第3章 その4
――ごめんねえ。
そう呟いて母が泣く。酷く申し訳なさそうに。
――ごめんねえ。
そう呟いて祖母も泣く。レイモンドは病院で診てもらえないの、と。
夏のアクアレイアは病む。高熱にうなされた患者で施療院のベッドは埋まり、中には死に至る者もいた。つい先日同じ病で養父がこの世を去ったばかりだ。ああ俺も死ぬのかな。朦朧とする頭の隅で考えた。
三日おきに発熱するので三日熱と人は言う。それが三度続くので、三度熱と呼ばれることもある。四度目がないのはその頃には衰弱しきって死ぬからだ。レイモンドが火のような熱をぶり返したのはこの日でちょうど三度目だった。
苦しみを紛らわそうと寝返りを打ち、すぐにまた苦しくなる。節々が痛み、手足はむくみ、呼吸は次第に浅くなった。食事も睡眠も満足に取れない。ただ縮こまり、倦怠と灼熱が過ぎるのを待つのみだ。
もし自分が王国民なら格安で医者に診てもらえたらしい。薬代が払えずとも、ツケにしてもらうとか、少しずつ返していくとかできたらしい。
家族の誰も外国人を救えるような大金は持っていなかった。母も、祖母も、弟妹も、必死に看病してくれたけれど、病魔はそれを嘲笑うだけだった。
(なんで俺、アクアレイア人じゃねーのかな……。この国で生まれて、この国で育って、ほかの土地なんか知らねーのに……)
弱々しく母の手を握り返す。恨めしいのはいつも己の外見と、こんな境遇を与えて消えた男だった。手厚い制度に守られた普通の王国民であれば、医者にかかって治る者がほとんどなのに。
(駄目だなこりゃ……助からねーわ……)
小さな子供の頭でも限界が知れる。水を飲むこともままならず、死の気配は近づいた。
養父が死んでほっとした罰が当たったんだろうか。これでもうあいつの顔色を窺わずに済むと。でも俺だって、できれば仲良くしたかったんだ。
痛い。熱い。苦しい。誰か。
(誰か――)
濁る視界に救いを求め、むなしく視線をさまよわせた。
誰も来るはずがない。父の来るはずがない。生まれる前から我が子を捨てた男なんか。
いよいよ終わりか。震えながら目を伏せた。
震えながら。絶望しながら。
「――おばさん! レイモンドは!?」
そのとき誰かの声がして、一瞬意識が覚醒した。ちらりと目玉を動かせば、大事そうに何かを抱えたアルフレッドの姿が映る。
「まだ生きてるな? 待っていた船がさっきようやく着いたんだ」
がさがさと包みを開き、少年は自ら調合したという粉薬を差し出した。「うちじゃ代金を払えないわ」と焦る母に構うことなく薬屋の息子は匙に黒い粉末をすくう。
「……高いんじゃねーの……」
「気にしてる場合か。いいんだよ、出世払いで返してくれれば。母さんも十年待つと言ってくれたから」
匙は多少強引に口の中に突っ込まれた。途端、舌いっぱいに恐ろしい苦みが広がる。
「……ッ!?」
激烈な味に驚いてレイモンドは飛び上がった。関節痛も倦怠感も忘れるほどの凄まじさだ。
アルフレッドは悶え苦しむレイモンドを見て喜んだ。「まずさがわかる体力が残っていて良かった」と安堵の息まで漏らされる。
「もう大丈夫だな。じきに熱も引いてくるよ」
「お、おう……。ありがとな……」
震えながら寝台に突っ伏し直す。心優しい友人は容態が落ち着くまでずっと側にいてくれた。
アルフレッドはいい奴だ。いつも、いつでも、親身になって助けてくれる。こいつが友達で本当に良かった。――本当に。
「う……っ」
寝苦しさに寝台の中で身じろぎする。全身を焼く熱から逃れたくて寝返りを打てば引きつった腹の傷がじくじく痛みを訴えた。
しばし眉間に力をこめて息を詰める。何もできない子供のように。
