第3章 その1
ディラン・ストーンの下宿兼診療所は四階からなる都市型住宅である。屋上には日当たりのいい物干し場が、四階には排煙を考慮した厨房や浴室が、三階には半ば実験室と化した寝室が、二階には入院患者のための病室が、一階には応接間を兼ねた診察室がある。その広く雑然とした診察室にドンドンと大きな音が響いたのは、ルディアが乾いた包帯を棚に戻しているときだった。
「すまない。ここにブルーノ・ブルータスとレイモンド・オルブライトがいると聞いてきたんだが」
聞き覚えのある声に目を瞠る。すぐさま開いた玄関に立っていたのは赤い髪の騎士だった。相変わらずまっすぐで力強い眼差しをした。
「ア、アルフレッド!?」
ルディアが彼の名前を叫ぶと心底ほっとした顔でアルフレッドは息をついた。
「悪かった。すっかり遅くなってしまって」
サール宮にやったはずの騎士は幻ではなさそうだ。面食らったままルディアは彼に問いかけた。
「お、お前、どうしてここに」
「コリフォ島で何が起きたのかアイリーンが教えてくれてな。俺はカロを追いかけて、さっきこの街に着いたところだ」
「何? カロを追いかけて?」
「ああ、少しだが話をしてきた。あいつから伝言も預かっている」
思わぬ返事に「は?」と眉間にしわが寄る。
「話をしたって、まさか直接会ったのか?」
ルディアが問うとしばらくぶりの騎士はこくりと頷いた。コリフォ島で何があったか聞いていたならあの男に近づく危険は容易に理解できただろうに。
「ほかにも山ほど報告したいことがあるんだ。レイモンドも一緒にいいか?」
「まったくお前という奴は……!」
くらくらする額を押さえ、ルディアは呆れたと項垂れた。
「防衛隊が解散したこと、まだわかっていないらしい」
「俺の主君は後にも先にも一人だけだよ。部隊がどうとか関係ない」
のたまわれた台詞に苦く笑う。まったくもって馬鹿な男だ。己はもはや王女でも「ルディア」でもないというのに。
「ところでレイモンドの容態はどうなんだ? 『ゴールドワーカー・タイムス』には快方に向かっていると書かれていたが」
アルフレッドは例の新聞を見てこちらの所在を知ったらしかった。幼馴染を案じる彼に手招きしてルディアは奥の階段に続くドアを開く。
とにかく来てしまったものは仕方ない。報告は聞いておかねばなるまいし、帰れと諭すのはそれからだ。
「話すくらいは平気だよ。絶対安静だからあまり興奮させるんじゃないぞ」
お利口に頷いた騎士を連れ、ルディアは病室に上がった。だが釘を刺すべきは見舞い人より患者本人だったようだ。突然の幼馴染の登場に槍兵は制す間もなく跳び起きた。
「えっ!? ア、アル!?」
「良かった。思ったより元気そうだ」
「ちょ、おまっ、サールにいるんじゃなかったのかよ!?」
レイモンドは嬉しげに友人を迎える。確実に味方と呼べる戦力が増えて安堵した様子だ。そんな槍兵の枕元に近づき、アルフレッドはいつも通り真面目な口調で返答した。
「ああ、モモに頼んで俺だけ護衛を抜けさせてもらったんだ。とりあえず色々と話さなきゃならないことがあるから、順番に聞いてくれないか?」
「お、おう。わかった」
再会の喜びを味わうのもそこそこにアルフレッドは「俺たちがサールの街に着いたのは二月二十六日の深夜で……」と語り出す。チャドとブルーノは無事に宮殿入りしたこと。バジルはジーアンに連れ去られてしまったが、モモとは合流できたこと。コナーがアウローラを預かってくれていること。サール宮を訪れたアイリーンとモリスがコリフォ島での顛末を伝えてくれたこと。騎士はよどみなく説明した。王の最期がどんな風に伝えられたかだけは慎重に言葉を選んでいたが。
「……本当にすまなかった。最初から俺もついていけば、せめてあなたに刃を抜かせることはなかったのに……」
沈痛な面持ちで騎士が詫びる。眉を歪め、「お前が気にすることじゃない」とルディアは小さくかぶりを振った。
(こいつも私を責めないんだな)
がっかりしたような、ほっとしたような気分で目を伏せる。
