第3章 その2
静まり返った病室でレイモンドと目を見合わせる。
「……ずっとあんな調子なのか?」
問いかけると寝台の幼馴染は眉をしかめて頷いた。
「トリナクリアにいた頃よりは落ち着いてるけど、決意固めちまった感じだな。カロの好きにさせてやろうって……」
穏やかでない返答に息を飲む。アルフレッドが「全部聞かせてくれ」と頼むとレイモンドはぽつりぽつりとこれまでのことを話し始めた。いつもへらへら笑っている唇が、痛ましい惨劇を、耳を覆いたくなる嘆きを紡ぐ。なりゆきで助けた相手がローガン・ショックリーの息子だったと聞いたときは絶句した。あまりに無情な巡り合わせに。
「……本当は仇討ちしてやりたかったけど、自分は娘の資格を失ったからとか言うんだよ。陛下の娘は姫様しかいねーのにさ」
「やはり悔やんでいるんだな? 陛下を手にかけたこと……」
レイモンドは奥歯を噛み、ぎゅっと敷布を握りしめた。重い沈黙がまざまざと語る。王女の心に根差した深い悔恨を。
「……なるべくカロに出くわさねーようにしてたんだけどな。結局見つかってこのざまだ。姫様全然身を守る気がねーし、お前が来てくれて良かったよ」
カロとの騒動やその後の経緯を話しながら幼馴染は下腹部を擦った。見れば患部はほとんど腸の真上である。そんなところをナイフで刺されてよく生きていたなと驚いた。とはいえ当分動けないのは間違いない。レイモンドは「本当に助かったぜ」と繰り返した。
「一応イェンスはカロじゃなくてこっちについてくれたけど、万が一のときに姫様を守ってくれるかわかんねーし」
「そう言えば意外に話のできそうな人だったな。実際のところどうなんだ? 握手しているときに見えた幻はなんだ? お前や姫様もあれを見たのか?」
矢継ぎ早の問いかけに幼馴染は額を押さえる。謎の右手がフスという古代の祭司のものであることはすぐに教えてもらえたが、イェンスの人柄についてはしばし黙りこくられた。
「……どうって聞かれても、見たまんまだよ。これっぽっちも理解したくねー異文化の野蛮人だ」
レイモンドの口ぶりから読み取れたのは、彼が父親を嫌ったままということだけだ。あまり聞くのも悪い気がして「そうか」と話を終わらせる。診療所の玄関が開く音がしたのはそのときだった。
「こんにちはー、ネッドでーす」
「パーキンですぅ」
「ブルーノさんはおられますかー?」
出し抜けにこだました男たちの声に幼馴染を振り返る。レイモンドは「ああ、通して大丈夫な連中だ」と言ってから「……たまに大丈夫じゃねーけど、まあ大丈夫」と難解な台詞を付け足した。
「そのうちアクアレイアに来てもらうことになるだろうし、紹介しとくよ」
病室に上がってきた二人の男はすぐアルフレッドに気がついた。
「あれっ? 初めまして!」
筋骨隆々の肉体に不釣り合いなベビーフェイスを乗せた若者が爽やかに挨拶してくる。「そっちがネッドな」と幼馴染が名を告げた。
「どちら様です? へへ、俺らはブルーノさんに新聞の発行許可をいただきに来たんですけどもぉ」
問うてきたのは頭に大きなたんこぶをこしらえた四十絡みのモミアゲ男だ。アルフレッドが応じる前にレイモンドの冷めきった声が響いた。
「そっちはパーキン。あんま真面目に相手すんなよ。いつもロクなことしねーから」
「ちょっ! おま、せっかく見舞い品持ってきてやったっつーのにそりゃねえだろ!?」
「お前のは見舞い品じゃなくて賄賂だろ! 言っとくけど、新聞出したいならほかのネタ探してこなきゃ頷いてもらえねーぞ」
「普通のネタじゃ売れねえんだよ! わかれって!」
怒鳴る男の手にした籠をちらりと覗けば焼き菓子の下に銀貨が詰まっているのが見える。何やら揉め事の渦中にあるらしき幼馴染は「ブルーノのところに行きたきゃ背中斬られる覚悟しろよ? アルは意外と容赦してくれねーからな?」とパーキンとやらに釘を刺した。
「アルさんと仰るんですか? 俺はネッドって言います! 年頃、同じくらいですね! どうぞよろしくお願いします!」
「アルフレッド・ハートフィールドだ。レイモンドと同じ王都防衛隊出身で、僭越ながら隊長を務めていた」
