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第3章 その5

 興奮しきって立ち上がりそうな勢いのレイモンドをなだめようと身を屈める。汗を拭ってやろうとして、ルディアは槍兵が固まったのに気がついた。

 見開かれた双眸の、視線の先を振り返る。視界に映ったのは置物じみた熊の頭付き毛皮だった。


「あ……、すまん。スヴァンテたちが、乗せるなら医者もさっさと見せにこいってうるせーから……」


 いつからそこにいたのだろう。イェンスは気まずそうに階段に目を逸らす。動揺する間に軍医が「あれっ? イェンスさん、どうかなさいましたか?」と降りてきて、もう何か言える雰囲気ではなくなってしまった。


「あ、先生。今からちょいと船に来てくんねーか? 皆に顔見せしてほしくてさ」

「いいですよ。ちょうど用事が片付いたところです。参りましょうか」


 遠慮がちに「邪魔して悪かったな」と告げてイェンスが踵を返す。ルディアには黙って見送るしかできなかった。

 今の会話を弁解すればレイモンドをもっと傷つける。もう嫌だった。崇高な生き様を求めているわけでもない、ただ哀れな女を見捨てられなかっただけの人間を苦しめるのは。

 足音が遠ざかる。玄関の閉まる音がして、それ以上何も聞こえなくなる。

 槍兵はじっと動かないままだった。無人の通路に目をやったまま。


「レイモンド」


 振り返ったルディアにレイモンドは無言で首を振る。小さく息をついた後、槍兵はぽつりと呟いた。


「……俺さ、わかったよ。血が繋がってるだけじゃ親子にはなれないんだって」


 苦しそうに歪められた、真摯な眼差しがルディアを見つめる。喉を震わせて「わかったんだ」とレイモンドは続けた。


「親子として過ごした時間がなけりゃ親子にはなれないんだって……」


 自分のことを話しながら、彼はもう自分のことなど忘れているように見えた。いけないと思ったが間に合わない。レイモンドはまたも抱えた苦痛を放り出し、ルディアの心配を始めてしまう。


「あんたは俺たちとは違う。あんたと陛下はちゃんと本物の親子だよ。ずっと側にいて支え合ってきたんだから……! カロがなんて言ったって、あんたはアクアレイアの王女ルディアで、イーグレット陛下の娘だよ……!」


 訴えにルディアは深くうつむいた。静かに「違う」と否定する。


「私はもう『ルディア』じゃない。私はあの人を騙し続けた偽者だ。もうその名前を、あの人の娘を名乗るわけにいかない」


 コリフォ島を出たときから変わらない結論。何度も何度も繰り返してきた。

 あの日をやり直すことはできない。罪をなかったことにはできない。なら己に許された道は一つだけだった。


「復讐だろうと、決闘だろうと、消えるべきは偽者の私のほうだ」


 決意の固さは彼とてわかっているはずである。いつもレイモンドはルディアのかたくなさに折れて、一旦身を引いてきたのだから。

 しかし今日の彼は違った。アルフレッドとあんな衝突をしたせいか、躍起になってこちらの主張を撥ねつけようとする。


「――いい加減にしろ! 陛下があんたの正体を知って、『娘じゃない』なんて言い出す人かよ!? なんであの人を信じられないんだ!?」

「……っ」


 一喝は、前触れもなく最も痛いところを突いた。

 あの人を信じられないのか。誰も信じられないのか。重ねてそう問われた気がして。

 怯んだルディアに槍兵はずいと頭を寄せる。薄黄色の丸い瞳に無様な己が、激しい熱が、交互に映って顔を逸らした。

 わかっている。いつも自分が必要以上に離別や造反を案じてきたこと。それが取り返しのつかない過ちの元凶となったこと。「誰も信じてはいけない」と、そう教えたのはあの人だけれど。


「ほんのちょっとしか一緒にいられなかったけど、俺だって陛下がどんな人かくらいわかる。あんたたちがどんなにお互いを大切にしてきたか……!」


 声の強さにたじろいだ。断言を受け入れるわけにいかなくて、なんとか否定の材料を探す。


「王家にとって血は重要だ。パトリアの正統な血を引いていることが王位継承の条件だったのだから……」

「陛下がんなこと気にしたと思うのか? あんたに幸せになってほしいって、手紙に書いてあったあの言葉は、血が繋がってなきゃ出てこなかったもんだと思うのかよ!?」


 まっすぐに尋ねられ、ルディアは何も言えなかった。続く問いを封じ込めるために物理的な距離を取ることしかできなかった。――けれど。


「カロには陛下の半分しか見えてない。あいつはあんたといるときのあの人を見ようとしてねーんだ……! なあ、頼むからカロの言うことに惑わされないでくれよ! カロじゃなくて陛下の声を聞いてくれよ……!」