眠ったらまた夢を見そうでレイモンドは思考にかかる白霧に抗った。弱っているせいかこの間から昔のことばかり思い出す。昔の、つらい記憶ばかり。
(姫様……)
病室はしんとして、目を閉じていても彼女がいないのが知れた。まだ幼馴染とあのコグ船にいるのだろうと。
(アル……)
いつも窮地に駆けつけてくれる友人は、今度もまた助けにきてくれた。それをありがたく思うのは本当なのに、なぜ胸の奥がざわつくのだろう。あいつと自分は違うということ、もう割りきったはずなのに。
重い瞼を開ける力はどうしても出なかった。身を起こす力はどうしても。
深い穴に落ちていく。大切なものを飲み込んできた心の底の深い穴に。
「――え? 国籍取得の条件が変わる?」
顔を上げ、尋ね返したレイモンドに幼馴染は深刻な表情で頷いた。伯父さんが話していたと彼は言う。居住年数十五年以上で申請できるのは今年限りで、来年からは居住年数が二十五年に満たない場合アクアレイア国籍を買うことはできないらしいと。
「は? えっ? ちょっと待ってくれよ」
磨いていた食器を放り出し、レイモンドはカウンターを出た。みすぼらしい小さな食堂の片隅で母と祖母が目を見合わせる。そんな、どうしてという囁きはいっそう気を焦らせた。
「年末までに五十万ウェルス貯まりそうか?」
「貯まるわけねーだろ! まだ三万にも届いてねーんだぞ!」
その夏はレイモンドが念願の十五歳になった夏だった。成人して、ガキの頃より多少まともに稼げるようになって、やっとアクアレイア人に一歩近づけたと思ったのに。
帳簿を確かめてみたけれど、二万弱がレイモンドの全財産だった。これでもこの年の航海で前年の三倍以上に増やしたのだ。まだ正式な商人として商船に乗ることはできずとも、荷の積載枠は買えるようになったから。来年は今の倍に、再来年はその倍に、そうすれば五年後には目標額に届くはずだった。
王国民としてスタートを切るのが二十歳と二十五歳では全然違う。貴族なら二十五歳ともなれば大評議会に入れるし、平民だって組合で役職を貰ったり、居留区に小さな店を構えたりするようになる。ただでさえ遅れを取っているというのにこれ以上待ちたくなかった。これ以上心許ない年月を過ごすのは。
「そうだよな……。アクアレイア人だって上級市民でもなきゃ四ヶ月で五十万ウェルスはな……」
アルフレッドが低い声で呟く。幼馴染の示した懸念は更にレイモンドを狼狽させた。
「ジーアンという騎馬民族の帝国が凄まじい速度で西方に版図を広げている。伯父さんの見方では、今後東方交易に甚大な悪影響を及ぼすだろうということだった。アクアレイア人を保護するために王国政府はこれからもっと外国人が国籍を取得しにくい条件を付け足すかもしれない。やっと二十五歳になっても今度は百万、二百万ウェルスが必要という話になっているかも……」
「な……っ」
ありそうな予測に絶句する。であれば何がなんでも今年中に五十万ウェルス用意しなくてはならないではないか。
こうして人生で最も忙しく、情けなかった日々が幕を開けた。
貯められないなら借りるしかない。レイモンドは王都中の金貸しに一人ずつ頭を下げて回った。だが外国人の、それも貧しい私生児を相手にする物好きはいない。ゴンドラ漕ぎとして雇ってくれていた親方も、さすがにそんな大金は出せないと首を振った。友人知人も同じくだ。「一万ウェルスだけでも」と乞うレイモンドに彼らの多くが煩わしさや侮蔑の念を隠さなかった。
現実なんてこんなものだ。王国民がよそ者を輪に加えるのはこちらが彼らを楽しませられる間だけ。厄介事を持ち込んだ途端、他人の顔で突き放される。そんなのは昔から知っていたことだけれど。