ほかに道はなかったと、仕方ない選択だったと、アルフレッドやレイモンドにはどうしてそう思えるのだろう。娘としての情があれば、あのときもう少しだけためらうことができていれば、カロの手であの人を逃がすのも不可能ではなかったのに。
己には後悔しかない。もしカロの来るのがあと半日遅ければ、明らかに救援が間に合っていなければ、自分にもしょうがなかったと割りきることができたのだろうか。
「そう言えばアイリーンは一緒じゃないのか?」
身を挺して弟の肉体を守ろうとした女の姿を思い出し、騎士に問う。するとアルフレッドは難しい顔をして「ああ、実は彼女は『独自にハイランバオスを追跡する』と書置きを残していなくなってな……」と答えた。
「ハイランバオス?」
藪から棒に飛び出した聖預言者の名にルディアはレイモンドと首を傾げる。ハイランバオスというのはアンバーに任せたあの身体のことだろうか。以前はグレース・グレディが入っていた。
「なんと言うか、その、驚かないで聞いてほしいんだが……」
アルフレッドは気遣わしげに声を低める。それから少しの間を置いて、彼はジーアン帝国に関する衝撃の事実を口にした。
「天帝も、その弟も、十将も、ジーアン帝国の重要人物は全員脳蟲なんだそうだ。ハイランバオスは数年前からアクアレイアに入り込んでいて、天帝に情報を――今の聖預言者は偽者だという情報を流していたらしい」
あまりにも想定外な報告に脳内が真っ白になる。「は?」と頬を引きつらせたルディアに騎士は「王国湾の脳蟲とは異なる形状をしているんだが、その他の特徴は一致する点が多いとアイリーンは……」と続けた。
――ちょっと待て。なんだそれは。どういうことだ。
考えようとするが思考が上手くまとまらない。先に声を荒らげたのは順応の早いレイモンドだった。
「ええっ!? そんじゃ俺らがバオゾに天帝の誕生日祝いに行ったときはもう中身別人だってバレてたわけ!?」
「そういうことになるだろうな……」
――そのとき不意に、騎士の返答に被さって窓辺で不快な笑い声が響いた。ピィピィと琥珀色の翼を揺らし、鷹が鳥籠の中を転げ回る。一瞬そちらに気を取られかけたものの、ルディアは努めて平静にアルフレッドに問い直した。
「それは確かな情報なのか?」
「ああ、アイリーンはハイランバオスの仲間にならないか誘われたが断ったと言っていた。奴がなりすましていたのは海軍の……」
騎士の台詞はそこで途切れた。コンコンとノックの音が割り込んだためだ。
「レイモンドさーん、そろそろお薬の時間ですよー」
扉を開き、現れた男を見るなりアルフレッドが息を飲む。騎士は即座に身を翻し、背中にルディアたちを庇った。
「お、おい。どうしたんだ?」
問いかけに返されたのは目配せだ。それも危険を告げる類の。
見れば騎士の手は剣の柄を握りしめている。礼儀正しいこの男の、同郷人に対する態度とは思えなかった。
「あれっ、あなたはもしや王都防衛隊の隊長さんでは? あなたまでこの街においでとは奇遇ですね! 今日はレイモンドさんのお見舞いに?」
にこやかに話しかけてくるディランに対し、アルフレッドは警戒を解かない。その反応に何か察するところでもあったのか、軍医はくすりと面白そうに目を細めた。
「……ひょっとして今、私の話でもしてました?」
問いかけと同時、猛禽がけたたましく騒ぎ出す。アルフレッドは剣を抜き、背後のルディアたちに叫んだ。
「気をつけろ、こいつがハイランバオスだ!」
えっと思う間もなく騎士は軍医に飛びかかる。斬られはしないと読んでいたようで刃が迫ってもディランは避ける素振りさえ見せなかった。それどころか喉元で静止した切っ先をつつき、涼しい顔で笑ってみせる。
「ふふふ、バレるならアイリーンが戻ったときかと思っていたんですがねえ。まあ落ち着いて、危ないものはしまってください」
ほら、私丸腰でしょうと軽装の軍医は空いた両手をぶらぶらさせた。なお剣を立てたまま視線を外さぬアルフレッドにディラン――否、ハイランバオスは微笑で応じる。