 手首を掴まれ、寝台に引き留められる。レイモンドは「あの手紙にちゃんと書いてあったじゃねーか」とわななく指に力をこめた。


「――だが私には何も言えなかったんだ! あの人に、どうしても自分の正体を明かせなかった……!」


 逃れたくて腕を引く。必死で叫ぶ。言い負かさなければならなかった。死にに行くと決めたのだから。ほかに償いはできないのだから。


「それは自分から諦めたということだろう? 我が子と認めてもらうことを! あの人の娘であることを! 今更私にルディアとして生きる資格は……」

「そうやって楽になろうとするんじゃねーよ!」


 怒鳴り声が鼓膜を震わせる。あんたのそれは逃避だと、真正面から突きつけられて困惑した。逃げずにフスの岬に向かおうとしているのに。せめて自分の責任を果たそうとしているのに。


「……何を言って……」


 呆然と見つめ返すルディアにレイモンドは「だってそうだろ」と眉を歪めた。イェンスに会ったときよりも苦しそうに、腹に穴が開いたときよりも痛そうに。


「でなきゃなんで陛下が聞いたら悲しむことばっか言うんだ? 正体を明かせなかったからなんだってんだよ? あの人だったらそんなこと、笑って許してくれるだろ……!」


 そのとき突然眼前にコリフォ島での情景が甦った。最後の日々を穏やかに、安らかに、笑顔で過ごしていたイーグレットの姿が。


(あ……)


 歌を歌って昔話をしてくれた。ルディアの話題が出たときはこちらが照れるほど得意げで。介錯を頼むときすら静かな笑みを浮かべていて。


 ――落ち着いて。取り乱さずともわかっているよ。あの子は優しい娘だし、こんな父でも大切にしてくれた。わかっているから大丈夫だ。


 剣を握り、平静を欠いた己にかけられた言葉をまだ覚えている。今の今まで思い返すこともなかった言葉。見えないように、聞かないように蓋をした。


「……っ」


 ルディアは咄嗟に、力任せにレイモンドを押し返した。

 これ以上思い出してはいけなかった。振り向いて、幻にすがるようなことがあっては。


「……自分に都合のいい夢ばかり見られないよ。私があの人を殺したのは事実なんだ。もうカロにも認められることはないだろう」


 乱暴に突き飛ばしたせいでレイモンドは傷が痛むようだった。左手首を掴む力が弱まった隙に身を離す。けれど彼は、ルディアを逃がしてくれなかった。


「だからカロは関係ねーって言ってるだろ。なんなら俺があいつに言ってやる。あんたが陛下の娘じゃないなんて言葉は陛下が真っ先に否定するって!」


 今度は右手を握られて、かぶりを振るしかできなくなった。

 言葉が喉を出てこない。誰も、何も、自分自身さえ信じられなくなったのに、本当のことなんてわかるはずがなかった。あの人が自分を受け入れてくれたかなんて。

 叶うなら言ってほしい。秘密を秘密のままにしたことも、カロに会わせられなかったことも、許しているとあの人に。お前は何も間違っていないと言ってほしかった。

 けれどもう叶わない。あの人には二度と会えない。会えたとしても、聞けたとしても、私はきっとその言葉すら疑うのだ。


「姫様さあ、陛下のこと信じるの怖い……?」


 レイモンドの問いかけにルディアは答えられなかった。ただ下を向き、時間が過ぎてくれるのを待つ。彼が諦めてくれるのを。

 違うんだよ、レイモンド。何もかも私のせいなんだ。生きてきたように死ぬことが人のさだめなのだとしたら。私はいつだって心のどこかであらゆる人間を見限っていた。敵だらけの宮中を出ても、なお仲間を信じきれなかった。

 次期女王としていつ何が起きても動じぬように。半分それを言い訳にして、私はいつも、いつもお前たちの心が離れてもいいように身構えていただけだ。ときにはそうなる前に自ら次の行き先を示して。

 それでもお前は私を一人にできないとコリフォ島まで来てくれたのに、私はお前を信じなかった。全部黙って、全部一人で片付けた。

 怖かったんだ。信じてみてもし違ったら、その痛みに耐えられないと思ったから。私はもう、お前たちを好きになってしまっていたから。

 私はそんな小さな人間だ。いや、人間ですらない。こうなってしまった今、信じるなんて勇気は持てそうにないんだよ。どう生きていけばいいかも自分で決められなくなったから、その選択をカロに委ねてしまいたいんだ。