「ヒエッ、た、隊長!? そ、それじゃさぞかし腕に覚えが……。あっ、私はパーキン・ゴールドワーカーと申します。このコーストフォートで金細工師をしておりまして、最近は活版印刷機の開発及び運用に力を尽くしているところございます!」
金細工師はペコペコとわかりやすい恭順を示す。レイモンドが真面目に相手をするなと言った理由はただちに理解できた。
「そのうちアクアレイアに来てもらうっていうのはどういうことだ?」
問いかけに幼馴染は「えーっと、産業開発?」と聞き慣れない言葉を返す。なんだそれはと疑問符を浮かべたアルフレッドにこれでもかと印刷機の有用性を解説してくれたのは愛想笑いの金細工師だった。
「ふうん、なるほどな。おかげで俺はこの街に仲間がいるとわかったわけか」
「そうです、そうです、我々の刷った新聞はお役に立ったでしょう!」
「ああ、だが取り扱い方によっては害になる可能性も十分ある。もっと平和なニュースを載せたらどうなんだ?」
「いや、ですから、刺激的なほうがどっさり売れるんですってば!」
パーキンはがっくり肩を落とす――ふりをして、籠の銀貨をアルフレッドにちらつかせた。きっとルディアへの口添えを期待しているのだろう。こちらが金銭報酬に毛ほどの興味も示さないのを見て取ると彼はあからさまな舌打ちをした。
「お前ほんと人として最低だな……」
「うるせー! なんの見返りもねえのに笑顔振りまいてばっかいられっかよ! いいからブルーノにうんって言わせやがれ!」
レイモンドのツッコミに金細工師は大人げなく罵声を浴びせる。嘆息を一つ零し、アルフレッドは開きっぱなしのドアに目をやった。
これだけ騒がしくしているのにルディアが下りてくる気配はない。パーキンの大声は上階にも響き渡っていそうなものだが。
(……一人で何を考えているんだろうな……)
思い出したのはアウローラが生まれた頃のこと。自分は偽者だからと語った王女だ。赤子を抱き上げ、溢れた涙に狼狽していた。
「アル、俺のことならほっといていいぜ。しばらくこいつらの相手してるし」
ルディアを気にするこちらに気づいてレイモンドが呼びかけてくる。幼馴染も彼女に対し、放っておけない何かを感じている風だった。行ってくれと目で合図される。
小さく頷き、アルフレッドは病室を後にした。薄暗い階段を見上げ、そっと一歩目を踏み出す。
まだルディアには、一つ話せていないことがあった。悲嘆を増やすだけかもしれないが、報告しないわけにもいかない。
(俺のするべきことは、いついかなるときも姫様の側を離れないことだ)
何が大切かはもうわかっている。後はそれを騎士として実践できるかどうかだった。
******
めらめらとかまどで燃える火を見つめる。薬瓶を煮沸するのに湯ができるのを待ちながら、ルディアは先刻の手紙を取り出した。
なんて優しく、なんて無意味な一通だろう。差出人も受取人ももういない。こめられた想いの行き場はどこにも失われている。
(私が自分は脳蟲だと言い出せなかったせいだ……)
イーグレットがこんなものに最後の時間を割いたのは。偽者の娘などに心を砕いてしまったのは。
堪らなくなって首を振る。衝動的にルディアは手紙を火にくべようとした。背後で響いたノックの音に寸前で思い留まったけれど。
「すまない、まだ報告が残っているんだ。入ってもいいか?」
アルフレッドの呼びかけにルディアはハッと顔を上げた。「ああ、構わない」と応じると赤髪の騎士が扉を開く。アルフレッドは入ってくるなり「あなたが家事までしているのか?」とかまどの炎に目を丸くした。
「湯を沸かしているだけだ。消毒には熱湯がいいそうでな」
「ああ、レイモンドの。そうか、主君直々に介抱してもらえるとは臣下冥利に尽きるな」
だからもう主君でも臣下でもないというのに。苦笑しつつ「報告というのは?」と尋ねる。するとアルフレッドは気まずそうに目を伏せた。
「実はアウローラ姫のことでな……」
「何? アウローラの?」
「ああ。さっきも少し話したが、アルタルーペを越える際に一晩――おそらく数時間程度、窒息で仮死状態になったらしい。モモの話ではコナー先生の治療で息を吹き返したそうだ。ただそれは、耳に海水のような液体を入れるという治療法だったらしくて」
