第3章 その3
「おい、アルフレッド。やっぱりお前残ってくれ。レイモンドがこれでは一人にできん」
病室の入口で心配そうにルディアが振り向く。レイモンドは吐き気を堪え、足を止めかけた幼馴染に「いいって! お前は姫様と行けって!」と吠えた。
「しかしな、お前その熱で……」
「あんたが一人であの船に話つけに行くほうがよっぽど心臓に悪いっつーの。アルがいたって良くなるわけでもねーんだし、余計な気ィ回さないでくれよ」
ぶり返した痛みのせいで口調をやわらげる余裕もない。睨むように見上げてしまってくそ、と内心舌打ちした。
(一回薬飲まなかっただけでこれかよ)
ずきずきする腹を押さえ、レイモンドは寝台に身を丸める。なおルディアがアルフレッドを待機させようとするので思わず怒鳴りつけそうになった。幸いそんな真似はせずに済んだが。
「そうですよ、レイモンドさんには私がついているので大丈夫です。安心して港でもどこでも行ってきてください!」
自信たっぷりに胸を叩くのはハイランバオスだ。階段下から現れた胡散臭さ満点の男にレイモンドたちは一様に顔をしかめた。
「フスの岬にご一緒させてもらうのに、まだ彼に死なれては困りますからね。しっかり看病しておきますので本当に大丈夫ですよ?」
引っかかる言い回しだが、当面の安全は保障されているらしい。
「ほ、ほら、こいつもこう言ってるし平気だって」
熱と痛みに目を回しながらレイモンドはなんとかそれだけ主張した。
気が立っているに違いないあのコグ船の水夫たちのもとへ、ルディア一人をやるわけにいかない。わかってるよなと視線でアルフレッドに問えば幼馴染はこくりと頷いた。
「ちょっと不安だが、レイモンドのことは任せてもう出よう。あまり待たせると心象が悪い。船に乗せてもらえなくなるかもしれない」
騎士に促され、ルディアは渋々病室を出る。入れ替わりで入ってきた軍医が扉を閉めると「すまない、なるべく早く戻る」と謝罪と足音が響いた。
やっと行ったかと息をつく。限界を感じてレイモンドは寝台に沈み込んだ。
(うう、痛ぇ……)
傷が開いたのではと思うほど痛みはどんどん酷くなる。昨日まで経過は順調だったのに。
「レイモンドさん、ちゃんとお薬飲みました?」
にこやかに問われ、ぎくりと肩を強張らせた。レイモンドは動揺を隠しつつ「の、飲んだと思う」と目を逸らす。そんな己をハイランバオスは面白そうに見下ろした。
「ふうん、そうですか。じゃあやっぱり次に栄養剤を処方するのは昼過ぎですね。それまでは痛くても頑張ってくださいね!」
しまったと思う間もなく非道な医師は手にした薬を棚に戻す。鼻歌混じりに記録をつける麗しの青年にこの野郎、と拳を握った。
「……なあ、あんたの出してくるあの栄養剤ってなんなんだ? アルに聞いてもわかんねーって言ってたぞ」
「あはっ! それは秘密です。教えたら吐いちゃうかもしれませんもん」
「ちょっと待て、吐くようなもんが入ってんのか……?」
駄目だ、頭が回らない。何から作られた薬なのか推測しようとするけれど、脈打つ傷に思考は容易に散らされた。
(いってえ…………)
眉根を寄せて歯を食いしばる。脂汗が滴り落ちる。すぐ側で「仕方ないですねえ」と声がした。
「死にはしないでしょうけど、放っておいても恨まれそうですし、ひと口だけですよ?」
薄く開いた視界にぼんやり木の匙が映った。口に含んだ液体を飲み込むと、滲んだ汗が少しだけ引く。
「おやすみなさい、レイモンドさん。それでは私は別の仕事がありますので」
鷹の羽音と人の気配が遠ざかる。痛みも熱もうやむやになる感覚に飲まれ、レイモンドはそのまま眠りに落ちていった。
******
訪れたコグ船は、これから戦争にでも向かうのかという殺伐とした雰囲気に満ちていた。甲板に上がってきたルディアたちを一瞥し、北辺の老水夫たちがギロリと目を尖らせる。
憎まれていることがひと目でわかる眼差しだった。遠巻きにこちらを見やる彼らの中に表情を緩める者は誰もいない。いつも仲裁に徹してくれるオリヤンでさえ今日は無言のまま身を硬くしていた。
「よう、来たか」
イェンスの声に船縁を仰ぐ。船長は無益な衝突を起こさないためにか甲板の中央に歩いてきて、殺気立った仲間を背中で牽制した。