(ああ、なんだ。私は本当にただ逃げ回っていただけなんだな……)


 なんて不甲斐ないのだろう。やはりあの人の娘には、立派に死んだあの王の娘には相応しくない。


「……離してくれ……」


 顔を上げられぬままで乞う。だがレイモンドはいっそう強く手を握りしめるだけだった。熱い手で。熱い目で。そうしてよくわからないことを――本当にわけのわからないことを口走る。


「信じるの怖いなら、俺が一緒に陛下を信じる。もしあんたが不安になっても陛下を信じていられるように、俺が一緒に、ずっと一緒に信じるからさあ……」


 槍兵は必死にルディアに呼びかける。一人で生きようとしなくていいと言うように、一緒に、一緒にと繰り返して。


「だからあんたも陛下のことを信じてくれよ……!」


 レイモンドのその声は、また幻を連れてきた。思い出すまいとしたあの人の最後の言葉が甦る。「君で良かったのかもしれない」と優しい声がこだまして、少しも動けなくなってしまう。


 ――どうしてか君は時々娘と重なって見えるのだ。あの子の代わりに答えてはくれないか? 私の決断をルディアはどう思っているだろう? 王として、父として、誇ってくれると思うかね?


 幻が消え去っても視界はまだぐしゃぐしゃで、自分が泣いているのを知る。拭っても拭っても涙は止まらず、頬ばかりか顎まで濡れた。


「……もうやめろ……」


 嗚咽まじりに訴えた。ここまできて私を迷わせないでくれと。

 あんたが死ぬなら俺も死ぬなどとほざいたり、痩せ我慢をして嫌いな父親の船に乗ったり、頼んでもいない借金を拵えたり、腹を刺されて死にかけたり、起き上がってもまだ私を守る気でいたり。

 もうたくさんだ。何度も何度も突き放したのに、いつだって終わりにできたくせに、なぜお前は。


「……お前に言われたら本当に信じそうになる……」


 一緒になんて、考えもしなかったことを、なぜ私は。







 頼りなく肩を震わせて啜り泣くルディアを見上げ、レイモンドは濡れた頬に手を伸ばした。

 彼女が揺れているのを感じる。何かが胸に響いたのを。


「……帰ろうぜ。カロの奴一発ぶん殴って、アクアレイアに」


 ルディアはまだ頷かない。唇を噛み、肩を震わせ、じっと呼びかけに耐えている。


「俺さ、あんたのおかげで初めてあの国に生まれて良かったと思えたんだよ。……だからもう、あんたのいないアクアレイアじゃ意味ねーし、あんたと一緒に帰りてーんだ」


 説得の言葉も尽きて、レイモンドは黙り込んだ。ルディアはルディアで涙に唇を塞がれて、長い沈黙が舞い降りる。

 ただ彼女のかじかむ右手を握り続けた。伝わるものがあるように、深くまで届くように。その指が握り返されるまで。


「……私に逃げるのをやめろと言うなら、お前も逃げるのをやめるんだろうな?」


 問いの意味を掴みきれずに「えっ?」と聞き返す。ルディアはその場に立ち上がり、病室のドアを振り返った。


「イェンスのことだ。お前だってこのままでは駄目だとわかっているだろう? フスの岬まで一緒に行くなら尚更な」

「お、俺も行っていいのか!?」

「イェンスときっちり話し合えるなら、だ。お前はお前であのコグ船の連中に頭を下げねばならんだろう」


 うっと思わず息を飲む。それは確かにそうなのだが。


(ったくアルが余計なこと言うから……)


 レイモンドは恨めしく幼馴染をねめつけた。すると視線に気づいた彼が複雑そうに肩をすくめる。


(――あれ?)


