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第3章 その7

 ひと口に海と言っても水温には高い低いがあるという。冬は滝まで凍りつく最北の地に不凍港が存在するのはこの辺りを流れているのが暖流だからということだった。とはいえ雪は容赦なく降るし、風は身を切るように冷たい。長く暮らした草原の、極寒の冬を思い出すほどに。

 ハイランバオスは白一色に染まった岬を見やってぞくぞく全身を震わせた。大小の岩々が荒波に洗われる海岸では朽ち果てかけた桟橋がコグ船を迎える。歓喜のあまり堪らず悲鳴を上げそうだった。

 ああ、ついにここまで来たのだ。アークの残骸が眠る墓所に!


「よし、降りるぞ! スヴァンテ、頼む!」


 イェンスの指示で副船長が小舟を引っ張り出してくる。コグ船が錨を下ろすとただちに船員の大移動が始まった。桟橋が腐っていて使い物にならず、小舟は何度も船と岸とを往復する。全乗組員が下船するまで長いこと待たなければならなかった。

 寒冷のために一本の木も生えていない高い断崖。歩を踏み出せば膝の下まで雪に埋まる。先頭のスヴァンテが作る轍を通り、老水夫らは低い坂を上った。

 どれくらい歩いただろう。ハイランバオスは雪景色にぽっかりと大きな穴が開いているのに気がついた。大穴だと思ったそれは、凍れる小さな湖だった。


「お前らいいな? さっさと巣ごもりの支度を終わらせちまうぞ」


 イェンスは水夫たちにテント張りや魚釣りを命じる。この氷の湖にわざわざノミを入れるらしい。食糧は十分積んできているが、待ち合わせた相手がいつ来るかわからないので越冬する気でかかるのだろう。


「私も手を貸しましょうか?」


 鷹を引き連れ、湖畔で指揮を執る男に尋ねる。こんな小さな用事はさっさと片付けて早く本題に入りたかった。早くアークを、蟲を生み出す叡智の結晶を目にしたかった。


「いや、先生は俺と来てくれ。遅くなったがツケてた治療費払わせてもらうよ」


 イェンスは親指を返し、湖の後背の切り立った岩山を示す。まばらに白粉をまぶされた灰色の岩壁に本物の空洞を発見し、ハイランバオスは色めき立った。


「あれが例の洞窟なんです? カーモス族の神殿があるという?」

「ああそうだ。フスがあんたをそこに案内しろってさ」


 わっと思わず手を組み合わせる。祭司のほうにも対話を試みようとする意思が感じられて嬉しかった。何も喋ってくれないコナーと違い、フスからは有益な情報を引き出せるかもしれない。型の異なる蟲であっても仕組みは同じだ。是非とも色々聞かせてほしい。

 北辺の神官に代々受け継がれてきたフサルク文字。正しく読めばフサルクの意は「フスのアーク」となる。アクアレイアが「アレイアのアーク」と読めるのも偶然ではない。レンムレン国の創始者が、アク・キヨンルと名乗る英傑であったことも。

 彼らは人間社会に身を潜めつつ、同時に歴史に埋もれまいとして存在を誇示する。まるで仲間にだけ「見つけてくれ」と訴えるように。

 どこかにまだ眠っているに違いない。事切れた残骸として、レンムレン国のアークも。それがどこなのか知りたかった。はたしてアークが己の求める詩に相応しい材料となり得るのか。


「足元暗いから気をつけろよ」


 ランタンを手にイェンスが大岩の隙間に入っていく。隘路の側面に描かれた古い壁画やまじないにわくわくしながら後に続いた。

 洞窟は深く、入口以外は長い時間をかけて掘削された模様である。簡素な岩の社をくぐり、百段近い階段を下り、更に奥へと踏み込んでいった。


「……!」


 突然何かがまばゆく輝き、ハイランバオスは目をつむった。騒ぎ立てる鷹をなだめ、岩屋の暗がりに目をやる。すると月光を受けた水晶が、闇にきらきら光の粒を散らしていた。六角柱の、人が横たわれそうに大きなクリスタルが。


