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第3章 その8

 数日続いた地吹雪がようやくやんだその翌日、カロは姿を現した。深い雪に埋もれた極夜の断崖の、硬く凍った湖に。

 スヴァンテから知らせを受けてイェンスはすぐルディアたちを呼びに駆けた。洞窟の社で暖を取っていたアクアレイア人たちは各々の武器を手に立ち上がる。ルディアはレイピア、アルフレッドは片手剣、そしてレイモンドは背丈と同じ長さの槍。頷き合って出口へ向かう三人の、最後尾を行く息子の腕を捕まえた。


「お前は駄目だ! 傷が開いたらどうするんだ!」


 表情を曇らせるイェンスにレイモンドは首を振る。


「一人で見てるわけにいかねーよ。戦闘になるとも限らねーし、行かせてくれ」


 落ち着いた声に乞われ、イェンスは黙り込んだ。ルディアたちは早くも岬に飛び出そうとしている。

「なあ」と急かされ、余計に指に力がこもった。なんだか胸騒ぎがするのだと伝えたところで止まってくれそうになくて。


「……あのさ、俺、姫様のこと片付かなきゃほかのことまで考える余裕ないんだわ。けどこれが終わったら、あんたとゆっくり話したいって思ってんだよ」


 レイモンドは厚い毛皮のコートごと手首を掴むイェンスに諭す。


「俺の一番大事な人の、一番大事なときなんだ」


 行かせてくれと繰り返す息子にもう何も言えなくなった。あの深い傷を誰のために負ったのか、どうして我慢して自分の船に乗ってくれたのか知っているから。

 イェンスはほんの少しだけ手を緩める。拘束を解くとレイモンドはちらりとルディアの後ろ姿を確かめて、頭だけこちらを振り向いた。


「ありがとな、心配してくれて。――親父」


 コートの裾を翻し、止める間もなくレイモンドは駆けていく。聞き違いではない言葉にイェンスは小さく震えた。


(レイモンド……)


 彼にも何か予感めいたものがあったのだろうか。もしかしたら、これが最後の会話になるかもしれないと。

 手を合わせ、急いで短い祈りを終える。イェンスは駆け足で湖のほとりへと向かった。

 暗い穴を抜け、真っ白な世界を見渡す。スヴァンテたちは既に居並び、カロを連れてきた古い仲間とぼそぼそ囁き合っていた。その人垣を越えた先に殺気立った男が見える。

 刃を交えずには終わるまい。わざわざフスに聞かなくたって、そんなことは明らかだった。







 雪と氷が星明かりを照り返す夜の底。明るいような暗いような、奇妙に曖昧な空間で、死神然とした男が自分を待っている。

 湖上に薄く積もった雪を踏みしめてルディアは一歩ずつカロに近づいた。

 膝まで覆う毛皮のコートを着込んだ彼は、雪用ブーツの反った爪先をこちらに向けてわずか顎を傾ける。その側まで来て初めて誰かが彼の腕を引き留めているのに気がついた。


「アイリーン」


 名を呼べば前にも増してやつれた女が泣きそうな目でロマを見上げる。


「ねえ、やっぱりやめましょう。こんなのなんにもならないじゃない」


 訴えにカロは無言で首を振った。放つ殺気とちぐはぐないたわり深さで男は細腕を引き剥がす。


「もう下がれ。お前を突き飛ばしたりしたくない」

「でも……!」


 アイリーンは再度ロマの腕を掴んだ。しかしカロは彼女を無視してルディアと対峙する。瞳に宿した暗い炎を隠しもせず。


「……話し合う余地はないか?」


 尋ねると「ない」ときっぱり断言された。傍らの騎士も痛ましい声で「親友の残した一人娘だろう? 報復にどんな意味がある?」と問うが、カロの考えは依然変わらないようだ。


「そいつは『ルディア』じゃない」


 言い返そうとしたアルフレッドを制し、ルディアはロマをじっと見据えた。

 先祖代々の歌を継ぎたいとか、これから誰とどんな風に生きていこうとか、そういった未来のことは彼の中にもう残っていないのだろう。一瞬きらめき、尾を引いて落ちる彗星のように、燃え尽きても構わないとロマの右眼が言っている。――少し前まで自分も彼と同じだった。でも今は。


「……私はあの人が守ったものをあの人の代わりに守っていく。あの人に償い、あの人との絆を取り戻すために。だからお前にもう一度、私こそ王女ルディアだと認めてもらわねばならない」