「収めてもらえないのでしたら、レイモンドさんの治療はこれにておしまいということになりますけど」
はっとしてルディアは騎士を諌めた。
「アルフレッド!」
鋭い呼びかけにアルフレッドは用心しつつ武器を下ろす。
「ええと、確かアルフレッドさんはブルーノ王女を守ってサールに向かわれたんでしたね。そこで君主の死を知って飛び出してきたというところでしょうか。イーグレット陛下の訃報を知らせたのがアイリーンで、そのときついでに私の正体やジーアンの内情も知ることになった――そんな感じで合ってます?」
ハイランバオスはまるでその目で見てきたように正確に状況を言い当てた。元よりこうした事実が露見するのは時間の問題と踏んでいたらしく、どう対処すべきか迷うルディアたちを気にも留めずにゆったりと薬棚まで歩いていく。
「あ、私のことならお構いなく。どうぞ話の続きをなさってください。どうせアイリーンがラオタオから聞きかじったことの繰り返しでしょう? なんなら私からジーアンの蟲がどんな蟲かご説明いたしましょうか?」
軍医の声は平常と少しも変わりなかった。白い手はいつも通りにひきだしを開き、栄養剤の小瓶を取り出す。
気にするなと言われても気にならないはずがない。ルディアたちはスープ皿に薬液を広げるハイランバオスを見やったまま黙り込んだ。
微動だにできないこちらを振り向き、聖預言者がにこりと微笑む。そうして彼は聞くとも聞かぬとも答えぬうちからペラペラとお喋りを始めた。
「私たちは砂漠の湖で生まれたんですよ。いわゆるオアシスというやつです。青い湖畔には柳が茂り、その傍らに寄り添って日干しレンガの家々がどこまでもどこまでも続いていました――」
とても遠いところです、と詩のひとひらにも似た囁きが零れる。この世から消えて久しく、今では痕跡を探し当てるのも困難なくらいだと。
レンムレン湖。それが彼らの古い故郷の名前らしい。ハイランバオスはそこが物忘れの湖と呼ばれていたことや、川の流れが変わってしまって涸れ果てたこと、自分たちがジーアン族を乗っ取って同じ湖を探し続けてきたことなどをあけすけに語った。
すんなり飲み込めなかったのは彼の語り口があまりに芝居がかっていたせいだろう。出てくるのも何百年も昔の話ばかりなのでいっそう物語じみていた。それでも話がここ最近の事柄に移る頃には、これが現実なのだと思い知るしかなくなっていたが。
「初めてアイリーンの研究ノートを見たときは胸が高鳴りましたねえ。我々はもう千年も失われた故郷を求めてさまよっていましたから。ああ、軍を用いず難攻不落のアクアレイアを降伏させた我が君の見事な手腕、思い出すだに震えがきます……! 王国の皆さんにはお気の毒ですが、あれは近年稀に見る深謀遠慮の妙計でした。無駄な犠牲は一切出さず、目的の獲物ばかりか東パトリア帝国までも手に入れたわけですから! あなた方もさぞ驚いたことでしょう。まさか天帝が実弟との約束を反故にするなんて、と!」
(なんだこいつ)
頬を赤くしたハイランバオスにルディアはむっと眉を寄せる。しかし迂闊に怒りを口にすることはできなかった。この男はまだレイモンドの心臓を握っているのである。
「あはっ! 黙っていたお詫びと言ってはなんですが、一ついいことを教えてさしあげましょう。実は私、色々あって今はジーアンに追われる身なんです。ですのでそう警戒なさる必要はありませんよ。今のところあなた方と敵対する気もありませんし」
「ジーアンに追われる身?」
どういうことだと顔をしかめる。聖預言者はあっさりと「我が君を裏切ったので」と暴露した。
「私、追手から逃げて北パトリアまで来たんです。本当ですよ。私が引っ掻き回したせいでジーアンは未曽有の混乱に見舞われていて、十将もてんやわんやしているみたいです」
アルフレッドに目をやると小さな頷きが返される。騎士は小声で「おそらく事実だ」と囁いた。どうやら彼には思い当たる節があるらしい。
「なぜヘウンバオスを? 待遇に不満でもあったのか?」
「そんなことまで打ち明ける義理はありません。お好きに想像してください」