「……こ、これがアーク……!」


 感激のあまりハイランバオスはしばし呆けた。無造作に打ち捨てられた方舟には醜い亀裂が入っていたが、そんなことは気にならなかった。

 なんて美しいのだろう。透明で、継ぎ目もなく、一切の無駄が省かれた。

 頭上を仰ぐとわずかだが丸く切り取られた夜空が見えた。生贄のための祠はそこだけすり鉢状の高天井になっており、静謐な空気に満ちている。


「こんなところまで人連れてきたの初めてだぜ」


 水晶柱に背中を預け、イェンスがこちらに手招きした。大急ぎで駆け寄って差し伸べられた手を握る。


「え……っ!? か、彼が祭司フスですか?」


 目の前に出現した男の姿に瞠目した。右手の甲の刺青は確かに前に見たものと同じだが、今は手首に腕に肩、鼻から下の全身がくっきりと浮かんでいる。


「――そうだとも。初めまして、ハイランバオス君」


 話す口を得た古代の神官は仰々しい毛皮を翻して腕を組んだ。そのまま彼は体重を感じさせない仕草で後ろに跳ね、アークの先端に着地する。


「君の質問に答える前に、まず私の質問に答えてもらおうか。君は一体どこの誰からアークの話を聞いたのかな?」




 ******




 なるほど、なるほどと伝えられた青年の事情に小さく笑い声を立てる。


「やはり接合が起こっていたか。予定外に情報を持ち出されるとは、間抜けなアークがいたものだ」


 あまりに愉快で笑うのを止められない。事故に見舞われたアークには悪いがやはり生きるということにハプニングはつきものだ。


「ですが同期は強制終了されてしまったんです。そのせいで私の知識は色々と穴だらけで」


 アレイアのアークに触れたという型違いの末端は「やはり気になってしまうでしょう? 何も教えてもらえないのなら自力で探ろうと思い立ちまして」と岬を訪ねた動機を明かした。

 子供のような純真さだ。小さな子供も大きな子供も厄介さに違いはないが。


「あなたも秘密主義のお方です?」


 単刀直入に手札を晒す気があるか問われ、フスは「いいや?」と首を振る。


「理解できる者になら惜しみなく話させてもらうよ。この時代にこんな訪問を受けられるとは、実に私は運がいい」

「わあ、ありがとうございます!」


 大喜びでハイランバオスは礼を言った。医者の手を取るイェンスはというと退屈そうに大きなあくびを噛み殺している。さっきから彼には耳慣れない語句ばかり用いているせいだろう。会話に混ざるのは早くも断念した様子だった。


「ああ、ここまで来た甲斐がありました! それではさっそくお伺いしても? どうして急に右手以外も見えるようになったんです?」


 興味津々の問いかけにフスは朗らかに応じる。「ここには私を構築する粒子が多く残っているからね」と腕を広げ、足元の水晶柱に注意を促した。


「あいにくアークが破損していて全身の再現はできないが、イェンスのお守り程度なら右手だけでお釣りがくる。君とお喋りするのにも、不足ということはないだろう」

「あなたの使っていた肉体はもう残っていないので?」

「『フス』はアークのもとに帰ってこなかった。多分ほかの人間たちと同時期に死んだんだ。私は彼が最後に取った複製(コピー)なんだよ」

「複製? おや、中枢にはそんなこともできるんですね」


 アクアマリンの目を瞠り、ハイランバオスはフスを見つめる。上から下まで検分され、ふふふと笑いがこみ上げた。


「できなければおかしいじゃないか? 我々は人格や記憶の一部を移し替える高度な技術を有しているのに、蟲の身体よりずっと巨大なこのアークに、己のデータくらい保存できないはずがない」


