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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第2章 地の果てまでも
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第2章 その10

 くああと大きくあくびして、レイモンドは読み飽きた新聞をベッドの片隅に追いやった。目を覚まして今日で三日目。懸念していたスヴァンテたちの押しかけもなく、時間は至って平穏に流れている。

 入院生活をひと言で表すなら退屈だった。激怒したルディアが持って帰ってきた『ゴールドワーカー・タイムス』はもう何十回読み直したかわからない。熱っぽいのもまだ引かないし、はっきり言って寝るしかなかった。瞼を閉じるとあれこれと考えすぎて嫌なのだが。


(なーんかあいつ、最近元気ないよなあ……)


 覇気に欠けたイェンスの笑い顔が脳裏によぎって眉をしかめる。今日はまだ見舞いにも来ていないし、やはり船でひと騒動あったのだろうか。フスが皆を静めてくれたから大丈夫、とは言っていたけれど。


(あのフスってなんなんだろ。幽霊にしか見えねーのに、自分は幽霊じゃないとか言うし)


 あんなものが実在するということは、呪いの話も祈りの力も本物ということなのだろうか。それともカロに出くわしたのがお守りを捨てた直後だったからそんな気がしてしまうだけか。


「…………」


 しばし考え込んだのち、レイモンドはやめやめと首を振った。確かなのは己のこの目で見たものだけだ。フスの存在は認めるとしてもほかの力まで信じるには値しない。大体祈ってなんとかなるならイーグレットは助かっていたし、己とてもっと信心深い男になっていただろう。波の乙女アンディーンは「国籍を得るために五十万ウェルス欲しい」というレイモンドの願いを耳にも入れてくれなかったのだ。万策尽きて精霊にすがるしかなかったのに、見捨てられたことはまだ忘れていない。


(まああのときは、俺がアクアレイア人じゃなかったから加護の対象外だったのかもしんねーけど……)


 いやいや、だから不確実な事象に振り回されるのは良くないってばと思考を散らす。さっさと眠ってしまおうとレイモンドは頭から薄い掛け布を被った。

 階段を昇る足音が響いてきたのはそのときだ。浮かれた足取りでそれは病室に近づいた。


「ねえねえ、これを見てください! ほら、ほらここ! 私のことが書かれていますよ!」


 テンション高くドアを開けたのは薔薇色の頬をしたディランだった。軍医は新聞らしきものを掲げて中央を指差している。「えっ!?」と閉じた目を開き、そろそろと半身を起こしてレイモンドは持ち込まれた亜麻紙に目をやった。


「『なんとも物好きなよそ者ドクターがイェンスの息子を下宿兼診療所に入院させている。周辺住民は恐れをなして親類縁者の家に避難中だ』…………」


 どう見ても『ゴールドワーカー・タイムス』の第二号である。あいつ微塵も反省してないなとレイモンドは口角を引きつらせた。

 読み込んでみればカロが荷運び人夫として働いていたこと、やたら独り言の多い危険人物として有名だったことなどが前回よりも詳しく記述されている。診療所に関しても、住所や医師の名前こそ明記されていないものの特定は容易そうだった。


