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第3章 その6

 ゆらゆらと静かな波に揺られているとなんとなく気が安らぐのは、海の国に生まれた者の証だろうか。二ヶ月ぶりの感覚を懐かしく味わいながら、やはり己はアクアレイア人なのだなと実感する。

 船縁に肘をつき、レイモンドは遠ざかるコーストフォートの街並みを眺めた。交通の要所として繁栄を約束された河港、自治の象徴である市庁舎も、負けず劣らず華やかな赤レンガの商館群も、掌で包めるくらいに小さくなり、やがて白い岸壁に隠れる。

 季節は秋。北方の瞬きする間の短い秋。予定通りの出立だった。レイモンドたちを乗せたコグ船はこれからまっすぐ北の果ての岬を目指す。今度こそ前へ進むために。


「おかけになったほうがよろしいですよ、レイモンドさん」


 と、すぐ側で涼やかな声が響いた。振り向けばにこにこと上機嫌に微笑んだハイランバオスが立っている。琥珀色の鷹を連れた男は皆と同じ毛皮のコートに身を包み、まるで自身も仲間の一人だという顔をしていた。


「痛みはなくともいつ悪くなるかわかりません。私もできるだけ新鮮な栄養剤を積み込みましたが、この先は補充の見込みもほぼないですし」


 そんな気遣いを口にして医者はこちらの肩を支えようとする。ついビクッと身をかわしたレイモンドに彼はふふふと笑みを零した。


「介添えは必要ありませんか? ですがあまり無理なさらないでくださいね。フスの岬に辿り着くまでは」

「…………」


 まるでそれ以降はどうなろうとどうでもよさそうな口ぶりである。

 実際どうでもいいのだろう。ハイランバオスはレイモンドの白けた顔を気に留める様子もなく「では今日のお薬です」と小さなガラス瓶を差し出した。


「えっ、これだけ?」


 小指ほどの容器を受け取って目を丸くする。細い瓶は見慣れた黄色の薬液で満たされていたが、量はいつもの四分の一にもならなかった。ケチってんじゃなかろうなとつい疑いの眼差しを向けてしまう。


「すみません。行きの薬を確保するだけで精いっぱいで」


 だが医者は取ってつけたような謝罪を口にするだけだった。毛ほどの誠意も感じられず、レイモンドは眉間のしわを深くする。


(なんなんだろうなー、こいつ)


 渡された栄養剤を一気飲みしながら聖預言者を盗み見た。麗しき黒髪の青年は目的地に到着するのが楽しみでならないらしく、頬を薔薇色に染めている。彼がどういう意図でフスの岬を目指すのかは依然謎のままだった。ルディアやアルフレッドにもハイランバオスの思惑は読めないらしい。


(天帝を裏切ったとかジーアンに追われてるとか、わっけわかんねー。一体何考えてやがる?)


 入れ替わり蟲に興味があるのは間違いないが、それを知ってどうするつもりなのだろう。やはり政治や軍事に利用する気か。だとしたらまたアクアレイアには難事が降りかかるのかもしれない。


(とりあえず、これ以上こいつに借り作らねーように気をつけなきゃな)


「うおっ!?」


 警戒心を察してか、琥珀の鷹がからかうようにレイモンドの周囲を飛び回る。尖ったくちばしで器用に空き瓶を奪い取ると、猛禽は主人の手に狩りの獲物を投げ落とした。


「容器はこのまま引き取らせていただきますね。次はまた、明日の今頃にでも」


 鼻歌混じりで医者は船縁を去っていく。じっと目を凝らしても躍り出しそうな背中から読み取れるものは何もない。

 そろりとコートに手を差し入れ、服の上から下腹の傷を撫でた。今のところ腫れぼったさや痛みはなく、むしろ快調なくらいである。二ヶ月も寝たきりでいたのに、不自然なほど筋力の衰えも感じなかった。


(……変な薬……)


 万能薬どころではない効能に眉をしかめる。正体不明の栄養剤が己の生命線というのがつらいところだ。


「おい、レイモンド。寝床の用意できてるんだし横になってろよ」


 むっつり黙り込んでいるとまたひょっこり別の男が現れる。心配で堪らないという顔で苦言を呈され、まだ多少の気後れを感じつつ「や、もう普通に歩き回れるし」と首を振った。