 名付け親のお前にと言う。くどくどと言葉を重ねる気はなかった。示さねばならないのは今後の己の行動のみだ。生き様でしか証はもはや立てられない。


「そう言われて頷けると思っているのか?」


 逡巡もためらいもなくカロが問い返す。「できるはずない」と吐き捨てられ、場の緊迫はいや増した。そこに遅れて槍兵が駆け込んでくる。


「カロ……!」

「今度こそ死にに来たか」


 鼻で笑ってカロはレイモンドを一瞥した。恩人の息子でも手加減はしてくれなさそうだ。「待て、ジェレムはお前に」と説得を続けようとする騎士を遮ってロマは鋭い声を響かせた。


「自分があいつの娘だと思うなら、勝ってそうだと言えばいい。それが決闘というものだ」


 冷たく告げるとカロはポケットから琥珀色のガラス瓶を取り出した。ラベルの貼られた小さな瓶だ。中は何かの液体で満たされている。


「ブルーノの身体まで道連れにはできんからな。これはお前と入れ替える用の脳蟲だ」


 どうやらロマは工房島からサンプルを持ち出してきたらしい。小瓶を奪おうとすぐさまアイリーンが手を伸ばしたが、彼女の企ては失敗に終わった。突如舞い込んできた鷹の羽ばたきで咄嗟の英断は呆気なく蹴散らされる。


「キャッ!」

「無粋ですよ、アイリーン。せっかく詩的な場面ですのに」


 湖畔で見守る人垣から抜けてきたハイランバオスが引っ繰り返った女を助け起こした。


「ど、どうしてあなたがここに!? 嫌です、邪魔しないでください!」


 暴れるアイリーンを軽々と抱きかかえ、聖預言者はその場から引き揚げる。他人事だと面白がっているらしい。つくづく趣味の悪い男だ。

 二人が去ると氷上には痛いほどの静寂が戻った。剣の柄には手をやったものの、動けずにいるルディアたちにロマはクイと指を曲げる。


「三対一でいい。来ないならこちらから行くぞ」


 戦闘開始の宣告にアルフレッドとレイモンドが武器を構えて前へ出た。意を決し、ルディアも鞘からレイピアを抜く。

 殺し合いをする気はない。少なくとも余計な者まで巻き込むつもりは。


(決着は私がつける)


 極夜の空には半分の月。運命を決めかねて、天にも昇れず地にも潜れず立ち尽くしている。雪雲はまだ視界の端にしつこく引っかかっていた。足元で踏みしめた雪がキシキシと鳴る。

 カロの双眸はルディアだけを見据えていた。ごくりと息を飲み込むと同時、懐に小瓶を収め直した男はこちらに飛びかかってきた。







 頑固者めと舌打ちしたい気分で片手剣を振る。怯ませようとカロの目の前に閃かせた刃は、しかしあっさり拳の裏に弾かれた。アルフレッドは半身を返し、崩れかけた体勢を立て直す。反転の勢いに乗って今度は横から脛を狙うがこれも難なくかわされた。

 向こう側ではレイモンドが槍の柄をしならせてカロをルディアに近づけまいと暴れている。なすべきことははっきりしていた。幼馴染も狙いは一つのようだった。

 ロマが見せた脳蟲入りのガラス瓶。あれさえ壊せば「中身」が入れ替え不能になり、カロは退くしかなくなるはずだ。脱兎に転じるにせよ追ってくるのが難しい状況にする必要はある。数ではこちらが勝っていても油断ならない強敵だった。足一本奪うくらいの気迫で挑もうとアルフレッドは唇を引き結ぶ。

 カロと戦うのは二度目だ。一度目は防衛隊がまだニンフィのアクアレイア人居留区でくさくさしていた頃、魔獣の頭部を盗んで逃げたアイリーンを追跡中、あれよと言う間に投げ飛ばされた。

 彼は強い。おそらく自分たち三人よりも。それを押さえ込まねばならない。しかも王女に命じられた通り、命に別状ないように、だ。


「はあっ!」


 レイモンドの槍が逸れたタイミングで逆方向から片手剣を振り下ろす。背面を突かれてもカロは動じず、剣の根元に潜り込みながら身をかわし、こちらに足払いをかけた。慌てて後ろに跳び退り、引っ繰り返されるのを避ける。カロを休ませないために今度はルディアがロマの後を追いかけた。