「私、他人を題材に詩を書くことはよくありますが、自分が題材にされるのは初めてです! あはっ! この新聞、記念に残しておかなくては!」

「喜んでる場合かよ……」

「それもそうです! ブルーノさんにも大急ぎで自慢してきますね!」


 記念日に美しい花束を貰った少女のように『ゴールドワーカー・タイムス』を抱きしめてディランは屋上で包帯を干すルディアのもとに跳ねていった。

 数十秒後、金細工師の名を叫ぶ声と診療所を飛び出す足音が響き渡ったのは言うまでもない。




 ******




 向かいから来る荷運びの列が騒々しいのに気づいたのはコーストフォートの街並みが丘の裾野に見え始めた頃だった。


「おーい、誰か字の読める奴はいないかー」


 そんな呼びかけを耳にしてアルフレッドは頭を上げる。すると前方に大きな亜麻紙を手にした若いパトリア人が見えた。


「この新聞ってのにこないだの、例のロマの事件について書いてあるらしいんだがよー」


 ぴくりと耳を跳ねさせてジェレムと顔を見合わせる。例のロマの事件と聞き、うっすら嫌な予感がした。

 街道もそろそろ終わりが近いのに、アルフレッドたちは依然カロに出会えていなかった。最初はたくさんいたロマも一日、二日と経つにつれて数が減り、三日目の今朝はただの一人ともすれ違っていない。もしやカロはなんらかの形で事件に巻き込まれたのではないか。そう懸念していたところだったのだ。

 ジェレムたちが道端に立ち止まると、アルフレッドは手伝いを求める人夫のもとに駆け寄った。「貸してくれ。俺が読もう」と申し出る。


「おっ!? あんた傭兵かい? こいつはありがてえ」


 差し出された新聞とやらは二枚あった。一枚目には今日の日付、二枚目には三日前の日付が記入されている。どちらも多数の人間の手を渡ってきたようでかなりしわくちゃになっていた。アルフレッドは丁寧に亜麻紙を伸ばし、初めから音読を始める。


「『白昼の惨劇! 容疑者は邪眼のロマ!』――じゃ、邪眼のロマ!?」


 一行読んだだけでカロが関係したのが知れる。びっしり文字の書き込まれた亜麻紙を読み進め、アルフレッドは更に驚愕した。


「『八月十日午後三時半過ぎ、金細工師パーキン・ゴールドワーカー氏の工房で二人の若者がロマの襲撃を受けた。一人はブルーノ・ブルータス、もう一人はレイモンド・オルブライト』……!?」


 どうやらこちらの心配は大当たりだったらしい。まさか被害者が主君と友人で、カロが事件を起こした張本人だったとは。なんということだ。こうなる前に自分が止めねばならなかったのに。


「なあ、ほかは何が書いてあんだ? そのアクアレイア人たちは確か助かったんだよな?」

「あ、ああ。治療を受けて快方に向かっていると書かれている」


 仕事を放って周囲に群がる荷運びたちにアルフレッドは動揺を隠しきれないまま続けた。


「『邪眼のロマは無差別に市民を狙ったわけではなく、この二人と浅からぬ因縁があるらしい。レイモンド・オルブライトの父にして北辺海の呪われし化け物イェンスは、黄金の右眼を持つロマをカロと呼び、再度襲撃があるやもしれぬことを告げた。とはいえ我らがコーストフォート市議会は既にあらゆるロマを街から追放済みである。この措置が続く限り、凶悪犯に都市再来は叶わぬものと思われる』……」


 いつの間にやらジェレムたちもしれっと人だかりに紛れ、新聞を読み上げるアルフレッドの声に聞き入っていた。

 一枚目を読み終わり、二枚目も音読する。こちらには奇特な外国人ドクターがレイモンドを自分の診療所に入院させたこと、荷運び人夫の証言したカロの人となり、現在市議会で話し合われている容疑者対策などが書かれていた。


「おお、兄ちゃんありがとよ! これでようやく安心して眠れるぜ。あのロマ別に俺らに呪いを撒き散らしに来たわけじゃねえんだな」


 若い人夫はほっと胸を撫で下ろし、折り畳んだ新聞を懐にしまいこむ。荷袋を担ぎ直して駆けていく彼の背をまだどこか物足りなさげな者たちが「おい、人相書きとか入ってなかったのかよ」と追いかけていった。


「…………」


 呆然と立ち尽くす。どう動くべきか決めかねて。

 足はすぐにも主君のもとへ馳せ参じようとしていた。重傷だという幼馴染も早く見舞ってやりたかった。――だが。


「……この辺は山も低いし森もそう深くねえ。隠れるところなんて限られてる。もし自警団に山狩りなんかされたらまずいぞ」


 ジェレムの舌打ちに振り返る。老ロマはアルフレッドの腕を掴み、「こっちだ」と街道を逸れて歩き出した。

 もたもたしていたら機を逸する可能性が高い。先に仲間の無事を確かめたい気持ちを飲み込み、アルフレッドは老ロマに従った。ジェレムはカロの居所に心当たりがあるらしく、迷いもせず夏草茂る野山へと分け入っていく。