 ついぞ見覚えのない表情にレイモンドは面食らった。「え、もしかしてなんかあった?」と尋ねればアルフレッドは苦笑気味に「まあな」と答える。


「……アルタルーペを越えるとき、ウィルフレッドに会ったんだ。盗賊に身を落としていてな。捕まえて周辺住民に引き渡した」

「へっ」


 予想外の出来事にレイモンドは声を引っ繰り返した。幼馴染は「相変わらずクズだったよ」と諦めに似た嘆息を零す。


「ほかにも色々こじれた親子を見てきたから、お前のところはまだやり直せるんじゃないかと期待してしまった。……お前の気持ちも考えずにすまなかったな」


 騎士は肩越しに担いだリュートに目をやった。それにどんな意味があるのかレイモンドはまだ知らなかった。


「ああ、きっとやり直せるさ。お前たちはまだ二人とも、生きて話ができるのだから」


 ルディアにそう言われると頷くしかなくなってしまう。しかし了解の返事をするのは至難の業だった。生きて話ができると言ったって、冷静にではないのである。


「で、どうするんだ?」


 王女の問いにレイモンドは押し黙る。「私はこれからのこと、考え直してみる気になったがな」と告げられて、更にそれどころではなくなった。


「えっ!? 姫様それじゃアクアレイアに!?」

「まだ帰るとは言っていない。……しかし帰れたらいいなと思う。お前たちと一緒に」

「お、おおお!」

「ひ、姫様……!」


 喜びに沸いたのも束の間、「それでお前はどうするんだ?」とルディアの視線が再び突き刺さる。うぐっと仰け反り、しばし思い悩んだのち、レイモンドはおずおずと幼馴染に救援を求めた。


「……あのさ、アル。あいつが嫌な奴じゃねーのは俺もわかってんだよ。でもどうしても駄目なんだ。だからお前、俺の代わりにあいつと喋ってくんねーか? 俺じゃ何言えばいいかわかんねーし、お前が間に入ってくれよ」


 全部任せるからと言えばアルフレッドは嬉しそうに「わかった」と応じる。いつものあのお人好しの顔で。怒らせても仕方ないようなことを山ほど言った後なのに。


「なら善は急げだな。今からまたコグ船に行ってくるよ」


 短いマントを翻した幼馴染の後ろ姿は頼もしかった。死に瀕したレイモンドのもとに薬を持って駆けつけてくれた、あの幼い日と変わらず。




 ******




 それではよろしくお願いしますとお辞儀して医者が雑踏に消えるのを見送る。すぐ甲板に上がる気になれなくて、イェンスは桟橋で一人溜め息をついた。


(いい人だったら全部チャラになるのかよ、か)


 血を吐くような言葉の数々を思い出し、憂鬱になる。その通りだよなと頷くしかできないのがつらかった。ちょっと金を出したくらいではなんの足しにもならないのだ。たかが四百万ウェルスぽっちでは。それがはっきり示されて、却って良かったではないか。あの子に妙な期待を抱き、負担に思わせるよりもずっと。


(親父だなんて一生呼んでもらえそうにねーなあ)


 苦笑いで川面を見つめる。嘆息も何もかも飲み込んで水は海へと流れていく。

 そろそろ船に戻らなきゃなと縄梯子に足をかけたときだった。誰かに名前を呼ばれたのは。


「イェンス!」


 振り返れば息子の幼馴染だという赤髪の青年が駆けてくる。驚きに引っ繰り返りそうになって、イェンスは慌てて背筋を正した。


「な、な、なんだ?」


 アルフレッドは側に寄るなり「さっきはすまない」と詫びてくる。どうやら気を回して港まで来てくれたらしいが素直には喜べなかった。一体どんな言葉で責められるのかと怯えすぎ、つい虚勢を張ってしまう。


「さ、さっきのことだったら気にしてねーぞ? レイモンドに嫌われてんのはわかってたことだしな!」


 作り笑いで誤魔化してからイェンスはしまったと固まった。嫌われているとわかっているならもう会わないでやってくれ。そう言われたら反論できないと気がついて。


「あっ、えっ、えーと」


 迷惑だとかふざけるなとか言われる前に取り繕おうと必死で頭を働かせる。呆れたフスが落ち着けと言っているのに気づきもせず。


「あ……あのさ。わかってるから、出しゃばりすぎない範囲で俺にできることさせてほしいんだ。俺はほんのちょっと前まであの子に会いにいく勇気もなくて、オリヤンが連れてきてくれてなきゃ多分ずっと会わないままで、身の上もこんなだし、何が父親らしいことかも知らねーし、でも、でもさ……」


 口をつくまま言葉を並べた。我ながら言い訳じみているなと感じながら。

 きっとレイモンドはこういう狡さを嗅ぎ取って嫌になるのだろう。自分でもわかっている。――だけど。


「だけどあの子の顔を見たらそんなの全部吹き飛ぶんだ。レイモンドが生きて幸せでいてくれるなら、それがアクアレイアでも俺の知らない場所でもいい。あの子が何も返してくれなくたって構わない。俺は元々何も残せるはずのない人間だったんだから……」