「恥知らずめ! 自分で殺した男の娘を名乗りたいとは!」

「あの人はアクアレイアのために誇り高く死んでいった! ならば生き残った私が祖国のために恥知らずになれなくてどうする!」


 レイピアがカロの肩を襲う。ガキッと鈍い音がして、ロマがナイフで斬撃を受け止めたのが知れた。足が止まった隙を突き、アルフレッドは猛然とカロに切りかかる。


「甘い!」


 王女を振り払ったロマは返す刃をこちらに向けた。飛び道具と化したナイフが頬を掠める。気を取られた一瞬の間にカロは視界から消えていた。ひと拍子遅れて飛び込んできたレイモンドと切り結びかけて「うわっ!」と仰け反る。腹の真ん中に重い蹴りが飛んできたのは直後だった。


「うぐっ……!」


 いかに分厚い毛皮とはいえ胸甲よりは固くない。凍傷になるといけないからと鎧の類は預けていたのを思い出し、ゲホゴホむせた。


「くそっ……!」


 痛みを堪えて立ち上がる。すぐ戦線に復帰したが、三方から囲んでもカロの優位は揺らがなかった。

 判断力、身のこなし、どれを取っても一級だ。目は本当に同じ目か疑いたくなるくらい素早くこちらの動きを捉え、先を読んで制してくる。訓練ではなく実戦で経験を積んだ男なのだ。それも集団である軍隊と違い、完全な個人技。ロマお得意の曲芸的な動きも合わさって予測不可能な攻撃を仕掛けてくる。


「うおっ!」


 レイモンドが襟首を掴まれ地面に叩きつけられた。幼馴染は倒れたまま槍でロマを突こうとするが、ポケットどころかコートにも触れない。なまじ目標が明確なだけにかわされやすくなっているのだろう。


(だったら!)


 アルフレッドは横一線に剣を振った。どうせ毛皮がキルトアーマーの代わりを果たしてろくに切れやしないのだ。胴に当たっても鈍痛を与えるのみである。数秒動けなくさえすればガラス瓶の破壊は可能だ。思い切って叩き込んでやるつもりだった。


「……ッ!?」


 ところが二本目のナイフがアルフレッドの狙いを阻む。眉間に向かい飛んできたそれを避けようと身を逸らしたため突進は威力を削がれた。カロに当たるのは当たったものの、やや顔をしかめられただけですぐにみぞおちを蹴り上げられる。


「がっ……!」


 転んでも剣は離さなかった。もう一度だと半身を起こす。だがそのもう一度は来なかった。槍兵と王女の挟撃を鮮やかにかわしたカロが攻撃態勢に移れていないアルフレッドを標的に定めたからだ。

 数歩の助走をつけて跳躍し、カロはアルフレッドの腹部に着地した。体重がかけられたのは一瞬だったがダメージは決定的で、再び雪に沈められる。

 意地でも剣を離さぬ右手をカロは剣ごと蹴り抜いた。反撃に出る余裕もなく片手剣は吹っ飛ばされ、氷の上を滑っていく。

 それだけでは不十分だと断じたか、更に無慈悲にロマは顎骨を砕こうと右足を振り上げた。寸前でルディアが割り込んできたために、深刻な打撃には至らなかったが。


「アルフレッド!」


 声が出せれば危ないと彼女に叫んでいただろう。迂闊に突き出したレイピアが――刺突用の細い剣が、瞬く間にカロのブーツの餌食となって折れ曲がる。ルディアは対峙する男に向かい、使い物にならなくなった剣を潔く投げ捨てた。


「走れ!」


 レイモンドの声が響く。幼馴染が指差したのはアルフレッドの剣が転がった方向だ。彼女に武器を拾わせて自分はロマを食い止めるつもりらしい。

 首飾りの革紐が飛び出していることにも気づかず、レイモンドは槍を構えてカロと向かい合う。なんとか助けになろうとアルフレッドも氷を這った。


(くそ、いつもの剣だったら……!)