「……!?」
思わぬ台詞に瞠目する。声を震わせ「それは蟲を入れられたということか?」と聞き返すと、騎士はわからないという風に首を振った。
「モモも今のは脳蟲か、と率直に尋ねたそうだ。しかしコナー先生は、これは君の知っている蟲とは別物だと答えたらしくて」
「…………」
アルフレッドは更に詳細に当時の状況を説明した。平静に聞こうとするが、なかなか頭が追いついてくれない。今日はもうディランがハイランバオスだのジーアンも蟲だらけだの、飲み込むだけで精いっぱいのことばかり聞いているのに、まだそんな大きな報告があったとは。
「……そうか……」
ルディアにはそれしか言えなかった。コナーが脳蟲のことを知っているとは初耳だが、あの人なら何をどこまで知っていようと不思議ではない。とはいえ脳蟲とは別物だという師の言葉を鵜呑みにもできなかった。アウローラは一度仮死状態になり、脳蟲と思しき何かを入れられた。今わかるのはそれだけだ。妙な希望は持たないほうがいい。
(もしあの子まで私と同じ方法で命を繋がれたのだとしたら……)
ぎゅっと冷たい拳を握る。
正統な後継者などもはやどこにも存在しないのかもしれない。自分の守ろうとしたものは。
「いずれにしても、今後アウローラをどう扱っていくか決めるのは私ではなくアクアレイア政府だ。国政に口を出す権利は私にはない。継承権は放棄したし、そもそも偽者だったわけだしな」
ルディアの返事にアルフレッドは驚いたらしかった。「姫様」と咎めるような、たしなめるような声に呼ばれる。
「アクアレイアに戻る気もないんだ。……帰っていいのだと思えない。そんな人間に何を言う資格がある? だからもう、アウローラのことは十人委員会に任せるよ」
「…………」
暗い厨房にぱちぱちと薪の弾ける音が響く。アルフレッドはかぶりを振って彼らしく誠実な説得を始めた。
「……あなたが陛下にしたことは間違いじゃない。確かにカロは陛下のために動いていたかもしれないが、あなただって陛下と同じ未来を見据えて努力してきたんじゃないか。その手紙を読んで何も思わなかったのか? 父親の望みを知っても考えは変わらないのか?」
「私はずっとあの人を騙し続けてきた。名付け親にさえ娘とは認められないと言われたのに、父などと呼べるはずがない。フスの岬でカロに会って、それで終わりだ。お前もさっさと次の仕官先を――」
台詞は最後まで言えなかった。激高したアルフレッドに遮られたせいだ。
「それでも俺にとってはあなたがルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだ! 俺にはほかの主君はいないし、欲しいとも思わない!」
叫んでから声が大きすぎると気づいたようで、アルフレッドは慌てて口元を覆った。呼吸を整え、気を静めてから騎士は続きを仕切り直す。
「……フスの岬には俺も行く。俺はあなたの騎士だから、あなたを守らなきゃならない」
「アルフレッド」
不要だと断ろうとしたルディアに彼は首を振った。
「主君を見捨てて何が騎士だ。もう決めたんだよ、どこまでもあなたについていくと」
強い眼差しがルディアを見据える。どんな答えが返ってくるか、半ば承知で頑固な騎士に問いかけた。
「レイモンドみたいな怪我では済まないとしてもか?」
「ああ、そうだ」
即答に思わず吹き出す。「わかったよ」とルディアが告げるとアルフレッドはえっと目を丸くした。
「そこまで言うならこちらもその心づもりをしておく。お前の好きにしろ」
「い、いいのか?」
もっと徹底的に拒絶されると考えていたらしく、騎士は拍子抜けした様子だ。その阿呆面に口角を上げ、ルディアは軽く肩をすくめた。
「だってお前は私と同じで言い出したら聞かないじゃないか。大体お前が騎士でありたいと願うのを止めるほうが野暮だろう」
本当はレイモンドをアクアレイアに連れて帰ってほしかったんだがと言えばアルフレッドは複雑な表情で黙り込む。ちょうどそのときポコポコと煮えた湯に泡が立ち、途切れた会話も立ち消えた。
「おっと、そろそろ消毒に入らなければ」
調理台に置きっぱなしの薬瓶を振り返り、手紙を懐に片付ける。ルディアがかまどの前に立つと「貸してくれ、俺がやろう」と騎士の腕が伸びてきた。