「俺もちょっとは船の用事手伝っておかねーとなって」

「ばっ……! そんなのいいから横になってろ!」


 一喝するとイェンスはレイモンドのコートの袖を小さく摘まんで引っ張った。剣幕の割に行動は遠慮がちで苦笑する。


「そうやって油断してるときが一番危ないんだぞ!?」

「いや、まあ、気をつけるけどさあ」


 叱られているというのに悪い気がしないのはなぜなのだろう。こちらの腕を引いたまま船倉に向かう男を振り払うのは簡単だったが、そうしない己の変化に少し戸惑う。


「おう、イェンスの言う通りだ。寝とけ、寝とけ。甲板掃除も飯の支度もお前はやらなくていいからな」


 少し離れてこちらのやり取りを眺めていたスヴァンテたちにもしっしと手で追い払われ、レイモンドはしどろもどろに「あ、ありがと」と返事した。

 コグ船に戻って一番驚いたのは彼らの態度が一変していたことかもしれない。副船長も老水夫らも険らしい険がなくなっており、逆に気遣いを感じるくらいだった。どうも彼らはアルフレッドがイェンスにした昔話をこっそり立ち聞きしていたようで、こちらに対する考えを全面的に改めたらしい。

 ――もし北辺人の子供がずっと、支援もなくアミクスの中で生きていかねばならなかったとしたら。「想像してみろ」とオリヤンが呼びかけてくれたそうだ。それでやっとスヴァンテたちにも同情心が芽生えるに至ったらしい。

 とはいえやはり大きいのは借金返済の目処が立ったことだろう。既に四百万ウェルスのうち百万ウェルスは返し終えた。新事業が軌道に乗ればアミクス内での彼らの立場も以前よりずっと良くなるはずだった。


「ふふ。スヴァンテたち、口にはしねーがアクアレイア人ってのは皆あんなに商才があるのかってビビってたぜ。まあ一番目玉剥いたのは俺だったけどな!」


 武骨な腕を借りて縄梯子を下りる。得意げに笑うイェンスに「あのくらいで商才なんて言わねーよ」と居心地悪く肩をすくめた。


「たまたま思いつきが当たっただけで、深い考えがあったわけじゃねーし」

「いやいや、その思いつきが大事だろ!」


 客室仕様にされた倉庫の扉を開き、イェンスが大仰に腕を広げる。「おかげで怪我人用のベッドも買えたしさ!」とまっさらな寝床に促された。

 狭い部屋の奥半分にぴったり収まった寝台は船が揺れても振り落とされない柵つきで、上質の毛布が整えられている。せっかく戻ってきた金をこんな風に無駄遣いしていてはまたスヴァンテに小言を貰うんじゃないかと心配だった。


(あーあ、ハンモックがあんな隅っこに追いやられちまって)


 王女様と騎士の寝床はどうするのだと嘆息する。イェンスはとにかく我が子が安楽に過ごせるようにと心を砕いてくれたようだが。


(別に全然たいしたことしてねーってのに)


 和解ののち、手始めにレイモンドがしたのはパーキンとイェンスを組ませることだった。元々あの金細工師は北辺で改宗者向けの護符を売りたがっていたのである。だったらイェンスの協力があれば別の形でひと儲けできるのではと考えたのだ。

 祈祷やまじないに使うフサルク文字には五芒星のような書き順がなく、都合が良かった。イェンスに作ってもらった『身代わり護符』は古き神々の報復を恐れる改宗者だけでなく、北パトリアの一般市民にも飛ぶように売れているという。これまでは悪い意味で広く知られたイェンスの名が、却って護符の霊力を信じさせる結果となったのだ。初めはおっかなびっくりだったパーキンも、今では「第二弾を考えておきます! 航海が終わりましたら是非また印刷所を手伝っていただけませんか?」などと元神官にへりくだるようになっていた。


「本当にありがとうな。これで俺たちもようやく陸に上がれそうだ。皆にも、うんと楽な生活をさせてやれる」


 じゃあゆっくりしててくれ、とイェンスが扉を閉める。緩みそうになる口元をごしごし擦ってレイモンドは毛布に包まった。

 くそ、なんだこれは。これはこれで距離感が難しいぞ。


(こういうのが父親と息子なのか?)