「悪いが全部話しちまったぞ。お前がどこの誰かってことも、どうしてカロに狙われてるかも、俺の知ってることは全部」
申告にルディアは頷く。
「ありがとう。どのみち自分でも話さなければと思っていた」
礼を述べると再びスヴァンテたちに向き直った。威圧的に睨むのをやめない彼らと対峙する。
「知らなかったこととは言え、私のような人間をここまで船に乗せてしまい、さぞ気分を害しただろう。……すまない。まずそれを詫びさせてもらう」
謝罪に彼らは沈黙した。無反応ではないにせよ、疑いの濃い、見極めようとする視線に晒される。
「……本当なんだな? お前がアクアレイアの王女で、イーグレットを殺った張本人だってのは」
脳蟲のことも彼らは聞き及んでいるらしい。スヴァンテに問われ、「そうだ」とルディアは肯定を返した。
「カロに報復を宣言されたのがそのときだ。この身体が借り物でなかったら、私ももっと早く彼に殺されていたと思う。……今私は、カロにフスの岬へ来いと呼び出されている。私の中身だけを殺す手はずが整ったんだろう。逃げようなどとは考えていないが行き方がわからない。どうか我々をその岬まで送ってほしい」
「…………」
スヴァンテは背後の仲間を振り返った。頷きで交渉役を一任され、副船長は厳しくルディアの双眸を見据える。
「入れ替わり蟲の話は正直まだ半信半疑だ。だがイェンスやフスがそうだって言うならそうなんだろう。……けどよ、ほかにもわかんねえことだらけだぜ。なんだってイーグレットを殺す必要があった? 敵だったわけでもねえのに、あんないい奴をなんで……!」
「……それは……」
言い訳になる気がして、ルディアにはその問いに答えることができなかった。いつまでも答えないこちらに水夫らが苛立ち始める。庇う格好で前に出たのは隣に控えた騎士だった。
「陛下がそう望んだからだ。ほかに理由なんてない」
突然割り込んできた赤髪の男にスヴァンテは顔をしかめる。「名乗るのが遅くなってすまない。俺はアルフレッド・ハートフィールドという者だ」と騎士は船員らに一礼した。
「俺はイーグレット陛下の遺書を届けるべく旅をしてきた。内容も、半分だけだが知っている。そこには最後まで王として生きるという覚悟が綴られていた。王であるということは、他国の兵の手に落ちて名誉を汚されるよりも高潔な死を選ぶということにほかならない。この人は――ルディア王女は、陛下の心を汲んで実行しただけだ。つらい役目を自ら引き受けて」
遺書という言葉に船上がどよめく。イェンスも目を丸くして「なんだそりゃ? 聞いてねーぞ」とすぐに読ませるように言った。
「すまんな。昨日お前が帰ってから渡されたんだ」
そう詫びてルディアは懐の手紙を差し出す。封筒も便箋もあれよという間に散り散りになり、めちゃくちゃな順番で回し読まれた。しばらくののち、眉をしかめて切り出したのはスヴァンテだった。
「……これが本当にあいつの遺書で、あいつが死を望んだからって俺らが納得行かねえことに変わりはねえよ。覚悟があったからなんなんだ? 殺してくれって頼まれて、マジで仲間を殺す奴がどこにいる? 死んでほしくなかったら生き延びてくれって説得すんのが普通だろ。だけどお前は、思い留まれたはずなのに思い留まらなかったんじゃねえのか!」
違うなら反論しろとばかりに副船長に凄まれる。改めて彼の年齢を考えるとちょうどカロやイーグレットと同世代で、深い親交があったのだろうと察しがついた。
本物の知友に責められると心苦しい。責められなくても心苦しいが、やはり己には嘆く資格もないのだと思い知らされる。
「……承知している。すべて私の思い上がりが招いた結果だと」
アルフレッドの言うことは気にしないでくれ、と告げるとスヴァンテはまた眉間のしわを深くした。
「フスの岬で私は私の罪を清算するつもりだ。カロには復讐の権利があるし、命は命で贖わねばなるまい。だから――」
「嫌だぜ俺は。イーグレットを殺した奴の言葉なんて信じられるか!」
こちらの台詞を遮ってスヴァンテは忌々しげに吐き捨てる。興奮した口からは更に思いがけない言葉が飛び出した。