「大丈夫か?」
「慣れてるよ。薬屋生まれの薬屋育ちだぞ」
「そうか、そうだったな」
アルフレッドは手際良く小瓶を鍋に放り込んでは熱湯から引き上げる。その横で薬瓶の水気を拭きとりつつ、ルディアは不意に気になっていたことを思い出した。
「ところでお前、なんでリュートなんか担いでいるんだ?」
「ああ、これか。これは貰ったというか、借りているというか」
「それにいつもの剣はどうした? あのウォード家の紋章が入った」
「ええと、あれはまあ……。色々あって手放したんだ。たいしたことじゃないんだが」
たいしたことじゃないと言いつつ騎士は詳しく語ろうとしない。引っかかるものはあったがルディアも無理に問いただす気にはなれなかった。「ふうん」と小さな相槌だけを床に落とす。
「さて、それじゃ俺はそろそろレイモンドのところに戻るよ。これ、乾かして薬棚の前に置いておけばいいか?」
アルフレッドは薬瓶を並べた盆を持ち上げると詮索を避けるようにして戸口に向かった。
「ああ、頼む」
両手の塞がった騎士のため、階段に続く扉を開けてやる。
そうして再び一人で閉じこもろうとしたときだった。真摯な赤い双眸に振り返られたのは。
「……忘れないでくれ。モモもブルーノもあなたの帰りを待っている。俺たちにはまだあなたが必要だ」
アルフレッドは「みすみすあなたを死なせはしない。俺はもう一度あいつを説得してみようと思う」と続けた。約束の場所で会うまで三ヶ月もかかるなら、カロにも対話の余地が生まれているかもしれないと。
「アルフレッド」
「あなたはずっと『ルディア』としてアクアレイアを守ってきた。その時間は嘘じゃないし、消えることもない。そうだろう?」
「………………」
沈黙に求める返事がすぐには得られないのを悟り、騎士は小さく嘆息した。長期戦は覚悟の上か「また話そう」と呟いて階段を下りていく。
ああ、やはり彼はいい騎士だ。どんなに落ちぶれた主君でも言葉を尽くして励ましてくれる。自分が本物の王女なら、きっと彼を本物の騎士にしてやれたに違いない。
なあアルフレッド、お前は私の正体を知ったとき、アイリーンに拷問めいた尋問をしたのを非難したな。
お前が叱ってくれたこと、私は結構嬉しかったんだ。ユリシーズとは上手くいかなかったが、お前や防衛隊の誰かなら信じられるようになるかもしれないと期待した。
だけど駄目だった。私は結局いつも一人で考えて、いつも一人で決断して、いつも一人で間違えて――だからやはり、責任も一人で取らなくてはならないだろう。お前が一人で、私の意志など無関係に、騎士の本分を貫こうと決めたように。
我々は本当に似た者同士だ。強情で、わがままで、そんなところ似なくてもいいのに。
ついてくるのはいい。守ってくれるのも構わない。せっかくサールへやったのにお前はこうして来てしまったし、もはや私には止められまい。
だがお前の剣がカロを貫いたとしても無駄なんだ。あの人と、あの人の大切な友人の亡骸を踏みつけてまで私は図太く生きられない。それにカロだって、私を殺したその後まで長く生きようとはしない気がする。
(あいつと私は、多分同じ火に焼かれて死ぬんだ)
かまどの灰を集め終わるとルディアはそっと小窓を見上げた。茜色に染まり始めた空にまだ月はない。優しく淡い白い月は。
******
戻ってきた幼馴染のなんとも歯痒そうな顔を見てレイモンドはふうと小さく息をついた。ルディアの心境に良い変化はなかったようだ。気を落とすまいとする騎士の双眸がありありと語っている。
「パーキンたちは? 帰ったのか?」
静かな病室を見回してアルフレッドがそう尋ねた。
「ああ、刺激的な内容じゃなきゃ駄目だっつーならいっそスケベ層狙えば? って言ったら飛んで帰ったよ」
こちらの返答に騎士は「なるほど」と少し笑う。だが穏やかな空気はすぐに霧散した。
「こっちはあんまり芳しくなかった。一応フスの岬に同行する約束だけは取りつけたが……」
「えっ!? 姫様お前についてきていいっつったの!?」
予想外の台詞にレイモンドは目を瞠る。
俺には逃げろとか大人しくしてろとかしか言わねーのに?