 知っている限りの親子を思い浮かべてみるが、よくわからない。コートの下から首飾りを引っ張り出し、レイモンドは護符と同じ文字の刻まれたセイウチの牙を見つめた。以前よりは信じる気になったお守りを。


(生き残らなくちゃな。姫様と一緒にアクアレイアに帰るために)


 傷はもう痛くなかった。多少の違和感はあるものの、完治したのではないかと思える。だが安静にと忠告された半年には程遠かった。カロもそんなに長くは待ってくれないだろう。もしまた戦闘になればそのときは――。

 小さな牙を握り込み、もう片方の手でポケットを探る。自分の本当のお守りは、硬い銀貨の感触は、ひっそりとそこに存在していた。

 生き残りたい。けれどそれ以上に彼女に生きてほしい。


(姫様が笑ってくれるなら、俺はどうなったっていい)


 胸中に呟いて目を閉じる。




 ******




 船員たちにせがまれてリュートを奏でる騎士を遠目にルディアはほっと息をついた。スヴァンテたちはアルフレッドやレイモンドには受け入れようとする姿勢を示してくれている。

 さすがにルディアに声をかけてくる者はいないがそれで良かった。二人ともイーグレットの死には無関係だと、カロの敵ではないのだとわかってもらえてさえいれば。


(これならフスの岬まで問題なく行けそうだな)


 あとは自分が大人しくしていればいい。なるべく目立たぬところにいようとルディアは船首に背を向けた。

 肩越しにアルフレッドを見やれば美しい音色に釣られて彼を囲む人間が一人また一人と増えていく。倉庫から顔を出したイェンスも「おお、いいね!」とその輪に加わった。ということはレイモンドは今一人だなとルディアは客室に足を向ける。しかし梯子を下りる直前、思わぬ人物に引き留められた。


「歌を聴くような気分ではないかい?」


 振り返るとオリヤンが縦傷のある双眸を細めて立っていた。


「いや、放っておいてはレイモンドが退屈だろうと思ってな」


 甲板下を指差すルディアに亜麻紙商は「少し私と話をしないか?」と誘ってくる。ほかの船員たちのようにどこか冷めた声ではなく、至って穏和ないつもの声で。それを不思議に感じつつ頷いた。長く事情を黙っていたこと、怒っているかなと思っていたのに。


「私は皆よりパトリア的な考え方に馴染んでいるし、リマニで会ったときからずっと君を見ているからね。スヴァンテたちと同調して責める気にはなれないんだ」


 ルディアの困惑を見て取って亜麻紙商はそう告げた。

 オリヤンは現在自分の船団とは別行動を取っている。商売を人に任せてまでコグ船に乗り込んだのは、ルディアを連れてきてしまった責任を感じてのことだろう。彼もまた決着を見届けなければと考えているようだった。


「君の苦しんでいた理由を知って共感を覚えたくらいだよ。私も身内殺しの罪を背負って生きてきた人間だから」


 そう言えばコグ船に乗り換えるとき、パーキンがそんなことを言っていたなと思い出す。色々ありすぎて今の今まですっかり忘れていたけれど。

 オリヤンは口元に優しい微笑を浮かべたまま重い打ち明け話を始めた。「私が殺したのは兄だった」と海より遥か遠くを見つめて彼は語る。


「酷い暴力を振るう男でね、義姉はいつも青痣を作って、あいつのご機嫌取りばかりしていた。それがなんとも不憫でね。……何がきっかけだったかはもう思い出せないんだ。気がついたら血塗れのあいつが横たわっていて、私の拳は返り血に染まっていた。村の連中は随分同情してくれたよ。あいつはどこでも乱暴者だったから」


 握り拳に目を落とし、オリヤンは淡々と続ける。励まそうとしてくれているのだと悟るのに長い時間はかからなかった。


「……本当は、私は目玉を抉られるはずだったんだ。だが断罪の刃は瞼を軽く撫でただけだった。今でも許されて良かったのかと怖くなるときがある。義姉は私を人でなしだと罵倒したし、自分自身も血を分けた兄弟になんということをと呆れていたしね」


 ほんの少し息を詰め、オリヤンは呟く。それでも今はこれで良かったのだと思う、と。


「イェンスに出会って、仲間ができて、皆のためにとしたことで却って自分が救われていた。君だって一人じゃないだろう? だからカロと――、何よりも君自身が、君を許せるようになってほしいと願うよ」