 ないものに頼っても仕方ないとわかっていてもバスタードソードがあればと悔やまれた。重量のある片手半剣ならさっきの攻撃も有効打になっただろう。遠くまで蹴り飛ばされることもなかったはずだ。


「いい加減にしろよ、おっさん。あんた陛下の手紙読んだんじゃないのかよ?」


 忌々しげにレイモンドが問いかける。


「お前こそ、あの女が偽者だと知っているくせに」


 返答に幼馴染は怒声を返した。


「そう思ってんのはてめーだけだ!」


 カロは巧みに腕を使い、振りかぶられた槍を押しかわす。レイモンドも突くだけでなく打撃を浴びせようとするのだが、ロマの存外な敏捷さに翻弄されるのみだった。

 打ち込みは回避され、槍の柄に掴みかかられる。カロが両腕をぐるりと回すと幼馴染の手から武器がもぎ取られた。


「ぐ……っ!」


 膝を蹴られたレイモンドがバランスを崩す。ロマは奪った槍を捨て、冷然と幼馴染を見やった。槍を失った槍兵はなお果敢にロマに飛びかかる。たちまち二人は揉み合いになり、拳骨、頭突き、体当たりの応酬となった。

 だがどう見てもレイモンドの劣勢だ。見る間に打撲の傷が増え、腹部を庇う動きになる。早く加勢しなければとアルフレッドは必死に雪に手を伸ばした。


「よけろ、レイモンド!」


 やっと掴んだナイフをロマ目がけて投げつける。これで多少なり隙が作れるはずだった。

 しかし現実はそう優しくないらしい。飛んできた刃を指二本でキャッチしてカロはくるりと手首を返した。ナイフはすんなり持ち主の手に戻ってしまう。


「ッ……!」


 ためらいもせずカロはレイモンドの首を狙った。幼馴染は間一髪でかわしたが、代わりに切れた首飾りがばらけて散らばる。


(このままでは……!)


 片手剣を拾ったルディアが全力でこちらに引き返してきているのを確認し、アルフレッドはカロの足に飛びついた。転ばせるつもりだったがそうはならず、逆に踵で顎を蹴られる。

 頭が激しく揺さぶられたその瞬間、見えていた景色が白黒になって明滅した。それが終わったと思ったら、今度は激しい吐き気と眩暈に襲われる。


「う……っ!?」


 手が、足が、動かない。突然の事態にアルフレッドはうろたえた。

 不慣れな剣を振るうルディアが見えるのに、彼女を庇って戦うレイモンドが見えるのに、金縛りにでも遭ったように。

 脳震盪なんて言葉は知らなかった。こうなれば大人しく回復を待つしかないことも。

 傷の上から痛烈な殴打を受けたレイモンドの倒れる姿が二重に映る。ナイフは取り落とさせたものの、守りを剥がれた王女が追い詰められるまで長い時間はかからなかった。







 最初に自分に戦い方を教えてくれたのはイェンスの船にいた男だ。目の良し悪しが生死を分ける、あとは身体がついてこられるかどうかだと。

 イーグレットと別れてから長い間一人で生きてきた。二十年、背中を預ける誰かもなく。だからこんな未熟者が三人がかりで向かってきてもたいした脅威ではないのだ。

 四肢が麻痺しているようだから騎士はしばらく起き上がれないだろう。槍兵も、青ざめた額を見れば芳しくない状態と知れる。剣を振り回す仇敵はカロが後退するのに釣られて次第に仲間たちと離れた。あるいは彼女も二人から危険を遠ざけようとしていたのかもしれない。


「くっ……!」


 間合いを詰め、ルディアの剣の柄を掴んだ。こちらの脛を狙って彼女は足を振り抜いたが、気にせず腕に力をこめる。

 お返しにカロも膝蹴りを放った。剣を持っていかれるまいと踏ん張っていたために、まともに腹に一撃食らってルディアはその場に膝をついた。


「ぐう……ッ!」


 げほっ、えほっと咳き込む声が氷上に響く。この程度かとがっかりしながら手にした武器を投げ捨てる。もう一度あいつの娘を名乗りたいなどとほざいてこの程度かと。

 一体自分はどこでどう間違えたのだろう。「行けない」と言うイーグレットを力づくで連れ出さなかった最後の日か。変わっていく彼を恐れてアクアレイアを去ってしまった遠い日か。

 この女を見誤ったことは確かだ。イーグレットの育てた子供がイーグレットを裏切るはずがないと信じ込んでしまった。こいつもまた自分には理解不能なアクアレイア人だったのに。