それもそうだと口をつぐむ。引き下がったルディアにハイランバオスは指を立てて提案した。
「というわけで、私のことはどこにでもいるただの軍医として捨て置いてくれませんか? どうせしばらく同じ屋根の下で暮らすんですし、それがお互いのためだと思うんです。まあ気になるようでしたら、監視くらいはしてもらって構いませんから」
「た、ただの軍医として……?」
「ええ、ただの軍医として!」
勝手に話を終わらせると聖預言者はスープ皿を手に槍兵のベッドに近づいた。「それじゃアーンしてください」と口を開くよう求められ、レイモンドは瞬時に掛布で口元を覆う。
「いやいやいや、お前がハイランバオスだって聞いた直後に飲みにくいだろ」
「ええっ? でもお薬の時間ですし」
「あ、後で飲むから置いといてくれよ。ほら、そこの台の上に」
「もう、約束ですよ? 私、イェンスさんにあなたのことくれぐれもよろしくって頼まれているんですからね!」
栄養剤を追いやってレイモンドはふうと息をついた。効果てきめんの薬だが、今となっては怪しげな液体にしか見えない。拒みたくなるのも無理はなかった。
「あ、そうそう、イェンスさんと言えば」
と、ハイランバオスは続けてルディアを振り返った。
「彼にはフサルクの入れ替わり蟲、それと守護霊フスについて、治療費代わりに話してもらおうと考えているんです。特にフス――祭司の『本体』がどこにあるのか」
「……!」
こいつと眉間のしわを濃くする。入れ替わり蟲の話はもちろん、フスの話も軍医の前ではしていない。盗み聞きさせていたなとルディアは肩越しに鳥籠を睨んだ。小さな容疑者はどこ吹く風で窓の外など眺めている。
「おや? 噂をすればなんとやら。イェンスさんが面会においでみたいですね。急いで玄関を開けてさしあげなくては!」
表通りに向かって鷹が鳴き声を上げるのを聞いてハイランバオスはくるりとターンした。そのまま彼は楽しげにスキップで一階に下りていく。足音が遠く聞こえなくなると、ルディアは残った二人と目を見合わせた。
頭の整理はまだ誰も追いついていない様子だ。レイモンドも、アルフレッドも、これ以上ない困惑の表情を浮かべている。
「……なんなのあいつ? マジでハイランバオスなの?」
引きつった笑みを浮かべ、槍兵は開けっ放しのドアに目をやった。「俺あんな奴の治療なんか受けてたのかよ」とぼやくのでシッと人差し指を立てる。
「滅多なことを喋るんじゃない」
顎で猛禽の存在を示すとレイモンドはハッと舌を引っ込めた。緊迫感のある静寂が病室を包む。なんとも言えない重い空気を破ったのは遠慮がちな騎士の声だった。
「……ところでイェンスという人は、お前の親父さん……なんだよな? 新聞にはそこまで書いていなかったんだが、どこでどうやって会ったんだ?」
おずおずとしたアルフレッドの問いかけに別の気まずさが発生する。槍兵は酷く答えにくそうに視線を斜め下に逸らした。
「あー、その、会ったっつーか無理矢理引き合わされたっつーか……」
「無理矢理引き合わされた? 誰に?」
「オリヤンさんって俺の知り合い。コリフォ島出てすぐ俺ら、トリナクリア島に漂着してさ」
二人の会話はあまり長く続かなかった。階下から「レイモンドさんのご友人がいらしてるんですよ!」とはしゃいだ声が響いてきたせいだ。
間を置かず現れたイェンスの風貌に、アルフレッドは少なからず驚いた様子だった。顔に刺青をすることも、熊の頭がついたまま毛皮をマントにすることも、アクアレイアではないことだ。しかもイェンスは顔も身体も傷跡だらけでどう見ても堅気の人間には見えなかった。幼馴染にそっくりで、同時に似ても似つかない男を前に騎士はごくりと息を飲む。
「こちらアクアレイアからお越しのアルフレッド・ハートフィールドさんです」
ハイランバオスの紹介に、なぜお前が間に入ると言いたげにアルフレッドは太い眉を引きつらせた。だがすぐに咳払いで調子を取り戻し、「アルフレッド・ハートフィールドだ。レイモンドとは小さい頃から親しくさせてもらっている」とイェンスに右手を差し出す。