 違うかねと尋ねれば型違いの若者は「確かにそうです」と頷いた。


「しかしあなたが亡霊じみた姿でいらっしゃるのは不思議で仕方ありません。人によって見えたり見えなかったりすることも」

「ふむ、そこが疑問か。見える見えないは単純に機能の問題だな。見る器官を持っていないから見えないだけさ。見える範囲も人によりけりだ。特定の人物の残した特定の思念だけ見えるという者もいる」

「なるほど。その器官というのはこのように手を繋いでいれば共有できるものなので?」

「大抵の場合はそうだね」

「先程粒子と仰いましたが、あなたはそういったものの集合体なのですか?」

「ああ、そうだ。意識というのは不定形で状態的なものだけれど、物質化して留めることも不可能ではない。物質なら視覚で捉える手段もあろう。……で、君が本当に知りたいことはそんなことなのかい?」


 腕組みして問いかける。ハイランバオスは屈託ない笑顔で「いいえ」と首を振った。癖のある微笑は崩さず、強欲な少女のように彼はめちゃくちゃな希望を告げる。


「耐用年数を過ぎたアークを見つけ出して、再稼働させることはできるのかなと」


 怖いもの知らずの発言に思いきり吹き出した。笑いを堪えるフスを見やってイェンスがぎょっとする。


「はっはっは、いかにも瀕死の蟲らしい発想だ。だがアークを復活させることはできないよ。できるならとっくに私がやっている」

「ああ、やはり不可能なのですか。ずっと探してきたものなので、たとえ用をなさないとしてもひと目見たいとは考えているのですが」

「ふむ、しかし探し出すのはおすすめしないな。アークはまだ人の目に触れるべきじゃない。やっと未開の野蛮人を卒業したばかりの人類では我々の正しい利用法などわからないよ。君が開発したような万能薬を作れると知れば、早晩アクアレイアの脳蟲は乱獲の憂き目に遭うだろうね」


 ああいうものを広めるなと暗に叱る。しかし医者から返ってきたのはどこか不敵な笑みだった。


「おや、矛盾していませんか? あなたはカーモス族の強襲があるまで大神殿のご神体として祀られていたわけでしょう? 毎日多くの信者の目に晒されてきたかと存じますが」

「神聖なものとして守られるなら安全かと考えたんだよ。山にこもった連中のほうが賢明だったみたいだがね」


 傷つけられた方舟を見やり、フスは小さく肩をすくめる。

 あの猛火の一夜が明けたのち、生贄の添え物としてこの世で最も辺鄙な岬に運ばれてきた自分は途方に暮れる羽目になった。亀裂はただちにアークを停止させるものではなかったが、文明の発展を待とうとしていた千年はもたないと明らかだったからだ。

 第一の役目を終えたアークは本体をどう後世に残すか考える。第二の役目は人類に発見され、研究されることにあるからだ。フスがこうやってぺらぺらと受け答えするのも何かの形で記録が残るかもしれないと期待してのことだった。己はイェンスと洞窟を出ることを選び、彼に核を移してしまったが、抜け殻にだって計り知れない価値があるのだ。