「どうする? 伯父さんに工面を頼んでみるか?」
見かねたアルフレッドにそう問われ、正直なところ心は揺れた。だがすぐに「お前にばっか迷惑かけらんねーよ」と断った。幼馴染には三日熱の薬代さえ返せていないのだ。もう借りは増やしたくなかった。それに国籍取得に関してだけは彼の手助けなしでやろうと決めていたのだ。
学校に通えなかった自分に読み書きや計算を教えてくれたのはアルフレッドだ。航海の話、商売の話、王国の法律の話、レイモンドに必要な知識を与えてくれたのは。
だからと言っていつまでも彼を当てにすることはできない。己とて成人済みの男である。自分の金だけで国籍を買うのは無理でも、せめてアルフレッドに頼ることなくやり遂げたかった。
「だがレイモンド……」
「本当にいいって。まだ時間あるし、母ちゃんが家の手伝いはいいって言ってくれたから仕事増やせたし。頑張ってるとこ見せりゃいくらか貸してくれる奴も出てくんじゃねーかと思うんだ」
まだやれる。アルフレッドにそう言いながら己にも言い聞かせる。「そんじゃ稼ぎにいってくるわ!」と広場を駆け出したレイモンドを幼馴染は心配そうに見つめていた。
酷い言葉を耳にしたのはそれと同じ日。少しでも金を増やそうと、毎日毎日早朝から深夜まで働き詰めで、その日もレイモンドは汗ぐっしょりでゴンドラを漕いでいた。国民広場で客を拾って商港に運ぼうとしたときだ。不意打ちで知った声が響いてきたのは。
「――レイモンドと付き合えばって? 冗談やめてよ、あいつ外国人じゃない。国籍取ろうと頑張ってるけど年末には法律変わっちゃうでしょう? 将来性がなさすぎるわよ」
通り過ぎた岸辺をそっと振り返る。声の主は食堂によく来てくれる女友達のようだった。つい先日、あなたがアクアレイア人になれるように応援してると励ましてくれた。けれど今、彼女はアクアレイア人の仲間にまるで真逆の話をしている。
「今より仲良くするつもりないわ。喧嘩する理由もないっていうだけね」
疲れていつもより猫背だったから彼女はこちらに気づかなかったのだろう。気にしたって仕方がない。レイモンドはかぶりを振って櫂を握った。
つらいのは今の台詞を忘れるわけにもいかないことだ。彼らにとって自分はどういう位置づけの人間なのか。わかっていないと世渡りできないし無自覚に傷つけられる。
実際彼女の言葉を気に病んでいる暇はなかった。レイモンドはいくつも仕事を掛け持ちしながら金を貸してくれる相手を探さなくてはならなかった。秋の初めにはもう何人もの知り合いから避けられるようになっていたけれど。
心から気の毒がってくれる人がいなかったわけではない。金銭ではなく短期労働の紹介とか、差し入れとか、形で示される同情も多々あった。そんなことでは届かないほど五十万ウェルスが遠すぎたというだけで。
足早に秋は通り過ぎ、非情な冬がやって来る。十二月の半ばになってもまだ展望は開けていなかった。蓄積したのは疲労だけで、家族の慰めに応じる余力もない。神殿の側を通るたび金が欲しいと祈願した。神頼みしかできない自分を笑いながら。
遠巻きにされているのは肌で感じた。顔の広さが災いして「あいつに関わると借金を申し込まれるぞ」と有名になっているようだった。
(もう駄目かもしんねーな……)
ゴンドラ溜まりに小舟を戻してとぼとぼと家路につく。国籍を取ろうとか、輪の中に入りたいとか、望んだのが間違いだったのかもしれなかった。私生児は私生児らしくおこぼれやお情けだけに預かっていれば。
だけど自分の願ったことは、そんなに大それたことだったんだろうか。商売のためにアクアレイア国籍を欲しがる外国商人と違い、自分にはこの国だけが故郷と呼べる場所なのに。