「さも無抵抗でやられます、みたく言ってるが、嘘じゃねえって保証はねえ。お前フスの岬で今度こそカロをやっつけようとしてるんじゃねえか? なんで俺らが、わざわざカロを危ない目に遭わせなきゃなんねえんだよ!」
「……!」
副船長に同意して老水夫たちは残らずルディアを睨みつける。決心を頭から否定されるとは思わず、ごくりと息を飲み込んだ。
愕然とする。かけらも信用されていないとはこういうことかと。
「ロマの血讐なら俺らも知ってる。昼だろうと夜だろうとロマは殺すと誓った相手をどこまでもつけ狙う。そのときがいつ来るか、せいぜい怯えて暮らしゃいいんだ。その恐怖も込みで血讐なんだからな!」
スヴァンテたちは指定の場所に赴けばルディアに余計な準備を整えさせると考えているらしかった。見当違いな警戒に頭を抱えそうになる。
しかしカロに危害を加えないと断言することもできなかった。アルフレッドを連れていく以上、彼が剣を抜く可能性はゼロではないのだ。最後まで騎士でありたいと願う彼に、それくらい叶えさせてやりたいと考えていたけれど。
「なんだったら今ここで、俺が足の一本二本へし折ってやる。動けねえ身体にしてからならフスの岬でもどこでも捨ててきてやるぜ」
拳を鳴らすスヴァンテに騎士が身構える。そこにすかさずイェンスが止めに入った。足を揃えて踏み出した仲間たちを押し返し、元神官は「やめろ!」と叫ぶ。
「スヴァンテ、皆、落ち着けって。フスに手ェ出すなって言われてるだろ!」
呼びかけが一瞬彼らを押し留める。しかしスヴァンテは命令に従いきれない様子だった。
「恩人が殺されてるんだぞ!? それでもフスは駄目だって言うのかよ!」
なんでだよ、と怒りで声が震えている。彼の抗議はもっともだった。本来は彼らの味方に立ち、憤りを代弁すべきイェンスがまるで正反対のことをするのだから。
「大事な蓄えも航行許可証も持っていかれて、挙句にイーグレットまで……! あんたがなんで怒らねえのか俺にはちっともわかんねえよ!」
絶叫が耳をつんざく。船上はしんと静まり返り、ただスヴァンテの荒い鼻息だけが響いた。
案内役は頼めないかもしれないな。胸中に呟いてルディアは短く息をついた。
レイモンドにも、イェンスたちにも、迷惑ばかり押しつけている自分に嫌気がする。けじめをつけることさえ一人でできないなんて。
「あなた方がカロを案じる気持ちはわかる。しかしやはり、決闘の申し込みを無視するというのは――」
と、そのとき、アルフレッドが神妙な声で呟いた。腕を組み、指を顎にかけ、何やら深く考え込んで。
「こちらとしても積極的に戦いたくはないが、さすがに行くのは行かないと。会ってもう一度話もしたいし、せめて道筋だけでも教えてもらえると……」
「おい、てめえ何ふざけたこと言ってやがる」
スヴァンテが噛みつくとアルフレッドは「え?」と顔を上げた。きょとんと瞬きしているあたり、なぜ非難されたのか少しもわかっていない様子だ。話をややこしくしてくれるなよと念じつつルディアは二人のやり取りを見守った。
「何が決闘の申し込みだ。カロがこいつにしようとしてんのは復讐だろ!」
目を吊り上げて否定され、騎士はますます目を丸くする。「いや、確かに報復を兼ねての決闘だが」と答えた彼にスヴァンテは眉間のしわを一段と濃くした。
「報復と決闘はまったくの別物だ! 決闘は対等な人間同士がやることだって、アクアレイア人はんなことも知らねえのか!? イーグレットの仇討ちしようとしてるカロが、仇に自分と同じだけの正当性を認めるわけねえだろが!」
怒号はびりびり空気を揺らした。老水夫たちは憤慨しきってアルフレッドに吠え立てる。そうだそうだ、これが決闘のはずがあるかと。
「そう言われても……。だったらカロはどうして俺たちだけで行けない場所に姫様を呼び出したんだ?」
戸惑いつつも、物怖じしない騎士は彼らに聞き返した。「んなこと知るか!」と一蹴したスヴァンテの横でイェンスが目を瞠る。元神官は右手に遺書を握りしめ、アルフレッドを振り返った。
「……おい、この手紙、もしかしてカロも読んだのか?」
投げかけられた問いに騎士が頷き返す。