「とにかくアークの存在を脅かすことをされては困るな。だが君が我々の事情を汲んでくれるなら協力は惜しまないよ。ほかに知りたいことがあるなら遠慮なく聞いてみたまえ」

「うーん、ほかにですか」

「どのみち私には君のアークがどこにあるかなどわからないしね。我々の特性を考えれば巣に流れ込む川の上流をしらみつぶしに当たるのが一番早いのではと思うが」

「ええっ!? あなたでもわからないんですか!? か……川をしらみつぶし……。あ、あの砂漠に注ぐ川を……?」


 ハイランバオスはがっくりと肩を落とした。アークに聞けば自らの望む答えを得られると思い込んでいたらしい。

 可哀想だが卓越した知識や技術を奇跡の類と混同するのはままあることだ。アークも万能ではないと知れただけでも収穫だろう。


「うう……わかりました。探索は地道に続けることにします……。例の栄養剤も医学界に発表する気は毛頭ありませんのでご安心を……」

「おいおい、そこまで落ち込まなくてもいいだろう。何か私に答えられそうなことはないのかい?」


 医者の落ち込みぶりは激しく、つい力づけようとしてしまう。いつでもどこでも楽しそうな彼にしょげられると仲間意識も手伝って少々心苦しかった。

 ハイランバオスはそんなフスにどんより暗い一瞥を投げかける。気だるげな声が「ううん、それでは……」と問うた。


「何か面白いこと知りません?」


 病的な目に一瞬ぞくりと背筋が粟立つ。――この子は危険分子かもしれない。そういう予感が働かないではなかったが、試してみたい気持ちが勝った。

 東方に大帝国が出現し、北パトリアには印刷機が生まれ、時代は今、大きく動こうとしている。ともすれば一足飛びに目的に近づくチャンスなのだ。これを逃す手はないだろう。


「……興味深い蟲なら一匹知っているよ。本来は生存本能の塊であるはずなのに、少し前まで本気で死にたがっていた」


 イェンスが怪訝な顔でこちらを覗く。その視線には気づかないふりをした。


「彼女は病変した脳に巣を拵えた蟲だから、窒息死した骸を奪う普通の蟲とは少し違っているのかも」


 見定めてみないかと告げる。好奇心をくすぐられたか、医者は「ふうん」と喉を鳴らした。新しい、別の玩具を見つけた幼い子供の声で。


「私も彼女、気になっていたんですよねえ。死にたがっていただけではなく、帰りたくないとも言っておられたそうなんです。蟲のくせにちょっと変わってますよねえ?」


 すっかり元気を取り戻し、ハイランバオスはにこにこ笑う。「そう言えばもう一つ質問があったのを思い出しました」と明るい声で彼は続けた。


「あなたがずっとイェンスさんと一緒におられるのはなぜなんです?」


 ――また答えにくい質問を。

 ぽりぽりと頬を掻き、隣の男の視線を避けて星のきらめく頭上を見やる。

 生贄の添え物として祠に放り込まれたとき、正直フスにはイェンスを助けてやる気などなかった。機能停止まで粘る間に少しでも賢い人間に発見されたい。望んでいたのはそれだけで、少年の目に己の姿が映るらしいとわかったときもいい暇潰しになるかなと考えた程度だった。


「……一人で千年過ごすより、子供と十年暮らすほうが色々あるのさ」


 闇に、寒さに、いつ殺されるかわからない境遇に、怯える彼をあやすうちに離れがたくなっていた。人の手に余る知恵を分けてやることはできなかったし、苦しむ彼に迷信とそうでないものの線引きをしてやることもできなかったが、それでも。


「ふふっ、そうですか。アークが誰かに肩入れすることも有り得るんですね」


 満足そうな笑みをもらすハイランバオスのすぐ横でイェンスは「なんの話だ?」と首を傾げる。

 彼がフスを理解する日は永遠に来ないだろう。たとえ孤独に苛まれても彼は神々を必要とする段階の人間だ。ルスカの加護を吹聴しながら神々を信じず、信仰心を利用する自分とはかけ離れすぎている。


「なんの話もしていないよ。君に関係のある話はね」


 フスの物言いにイェンスはムッと唇を突き出した。「ありがとうございました。また後日、ほかの話もお聞かせください」と頭を下げたハイランバオスが彼の手を離したので、そろそろ上に戻ろうと促す。

 洞窟の暗い道を引き返し、見晴らしのいい白銀の断崖に戻ると久々に雲一つない空が出迎えてくれた。いや、そればかりか壮大な贈り物つきである。水夫たちも、客人たちも、皆一様に顎を反らして天の一角を見上げていた。