「レイモンド、伯父さんに五十万ウェルス借りてきた。……どうしても黙って見ていられなくてな。余計な世話だとは思ったが……」
銀行証書を持参して家を訪ねた幼馴染に、俺はどんな風に「ありがとう」と言ったのだったか。思い出そうとしてもなぜか思い出せない。
覚えているのは彼の顔を直視できなかったこと。お前にばかり頼れないと、自分でなんとかしてみせると言ったくせに、結局また土壇場で助けてもらって消えたくなったことだけだ。
アルフレッドはいい奴だ。だけど時々度が過ぎる。恩を恩として受け取れる範囲を超えてしまう。
感謝が負い目に変わったら、負い目が劣等感に変わったら、もう対等な関係ではいられなくなってしまうのに。
「……ごめんなアル。できるだけ早く返すから……」
あの金を受け取ったとき、失ったものがある。レイモンドには無力な自分を慰めることができなかった。傷ついた心に上手く言い訳をすることが。
父親がクズなのは同じでも、アルフレッドと自分はあまりに差がありすぎる。見下されているだなんて感じたことはないけれど、命を救ってもらった恩は、五十万ウェルスもの負債は、どうしたってレイモンドを卑屈にさせた。
(なんで俺だけこんなに皆と違うんだ)
アルフレッドが羨ましかった。父親のことで後ろ指をさされてもまっすぐに生きている彼が。その気になれば輪に入れてもらえる、純粋なアクアレイア人の彼が。
「おめでとう、レイモンド」
祝福の言葉に無理をして笑う。無理をして、本心を誤魔化すように。今までアルフレッドとだけは本音で会話できていたのに。
晴れて王国民として認められ、生活が安定すると、レイモンドを避けていた人々は何事もなかった顔で声をかけてくるようになった。そんな連中を笑顔で許さねばならなかったこともレイモンドを苦しめた。
自分はアクアレイア人になったのではない。アクアレイア人もどきになっただけだ。そう気がつくのにさして時間はかからなかった。賃金は上がっても、根本的な孤独は変わっていなかった。――否、もっと悪くなったと言える。
金への執着が強くなった。さっさと借金を返したかったからだろう。けれど薬代を返し終えても、五十万ウェルスの返済が済んでも、執着だけは変わらず残った。
アルフレッドにも腹の底を打ち明けられないままでいた。こいつはやっぱり骨の髄からアクアレイア人だからなと、そう思ったら当たり障りない軽口しか叩けなくなっていた。それでもまだ幼馴染とは父親への恨みつらみという共感で繋がれていたけれど。
寂しい人間に育ったと思う。母親には愛されてきたし、友人や知人にだって恵まれたはずなのに。
もう金以外の何かを信じられる気がしなかった。親切だった人たちに感謝はしても、自分が彼らのために身を削るなどできそうもなかった。
仕方がない。なるべくしてこうなったのだ。そう言って諦めることに慣れていった。
せめてアルフレッドみたいに夢を持てたら違ったのかもしれない。自分にも何かできる、望めば叶うと信じられたら。だけど俺にはどうしたって――。
(姫様……)
夢とうつつの境目で彼女を呼ぶ。まとわりついてくる過去を振り切りたくて手を伸ばす。
(姫様、俺は……)
目覚めは唐突に訪れた。遠慮を知らない伸びやかな詩人の声が「お薬の時間ですよ!」と記憶の幕を引っ張り下ろした。
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「さあレイモンドさん、起きてください!」
「……ッ!」