「殺し損ねた相手をもう一度狙うならそんなに遠くへ行かないだろう。ロマが野営しそうな場所なら見当がつく。十中八九そこにいる」


(殺し損ねた相手……)


 穏やかならぬ言葉にごくりと喉が鳴った。トゥーネたちも緊張に息を詰める。

 ジェレムは明るいブナの森をずんずんと突っ切っていった。緑の奥から川のせせらぎが聞こえてくる。やがて視界は大きく開け、光を受けた水面が眩しく輝くのが見えた。慎ましい渓流に沿い、次にジェレムは低い山を登り始める。


(ちゃんと話し合いできるんだろうか)


 砂利を踏みしめ歩きつつ、アルフレッドは黙考した。カロは実際にルディアやレイモンドを傷つけるほど激しい怒りに囚われているのだ。こちらにも刃を向けてこないとは言いきれなかった。


(もし手紙を渡した後も心を変えてくれなかったら……)


 想像してかぶりを振る。渓谷を吹き抜ける風にぶるりと身を震わせた。

 ジェレムの導く道はだんだんと険しく、歩きにくくなってくる。小さな滝を越えたところで足場はいよいよ悪くなった。

 大岩をぐるりと迂回し、繁茂する草むらを跨ごうとしてアルフレッドはふと立ち止まる。そこに自分たちのものとは違う足跡を見つけて。


「……これは……」


 傍らの老ロマも足を止め、道なき道に刻まれたそれを凝視した。真新しい、大人一人分の足跡。よくよく見れば足跡はほぼまっすぐに、岸辺の茂みの更に奥へと続いている。

 カロがこの近くにいる。確信に心臓が跳ねた。


「……よし、行こう。なんとしてもこれ以上の報復行為はやめさせないと」


 アルフレッドは意を決し、草むらを歩き出した。だがすぐに誰もついてきていないと気づいて振り返る。

 見れば女たちは老ロマの足止めを受けていた。痩せぎすの腕に通せんぼされ、フェイヤとトゥーネが戸惑っている。


「な、何してるんだ?」


 呼びかけるとジェレムは静かにアルフレッドに向き直り、真摯な目で別れを告げてきた。


「俺たちが同行するのはここまでだ。カロのところへは一人で行け」


 えっと声を漏らしたのは己だけではなかった。フェイヤも驚いた顔で老人を見上げる。トゥーネのほうはこうなるだろうと薄々勘付いていた様子だった。


「な、なんで? どうして? 最後まで一緒に行こうよ。アルフレッド一人でなんて心配だよ」


 ジェレムの脇をすり抜けた少女がアルフレッドの足にぎゅっとしがみついてくる。老ロマは「駄目だ」と首を振り、その理由を言い聞かせた。


「俺たちが一緒だと、いざってときこいつの判断を鈍らせる。親子と呼べない親子でも、カロは血の繋がった息子だからな」


 老人の手がフェイヤを足から引き剥がし、トゥーネのほうへそっと押しやる。「もう少し進んだ先に洞穴があって、多分そこにいる」と彼はこちらに茂みの奥を指し示した。


「心得ているつもりだ。あいつがお前の説得に応じなければ、お前がその剣を抜かなきゃならんということは」

「ジェ、ジェレム……」

「あいつがあいつの決めたことを譲らねえんなら、お前もお前の決めたことを貫けばいいさ。それは俺たちの口出しすべき問題じゃない。歌を伝えてほしいとは言ったが、あいつが聞く耳持たなきゃ忘れろ。どんな結果になっても俺はそのまま受け入れる」

「…………」


 カロと自分たちの間にどんないざこざがあったのか、アルフレッドは彼らに詳しく明かしていない。最初にカロのところへ連れていってくれないか頼んだとき軽く説明した程度だ。それなのにジェレムは話が通じなかったときのことまで考えていてくれたらしい。