 ――オーロラか。

 胸中にそう呟いて、フスも光に手を翳した。




 ******




 湖面に反射する青い光に気がついたのは槍兵だった。休んでいろと言ったのに頬を赤くして駆けてくるから一体なんだと思ったら「なあ、あれ!」と袖を引かれて。

 示されたのは紺碧の空。瞬く星々にかかる薄衣。前触れもなく始まった天上のダンスにルディアはたちまち目を奪われる。傍らで騎士も足を止め、「すごいな」と呟いた。


「……虹より高いところに出るのか」


 運びかけの荷物を抱えて誰もが神々の遊戯に見入る。湖上に現れたオーロラは青く淡い色彩をのびのびと広げながら、湖畔で見守る人間たちなど素知らぬ顔で舞い続けた。

 美しいものを前にすると息をするのも忘れてしまう。大きなものを前にすると、自分がちっぽけな存在であるのを思い出す。


「綺麗だなあ」


 レイモンドの囁きにルディアはそっと目を伏せた。ただしんみりと、こんな光を見てカロは親友の娘に名をつけたのかと考える。

 もうじきあの男もここへやって来るだろう。

 もう逃げない。彼からも、自分からも。


「お前たちに一つだけ言っておく。もしカロを説得できなくとも、あいつの命を奪うことは許さんぞ」


 突然の通告に両脇の騎士と槍兵が目を剥いて振り返った。「えっ」「だがそれは」と戸惑う彼らに苦く笑う。


「やっぱり私にはできないんだ。あの人が大切に思ってきた友達だから」


 二人は「そう言われても」という顔で目を見合わせる。返ってきたのは彼ららしい台詞だった。


「悪いがあなたに危険が及びそうな場合は応戦するぞ?」

「気絶させてふんじばるくらいセーフだろ?」


 上からの命令は素直に拝承しろと防衛隊の結成当初、自分は説明しなかっただろうか。困った奴らだと呆れながら胸の中で喜んでいるのは、駒ではなくて人を得たのだとどこかでわかっているからだろうか。


「私とてこんなところで死ぬ気はない。アクアレイアに戻ったらやるべきことは山積みなんだ。……まあそうだな、いざとなったら尻尾を巻いて退散するか」


 提案にレイモンドが吹き出した。


「そりゃいいや。生きてりゃ何度でも話し合いはできるもんな」


 槍兵は正確にルディアの意図を読み取ってくれる。「決闘を汚したと怒られやしないか?」と心配そうにぼやく騎士も、なんだかんだで付き合ってくれそうだった。

 改めて二人に感謝する。ずっと側にいてくれたこと。遠い国から駆けつけてくれたこと。


 ――だからルディア、ひとりぼっちにならないでくれ。


 遺書の一文が甦り、ルディアは胸に手を当てた。

 音もなく波打つオーロラを目に焼きつける。

 清らかな月の白さに目を伏せる。




 ******




 夢幻の光が儚く消え失せ、残念そうに隣の女が息をついた。「北にいればまた見られるさ」と励ませば毛皮で着膨れたアイリーンが「オーロラってよく出るの?」と尋ね返す。


「ひと月に二、三度くらいか。雲の上のことだから、晴れていないといけないが」


 一本杖のスキーで前に進みながら昔を思い出して答えた。今夜のように雪雲に覆われていない日は珍しいが、運が良ければフスの岬に着くまでにもう一度くらい拝めるだろう。

 カーモス族は「ルスカ神の盾だ」と嫌悪する光。ロマにとっては死者の魂がたゆたうところ。単に美しい自然現象としてオーロラに感嘆していた友人は、あんな空に還れるロマが羨ましいと笑っていた。


(……結局何も変わらなかったな)


 できるだけ時間をかけて結論を先延ばしにしてきたものの、彼の幻は戻ってこないし自分はルディアを許せないままで。

 最果ての地は刻一刻と近づきつつある。初めてオーロラを目にした場所は。


(俺たちは出会わないほうが良かったのかもしれない)


 そうしたらこんな風にこじれることもなかっただろう。己の願いと彼の願いがこれほど食い違うことも。

 肩が震える。手がかじかむ。毛皮のおかげで寒くなどないはずなのに、吸い込んだ冷気は肺の中から身を凍らせるようだった。その温度でも炎を消せないのが苦しい。

 早く解放されたかった。友人のために何もしてやれないのならいっそ。


(イーグレット、お前はどこに行ったんだ?)