「俺は認めん。お前があいつの娘だなどとは」


 暗い天蓋に閉ざされた白銀の風景。白と黒の世界に異物のごとく転がった青。

 これを取り除かねばならない。安らかに、一切何も考えず、孤独ですらない無となって滅びるために。

 イーグレットはアクアレイア人を恨むなと言う。全部自分で決めたことだと。それなら俺も自分で恨むと決めたのだと言いたかった。

 見下げられても構うものか。どうせ二度と会えやしないのだ。

 お前は一人で行ってしまった。冠を戴いた姿で。


「カロ……」


 ゆっくりと近づく自分を見上げて膝をついたままルディアが構える。友人の返り血を浴びて呆然とする彼女のさまを思い出す。


「お前はどう思っているんだ? あいつをその手で殺したこと」


 納得のいく答えなど求めてはいなかった。ただ怒りの炎をたぎらせるために聞いたのだ。この女の言葉では止まれないことくらいわかっていた。


「……罪は罪だ。しかし私は娘として、果たすべき義務を果たした。この先も後悔はするまい」


 十分だ。胸中に呟いてカロは拳を鳴らす。諦めの悪い目がしつこくポケットを追っていたが、何ができるとも思えなかった。もはやこの女に残された手はレイピアの鞘で小瓶を叩き割るくらいだ。


「ッ……!」


 案の定彼女の間合いに入った直後、紐から外されていた鞘が振り上げられた。半歩も下がれば奇襲はあっさり空振りに終わる。がら空きの胸を蹴り飛ばし、カロは冷たい氷上に仇敵を転がした。


「ぐっ……!」


 飛びかかり、馬乗りになってルディアを仰向けにさせる。喉を絞め上げるともがいたが、力をこめても引き剥がすことは不可能なようだった。


「カ……、ロ……っ」


 殺気を感じて振り返る。見ればすぐ後ろで死に損ないが足を引きずっているのが見えた。無駄な努力だ。大人しくしていれば自分は助かったかもしれないのに。

 レイモンドは背後からこちらの腕に掴みかかった。左手でルディアの喉元を押さえたままカロは右手でレイピアの鞘を拾う。後ろに突けば槍兵はもんどりうって倒れ伏した。念入りにもう一発浴びせると痙攣して動かなくなる。

 仕切り直しだ。再びルディアにのしかかり、遺言も聞かぬまま首を絞めた。


「…………っ」


 ああ、これでやっと終われる。友人のために何もできない愚かな自分と別れられる。

 イーグレット、結局俺が一番手酷くお前を裏切ってしまったな。お前の最後の願いさえ俺には叶えられそうもない。けれどほかにはどうしようもなかったのだ。俺にとってお前の存在は大きすぎた。


(イーグレット……)


 ルディアの頬が色を失くす。抵抗はすっかり弱々しいものになっていた。

 この女を殺したらお前はどんな顔をするだろう。泣くだろうか。嘆くだろうか。俺を恨むと化けて出るかな。

 自分の想像に知らず吹き出す。呪い殺してくれるならそうしてくれと口角を上げた。

 だって俺のしていることはあまりに酷薄だ。炎は今やお前まで焼こうとしている。お前が残した手紙には、娘を想う言葉が山ほど綴られていたのに、俺のこの手はそれさえ灰に帰そうというのだ。


(イーグレット、俺は……)


 お前に会いたい。

 もう一度、どんな形でもいいから。


「――」


 視線を感じ、全身がざわついたのはそのときだった。ばっと顔を上げ、周囲にきょろきょろ目をやるが、湖畔の立会人たち以外こちらを見つめる者はない。

 けれど誰かに見られているのは確かだった。雪解け水の流れる渓谷で初めて彼の幻を見たときも、これとまったく同じ感覚を味わったのだから。


(どこだ? どこからこっちを見ている?)


 極夜の空を見上げたのはルディアがそこを仰いだ気がしたからだ。それからすぐに白い鳥が――白鷺が天に翼を広げた。


(あ……)


 星空の一点が破れる。その一点から溢れた光が極北の夜を駆け巡る。

 あっと言う間に闇を払いのけたそれは、真昼のごとき明るさで世界の果ての岬を包んだ。四方八方に腕を広げ、自身を激しく波打たせながら。


「……イーグレット……?」


 オーロラは無限の色を持つ。時には雲と見紛う真っ白な光を放つこともある。どこに出るかもその時々で異なった。森の彼方に浮かぶ日もあれば、今のように人間たちの真上に降りそそぐ日も。