 赤髪の騎士は黙って聞いてくれていた。こちらの話が途切れると、「あいつはあなたを嫌な奴じゃないと言っていたよ」と教えてくれる。


「えっ……」


 目を瞠るイェンスにアルフレッドは信じられない言葉を続けた。


「レイモンドがあんな風なのは、あなたを認めているからだと思う。憎みたいのに憎めなくなって苦しいんだと」


 実はあいつの代理で来たと告げられてイェンスは更に驚いた。レイモンドに、友人を介す形ではあっても話し合う意思があることに。


「聞きたいことがあれば言ってくれ。あいつ自分の話をほとんどしていないんじゃないか? レイモンドとは七つの頃から一緒だし、大抵のことは知ってるんだ。あなたにはちょっと耳の痛い苦労話が多くなるかもしれないが」

「…………」


 突然開けた視界に戸惑いながらイェンスは「教えてほしい」と頼み込んだ。レイモンドのことならなんでも、これほど恨まれている理由だけでもと。

 アルフレッドは頷いてゆっくりと語り始める。

 それはイェンスが己の祈りで退けたと思っていた、我が子には及ばなかったと思っていた、あの呪いの話だった。




 ******




 診療所にアルフレッドが戻ってきたのはとっぷりと日が暮れてからだった。幼馴染の後ろには熊皮のマントを羽織った金髪の男がついてきていて、申し訳なさそうに背中を丸めて縮こまっている。


「話したいことがあるそうなんだが、いいか?」


 騎士の問いにレイモンドはたじろぎながら頷いた。黙ったまま返事はせず、枕元でうつむいたイェンスを見上げて唇を曲げる。

 あの後ルディアと少しだけこの男の話をした。「お前が父親に望んでいることはなんだと聞かれたぞ。考えてみたらどうだ?」と勧められ、寝ながら多少は頭を使ってみたけれど。


「レイモンド、ごめんな……」


 藪から棒に謝罪され、レイモンドは困惑する。一体どういう意味のごめんだと毒づきたくなって眉をしかめた。


(父親に望んでることか)


 昔はただ会いにきて、苦境から助け出してほしかった。稼げるようになってからは、一生忘れていてほしかった。今はどうなのかわからない。わからないまま別れたらずっと苦しむとわかるだけで。


「金のことで、何もしてやらなかったことで恨まれてるんだと思ってた。でも……」


 イェンスは弱々しく首を振る。その目頭が腫れているのに気がついて、泣くような話してたのかよと眉根を寄せた。


「……でも?」


 尋ねると男はこちらに手を伸ばす。結局それは引っ込められ、力を落としたイェンスは崩れ落ちるように膝をついた。


「アクアレイアでお前の母親が声をかけてくれたとき、俺、嬉しくて浮かれたんだ。仮面のおかげで初めて普通の人間に、ほかの奴らと同じ存在になれた気がした」


 少々頭の足りない母はフスの手も変わった仮装の一部だと勘違いしたらしい。夢みたいな夜だったと懺悔の声は続く。


「だけど俺はそのせいで、お前に俺と同じ思いを味わわせてきたんだな。呪いから守るつもりで、俺はお前を、あんな大勢の中にひとりぼっちで置き去りにしたんだな……」


 切れ切れに「ごめん」と詫びてイェンスは泣き伏した。もういい年の大人のくせに、顔を覆い、肩を震わせてさめざめと。

 なんだか皆よく泣く日だ。そう呆れつつ自分は拳を握って堪える。

 わかってみれば答えはいつだって単純なのだ。こんなことで良かったのかと間抜けな自分に少し笑う。


「もういいよ……」


 言葉は自然に紡がれた。もういいんだと、今はきっとひとりぼっちではないのだから。


「俺もごめんな。まだあんたに、ありがとうって言えてなくて……」


 わだかまりがすべて解けたわけではなく、イェンスの目を見て礼を言うことはできなかった。だが通路に目をやれば、いつの間にやら上階から降りてきていたルディアがアルフレッドとニヤニヤこちらを眺めていて、恥ずかしいようなこそばゆいような気分になる。

 もう俺がアクアレイア人もどきに逆戻りすることはないだろう。久しぶりに晴れやかな心地で微笑むとルディアも頬を綻ばせた。

 きっと彼女も大丈夫だ。一緒にあの生まれ故郷に、アクアレイアに帰れる日が来る。カロさえ思い直してくれれば。

 最後の難題はまだ立ちはだかったままだった。イェンスの告げた出航予定日はおよそ二ヶ月後、十月十一日とのことだった。





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