 黙々と北へ向かう男たちの背中についてただ歩く。道も白、森も白、雪が風に舞い上がるたびあいつじゃないかと振り返る。


「…………」


 幻でも良かったんだ。側にいてくれるならなんでも。

 それともこれは、あのときお前から逃げた罰なのか。


(イーグレット……)


 去っていった友人の頼りなげな姿が甦る。王位を継承してすぐの、冠を持てあました。


 ――結婚したい女性がいるんだ。


 そう打ち明けられたとき、ああついにそんな日が来たかと震えたのを覚えている。あの頃からきっと自分は何も変われていないのだろう。

 とぼとぼと雪原を歩く。記憶はカロを責め立てるように遠い日の光景を映し出した。




 ******




 イェンスの船を降り、アクアレイアに帰還して以来イーグレットはなんだか少し変だった。覇気がなく、話しかけても上の空で、謙虚さからでなく本心で「私なんて」と自虐する。

 弱冠二十歳の新国王が華やかな宮殿でどんな辛苦に耐えていたか、まだ背も伸びきらない十六のロマでは漠然と想像するしかできなかった。イーグレットは愚痴や弱音を吐こうとはしなかったし、カロのほうでも無理に話せとは言えなくて。

 友人への気遣いから尋ねなかったわけではない。ただ自分にそうする勇気がなかったのだ。和気あいあいとした船上生活から一転、地上での新たな暮らしに馴染めずにいたのは自分も同じだったから。

 当時まだアクアレイアにはかなりの数のロマがいた。彼らに家はなかったが、一晩眠るだけならばゴンドラ一艘あれば足りる。土地勘を持ち、操船に慣れたロマたちが街で騒ぎを起こして逃げるのはそう珍しいことではなかった。カロはイーグレットに迷惑をかけまいとなるべく大人しくしていたけれど、同胞の素行にはしばしば冷や汗を掻かされた。

 街を歩けば向けられる視線や声で歓迎されていないとわかる。王国人とロマの間に深い溝があることを痛感するたび不安は増大していった。イーグレットにも同じ蔑みが芽生えたらどうしよう、と。

 そんな馬鹿なことあるはずない。そう笑い飛ばせなかったのはイーグレットが明らかに以前の彼と変わりつつあったからだ。イェンスに商売の助言をする彼はいつも頼もしかったのに、政治と向き合う彼は切羽詰まっていて、成果のためなら他人を押しのけることもしそうに危うかった。

 イーグレットが王国を良い方向に導こうと必死だったのは知っている。そのために権力を求め、名声を求め、財貨を得ようとしていると。けれどカロには怖かった。そんなことに執念を燃やすアクアレイア人という生き物が。

 ――俺とこいつは何か違う。薄々感じていた差異をはっきり自覚するようになったのはあの頃だ。抱えきれない荷を抱え、そのどれも手離せないといつか言われるかもしれない。お前はもう要らないと、王国を守っていくためなのだといつか彼に見捨てられるかもしれない。

 小さな疑いは少しずつ大きくなった。いつも通りを装って友人の部屋に通いながら、カロは一人怯えていた。そうして懸念は半分現実になったのだった。


「とても純真無垢な人で、名前はディアナという。彼女といると本当にほっとするよ。私の白い皮膚を少しも嫌がらなくてね。家柄も申し分ないし、求婚を受け入れてもらえれば宮廷での地盤固めにもなるだろう。しかし……」


