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第3章 その2

 青磁色の方形屋根を戴く鍾室に到達するまで果たして何分かかっただろう。汗だくの身をやっとの思いで投げ出したときには空も随分明るくなり、朝靄に覆われた水上都市を太陽が透き通る朱に染めていた。

 幻想的な美観である。だが今は賛美している暇などなかった。足音を忍ばせながら見張り台の上に立ち、ルディアは眼下に目を向ける。

 国民広場、アンディーン神殿、レーギア宮、国営造船所、税関岬に外国商館、グレディ家の大邸宅――一見してどこにも怪しい人物は見受けられなかった。祭りの力で最近の鬱屈を忘れた人々が踊り明かしている程度だ。

 吊り下げられた五つの大鐘を迂回して反対側も見て回る。都の門たる砂洲の向こうに広がったアレイア海はごく静かなものだった。商港に停泊中の船にも妙な動きはない。

 レイモンドとアルフレッドも曲者を発見するには至らなかったようである。うーんと唸り声を上げて槍兵はいつも垂れ下がっている眉を歪めた。


「なんか皆普通じゃね? 変な奴がいたら今のうちにマークしとこうと思ったけど……アルはどうよ?」

「いや、見たところよそ者はいなさそうだ。もしかするとグレディ家は王国内の人間だけで事を企てているのかもしれないな。それかもう、どこかに刺客を潜ませているのかも」

「げーっ! 建物に入られてちゃお手上げだぜ」


 二人の会話にルディアは「ちょっと待て」と割り込む。


「お前たちまさか地元民とモグリの区別をつけられるのか? どいつもこいつも仮面で扮装しているのに?」


 この問いにレイモンドたちはさも当然のごとく頷いた。


「ああ、余裕で見分けられっけど?」

「アクアレイアは水路のせいで橋とトンネルだらけだし、袋小路も多いだろう。並の旅行者ではすいすいと歩けない。素顔は見えずとも足取りの順調さで区別できる」


 ブルーノと入れ替わった当初の己を思い出し、ルディアは確かにと納得した。慣れた者とそうでない者でゴンドラの乗り方一つ違うのだ。彼らの言う通り、刺客は隠れ潜んでいるか王国内部の人間である可能性が高かった。


「仮面がなきゃもっと正確にわかるんだけどなー。前にゴンドラ漕ぎのバイトしてたし、食堂関係の知り合いもいっぱいいるし、結構顔広いんだ、俺。あっこいつ街の人間じゃねーなと思ったときは大体当たってるんだぜ?」


 レイモンドはえへんと胸を張る。アルフレッド曰く、王都に槍兵が知らない人間はいないんじゃないかとのことだった。


「お、王都の人間全員だと……!?」


 なんだこいつ。記憶力に些かの偏重はあるが、実は部隊で一番有能なのではないか。


「おい、お前に頼みがある」

「へっ?」


 ルディアはレイモンドを見上げ、有無を言わせぬ口調で告げた。


「今日の『海への求婚』で指輪争奪戦に参加しろ」

「え!? なんで!?」

「指輪を手にすれば身分を問わず誰でも王に接触できる。危害を加えたい者にとっては年に一度の大チャンスだ。民衆の中に謀反人のいる可能性もあるが、国外のごろつきがまぎれていれば黒で確定だろう。仮面をつけて水中レースに出る者はいないし、お前が参加者をチェックしてほかの隊員に伝えるのが効率的だ」

「あ、あー! なるほどー!」


 レイモンドはぽんと拳を打った。それから不意に黙り込み、へへっと両手を揉み始める。


「それって基本給とは別の報酬を期待しても?」

「ちゃっかりした奴だな。いいだろう、約束してやる」

「やったー! 臨時収入だー!」


 はしゃぐ槍兵にアルフレッドは「こんなときまで金勘定か」と呆れ顔だった。当てこする気はなかったが、その反応を見てつい余計なことを呟いてしまう。


「喜べ喜べ。正直金で動いてくれるほうが助かる」


 鋭い双眸に睨まれたのは直後である。騎士の反応は嫌になるほど正直だった。


「金銭欲が忠誠心に勝ると?」


 怒気を孕んだ低い声。眉間に寄ったしわの深さに辟易する。彼は私をなんだと思っているのだろう。


「誰もそこまでは言っていない。傭兵の質が正規軍の質に劣るのは明らかだ」

「……だったらいいが」


 訝しげな視線に内心舌打ちし、ルディアは再度塔外を見やった。

 アクアレイアの街並みを抱いて佇む潟湖。その西方には神話の時代より君臨するパトリア古王国、東方には膨れ続けるジーアン帝国が迫っている。こんな小さな都市国家、いつ時代の潮流に押し潰されてもおかしくない。