「……すまない……」


 頭を下げたアルフレッドに老ロマはふっと笑った。背中のリュートをこちらに差し出し、穏やかな口調で彼は続ける。


「こいつはお前に渡しておく。楽器がなけりゃドヘタクソな歌が伝わることになっちまうからな」

「はは……。けどいいよ、これはジェレムの商売道具だろ? 俺のリュートは俺がどこかで見繕うから」

「調律もできないくせに遠慮するな。それと困ったことがあればその辺のロマに言え。俺の名前を出せば手伝ってもらえるようにしておく」

「ちょ、ジェレム! 本当にそこまでしてくれなくていい。もしかしたら俺はカロと刃を交えるかもしれないのに」


 固辞は耳に入れてもらえなかった。「お前の剣を売り払っちまったせめてもの罪ほろぼしだ。リュートは買うか拾うかするから気にするな」と結局押しつけられてしまう。


「……アルフレッド、お前ならきっと上手くやれる。頑張れよ」


「じゃあな」と踵を返したジェレムに続き、トゥーネも控えめに手を振った。大人たちの後ろ姿を気にしつつ、フェイヤもこちらの手を握り、「死なないでね。また会いにきてね」と目を滲ませる。

 三人が渓谷を下っていくのを見送って、アルフレッドは唇を引き結んだ。

 どんな結果になったとしてもそれをそのまま受け入れる――。

 味方に戻るなら味方として、敵になるなら敵として、己もまたまみえる覚悟をしなければ。

 冷たい風が吹いていた。

 夏の暑さをやわらげるありがたい涼風のはずなのに、どうしてか手が震える。




 ******




 ――いつかまた、君と一緒にこの空を眺めたいな。


 濃紺の天にたなびく極彩色のオーロラを瞳に映した彼が囁く。少し名残惜しそうに、けれど先の楽しみにうっすらと微笑んで。

 ああ、これからは約束がないと当たり前に見ていた景色を一緒に見ることもできないのか。そう考えて無性に寂しくなったのを覚えている。

 最後にオーロラを目にしたのはイーグレットが十九歳の冬だった。二十歳で王国を継ぐことになっていた彼は、翌年にはアクアレイアに戻っていなければならなかった。

 夢のような、なんのしがらみもなく側にいられた時代の終わりを予感して、漠然とした不安があったのは確かだ。それでもまだあの頃は「アクアレイアに帰っても離れ離れになるわけじゃない」「自分たちはいつまでも一番の友人だ」という希望を持てていた。だから自分も、疑いなく彼にこう返せたのだ。


 ――ああ、いつかきっと二人でまた旅をしよう。イェンスたちのところまで。


 北の果ての岬で満月とオーロラを見上げた。薄衣を纏う星々が美しく輝いていた。

 自分たちは一体いくつ約束して、その中のどれくらいを守ることができたのだろう。

 イーグレットが国王になっても側にいる。あの抜け道を使って会いにいく。そんな簡単なことさえ続けられなかった。

 なあ、だけど俺は、ただの一日さえお前を忘れたことなんかなかったんだ。なかったんだよ、イーグレット。


「――……」


 誰かの近づく気配にカロはぴくりと瞼を開いた。仮眠を取っている間、昔の夢を見ていたらしい。

 一瞬感覚が混乱して友人が呼びにきたのかと勘違いした。亡霊が音を立てぬことを思い出し、すぐさまナイフに手をかけたが。


(……自警団の連中か?)