揺さぶられ、下腹部に駆けた激痛に飛び上がる。殺す気かよと医者を睨めばハイランバオスはにこにこと栄養剤の入った皿を差し出した。
「あなたのおかげでいいデータが取れそうです。ふふふ、心ゆくまでたっぷり飲んでくださいね!」
脂汗を垂らしつつレイモンドはなんとか上半身を起き上がらせる。この男に手ずから薬を与えられるなどできれば勘弁願いたい。多少前後にふらついたが気力で皿と匙を受け取り、待っていた薬を口に運んだ。
「データってなんのだよ……」
「それはもちろんこの栄養剤についてのです。実は生きた人間に投与するの、レイモンドさんが初めてだったんですよねえ。まあ回復の速度も効果の程度も私の予想した通りでしたが」
明るく不安な話をされてただでさえしょっぱいスープが一段とまずくなる。なんだ生きた人間にって。だったら死んだ人間には投与したことがあるのか。
「うーん、やはり極めて即効性が高いですね。ほらほら、もう汗が引いてきてらっしゃいますよ」
ハイランバオスの指摘を受けてレイモンドはこめかみを拭った。さっきまでべっとり濡れていたそこは確かに既に乾き始めている。気がつけば傷の痛みもなくなっているし、本当にわけのわからない薬だ。
「……あのさ、これ真面目に飲んでたら二、三ヶ月後にはそこそこ動けるようになってる?」
「動けるように? そうですね、なっているんじゃないですか? まあ最初に申し上げた通り、動きすぎて傷が開いたら二度と動けなくなりますけど」
聖預言者の返答にレイモンドは「そっか」と呟いた。ズズ、とスープを飲み干して空になった器を返す。
動けるようになるのならルディアのために戦わなくては。心はもう決まっていた。
「あ、どなたか帰ってこられたみたいですよ」
と、玄関の開く音を耳にしてハイランバオスが振り返る。階段を上ってきたアルフレッドたちと入れ替わりに「では私は自分の部屋に戻りますね」と軍医は出ていった。蟲入りと判明してからは鳥籠に戻らず、主人の周囲をバサバサ飛んでいる琥珀の鷹もそれに倣う。
「レイモンド、具合はどうだ? 起き上がれるほど良くなったのか?」
開口一番に尋ねられ、レイモンドは「うん」と王女に微笑んだ。
「まだちょっとだりーけど、薬も飲んだし大丈夫」
「そうか。こっちはフスの岬まで送ってもらえることになったよ。今イェンスが出航の予定を立ててくれている」
そう聞いて、やはりサールには向かわないのかと落胆する。必要なことなのだろうが、項垂れずにはいられなかった。
「あーあ、またあいつの船に乗るの確定か」
スヴァンテたちには思いきり煙たがられるに違いない。罵詈雑言も覚悟しておかなければ。
「何を言っている。お前はここに残るんだぞ」
半分予測済みだった台詞が降ってきたのはそのときだ。「なんでだよ」と眉をしかめたこちらにルディアは強い語調で返してくる。
「なんでじゃない。その傷で動かせるわけないだろう」
「ハイランバオスは二、三ヶ月すりゃ動けるようになるっつってたぜ」
「それでも駄目だ。お前はコーストフォートで印刷機をアクアレイアに届ける段取りを整えてくれ。わかったら……」
「んなもんフスの岬から帰った後でやりゃいいだろ? アルは連れていくのに俺が駄目なのはなんでなんだよ?」
「お、おい。二人とも」
次第に激しさを増すやり取りにアルフレッドが慌てて仲裁に入ろうとする。しかしルディアは止めようとする騎士の腕を払って怒声を響かせた。
「アルフレッドがいるのだから、お前はいらないと言っているんだ!」
一瞬空気が凍りつく。「よしんば多少動けるようになったとして、病み上がりでどう役に立つつもりだ?」と問われ、レイモンドはぐっと唇を噛む。
(本ッ当にこのお姫様は……!)