 ロマの入国禁止法を定めること。つまり今いるロマたちを手荒な手段で追放していいと官憲に許可すること。それを絶対の条件にされたと彼は言う。

 イーグレットが自国の内政について打ち明けるなど初めてだった。その言葉に潜んだ希望を嗅ぎ取って、カロは陰鬱な気持ちを隠す。

 無情な天秤にかけられている。それでも友人を非難する気は起きなかった。自分には理解できないアクアレイア人を、尽くすべき友として選んだのは自分だった。


「そんなに惚れた女なのか」


 尋ねるとイーグレットは熱っぽい目を逸らして伏せた。


「もうほかに、あんな女性はきっと現れないと思う」


 返答に胸を掻き乱される。イーグレットには必要なことだ。わかっていても飲み込むのは容易でなかった。

 けれど何が言えただろう。自分は政治の話にも商売の話にも付き合えない。アクアレイア人の常識も知らず、アレイア地方に戻ってからは一度も彼の役に立てていなかった。そのうえロマは嫌われ者だ。イーグレットの関心がよそに移って当然だった。実利を好むのがアクアレイア人という生き物なのだから。


「だったら俺からジェレムに話してやる。別にお前にロマと敵対する気はないんだろう?」


 自分にもできることはある。口をついた提案が友を思う真心でなされたのか、くだらない対抗心でなされたのか、カロには区別がつかなかった。ただこれを逃したら、今までの友情に報いる機会は二度と巡ってこないと思った。


「ちゃんと事情を説明すればあいつだってわかってくれる。流血沙汰が起きる前にロマのほうから街を出れば済む話だ。お前は何も心配するな」


 内心の動揺は無視して笑う。優しい友人は「隠し通路を知っていたって街に入ってこられないのでは意味がない。カロ、私は……!」とこちらを案じた。

 引き留めようとしてくれたことに安堵する。ロマが邪魔になっても俺はまだ必要としてもらえるのかと。なら自分は、その気持ちに応えねばならなかった。彼のために精いっぱいやれることをやろうと決める。


「巡回の隙を突くくらい簡単だ。昔からあちこちでロマは叩き出されてきたし、皆しれっと同じ街に戻っている。だからそんな顔をするな。今まで通り、俺は俺の好きなときにお前に会いにくる」


 平気だとなだめてもイーグレットはなお渋る。「大体ロマがお前たちの決め事なんて守ると思うか?」と真顔で問うと、友人はやっと少し笑ってくれた。


「心配なのはジェレムだけだ。一度はロマの世話になったお前が掌を返したと思われるとまずいから、あいつとだけはきっちり話をつけておかないと。

 ――大丈夫、こっちは任せろ。お前はきっとその女といい夫婦になるんだぞ」


 力になれることがある。たったそれだけの理由で走れた。俺は真剣そのものだった。だがやはり、ジェレムと殴り合いをしたことも、アレイア地方を出ていったことも、お前のためではなかったんじゃないかと思う。

 イーグレット、俺は本当に恐れていたんだ。お前に別れを告げられること。

 お前に見損なわれたくなかった。お前のために何かできると証明したかった。結局俺には怒るロマたちを抑えきれず、無力を思い知って終わったけれど。


「……じゃあな、イーグレット。どこにいてもお前の幸せを願っている」


 さよならを告げたのは自分だった。ジェレムを説得できなかったのかと失望される前に足は逃げ出していた。

 側にいたいと願っていたはずなのに、この先ロマである己が彼の役に立てることはないと思うと、足を引っ張るだけだと思うとどうしても留まれなくて。あのとき側を離れなければ違う未来があったかもしれないのに。

 何かできなきゃいけなかったんだ。お前の生き方を否定するまいとしながら、俺の心はアクアレイア人を憎み始めていた。お前を知らないアクアレイア人にしてしまう、お前の愛するすべてのものが消えてしまえばいいと願った。

 そんな心は振り払ってしまいたかったんだ。お前に相応しい友人になって。

 だがきっと俺の醜い憎悪は見抜かれたんだろう。お前がいなくなったのは、俺がお前の思うほど強くもまっすぐでもないと知ってしまったからなんだろう。

 もうじきフスの岬に着く。俺の旅はそこで終わりだ。お前と同じところには行けそうもないけれど、どのみち合わせる顔もない。

 俺はあの女を殺す。

 友達甲斐がなくてすまない。





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