「ああ、カロ宛てにもう一通あったのも渡したよ。暗号だらけでなんて書いてあったかまではわからないんだが、読み終わってしばらく考え込んでいたな。それから急に決着をつける、自分が死ぬか姫様が死ぬかだと言い出して」
返事を聞いてイェンスは「……そうか、そういうことだったか」と呟いた。何がそういうことなのかわからずに顔をしかめる。スヴァンテたちもイェンスの反応が飲み込めないようで怪訝に眉をひそめていた。
「俺も妙だと思ってたんだ。復讐の標的がコーストフォートから動けないのは明らかなのになんでフスの岬なんだろうって。けどこれが決闘なら話は別だ。――あいつ俺らに立会人を頼んだんだよ」
どよめきが走る。「あんたまで寝ぼけたこと言わないでくれ」とスヴァンテは不快感を露わにした。しかしイェンスは前言を取り下げない。
「何かしら心境の変化があったんだろう。カロはイーグレットの嫌がることをできる人間じゃない。遺書を読んで、どうしていいかわからなくなったんじゃないか? 勝ったほうが正しいってのが決闘の大前提だ。あいつなりに大義を確かめようとしてるんだと思う」
「馬鹿馬鹿しい! 現に血讐の巻き添え食らってあんたの息子は床に伏せてるってのに!」
「カロが報復を続行するつもりなら、俺らのもとには伝言じゃなく赤髪の死体が届いてた。三ヶ月もかかる場所を指定したのはあいつなんだ。それはまだ、あいつが迷う時間を必要としてるってことじゃねーのか」
「………………」
コグ船の老水夫たちは一様に黙り込んだ。何人かが船長に抗議の声を上げたものの、じゃあほかにどう説明するんだと迫られて口を閉ざす。最後まで食い下がったのは、ここでもやはりスヴァンテだった。
「……仮にあんたの憶測通りだったとして、こいつらが信用ならねえってのはまた別の話だろ。もしカロが卑劣な手段で殺されたらどうするんだ?」
己に向いた矛先にルディアは喉を詰まらせる。スヴァンテはカロが望むなら決闘を見届けるのは承諾するとしながらも、アクアレイア人を船に乗せることはかたくなに認めようとしなかった。レイモンドの借金も、ルディアの罪も、植えつけた不信の種を芽吹かせて根まで張らせたようである。
「さっきも言ったがこちらにカロをどうこうする気はない。剣を抜くとすれば姫様を守るときだけだ」
が、合流したてのアルフレッドにはこの空気の微妙さを読むのは難しかったようだ。今までの経緯はレイモンドから聞いているはずなのに、耳を閉ざした相手にも正面から語りかける。
「俺たちとカロは仲間だった。今でも俺はそう思っているし、傷つけ合ったり殺し合ったりしたくない。なるべく話し合いで解決したいと考えている」
「だから! こっちはお前らの言葉にハイそうですかって頷けねえんだよ! 仲間だったってことも、剣を抜く気はねえってことも、なんの証明もできねえだろうが! フスの岬に送ってほしけりゃ最低でも片脚は折らせてもら――」
「証明か。証明ならできると思うが」
意外な返答にスヴァンテは面食らい、掴みかかろうとしていた手を止めた。何をする気だとルディアもアルフレッドを仰ぐ。すると彼は古びたリュートを背中から下ろし、「歌を伝えなきゃいけないから、カロに死なれるのは困る」と言った。
「う、歌ぁ?」
「ああ。ロマが墓標の代わりにしている望郷の歌だ。ここまで一緒に旅をしてきた老ロマに頼まれたんだよ。あいつ最後まで歌えないから教えてやってくれないかって」
望郷の歌と聞いて甲板にどよめきが走る。スヴァンテはたじろぎ、イェンスとオリヤンは目を見合わせて息を飲んだ。
「……確かにそれはいつもカロが途中でやめちまってた歌だがよ……。お前、歌えるのか?」
イェンスの問いかけにアルフレッドは苦笑を返す。
「いや、俺は弾けるだけなんだ。……その、ちょっと音痴でな」
それでもいいから弾いてみろとせがまれて騎士は両手のグローブを脱いだ。節くれた指が弦にかかる。するとすぐにどこかで聴いたメロディが流れ出した。
――ルールーライライ、ルールーライライ……。
耳の奥に明るい声が甦る。コリフォ島のあばら家で、箒を片手に歌っていたあの人の。
ルディアは声を失った。こんな形で幻に出会うと思っていなかったから。
美しい調べがコグ船を包み込む。指が震え、足が震え、気を抜けば崩れ落ちそうだった。もはや呼んではならぬのに「お父様」と呼びそうになって。