わかっている。こういう物言いをするときの彼女は本心を隠しているのだと。トリナクリア島でもそうだった。わざと怒らせて嫌われようとして、こちらのことを慮って。
「……無茶はしないって約束してもか?」
「…………」
問いかけに今度はルディアが黙り込む。だが彼女も強情だった。
「イェンスとてお前を同行させたくあるまい。ここでしっかり療養して……」
言うに事欠いたルディアが引っ張り出してきた名前にムッとする。腹に響くのも構わず、レイモンドは大きく声を張り上げた。
「あんな奴どうだっていいんだよ! 俺はただあんたの心配をしてるんだ!」
彼女ばかりかあの男にまで反対されたら本当に置いていかれるかもしれない。そんなのはごめんだった。やっと自分の守りたいものを見つけたのに、金より大事なものと出会えたのに、ルディアを失くすくらいなら自分は――。
「俺もレイモンドは一緒に行くべきだと思う」
助け舟は思わぬ人物から出された。寝台脇の幼馴染を見上げ、レイモンドは目を丸くする。怪我の重さを考えれば薬屋の彼が賛成してくれるわけがないと思っていたのだ。
「おお、アル!? お前もそう言っ……」
だが喜びは次の瞬間掻き消えた。にわかには信じがたい言葉を彼に吐かれたからだ。
「もう少し、こいつを父親の側にいさせてやってほしいんだ」
頭の中はたちまち真っ白になった。「は?」と思わず荒っぽい声で聞き返す。お前は何を言っているんだと。
「なあレイモンド、お前と親父さんには多少誤解や行き違いがあるんじゃないか? 俺の目にはあの人がとてもいい人に見える」
「……??」
本当に何を言っているのだろう。全然意味がわからない。確か自分は、昨日こいつに説明したはずなのだが。イェンスは理解したくもない異文化の野蛮人だと。
「今からでも遅くはない。あの人ともっと話をしてみたらどうだ?」
「…………」
わなわなと肩が震える。握り拳を振り上げそうになってレイモンドはかぶりを振った。
(なんでそんなこと言うんだよ……!)
彼とて父親には苦労させられてきたはずなのに。何も言わずともそれだけは互いに理解できていたはずなのに。
「あんなのでも父親でしょう?」とお前に説教するお節介を、いつだって俺は追い払ってきただろう。それなのに、お前がそんなことを言うのか。どれだけ俺が苦しんできたか、お前は隣で見てきたんじゃないのかよ。
「……いい人だったらなんなんだ……?」
怒りは抑え込もうとするほど膨らんだ。どうしても受け流せずに、幼馴染の真面目な顔を睨みつける。
「あいつの事情も考えてやれってか? 行きずりの女と子供作ったのも、そこにそのまま置き去りにしたのも、あいつが考えなしでしたことなのに?」
アルフレッドは反論されると承知で発言したらしかった。「それはそうだが、しかしな」と言いくるめようとするのを怒声で遮る。
「しかしなじゃねーよ! 今までほったらかしだったこと全部水に流せってのか!? 散々我慢させられたのに、まだ俺が我慢するべきだって!?」
「イェンスのほうにも埋め合わせする意思はあるんだろう? 四百万ウェルス貸してくれたと聞いたぞ。お前のために長年財を蓄えてきたとも」
「だったらその埋め合わせが終わってから言えよ! 言っとくが、俺は借りた金きっちり返済してみせるぞ。それにあいつの蓄えだって……! なんで俺が、必要なときに受け取れなかった養育費に感謝しなきゃなんねーんだ!?」
強い拒絶を示すレイモンドに幼馴染は考え込む。なお説得の言葉を探そうとする彼に堪らずに首を振った。
「お前さ、もし俺が八つのとき、あのまま病気で死んでても同じように考えたわけ? 俺が今でも国籍を買えてなくて、ひでー生活してても『そんな事情があったなら仕方ないな』とか言ってたわけ?」
「レイモンド、それは話が飛躍して……」
「何が飛躍だよ! お前が言ってんのはそういうことだろ!? 俺はただ運が良かっただけだ。たまたまお前に会えたからここまで生き延びられただけだ。それなのに――」
言葉はもう止まらなかった。胸の底から溢れて溢れて、息も上手く吸えなくなって、溺れているように錯覚する。
「俺だって、あいつが無理して四百万ウェルス出してくれたのはわかってる。そのせいで仲間とぎくしゃくしてることも。けどそれとこれとは話が別だろ? いい人だったら全部チャラになるのかよ? あいつのこと許せねー俺のほうが間違ってるって言うのかよ? あいつのせいで、父親が何もしてくれなかったせいで苦しんできた十八年を、よりによってなんでお前にそんなに軽く扱われなきゃなんねーんだよ!」
ぜえ、ぜえ、と息を切らす。さっきまで言い争っていたルディアが心配そうに覗き込んでくる。いたわり深く肩を支えてくれる手に泣きそうになりながら顔を上げた。――半ば開いたドアの外に人影を見つけたのはそのときだった。