「あ、いや、俺は握手は」
ためらう元神官にルディアは「握ってやってくれ。そのほうが話も早い」とかぶりを振った。イェンスはなお背後の軍医を気にかけていたが、そちらにも気遣い無用の声をかける。
「医者のことなら気にするな。今までここでした会話、全部聞かれていたようだからな」
「ふふっ、すみません」
「??」
状況を掴みきれずにイェンスは瞬きした。ルディアが彼を促すと節くれた手が「じゃあ、とりあえず」とおっかなびっくり騎士の手を握る。
「アルフレッド、イェンスの右肩を見てみろ」
「え? ……えっ!?」
握手したままアルフレッドは背を反らした。何もないはずの一点を見つめ、硬直した騎士の姿にハイランバオスが目を輝かせる。
「私も! 私も祭司フスを拝見したいです!」
「別に構わねーけどお前ら怖くは……」
「うわーっ! すごい! この右手が祭司の右手なんですね!?」
アルフレッドは説明を求めて青い顔を向けてきた。あっちもこっちも難解な話ばかりだなとルディアは小さく嘆息する。
「……とりあえず、今の状況を整理するところから始めよう。アルフレッド、イェンスにはもう脳蟲についても私の正体についても話してある。お前がカロから預かってきた伝言、差し支えなければ彼にも聞かせてやってほしい」
「えっ!?」
真面目さゆえにまだ手を離せないでいたアルフレッドがまじまじイェンスを見上げる。「なんだ、こいつも入れ替わり蟲を知ってるのか」とイェンスのほうは納得顔で頷いた。
「ふふっ、なんだか楽しそうな話題ですねえ。私も同席していいですか?」
と、ハイランバオスがわざとらしく上目遣いで尋ねてくる。ルディアはふうと溜め息をつき、おざなりに返事した。
「その鷹を連れて出ていけと言ってもさっきの脅しを繰り返すだけだろう? 勝手にしてくれ」
「ご明察です。それでは年寄りは膝を休ませていただきますね」
皆さんも良かったら、と医者は丸椅子を回してくる。その一つにルディアが座すと握手を終えた元神官らもそれぞれ腰を落ち着けた。
早々にイェンスが「伝言預かったってお前、カロに会ったのか?」と騎士に尋ねる。アルフレッドはカロの異母兄にジェレムというロマを紹介してもらい、彼の助力でカロの居場所を突き止めたことを説明した。
「あいつは俺に、姫様に『フスの岬へ来い』と伝えろと」
「なんだって? フスの岬?」
「失礼だが、あなたはカロとはどういう関係なんだ?」
ルディアが口を開く前にイェンスが騎士に答える。「あいつとイーグレットがまだ十五、六の頃、おんなじ船で家族みてーに暮らしてたんだよ」と。
「イーグレットは俺たちに生きていくための知恵をくれた。カロは歌とか踊りとか、ずっと楽しめるものをいっぱい残してくれた。全部で四年くらいかな。イーグレットを送ってアクアレイアで別れるまでは、俺たちゃ仲良くやってたんだ」
沈痛な表情でイェンスは目を伏せた。こじれつつある関係に胸を痛めているのだろう。「そうか……フスの岬か」と重い呟きが床に落ちた。
「それってどこにあるんです?」
フスの名前に釣られてか、ハイランバオスが横から尋ねる。すると元神官は冗談のような返事を口にした。
「――世界の果て」
答えたイェンスに茶化したつもりはないらしい。北辺の地の最北辺、大地の尽きるところだと教えてくれる。
「あの岬にはカーモス神を祀る洞窟がある。ガキの頃、俺が閉じ込められてた場所だ。昔からちょくちょく墓参りに行ってたんだよ。……あそこで死ぬはずだった俺の」
イェンスの言葉に食いついたのはハイランバオスだ。軍医は丸い大きな瞳を輝かせ、「なるほど?」と前のめりになる。
「イェンスさん、その岬の洞窟に私を連れていってもらえませんか? それをレイモンドさんの治療費とさせていただきたく思います!」
「へっ? あ、あんなところになんの用事だ? まあ別に、あんたが行きたいっつーなら連れてってやるけど……」
「わあ、嬉しいです! ありがとうございます! それさえ確約してくださるならほかのことはどうだって構いません!」