 数がいたら面倒だなと洞穴の入口を窺う。だが見えた影は一つだけだった。追い払えそうな相手かどうか目を凝らせば向こうもこちらを覗き込んでいるのが窺える。


「――カロ?」


 名前を呼ばれて身構えた。誰か即座に知れたからだ。「俺だよ、アルフレッドだ」と赤髪の騎士は外に出てきてくれないか乞うた。


「…………」


 罠を警戒して息を潜める。あの男もルディアの仲間だ。こちらが再度打って出る前に先制に訪れたのかもしれない。


「俺以外は誰もいない。お前が何かしてこない限り、剣を抜くつもりもない。……サール宮でアイリーンに会って、大体の話は聞いた。俺はお前に陛下からの手紙を渡したくて来たんだ」


 手紙との言葉に意表を突かれた。お前いつの間にそんなもの、と思わず後ろの少年を振り返る。するとまたしても想定外のことが起こった。あたかも月に引き寄せられる潮のようにイーグレットが突如外へと歩き出したのだ。


「お、おい」


 彼を追いかける格好でカロも暗い穴を出た。アルフレッドは王の亡霊に気がつかなかったらしい。姿を現したこちらに対し、「良かった」と表情を緩める。そのまま騎士はいつもの集まりの延長のように懐の封筒を取り出そうとした。


「こっちがお前宛ての――」

「どうして俺がここにいるとわかった?」


 台詞を遮って問いかける。眼光鋭くねめつけるカロにアルフレッドはさらりと答えた。


「ジェレムが送ってくれたから」


 ますます事態が飲み込めなくなり、盛大に顔をしかめる。「ジェレムだと?」とすっかり遠ざかっていた男の名前を繰り返した。


「ああ、アクアレイアからここまで彼の一行に仲間入りさせてもらっていた。お前にな、可哀想なことをしたと言っていたよ。黄金の右眼を忌まわしいものと信じ込んで、間違った恨みを抱いてしまったと。……このリュート、見覚えないか? 俺もそこそこ弾けるようになったんだ。お前にロマの、望郷の歌を伝えてほしいと頼まれてな」

「…………?」


 言葉の意味を測りきれずに当惑する。

 望郷の歌を伝えてほしい? ジェレムがそう言ったのか? アクアレイア人を庇うならお前はもうロマじゃないと追い出したのはあいつなのに?


「歌なんかどうだっていい。手紙とやらをさっさとよこせ」


 アルフレッドがルディアの使いでないとわかるとカロはナイフから手を離す。騎士はなお「ジェレムは本当にお前のことを気に病んでいて」としつこかったが「うるさい」と突っぱねた。

 今更父親の話など聞く気はなかった。ロマの誰も、こちらを見ようともしなかったくせに。初めて優しさを教えてくれたのはイーグレットだ。ほかのことに、しかもあんな薄情な親のことにかまけている暇はない。


「……手紙はこれだ」


 嘆息とともに差し出された封筒を奪い、中身を取り出す。筆跡は確かに友人のものだった。宛名以外、すべて見慣れた暗号で書かれている。


(イーグレット)


 生の声が甦るようで胸が詰まった。そんなカロを案じてか、すぐ隣に少年が寄り添い立つ。


「陛下がアクアレイアを追放される直前に、チャド王子に託したらしい。お前への手紙とルディア姫への手紙。……陛下が最後に言葉を残したかった相手はお前と姫様だったんだ」


 諭すような声の響きに顔を上げた。アルフレッドは「それを読んで、どうか考えを改めてほしい」と勝手な要求を告げてくる。


「俺にはなんて書いてあるのかわからなかったが、お前と姫様が傷つけ合っているのを見たら陛下は悲しまれると思う。なんだったら姫様宛ての手紙のほうも読んでくれて構わない。だから……」

「お前ちょっと黙ってろ」


 鬱陶しいお節介を短く制して数枚に及ぶ便箋を開く。やっと邪魔だと悟ったか、騎士はしばらく口を閉じることにしてくれたようだ。カロは息をするのも忘れ、長い遺書に目を走らせた。

 暗号で書かれていると言っても難しい代物ではない。パトリア文字を使ってロマの言葉を再現しているだけだ。ロマは文字を持たないから、音を記してもロマには読めない。パトリア人には音がわかってもロマの言葉がわからない。更に北辺の神官のみに伝わるフサルク文字を混ぜ込んであるので解読できる者は非常に限られていた。アクアレイアでは己とイーグレットの二人だけだったと言っていいだろう。


「――……」


 一読を終え、カロは心臓がばくばく跳ねているのに気がついた。――なんだこれは? なんなんだこれは? 動揺と拒絶とが頭をぐるぐる駆け巡る。


(これがイーグレットから俺への遺言だと……?)