 ――そのとき光は天を覆い尽くすのだ。


「げほっ! げほっ!」


 手から力が抜けていたのに気づき、動揺したまま眼下のルディアに目を戻す。だがもう彼女の喉を絞めることはできなかった。

 駄目だと首を振られたから。ずっと呼び続けていた男に。


「――……」


 手を下ろせと諭す仕草に指が震える。氷に膝をついていたのは少年でも青年でもなく最後に手紙をくれた彼で、唇に優しい微笑を浮かべていた。

 それだけの、一瞬の幻。動けなくなるには十分な。


(本当に酷い男だ)


 憎んでいると知っていて、苦しんでいると知っていて、お前が俺を止めるのか。イーグレット。

 友の言葉が耳の奥にこだました。自分を絶望の淵に叩き落とした、愛情深い彼の言葉が。


 ――カロ、君に頼みがある。どうかルディアを守ってほしい。


 そうイーグレットは言ったのだ。人生に光を与えてくれた娘を、支え合って同じ道を歩んできたルディアを、どうか自分の代わりにと。

 嗚咽を堪えきれなくなり、光る天に泣き吠えた。

 殺してしまいたかったのに、もう死んでしまいたかったのに、どちらの道も塞がれる。


(お前がこいつを庇うなら、俺に殺せるはずないだろう)







 慟哭するロマを見やり、レイモンドはぴくりと指を跳ねさせた。何が起きたのかわからないが、今なら脳蟲を奪えるかもしれない。そう思い、最後の力を振り絞って半身を起こす。


「はあっ……、はあ……っ」


 脈打っている傷を押さえて膝で歩いた。カロはどこまでも無防備で、簡単にポケットの中を探らせる。

 取り出したガラス瓶はただちに硬い氷に投げつけた。がしゃんという音にも気づかずロマはオーロラを見上げている。


「……姫様……っ」


 手を差し伸べるとルディアは半分呆けながら「レイモンド、今お父様が」と呟いた。彼女を助け起こしてもなおロマはこちらをほったらかしたままでいる。どうやら本当に戦意喪失したようだ。


(なんだ……、どっちが勝ったんだ……?)


 状況から判断しようと見比べるがよくわからない。それともこれは勝負などつかなかったのだろうか。天からの使者に引き分けの裁定をされて。


(だったら終わりって言わねーと……)


 ふらつきながら立ち上がり、レイモンドは立会人の一団を振り返った。拳を高く突き出せば彼らは一斉に駆けてくる。


(――あれ?)


 ふと気づけばレイモンドは氷上に横たわっていた。起きたところなのになぜまた寝転んでいるのだと首を傾げる。姫様と呼ぼうとしたら声の代わりに血が溢れた。傍らではルディアが蒼白になっている。必死に何か叫んでいる。


「レイモンド、おい、しっかりしろ!」


 なんでそんな顔してるんだ。カロは戦うのをやめてくれたんじゃないのか。脳蟲の小瓶も壊したし、危機はめでたく去っただろう。


「レイモンド、お前傷が……!」


 他人のコートを勝手に開いてルディアは息を飲み込んだ。気恥ずかしいからそういうのは心の準備をさせてくれと茶化そうとしてまた血を吐く。ルディアの眉間のしわが濃くなる。


(ああ……これ駄目だ。寒いからかな。感覚がない……)


 目を閉じたら起きられなくなるんじゃないか。それが不安で重い瞼を必死に開いた。もし彼女が笑ってくれれば眠ってしまっていいのだけれど。


(姫様……)


 冷やせば傷が凍ると思ってか、ルディアは掻き集めた雪をレイモンドの腹に乗せてくる。そんなこといいからこっちを向いてほしかった。寝入ってしまう前に笑顔が見たかった。


「……め、さま……」

「喋るな馬鹿! 大人しくしてろ!」


 一喝に己のほうが苦笑する。怒鳴られるなんて久々だ。まあこれでも悪くはない。満足して目をつぶる。

 後のことはアルフレッドが多分どうにかしてくれるだろう。筋金入りの騎士だから、王女の涙を乾かすためならなんだってやるはずだ。もし俺がこのまま二度と目覚めなくても、アルさえいれば。


(ひめさま……)


 悪くない人生だった。彼女のおかげで。叶うなら、もう少し側にいたかったけれど。







 転がった四肢から力が抜けたのに気づいてルディアはハッと息を止める。


「おい」


 かじかむ声で呼びかけるがレイモンドはぴくりとも反応しない。イェンスが手を握っても駄目だった。脈はどんどん弱まって、雪は真紅に染まっていく。


「レイモンド、おい」


 こんなところで死なせてたまるか。お前はまだこれからの男だろう。

 そう念じ、再度止血を試みるも開いた傷が塞がってくれる気配はない。死神の鎌は今にも彼の首を刈り取ってしまいそうだった。


(嫌だ……!)