ハイランバオスは小躍りしながら立ち上がった。フスの岬に行きたがる目的は不明だが、心から喜んでいるらしく、鷹のための大きな鳥籠まで跳ねるように駆けていく。
「やりましたね、ここまで来た甲斐がありました! さあさあ、あなたも出てきてください。すぐにでも今後のことを相談しなくては! さて皆さん、お話の途中ですが、我々は失礼させていただきます。ごゆっくりなさってください! それではごきげんよう!」
詩人はこちらが口を挟む隙もなく、鷹を伴って病室を飛び出ていった。ついさっきまで居座る気満々でいたくせに、ころりと変わった態度と勢いに呆気に取られる。
追いかけるべきか逡巡したが、何を企んでいるのだと問いつめたところで煙に巻かれるのは目に見えた。ならこちらもさっさと話を進めようとルディアは浮かせた腰を戻す。
と、そのとき、向かいのイェンスと目が合った。
「――フスの岬でカロは最後にするつもりだろう。お前はどうする? 行く気はあるのか?」
問いかけにルディアは即答する。
「もちろん行く。いや、行かねばならない」
イェンスはわかったと頷いた。
「トナカイと、トナカイを家畜にして暮らすわずかな者しか訪れることもない北の果てだ。ここらの人間で場所がわかって、辿り着けるとなると俺たちしかいない。必然的にもう一度俺らの船に乗ることになるが、いいか?」
「フスの岬までかかる日数は?」
「真冬でも一ヶ月半あれば十分。カロは徒歩だろうし、多分三ヶ月以上かかるだろうな。十月中旬、二ヶ月後にコーストフォートを出りゃ頃合いだ」
「そうか。頼んで大丈夫か?」
ルディアの問いにイェンスはしばし黙り込んだ。あいつら嫌がるだろうなあ、と元神官はどこか切なそうに呟く。
「俺も説得はしてやるが、お前が直接頭下げにこなきゃだぜ。この頃あいつらに我慢させすぎてるしな。船動かすならできるだけ納得させてやりたいんだ」
「元よりそのつもりだ。いつ行けばいい?」
「……そうだな、明日の朝にでも。お前が来るってことだけは先に伝えとくよ。来たばっかりで悪いが、今日はこのまま船に戻るぜ」
そう言うとイェンスはのっそりと熊の頭を揺らして立ち上がった。「重ね重ねすまない」と詫びるルディアに彼は「お前のためじゃない」と肩をすくめる。
「良かったな。大変なときに友達が来てくれて」
イェンスは寝台を振り返り、柔らかい眼差しを向けた。渋面の息子に悪態をつかれる前に元神官は階段のほうへ歩いていく。その足音が遠ざかり、階下に聞こえなくなると槍兵がぼそり呟いた。
「……行かなくていいんじゃねーの? そんな何ヶ月もかかるほど遠いところなら、このままサールに逃げちまえば」
そう来るだろうなと思った。わかりやすいレイモンドにルディアは苦笑いを浮かべる。
「お前とアルフレッドはそうしろ。行くのは私一人でいい」
何を言っているんだという顔で騎士がこちらを見つめてくる。レイモンドは顔を真っ赤にして怒り、「だからその、命をもって償うとかいう考え方やめろよ!」と叫んだ。
「逃げたって同じだ。どのみちカロは私を探し回る。お前みたいな怪我人を、悪くすれば死人を増やしながらな」
「だけどさあ……!」
熱くなりすぎ、槍兵はうっと身を引きつらせた。「傷に障るぞ。大人しくしていろ」とたしなめる。つらそうに歪んだ目が睨んできても見ないふりをして。
「ちょっと待て、一体どういうことだ? まさかとは思うが、あなたはカロに殺されてやろうと……」
アルフレッドはアルフレッドでルディアが死を考えていると知って動揺したようだった。また長い説教をされそうだなと嘆息する。だが懐から白い封筒を取り出した騎士が告げたのは、まったく予期せぬ言葉だった。
「俺がカロを追っていたのは陛下からあいつへの手紙を渡すためだったんだ。暗号で書かれていたから内容まではわからないが、読み終わった後カロは何か考え込んでいる風だった。こっちはあなた宛ての手紙だ。結論を出すのは陛下の考えを知ってからにしてくれないか?」