 信じられない。信じたくない。どこかで読み間違えたのだと思いたかった。だってこんなのあまりに無慈悲ではないか。


(嘘だ)


 冷えきった指を無理やり動かし、カロはもう一度頭から手紙を読み直した。内容は初めに読んだときと一切変わらなかったけれど。


『……君に手紙を書くのはこれが最後になると思う。君はいつでも私を案じてくれているのに、一緒に逃げようという君の申し出に応えることができなくてすまない。私はコリフォ島へ行く。しかしこれは強制されてのことではなく、自らの意思でだ。どうかアクアレイアの民を恨まないでほしい。

 君には話したいことが山ほどあるのに、果たしていない約束もまだたくさん残っているのに、時間というのは待ってくれないものだね。情勢がもっと落ち着いて、王国に平和が訪れたら、今度こそ君と別れ別れになっていた二十年間のやり直しをするつもりだったんだ。本当だよ。……けれどもはやそれも叶うまい。だからここに一つだけ白状しておく。

 君が「いい夫婦になれ」と言ってくれたのに、私の結婚生活は最初から破綻していた。妻はグレディ家の手先で、私には彼女を変えることができなかった。ルディアが生まれてからも状況は悪くなる一方だったよ。宮中から私の味方はいなくなり、ディアナは儚く世を去って、娘はグレース・グレディの操り人形と化した。何もかもめちゃくちゃにされたのに、私にはグレースを憎む気力も残っていなかった。君をアレイア地方から追いやって以来、私は自分を責めてばかりいたんだ。何を失い、何を奪われても、己の不甲斐なさが悪いと考えることしかできなかった。いつしか何にも逆らわなくなり、自分は無価値だ、王としての資格など――いや、生きる資格さえないと考えるようになっていた。私は孤独だった。君との友情も永久に損なわれた気がした。

 そんな私にある転機が訪れた。ルディアが重い病に倒れたのは私が死を考え始めた頃のことだ。娘を回復させるのに私は必死だったけれど、内心では彼女がいなくなったらまた自分にかかる重圧が増すと怯えていただけかもしれない。私は卑怯な臆病者になっていた。ルディアも少なからずそうなっていた。だがあの子には奇跡が起きたのだ。

 熱が下がって次に目を覚ましたとき、あの子は何も覚えていなかった。私への親愛を示してはいけないとグレースに強く戒められていたのに、あの子は私の手を握り返してくれた。初めて君の右眼を見た、遠い日のことを思い出したよ。私はもう一度立ち上がろうと決心した。今度こそ娘とともにグレディ家と戦おうと。

 それからは毎日、大変だったが張り合いもあったな。記憶の底に沈めていた君との思い出も徐々に甦らせることができるようになった。ルディアは二度とグレースの色に染まらず、君の予言した通り、父親思いに育ってくれた。私は全身全霊であの子を守ってきたつもりだ。できることはなんでもしたし、なんにでも耐えた。くじけそうになったときは、君が名前をくれた娘だろうと自分を奮い立たせて。

 ――カロ、君に頼みがある』


「……ッ」


 その先は読みたくないと無意識に手紙を握り潰した。アルフレッドが驚いて瞠った目をこちらに向けてくる。

 ぐしゃぐしゃに丸めた便箋を地面に叩きつけようとして、どうしてもできずに唇を噛んだ。そのままその場に動けなくなる。なぜなんだと責める声ばかり胸にこだまして。


「……おい、もう一通あると言ったな?」


 見せろと凄むとアルフレッドは警戒しつつルディア宛ての手紙を差し出した。通常のパトリア文字で記されたそれに目を通し、全身の震えが過ぎるのを待つ。

 隣にいるイーグレットを振り向くことができなかった。

 友人の顔を見たら半狂乱で喚き散らしそうだった。お前はあの女に騙されたんだぞ。蟲に娘のふりをされていただけなんだぞと。


(これがお前の未練なのだとしたら俺は――)