 亜麻紙商はぽんとルディアの肩を叩いた。力になれることがあればいつでも言ってくれと、どこかの騎士顔負けの台詞まで添えて。


「…………」


 礼の代わりに頭を下げる。オリヤンはそれ以上何も言わず、「昔話なんて聞かせてすまなかったね」と立ち去った。

 はたして自分を許せる日など来るのだろうか。

 亜麻紙商の背中を見つめて息を吐く。レイモンドに身の振り方を考え直すと告げてからも心の整理はついていなかった。あの人を手にかけた罪も、真実を隠した罪も、依然残ったままだと感じる。――けれど。


(許せても、許せなくても、進みたい道は一つだけだ)


 臆さずに、立ち止まらずにいたいと願う。最後まで毅然としていたあの人のように、己もまた。

 そしてあの国に帰りたい。あの人と一緒に守っていこうと誓った故郷に。




 ******




 肌を刺す寒さにぶるりと震え、隣の男がいないのに気づく。半身を起こせば肩にかけられた薄いコートがずり落ちて、裸のまま眠り込んだのだったと思い出した。


(カロ、外に出てるのかしら)


 ぼろぼろのあばら家を見渡しながらアイリーンは冷えたローブに袖を通す。殺風景な小屋に人影はなく、ロマは前日仕掛けた罠に魚でもかかっていないか見にいった様子だ。手伝おうと思っていたのに、小窓から差し込む淡い陽光と鳥の鳴き声から察するに、己はまた盛大に朝寝坊したらしい。

 コーストフォートから北辺海の北岸まで歩き通して約二ヶ月、カロはここでしばらく知り合いを待つと言った。例年トナカイが秋の終わりに群れを休める場所だそうで、一群を率いる男は少年時代にカロが世話になっていた船の引退水夫らしい。間もなく北辺には長い冬が訪れる。風雪に閉ざされた道を歩むのに彼らの助力を仰ぐのだろう。


(フスの岬に着いたらカロと姫様は……)


 ぎゅっと唇を引き結び、コートを抱いて立ち上がる。自分にできるのは彼を一人にしないと示すことだけだ。川辺で寒い思いをしているに違いないロマを探しにアイリーンは小屋を出た。そのとき不意に、足元に落ちたくしゃくしゃの紙を踏んづけた。


「?」


 何かしらと拾って開いて小首を傾げる。コートから出てきたそれは一見して手紙のように思われたが、それにしては文章がおかしかった。書かれているのはパトリア文字なのに、見たことも聞いたこともない語句ばかり並んでいる。ところどころ北辺の呪術に見られるフサルク文字も混ざっていて、文意は少しも読み取れなかった。


「??」


 解読を試みてアイリーンは上下左右に便箋を回転させる。重ねたり透かしてみたりしたものの、何が書かれているのかはさっぱり不明なままだった。


(あ、これってもしかしてロマ語かしら?)


 そう思いつき、最初から読み直そうと思った矢先、暗号は手から奪われる。ハッと顔を上げればピチピチと跳ねる袋を抱えたカロが川から戻っていた。


「あ……、ご、ごめんなさい。落ちてたから何かと思って」


 顔をしかめたロマの沈黙に焦って詫びるが返事はない。彼はくしゃくしゃの紙をくしゃくしゃなままポケットに突っ込んだだけだった。そんなぞんざいな扱いなのに、どうしても捨てられないもののように。


「起きたなら飯にしよう。鍋に水を汲んできてくれ」


 手紙のことは話題にもせずカロはアイリーンを遠ざける。有無を言わせないピリピリとした雰囲気で、黙って従うほかなかった。


(……ロマって確か、あまり持ち物に執着しないんじゃなかったかしら)


 そう思い出したのは彼が火起こしの支度を始め、完全にこちらに背を向けてしまってからだった。







 がさがさとポケットで響く乾いた音に気が滅入る。重くもないのに重い気がして意識がそちらに向いてしまう。

 冬の匂いの風が吹く寒い岸辺で湯が煮えるのを待ちながら、カロは焚き火の傍らにそっと腰を落ち着けた。

 もう何度読み返したかわからない手紙のことを考える。それを残した友人のことを。


(アクアレイアの民を恨まないでほしい、か)


 遺言を思い返すたび悲しみと怒りが胸を焼いた。飲み込むこともやり過ごすこともできなくて、息苦しさが際限なく続く。


(そんなことできるわけがない)