 守りたかった。誰にも荒らさせたくなかった。この美しい宝石箱を。


(私の国だ。私の守るべき故郷だ)


 注ぎ込む淡水と波打つ海水の入り混じるアクアレイアの水盤。陽光を受けてきらめく情景にしばし見入る。

 世界中のエメラルドを溶かしてもきっと同じ色にはならない。どんな大金を積まれてもこの景色だけは譲れなかった。降りかかる火の粉はすべて退けよう。一人決意を新たにする。


「なあ、そろそろ戻ろうぜ。海軍と鉢合わせてもまずいしさ」


 と、ちらちら階下を気にしながらレイモンドが言った。


「そう言えば少し騒々しいようだが、中で何かやっているのか?」

「ああ、部外者の締め出しついでにプチ慰労会やってんだって。ロブスターに焼き牡蠣が食べ放題らしい」

「露骨に羨ましそうな顔をするな。防衛隊にそんな余分な予算はないぞ」

「ああっひでー! 少しくらい希望を持たせてくれてもいいのに!」


 嘆くレイモンドをしんがりにルディアたちは鎖梯子を伝い降りていく。上りは必死で気づかなかったが、確かに美味そうな飯の匂いが早朝の澄んだ空気に混じっていた。

 大鐘楼の封鎖はグレディ家が決行しようとしている事件と何か関わりがあるのだろうか。軍の酒盛りに使用しているくらいだから、無関係の可能性のほうが高いが。


「今日もここは関係者以外立ち入り禁止なのか?」

「レガッタが終わるまで開放はしないってさ。すぐ逃げられる立地じゃねーし、ここから弓で陛下を狙うってこたねーと思うけど?」

「そうか、ならば安心だ。しかし一応警戒だけはしておこ……うわっ!?」


 下段がつかえているのに気づかずルディアはアルフレッドの手を踏みつけてしまう。一瞬足を滑らせかけて冷や汗を掻いた。


「お、驚かせるな馬鹿!」


 この高さから落ちれば即死だ。隠密行動なのも忘れて声を大にする。


「シッ! ――あれを見ろ。グレディ家の方角だ」


 叱りつけたアルフレッドの関心は別のところに向いていた。示された大運河沿いの館を見るも特に変わった様子はない。なんだと顔をしかめたら「裏門に誰かいる」と教えられた。


「……ユリシーズ……!」


 運河に面した玄関ではなく路地に面した勝手口から騎士は屋内へ入っていく。ルディアは「おい」とアルフレッドに呼びかけた。三人とも無言で降りる速度を上げる。

 確かめるのは怖かったが、確かめないわけにもいかない。再び地上に戻ったルディアたちはグレディ家へと駆け急いだ。




 ******




 かつての独立戦争で中心的役割を担い、早くから潟湖(ラグーン)内部に居を構えていたグレディ家の邸宅は大きい。限られた埋め立て地に多数の人間がひしめき合うアクアレイアにおいて、庭つきの家というのはそれだけで豊かな財力と家柄の立派さを証明した。

 小運河を一つ挟んだ石橋の陰に身を潜め、ルディアたちは人気のない裏門を見張る。鉄の門扉は固く閉ざされ、初めから来訪者などいなかったかのように静まり返っていた。

 中にはアンバーが潜伏中だ。放っておいても詳細の報告はあるだろう。だがユリシーズのことだけは自分の目で事実を確認したかった。ハイランバオスの正体がグレースだという話より、彼がルディアではなくグレディ家を選んだという話のほうが信じがたい。初めてワルツを踊ったときからずっと心の支えになってくれた男なのだ。そのユリシーズが聖預言者とグレディ家のパイプ役を務めているなど悪い夢だと思いたかった。