「…………」
いつしかスヴァンテや老水夫たちも思い出に引き込まれ、険を洗われたようだった。演奏が終わっても誰もひと言も口にできず、アルフレッド一人だけが少々気まずそうに一同を見渡している。
「この曲をカロに伝えるまで俺は死ねないしあいつも殺せない。もちろん姫様を殺させるわけにもいかない。……わかってもらえただろうか?」
イェンスが副船長を肘で小突くと黙り込んでいたスヴァンテが顔を歪めた。ほかの者も騎士に動じた眼差しを送っており、最初の拒絶的な態度が揺らいでいるのが見て取れる。
「ロマが大事にしてきた歌だ。卑怯者なら教えてもらえるはずがない。そいつの言葉、俺は信用できると思うぜ」
イェンスの呼びかけに老水夫たちはたじろいだ。アルフレッドもリュートを肩に担ぎ直し、もう一度真摯に訴える。
「俺たちが仲間に戻れる道はまだ残っているはずなんだ。陛下だって、こんな終わりを迎えるために犠牲になったんじゃないと思う。生き残った人たちに、守ろうとした人たちに、陛下が望んでいたことは……」
ルディアはそっと目を伏せた。
自分が本物の「ルディア」だったら騎士の言葉をどう受け止めていただろう。そう言ってくれてありがとうと、あの人の志を継いでカロとともに進みたいと涙を流していただろうか。
「……わかったよ。だが俺たちはあくまで中立、フスの岬まで運んでやるだけだ。そいつらが大事な息子の仲間だからって肩持つような真似しないでくれよ、イェンス」
渋々ながら承諾したスヴァンテにイェンスが「ああ、わかった」と約束する。見届ける者として彼が立ち位置を明確にすると、ほかの水夫らもそれならばと頷き合った。
どうやら送ってはもらえそうだ。ルディアはふうと息をつく。これでやっとすべて終わりにできるのだと。
イェンスは決闘だと言ったけれど、ルディアにはまだ疑わしい。仮にカロが王の英断を認める気になったとして、下手人への殺意まで手放してしまうとは思えなかった。だって自分が偽者なのは――娘のふりを続けてきた罪人なのは間違いないから。
(なんでもいい。あの男の気の済むようにさせてやれるなら……)
ほかに贖罪の方法を知らない。カロに、そしてあの人に償う方法を。
「よし、それじゃあ後はこっちで段取りつけるよ。お前らは診療所に戻っててくれ」
甲板に相談の輪を作る仲間から離れ、イェンスがルディアとアルフレッドに告げた。船縁の縄梯子まで客人を見送ると元神官は騎士に囁く。
「……ありがとうな。正直もっと最悪な展開になると思ってた。レイモンドがこれ以上恨まれなくて良かったよ」
その台詞にアルフレッドがぴたりと足を止めた。イェンスを振り返り、彼にしては珍しく試すような口ぶりで幼馴染の父に問いかける。
「恨まれていたらどうしたんだ?」
不意を打たれて男は一瞬瞠目した。だがすぐに、苦い微笑でかぶりを振る。
「そうだなあ、仲間とはこれっきりになってたかもな。レイモンドには余計なお世話だって毒づかれただろうけど……」
アルフレッドは「そうか」とだけ呟いて船縁に手をかけた。ルディアも船を降りようと片足を手すりに上げる。
「あ、待て待て。まだ遺書を返してねー」
イェンスは慌てて封筒を差し出した。けれどルディアはその手をそっと押し返す。
「それは私の持つべきものではない。すまないが、預かっていてくれないか?」
騎士の目が険しくなったのに気づかなかったわけではないが、振り返らずに知らんふりを決め込んだ。イェンスは無理に手紙を渡そうとはせず「わかった」と引っ込めてくれる。
「……不愉快だろう頼み事を引き受けてもらって感謝する。できるだけ迷惑をかけないように努めるよ」
一礼し、ルディアはコグ船を立ち去った。桟橋にはうるさいほどの波の音とカモメの鳴き声が響いていた。
******
雑踏を突っ切って歩くルディアの背中が痛ましく、アルフレッドは唇を噛む。騒々しい船着場を抜け、大通りに入っても彼女はこちらを振り向かなかった。まるで話しかけてくれるなと言うように。
「おい」
そんな無言のアピールに焦燥を覚えながら大股でついていく。声をかけても無反応で、仕方なしに腕を伸ばした。