 止まった思考はなかなか動こうとしなかった。あんまり長く無言でいたので気遣わしげにアルフレッドが覗き込んでくる。

 冷静になる時間が必要だった。何日あれば、何ヶ月あればそうなれるのかは見当もつかなかったが。


「……っ」


 歯を食いしばる。恨むななんて不可能だと立ち尽くした。

 恨まなければ、怒らなければ、あいつらのやり方を認めてしまうことになる。かけがえのない友人の命を自分まで軽んじることになる。そんなことが自分にできるはずがない。


「……なんて書いてあったんだ? お前への手紙には」


 無遠慮な問いにカロは目尻を吊り上げた。アルフレッドにルディアへの手紙を突き返し、自分宛てのそれは着古した薄いコートのポケットに押し込む。

 知りたいと言われても話す気になれなかった。あまりにも認めがたく、口になどできそうもなく。


「………………」


 また沈黙。長い沈黙。振り払うべき迷いの分だけ重い。


「……あの女に伝えろ。フスの岬まで来いと」


 かろうじて絞り出せた言葉はそれだけだった。「フスの岬?」と尋ねる騎士に「イェンスに聞けばわかる。二人ともすぐそこの街にいる」と教える。


「カロ、姫様を呼び出してどうする気だ? お前もしかしてまだ」

「決着をつける。あいつの死か、俺の死という形でな」

「カロ! だが陛下はお前に――」

「他人のくせにあいつの思いを語るのはやめろ!」


 びりびりと空気が揺れた。こちらの剣幕に押されてアルフレッドは声を失う。


「……いいな、フスの岬だ」


 引き留めようとする男の肩を突き飛ばし、渓流のほうへ歩き出した。歩みは次第に逃げるような早足に変わっていく。砂利に滑りそうになりながら、浅瀬の水を跳ねさせながら、川を渡り、ブナの森に分け入って、走って、走って、どうにか振り切ろうとした。イーグレットは喜ばないかもしれないという疑いを。


「ッ……!」


 木の根に足を引っかけて、カロは激しく横転した。緩やかな斜面を転がり、こぶの目立つ老木にぶつかってやっと止まる。

 なんて無様なのだろう。なんて無様なのだろう。


「はあ……っ、はあ……っ」


 息を切らして頭を起こし、今度は心臓が止まりかけた。真っ白な亡霊と目が合って。


「――……」


 そこにいるのが誰なのか、すぐには理解できなかった。理解すれば終わってしまう、そういうものだと見た瞬間にわかったから。

 イーグレットはケープを羽織った少年ではなくなっていた。長い外套に王冠を戴いた彼の姿は、カロがジェレムと決裂し、アクアレイアを去ったその日のものだった。


「イ……、イーグレット……?」


 若き王はすまなさそうに目を伏せる。やめてくれ、と絶叫しかけた。

 恐れていたことが起こったのだ。彼に許された最後の時間が使い果たされてしまった。

 青年はくるりと背を向けて歩き出す。茂みの奥に消えようとする友人をカロは慌てて追いかけた。

 行かせたら二度と会えない。その直感はどうやら正しかったらしい。巨木の向こうに白い影を見失うと、どこを見ても、どんなに目を凝らしても、濃い緑以外何も見えなくなってしまった。


「イーグレット!」


 灌木を踏み荒らし、血眼になってカロはイーグレットを探す。まだ行かないでほしかった。一人にしないでほしかった。たとえ自分が間違っているのだとしても。


「きゃっ……!」


 細い林道に飛び出したとき、生きた人間とぶつかった。薬の入った籠と一緒に痩せた女が引っ繰り返る。

 その顔を見て息を飲んだ。彼女もここまで来ていたのかと。


「……アイリーン……」


 アイリーンはいつも以上にぼろぼろの身なりだった。数日は山を歩き回ったに違いない汗臭さで、服も身体も汚れきっており、頬はげっそりこけている。こちらに気づくとアイリーンはハッとして双眸を潤ませた。