 イーグレット、俺にはお前が哀れでならないよ。もっと早く、お前に教えてやれば良かった。お前の娘は実の娘ではないのだと。そうしたらお前もさっさとあの国に見切りをつけて、どこへでも自由に旅立てたろうに。

 もくもくと湯気が昇り、あぶくが生じて湯が煮立つ。生き物を扱うのだけは手慣れたアイリーンが捌いた魚の身を落とす。摘んできた野草を浮かべて火が通ると、空腹を満たすのが目的の味気ないスープを啜った。


 ――カロ、君に頼みがある。


 耳元で囁きかける幻聴に首を振る。薪でも拾ってこようと腰を上げ、カロは不意に近づいてくる複数の足音に気がついた。方角は東。ゆったりとした蹄の響き。数はゆうに百を超える。


「ねえ、来たんじゃない?」


 深いモミの森を見やってアイリーンも腰を浮かせた。残り火に足で砂をかけ、「行くぞ」と細い腕を引く。


「――」


 去り際にカロが立ち止まり、周囲をじっと見回したのをアイリーンは不思議そうな目で見つめていた。冷たい風が追い立てるように強く背中に吹きつける。

 少年時代の幻は、あれ以来一度も見かけていなかった。イーグレットは本当にもういなくなったらしい。


(やっぱりお前は俺に呆れてしまったのかな)


 こうして手紙をくれたのに少しも喜べない俺に。相変わらずアクアレイア人への恨みで心がいっぱいの俺に。

 しばらく行くとよく肥えた真っ白な冬毛のトナカイたちが脇目も振らずに苔をついばむ姿が見えた。「おおーい」と北辺語で呼びかければ家畜を囲む刺青の男たちが驚いて振り返る。

 久々に会った仲間に自分を思い出してもらうのに右眼を見せるより早い手はない。北まで連れて行ってほしいと乞えば一も二もなく彼らは了承してくれた。なんならスキーとそりも貸してやろうと気前良く申し出られる。


「ああ、懐かしい! まさかお前が女連れで顔を見せるなんてな。パトリア人か? 彼女の名前は?」

「フスの岬で何があるんだ? ここ数年はイェンスたちも来てないぞ」

「おい、イーグレットはどうしてる? この辺りじゃアクアレイアの噂なんてちっとも耳に入っちゃこない。元気でやってるんだろうな?」


 矢継ぎ早の問いかけにカロは無言でかぶりを振った。静かに伏せた目に何か感じ取ってくれたのか、質問はぴたりとやんだ。


「……ゆっくり話をさせてくれ。長くなるが、わけはきちんと説明するから」


 わかっていた。決闘をしに行くと告げれば引き返せなくなることは。仇敵を討てと励まされることはあっても刃を下ろせと諭されはしないことは。


(お前は俺を酷い男と思うだろうか、イーグレット)


 コーストフォートを発つ前に、イェンスに聞いておけば良かった。もう一度あの幻に会う術はないのか。彼は本当にイーグレットだったのか。


 ――カロ、君に頼みがある。


 たった一人の友人の、遺言を無視して北を目指す。




 ******




 十月末、コグ船は嵐を避けて入江深くに留まっていた。北辺に特有の、切れ込んだ細長い湾である。海から直接屹立する幾重もの高山が障壁となり暴風は多少やわらいでいた。横殴りに打ちつけるみぞれも、フスによれば半日ほどでやむそうだ。

 重苦しい雨音響く船長室でイェンスは小窓の外の景色を見やった。暗い闇にちらつく雪にふとあるものを思い出す。「そう言えばさ」と沈黙を破り、右肩の祭司に問いかけた。


「レイモンドたちが危ないって知らせてくれた、あいつなんだったんだろう? イーグレットの幽霊みたいな」


 フスも見たはずの亡霊。今更ながら一瞬の邂逅が甦り、不可思議でならなくなる。死後彼がカロの側にくっついていたのはともかく、どうして少年の姿をしていたのだろうと。

 一連の騒動の後、自分は我が子の回復を祈るのに必死だったし、スヴァンテたちとの悶着もあって記憶の隅に追いやっていたが、考えてみればおかしな話だ。あれが本物の彼ならば、四十代の、大人になったイーグレットと会うべきではなかろうか。


