込んでいく。
「わはは! 願い事を叶えてもらうのは俺だー!」
凄まじい速度で水を掻くレイモンドがほかの参加者を蹴散らした。父の側に急いでくれるのはありがたいが、本来の目的を見失っていないか心配だ。
「よし、私たちも行こう」
ルディアは残ったアルフレッドとゴンドラを漕ぎ、後ろから泳ぐ一団を追いかけ始めた。不届き者を前後から挟み撃ちにするためだ。
そのときだった。パキッと何かが割れるような不穏な音が響いたのは。
(え?)
ルディアは背後を振り返る。まだやかましく五つの大鐘をぶつけ合っているレンガの塔を。
(なんだ今のは? 大鐘楼のほうから聞こえた気がしたが)
異音の原因を探してみるが見つからない。歓声と鐘の音が邪魔をして、もう一度音を拾おうとしても無駄だった。
気のせいかなとルディアは指輪争奪戦に目を戻す。だがどうしても胸に何か引っかかり、櫂を漕ぐ手がおろそかになった。
「――」
何故そこでハイランバオスを仰いだのだろう。
薄い唇がにたりと歪められるのを見てぞっとした。
――何か来る。直感する。
ほとんど無意識にルディアは振り返っていた。聖預言者の視線の先を。
「なっ……」
パキ、ピシッ、パキパキと大鐘楼のレンガ壁に幾筋もの亀裂が走る。採光用の小窓からは濃い白煙が漏れていた。ちらちらと赤い火の粉も見え隠れする。
鐘撞き人は異変に気づいていないのだろうか。振動が建物のダメージを加速させているのに大鐘はまだ鳴り止まない。
亀裂はすぐに別の亀裂と繋がって間のレンガを弾き飛ばした。それも一箇所どころでなく、地上に近い階で何箇所も。その穴に上部のレンガが沈み込み、傷口は連鎖的に広がった。
こうなれば後は一瞬だ。自重を支えきれなくなった塔は地響きを立てて崩れ出した。置き去りのゴンドラと、付近に陣取っていた人々と、ルディアたちを巻き添えにして。
「っ……!」
伏せろ、いや運河に飛び込めと、そう叫んだのはアルフレッドか。崩壊する大鐘楼の一番近くにルディアたちのゴンドラはあった。問答無用で手を掴まれ、水中に引き込まれ、身を庇われたところにレンガの雨が降り注ぐ。
水が重いと初めて知った。呼吸ができずに苦しかった。だがアルフレッドはルディアよりもっと悲惨だっただろう。足手まといを守りながら容赦なく叩きつける十八階分の礫に耐えねばならなかったのだから。
(なんのつもりだ、この男)
逞しい腕に守られたまま毒づく。ルディアに呆れ、失望したのではなかったのか。ユリシーズと同じように。
(目を合わせるのも嫌がっていたくせに……)
くそ真面目にもほどがある。自分だって死ぬかもしれないこの状況で、騎士の務めを全うするつもりか。
「……ッ!」
運河に没した大鐘楼は局地的な高波を引き起こした。成す術もなく水の塊に押し流される。アルフレッドはルディアを離すまいとしたが、レンガの濁流に阻まれてすぐに引き裂かれてしまった。
泳ぎ方も、水面に浮かぶ方法も知らなかった。うっかり飲み込んでしまった水が思考力を奪い去った。
もがいて、もがいて、手を伸ばして。それでも身体は沈むばかりで。
(……駄目だ、もう息が……)
鎧など着込んでいるから重いのではと気づいたのは意識を失う寸前だ。
せめて胸甲を外すくらいはできただろうか。予算を回さなかったから金属製の装備はそれくらいなのだけれど。
全身の感覚が消えていく。青い闇に沈んでいく。
ほかには何もわからなかった。