「カ、カロ。わたし、私、あなたのこと探して……っ! コーストフォートで事件があったって聞いて……っ!」


 彼女は遭難したのではなく自分を追ってきたらしい。「生きてて良かった」と涙を流し、アイリーンはカロの胸に飛び込んできた。


「ねえ、もうこんなことやめましょうよ! 姫様を殺したって、あなた寂しいままじゃない! 私が陛下の代わりになるから、私がずっとあなたのこと大事にするから、だからもう復讐なんてやめましょうよ……! わ、私なんかじゃ全然駄目かもしれないけど、でも、でも……っ」


 号泣しながら訴えられる。意外な言葉と必死な彼女にしばし呆けた。


「わたし頑張るから……! お願いだからここまでにしましょう!? 一緒にどこかに、姫様たちとは関係ない国に行って忘れましょうよ! きっとそれが一番いいのよ……!」


 アイリーンはカロが頷くまで離すまいと胸にしがみついてくる。彼女にしては強い力で、強い瞳で。

 気がつけば泣き腫らした双眸に目を奪われていた。それなのにカロは彼女の望む通りに頷いてやれなかった。涙が溢れ続けるのを見ても、ずっと一緒だと約束をくれても。


「駄目だ、アイリーン……」


 細い身体をゆっくりと引き剥がす。もう止まれなくなっている自分に、その愚かさに呆然としながら。

 駄目だともう一度呟いた。心の底に焦げついて離れない悲しみを。


「俺は自分が一番幸せだった頃を忘れられない…………」


 視界が滲む。頬が濡れる。アイリーンは崩れ落ちたカロを抱きしめて一緒に泣いてくれたけれど、やはり考えは変えられなかった。

 俺は憎い。イーグレットのためじゃなく、俺が憎い。俺が許せない。たった一人の友人を奪い去ったあの女を、どうしても。

 炎は強くなりすぎた。もう遅いのだ。何もかも。




 ******




 決着をつけるというカロの宣告を思い出し、アルフレッドは静かに重い息を吐いた。

 歌を伝えるなんて雰囲気ではとてもなかった。手紙を読んで取り乱しはしていたようだが。


(……姫様のところへ行かなきゃな)


 洞穴にロマが戻ってくる気配はない。再度の説得は諦めて、アルフレッドは渓谷を下り始めた。どこかで出くわすかと思ったがそれもなく、すんなり街道まで戻ってしまう。

 荷運びたちは騒々しく塩や木材や毛織物を運んでいた。どこかから「自警団の奴ら、明日山狩りに出るらしいぜ」と声が聞こえてくる。

 フスの岬とかいうところにカロが移ってくれたなら、ひとまず見つかる心配はないだろう。一応ぎりぎりのタイミングで渡すものは渡せたらしい。


(次に会うまでに考え直してくれていればいいんだが……)


 番兵に旅券を提示し、アルフレッドはコーストフォートの市門をくぐった。確か遍歴医師の診療所だったなと知っていそうな人間を探す。

 幸い誰に道を尋ねればいいかは迷わずに済んだ。大きな亜麻紙を熱心に読み込んでいる人々があちらこちらにいたからだ。


「アクアレイア人が入院してる診療所? お、おお、兄ちゃん場所聞いてどうすんだい?」

「怪我をしたのが友達なんだ。様子を見にいってやりたくて」

「と、友達!? ヒエッ……!」


 診療所は有名らしく、住所はすぐに教えてもらえた。そこまで案内してやる猛者はいないだろうから一人で行ってくれということも。


(ああ、これでやっと姫様を側で守れる)


 彼女に会うのは半年ぶりだ。主君のいない半年はなんと長い半年だったか。

 アルフレッドは足早に件の診療所へと向かった。

 自分の届ける手紙が少しでもルディアの慰めになればいい。そう願わずにはいられなかった。





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