『いや、彼は幽霊ではないよ』


 問いかけに祭司が人差し指で答える。強いて言えば己と同じ種類のものだと続けられ、なんだそりゃと眉根を寄せた。


「あんたと同じ? っつーかあんた、自分のこと幽霊とか魂とかそんなんじゃないって言うけどさ、だったら何かは全然話してくんねーよな」


 恨みがましく唇を尖らせるイェンスにフスはおどけて手を開く。駄々っ子をあやすように頭を撫でられ、「またそうやってはぐらかす」と目を吊り上げた。

 この男は昔からこうだ。イェンスには理解不可能と判断するとほとんど何も説明せず、のらりくらりとはぐらかす。しかしどういう気紛れか、今日の彼は宙に長い指を滑らせて話し相手を続けてくれた。


『それでは聞くが、君は魂というものをなんだと考えているのかね? 人間が心とか精神とか呼んでいるもののことでいいのかい?』


 妙に小難しい問いを投げかけられ、イェンスはそれ以外何があるのだと頷く。するとフスは『であればやはり、あの少年はイーグレットの魂ではないな』と断言した。


『死者の魂は空に還ると言ったのはロマか。北辺人は選ばれた戦士でなければ海の深くに、パトリア人は地の底にある黄泉の国へ行くのだと信じているね。それらはすべて正しくて、すべて間違っているのだよ。魂はあらゆるすべてに還るのさ。肉体という器を失くした瞬間から儚く崩れて見えなくなる。杯から零れた水が形を保てなくなるようにね』

「…………」


 よくわからずにイェンスは顔をしかめる。まあお聞きとフスは続けた。


『時々変わり者がいるのは確かだ。君が初めから視る力を備えて生まれたのと同じに、彼は初めから残す力を備えて生まれたのだろう。ねえ、白というのは突然変異の色だよ。蟲たちの巣にならば我々アークの特質を秘かに継いだ人間がいてもおかしくはない。彼は己の能力に無自覚なまま、その思いを少しずつ世界に残して死んだのだろうね』


 聞けば聞くほど頭はこんがらがるばかりだ。イェンスは早々と理解を諦め、知りたいところだけ尋ねようと大雑把に問いかけた。


「つまりあれはイーグレットってことでいいのか?」


 祭司は否定も肯定もしない。ただ愉快そうに紋様の刻まれた指を遊ばせる。話しても無駄と思ったのか、はたまた平易な言葉が見つけられなかったのか、結局右手が語ったのは不可解な謎々だった。


『誰も過去の自分が自分であることに異は唱えまい。だが現在の自分と過去の自分がまったく同じ人間だと考える者は少なかろう。あれはイーグレットだと言うことも、イーグレットではないと言うこともできる。精神とは常に現在の現象だ。残留思念が何を思考しようともそれは当人から隔絶されている。まあつまり、あの少年は私の同類だよ』


 ああそうと盛大に溜め息をつく。やはりフスにはまともに説明する気がないようだ。

 イェンスがそっぽを向くとフスは機嫌を窺うように膨れた頬をつついてきた。生温い風が触れる感触にキッと鋭く睨みつける。


「あんたなあ」

『同じ話ならどうせ後でまたすることになるさ。岬に行きたがっている医者は私に興味があるらしいしね』


 暗にハイランバオスを指してフスが告げた。ルディアたちの話によれば、彼もまた入れ替わり蟲の亜種なのだそうだ。そう知って以来、祭司は妙に嬉しげにしている。


(なんなんだろうな、こいつも)


 神々のごとき力を持っているわけではない。だが神々のごとく世界を見通す。海が荒れる日はいつも彼が教えてくれた。どこに船を避難させるか、帆は畳むべきか錨は下ろすべきか。カーモス族との戦いだって、フスの指南がなければ生き残れなかっただろう。

 けれど彼はイェンスの頭脳になろうとはしてくれなかった。生計の立て方も、パトリア人との付き合い方も、親身になって相談に乗ってくれたのはオリヤンやイーグレットだ。フスは人間と関わりすぎるのを良しとしていないきらいがあった。今までは漠然と、彼が慎重すぎるのだと考えていたけれど。


(もしかしたら元々フスはあの洞窟を出ようなんざ思っちゃいなかったのかもしれないな)