「おい、手紙は良かったのか?」
散々無視してくれたくせに、肩を掴めばルディアはあっさり顔を上げる。
「言っただろう、私の持つべきものではないと」
それだけ返すと彼女は再びすたすたと歩き出した。
らしくなさに閉口する。傷ついていることは百も承知だが。
「あれは確かにあなたに宛てられた手紙だよ。どうしてそれを否定する?」
問いかけてもルディアは答えようとしなかった。ただ黙々と診療所に続く道を歩き続ける。
「今のあなたは委縮してしまっている。いつもの自信はどこへ行ったんだ? さっきのコグ船の連中にも言い返そうともしていなかったし……」
――自分は娘の資格を失ったからとか言うんだよ。
――私はずっとあの人を騙し続けてきた。
幼馴染や王女自身の言葉がよぎり、アルフレッドはぎゅっと拳を握りしめた。
もしかして、ルディアが本当に悔やんでいるのはイーグレットを殺したことではないのかもしれない。でなければカロが決闘を選んだことに少しくらいは安堵したっていいはずだ。
(偽者だということがそんなに許しがたいのか)
かける言葉が見つからず、成す術なくケープの揺れる背中を見つめる。
「そうかな」と後ろ姿が語っていた。「私はいつも自信がなかった。だから己は何者なのかという問いから逃げ回ってばかりいた気がするよ」と。
半年離れていたけれど、彼女の心は手に取るように理解できた。立場や役割というものに誰より厳しい人だから、逸脱した自分を責めずにはいられないのだろう。たとえそれが代役を懸命に果たそうとした結果であっても。
「……すまない。往来でする話じゃなかった」
理性がアルフレッドを抑止する。こちらを見やったルディアは優しい笑みを浮かべていた。
「構わんさ。それより早くレイモンドのところへ戻ろう。怪我人のくせに意外と大人しくしてくれないからな」
彼女がこれではあの幼馴染も無茶をするようになるわけだ。腑に落ちて息をつく。
せめてルディアがひとりきりでなくて良かった。誰かが彼女といてくれて。
「最初に聞いたときは驚いたけどな。まさかあいつが主君のために腹に穴まで開けるなんて」
アルフレッドが隣に並ぶとルディアは小さく肩をすくめた。「私も逃げろとは言ったんだが」とつらそうに目を伏せられて慌てて首を振る。
「非難しているんじゃない、よくやってくれたと褒めているんだ。本当に意外だよ、あいつ怪我や病気には人一倍気をつけていたし」
「そうなのか?」
「ああ、八つの頃に流行り病で死にかけてな。まだ国籍がなかったから病院で診てもらえなくて大変だったんだ。アクアレイア人になってからも資本は身体一つだからと言って」
そうだったのかと彼女が呟く。
「だとすれば父親への憎しみが消えなくて当然か。言わないだけできっとほかにも切実に経済支援を欲したことがあるのだろうな」
ルディアは自分が親子の出会うきっかけになってしまったと悔いているようだった。そんな彼女を見ていられず、アルフレッドは話を逸らす。
「それにしてもイェンスはどうして子供を捨てたんだろう。レイモンドのこと、とても気にかけているように見えるのに」
純粋に疑問で首をひねった。するとルディアがえっと目を丸くする。
「レイモンドから聞いていないのか? イェンスには事情があって、我が子と会ったり名前を知ったりできなかったそうだぞ」
「えっ? いや、そんな話は全然」
首を振るアルフレッドに彼女は「あいつ妙なところで秘密主義だな」と嘆息した。それからイェンスの生い立ちやアミクスとの軋轢、仲間の反感を買ってまで貸してくれた四百万ウェルスのことを教えてくれる。「本来ならもっと礼を尽くさねばならない相手なんだが」とぼやくルディアは微妙な板挟みの立場にあって苦しそうだった。
呪いのこと、フスのこと、一つ知るたび「ああそうか、そうだったのか」と謎が解けていく。話に耳を傾けながら思い出したのは老ロマの涙、それと悪党の罵詈雑言だった。
「そうか……。レイモンドの親父さんは、あいつをずっと思ってくれていたんだな……」
道の先には診療所の緑の屋根が見え始めていた。
どうしてこう上手くいかない親子ばかりなのだろう。側にいるなら、愛情が確かなら、心通じ合えればいいのに。