えっとルディアは目を瞠る。アルフレッドはイーグレットが手紙をチャドに託したため、自分もブルーノもサール宮まで気づかなかったのだと話した。
「すまない。すぐに渡せば良かった。何しろ話すことが多すぎて」
「お、おい、早く読もうぜ」
レイモンドが割り込んできて急かす。差し出された手紙を受け取り、震える指で中身を抜いた。そっと開いた二枚の便箋には、懐かしく見覚えのある字が記されていた。
『――ルディアへ。
別れの言葉は直接伝えられそうにないので、この手紙をチャド王子に預けることにした。お前の意見も聞かず、一方的に亡命の手はずを整えてすまない。だがお前やアウローラをコリフォ島に連れていくことは断じてしたくなかったのだ。ジーアンはまだ王権放棄のほかには何も言及していない。この先も続く長い人生を小さな島で過ごすのは私一人で十分だろう。お前はこのまま自由になりなさい。王国のことも、血筋のことも、全部忘れてしまっていい。お前はもはや、お前が何者であるかに縛られずとも構わないのだ。これからは自分のために生き、幸せを掴みなさい。
私はお前の意志を尊重する。お前が平穏を望むにせよ、激動に身を投じるにせよ、私の存在がお前の足枷とならないように努めるつもりだ。私自身は最後までアクアレイアの王である己を忘れずに生きようと思う。
お前の耳には様々な形で私の状況が伝わるだろう。だがお前が思い悩む必要はない。たとえ冠を失っても王の道を歩み続けると決めたのは私なのだから。
ねえルディア、私はお前に随分寂しい思いをさせてきたね。許してほしいと詫びることもできないほどだ。お前は素直で賢くて、私の告げた言葉の意味をいつもよく考えてくれた。私が誰も信じてはいけないと言ったことも、お前は悪く受け取らないでいてくれていた。
今それを撤回したい。今更何をと思うかもしれないが、私はとても後悔している。お前に愛さえ信じるに値しないと教えたこと。
お前は心根の強い子だ。きっと私とは違う道を行ける。――だからルディア、ひとりぼっちにならないでくれ。お前がこれからどこでどんな風に生きるのだとしても、必ずお前に寄り添ってくれる誰かがいるはずだ。その誰かがお前と喜びをともにしてくれることを願っている。何かを諦めて生きるには、お前はまだ若すぎるのだから。
愛している。私のたった一人の娘よ。どうか幸せになっておくれ。
――イーグレット』
重い息を吐いた後、ルディアが便箋を畳み直すと、槍兵が「俺も見たい」とせがんできた。手渡してやればレイモンドは熱心に読み込み始める。再び顔を上げた彼は「ほら!」と瞳を明るくした。
「やっぱ陛下も言ってんじゃん。あんたに生きて幸せになれって!」
「ああ、カロもあなたも少し冷静になったほうがいい。考え直してくれ」
頷けと言わんばかりの二人に曖昧に笑う。どう諭されてもそんなことできるはずがないのに。
「……少し一人で考える時間をくれないか? どうも今日は、一度に色々聞きすぎたみたいだ」
息苦しさに耐えかねて乞うたルディアに二人は心配そうな目を向けてきた。
「報告しすぎたのは確かだが、この診療所であなたを一人にさせるのは……」
もっともな苦言を呈するアルフレッドに「ハイランバオスなら平気だろう。意図があって我々を助けたのだから、現状危害を加えてくることはあるまい」と己の見解を伝える。
「アルフレッド、お前はレイモンドについていてやってくれ。私は上で用事を片付けてくる。レイモンド、お前はその間に王都で別れてからの話をこいつにしておいてくれないか?」
二人はやや戸惑いがちに頼まれ事を引き受けた。槍兵から手紙を引き取ると案じる視線を振り切ってルディアはくるりと踵を返す。
病室を出て一歩ずつ、重い足を引きずりながら階段を上がった。厨房のある最上階まで。
(……馬鹿だな二人とも)
愛情に満ちた遺書を抱き、皮肉な笑みを浮かべる。一体どう考えを改めろと言うのだろう。冷静になればなるほど嘘の重さがのしかかるのに。
(これは私に宛てられた手紙じゃない。『ルディア』に宛てられた手紙じゃないか)