 生贄として十年間閉じ込められた岬の岩屋。初めてフスと出会った場所。

 思い出すのは恐怖と孤独に泣き暮らした日々。半分透けた、自分にしか見えない男が唯一頼れる大人だった。

 医者はあそこで、本当のフスがいる場所で、何を明かそうというのだろう。そして今、彼の何を知っているのだろう。


(……アーク……)


 大洪水を前にして、全滅を逃れるために一種類ずつあらゆる生き物のつがいを乗せた伝説の方舟。時折フスはアークと自身を同列に話す。

 イェンスは彼が何者か知らない。神官のための文字を作り、神話を編纂した偉大な祭司であったとしか。

 ハイランバオスを連れていけば自分にも彼の秘密の一端を覗くことができるだろうか。それともまた、難解な知識の壁に阻まれるだけだろうか。




 ******




 降りしきる雨の奏でる陰鬱な調べに眉を寄せ、アルフレッドは雨漏りしそうにどんよりとした天井を見上げた。


「海に出てからずっと天気が良くないな」


 三人入ればいっぱいの手狭な客室でぽつりと呟く。視線を戻せばすることもなく雨上がりを待つルディアとレイモンドが揃って頷いた。


「確かに雨か曇りばかりだ。こう日照が少ないと昼間という気にならないな」

「こっちの冬は暗いらしいぜ。晴れる日のほうが珍しいのに太陽もすぐに沈むって」


 寝床で毛布に包まり直した幼馴染は「フスの岬に着く頃には極夜だってさ。カーモス神の力が強まる季節だから気をつけろって言われたよ」とイェンスに聞いたらしい話を漏らす。その声からはすっかり毒気が抜けていた。

 アルフレッドの見たところ、仲良くとまではいかずとも二人は上手くやっている様子だ。このまま親子と呼べる親子になってほしい。そうなれなかった者の分まで。


「極夜か。一日中夜が続くと言われてもピンと来ないな」


 と、丸椅子に腰かけたルディアが腕を組み直した。「確かにこの頃尋常でなく夜が長くなってきたことは感じるが、ずっと太陽が出ないのにどう暮らすのか想像がつかん」と彼女はもっともな疑問を口にする。


「日中の数時間は黎明程度に明るいようだぞ。それに雪が白いから、真っ暗闇というのでもないと」

「しかしそれは陸上での話だろう?」


 アルフレッドも水夫たちに聞きかじった話を共有したが、彼女は船が暗礁に乗り上げやしないか心配そうだ。アレイア海やパトリア海とは気象条件も航海技術も異なるので結局はイェンスたちに任せるしかないのだが。


「けどさ、冬はオーロラが出やすいんだろ? それはちょっと楽しみだよな」


 枕元で難しい顔をしている王女にレイモンドが笑いかける。するとルディアの表情も釣られて少し明るくなった。


「ああ、そうだな」


 答える彼女の名は古パトリア語でアウローラ、ロマの言葉でルディアという。幼馴染は眩しげに目を細め、「早く見たいよ」と続けた。地上の光に注がれる、その眼差しは温かで優しい。


(なんだか変わったな、レイモンド)


 半年離れていただけなのに、時々彼が別人に見えることがある。昔から特に不親切な性格ではなかったが、他人のために我が身を削るような真似は絶対にしなかったのに。先日ルディアを説得したときも、レイモンドの口からあんな台詞が出てくるとは思わなかった。姫様のいないアクアレイアじゃ意味がない、なんて。


(いつの間にかこいつも立派な兵士になっていたんだな)


 友人の成長に頬が綻ぶ。今のレイモンドなら特別報酬なんてなくてもカロに怯むことはなかろう。幼馴染に背中を預けられるのは心強かった。


(とはいえ病み上がりは病み上がりだ。やはり俺がしっかり姫様を守らなくては)


 アルフレッドはそっと剣の柄を握った。まだ持ち慣れない片手剣。この刃を抜くことなくすべてが終わるように祈る。

 雨雲が去ったのはそれから間もなくのことだった。にわかに船内が騒がしくなり、甲板に出る足音が響き始めたのに気がついてアルフレッドもルディアと客室を後にする。

 曇天の下、出港準備を終えたコグ船は風を捕らえて谷底に似た湾を抜けた。入り組んだ海岸線を右舷に見つつ、黒い波を越えて北上していく。

 一行がフスの岬に到着するのはこの一ヶ月後のことである。





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