 死なせたくない。だがどうすればいいかわからない。

 群がる水夫の中からルディアはうねった黒髪を探した。行きの船で薬を使い果たしたのは知っている。それでも希望は彼にしかなかった。


「助けてあげましょうか?」


 目が合うとハイランバオスはくすりと微笑んだ。「いいですよ。あなたが私の言うことをなんでも一つ聞いてくださるのでしたら」などと悪魔じみた取引を持ちかけられる。


「一つというのはほかでもなく、私をあなたの……」

「助かるのか? だったら早く治療してくれ、話は後だ!」


 即答したルディアに男は目を丸くした。それからふふふと面白そうに笑い声を漏らす。


「やはりあなたは興味深い個体ですねえ。私がアクアレイアに害をなす計画を立てていたらどうするんです?」

「話は後だと言っている。頼むからさっさとしてくれ!」


 生気のないレイモンドの顔を見ていたら胸が張り裂けそうだった。ルディアが急かすと冷淡な医者は「放っておいてもまだ四時間は死にませんよ」などとのたまう。


「おいで、ラオタオ」


 前へ歩み出たハイランバオスは腕を伸ばし、琥珀の翼の鷹を呼んだ。軽薄な若き将軍の名を耳にしてルディアはにわかに目を瞠る。


「少々苦しい思いをさせますが、我慢してくれますね?」


 猛禽はピィと落ち着いた声で鳴き、喉を絞める医者のなすがままになった。間を置かず鷹は窒息し、翼と足がだらりと垂れ下がる。左目から零れた袋型の蟲を小瓶に回収するとハイランバオスは自前の短剣を取り出した。続いて彼は患者の胸に鷹の骸を横たえて、猛禽の小さな頭部に穴を穿ち始める。


「こ、こりゃなんの儀式だ?」


 イェンスがそう尋ねたのも無理はない。ルディアの目にも医者のやっていることは前時代的な快癒の祈りにしか見えなかった。アイリーンに説明を求めても「わかりません」と首を振られるし、効果があるのか不安になる。


「この薬、最初に発見したのはロバータ・オールドリッチなんですよ」


 頭蓋骨を貫いた刃を丁寧に抜き取りつつ、ハイランバオスはマルゴーで珍獣を収集していた伯爵夫人の名を挙げた。


「疑問に思ったことはありませんか? 脳蟲は決して損傷の激しい死体に取りつかないのに、人と獣を半分ずつくっつけた魔獣には寄生できていたなんて」


 アンバーのことを言っているのは間違いない。「どうしてなのか知っているのか?」と返すと医者はにこやかに頷いた。


「ロバータは最初からキメラを造りたかったみたいですね。目的があったから使えそうなものは端から順番に試していった。彼女の執念がこの万能薬を――死体と死体を繋ぎ合わせるほど強い回復力を持つ、この薬を見つけ出させたんですよ」


 新鮮なほど効き目があるんですと言ってハイランバオスは穿った穴から髄液を滴らせた。見覚えのある黄色の液体。軍医によると普通の人間はこれが無色透明らしい。


「いつもは血が混ざらないようにするんですけど、今日は仕方ありませんね」


 雪のどけられた傷口に薬液が垂らされると、泡立ったそこは見る間に接着し、新しい肉と皮膚が生まれ直した。まるで何かの魔法のようだ。


「残りは飲んでもらいましょうか」


 そう言ってハイランバオスは片手に受けた髄液を槍兵の口内に注ぐ。血色を見ればレイモンドが一命を取り留めたのがはっきり知れた。医者曰く、「生搾りですし完治したと思いますよ」とのことだ。


(ん? ちょっと待て。もしかしてこいつ、今までずっと治せるものをわざと治さずにいたんじゃ……)


 胡散臭さは倍増したが、今は考えないことにした。誰かが死んで泣くよりも騙されて怒るほうがいい。


「治ったんだな!? ありがとう! ありがとう!」


 涙目のイェンスに運ばれていくレイモンドを見やってルディアはほっと息をついた。見上げれば極夜の空は澄み渡り、冴えた空気に星々が輝いていた。





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