出かかった不服はなんとか飲み込んだ。アルフレッドはそんなレイモンドの様子に気づくことなく深々と嘆息する。
「ああ、しかしできればカロに会う前に考え直させなければな……」
「お、おう。そうだな」
邪念など感じさせない呟きに一瞬でも些細なことを気にした己が恥ずかしくなる。ああそうだ。元々姫様はアルフレッドを高く評価していたのだし、対応が違って当たり前ではないか。
(馬鹿みたいな比べ合いしてる場合じゃねーぞ。姫様が一人で行くよりアルと行くほうが絶対いいんだ。今は少しでも生き残る可能性上げてかねーと……)
「その皿は空いているのか? 薬瓶を置いたら洗い場に下げてくるか?」
と、アルフレッドが寝台脇のスープ皿に目をやって尋ねてくる。
「おっ、おお? わ、悪ィな」
レイモンドは咄嗟にぎこちない笑みを作った。実はどうしても飲むのがいやで栄養剤はパーキンにやってしまったのだ。夕食抜きにはなるけれど、今日はどうせもう寝るだけだ。朝には麦粥も出るし、空腹など多少我慢すれば済む。
それに薬がなくてももう平気なのではという思いもあった。出血は止まっているし、養生していればハイランバオスの手など借りずとも完治できるような気がする。人質同然の扱いを受けてお荷物になるのはごめんだった。自然治癒でどうにかなるならそれに越したことはない。
「じゃあちょっと行ってくる。戻ったら改めて今後のことを話し合おう」
幼馴染はてきぱきと室内を片付けて出ていった。
アルフレッドを頼もしいと感じるほどに身動きの取れない己がもどかしくて仕方なくなる。今の自分に何ができる、ルディアに何をしてやれる、と。
(良かったな、大変なときに友達が来てくれて……か)
かけられた声のむしゃくしゃする温かさを思い出し、レイモンドは唇を突き出した。
裏のない言葉だとわかっているのに――否、だからこそ受け入れがたい。
どうしていつも大事なことは遅すぎて間に合わないのだろう。
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篝火に照らされた深夜の川面に真っ黒で大きな影がいくつもゆらゆら揺れている。ディータスから連れてきた海峡越え目当ての商船だ。長い間彼らはいい小遣い稼ぎをさせてくれた。こちらが航行許可証をアミクスに返したと知るや呆気なく関係は断たれたが。
彼らは魔の海峡に彼らだけで挑むらしい。新興商人という生き物は実に果敢で命知らずだ。あの勢いなら本当に、彼らだけで新航路を確立してしまうかもしれない。そうなれば許可証を取り戻しても以前と同じ副業はできなかった。
「これからどう食っていきゃいいのかなあ」
船縁に背を預け、イェンスは右肩に問いかけた。白い手は焦らず待てという旨の古いことわざを闇に書く。魚はもう近くに来ていて、釣り上げるのを待つばかりだと。
「……それってあんたにゃどうすりゃいいか見えってるってこと?」
頷く代わりに右手は人差し指をお辞儀させた。ああそうとイェンスは星空を見上げ、軽くない息を吐く。
「時々あんたは意地悪だよな。知ってるくせに肝心なことは教えちゃくれない」
思わずついた悪態にフスは笑ったようだった。「あまり常識外れの叡智はそれが優れたものであっても君を不幸にしかねない」――そう返されて口をつぐむ。
(わかってるさ。フスにはフスの考えがあるって)
感謝はしきれないほどしている。歯向かうつもりも毛頭ない。けれどこの、切っても切れない存在といてもひとりぼっちを痛感する日はつらかった。
心の一番深いところで誰ともわかり合えたことがない。人間は皆そんなものだとフスは言うかもしれないが。
(それでも皆は死ねば同じところに還れる。迎えてくれる神様さえいないのは俺だけだ。自分の魂がどこへ行くのかわからないのは……)
せめて生きている間くらい孤独を忘れる瞬間が欲しい。そんな風に願うのはおかしなことではないだろう。
「…………」
無人の甲板を一瞥し、イェンスは眉を寄せた。脳裏に甦ったのはスヴァンテたちの、怒りと恐怖の入り混じった表情だ。もう一度あのアクアレイア人たちをこの船に乗せてやりたいと告げたときの。
――あんたが何言ってんのかわかんねえよ。
耳の底に残った声に嘆息する。スヴァンテたちの精いっぱいの反発に、何も言ってやれなかった。いいように使われて悔しくないのかと問われても。
命じればきっと彼らは従ってくれる。フスの岬に行くだけだったら簡単だ。我が子の命を守るためにあの王女を死地へ送り出すことは。――だが。
(本当にもう、限界が来ちまったのかもしんねーな)
いつもなら誰かしら騒いでいるコグ船が、今夜はじっと息を潜めている。
客人の去った後に日常は戻ってくるのか、右手は語ろうとしなかった。