 ――誰も信じてはいけないよ。


 父の忠告が脳裏をよぎる。静寂を破り、裏門が開いたのはそのときだった。


「ユリシーズ様、お待ちください。家に訪ねてきておいて、挨拶もせずお帰りになるなんて! 健気な女に酷い仕打ちではありませんか」


 引き留める娘の声。砂利を踏む靴の音。振り返った白銀の騎士は丁重すぎるほど丁重にお辞儀した。


「これは申し訳ありません。起こしてしまうのが忍びなくて」

「まあ、私たちそんな他人行儀な仲ではないでしょう? 長いことニンフィに釘づけだったあなたが帰ってきたと小耳に挟んで、私眠らず待っていたんですのよ?」


 くねくねと身を捩り、いじらしさをアピールする女に吐き気を催す。令嬢の顔も名前もルディアのよく知るところだった。彼女は母方の従姉妹だし、妙にこちらをライバル視して突っかかってきていたから。


(他人行儀な仲ではない、か……)


 落胆を押し殺し、会話に耳をそばだてる。やはりユリシーズがグレディ家の娘と婚約したというのは本当らしい。しな垂れかかって「私のことお嫌い?」と問う女に騎士は「いいえ」と首を振った。


「少し見ない間にまたお美しくなられて、今も見惚れておりましたよ」


 聞き覚えのある台詞に「は?」と大きく目を瞠る。思わず橋脚から身を乗り出したルディアの腕を慌ててレイモンドが引っ張った。


「こらこら、はみ出しすぎだって。見つかっちまうぞ」


 だが槍兵のひそひそ声はルディアの耳に入らない。聴覚はユリシーズの声を追うのに必死だった。

 なんだ今のは? まさかとは思うが、あちこちで同じ口説き文句を多用しているのではなかろうな。


(いや、違う。ユリシーズにそんな不誠実な噂はなかった。彼は軍務も女関係も乱れた点はなかったはずだ)


 だが否定は即座に否定されてしまう。続く言葉にルディアは唖然とするほかなかった。


「どうやら私にも遅い初恋が来たようです」


 ――ちょっと待て。お前の初恋は何度来るんだ。それでは私の婚約者だったあの数年間は一体なんだと言うつもりだ。


(……まさか最初から演技だったのか? 女王の配偶者となるための?)


 呆れてしまって物も言えない。男など、宮廷人など、所詮はこの程度ということか。


「まあ、ユリシーズ様ったら」


 可哀想に、歯の浮く台詞に舞い上がって小娘は耳まで真っ赤に染めている。情けないやら腹立たしいやら、ルディアは膝から崩れ落ちそうになった。――だが。


「さあ、そろそろ部屋にお戻りを。そんな薄着では風邪を引きます」


 一瞬覗いた冷め切った目に彼の本音が見えた気がした。あんな風にルディアが見つめられたのは騎士との破局のときだけだ。ああそうかとようやく悟る。

 ユリシーズの初恋は最悪の結末を迎えたのだ。彼はもう愛に価値を感じなくなったのかもしれない。己の地位に見合う相手なら誰でも良くなってしまったのかも。


「…………」


 気づけばルディアはふらりと歩き出していた。ユリシーズに何を言うつもりでいたのかは知らない。ブルーノの姿では謝罪もできないとわかっていたはずなのに。


「お、おい」


 アルフレッドとレイモンドが驚いて後を追ってきた。けれど彼らが追いつくよりも、門を出てきたユリシーズとぶつかるほうが早かった。


「! お前は防衛隊の……」


 密会を見られた狼狽を隠すようにユリシーズは皮肉な笑みを浮かべる。


「夜警ごっこの最中か? 出世の見込みもないのによくやるな」


 あからさまな愚弄を受けてルディアはハッと我に返った。今の彼と自分では話し合うなど不可能だ。そう思い至るのに大した時間はかからなかった。


「……ああそうだ。この辺りには異状はなかったか? ジーアンの聖預言者殿にも」


 誰と婚約しようと構わない。どうか馬鹿な真似だけはしないでくれ。言葉にできない代わりに遠回しに釘を刺す。陰謀は察知されているぞと警告が伝わるように。


「いいや? 特に変わったことはないが?」


 だがルディアに答える騎士の態度は冷淡だった。たった五人のお飾り部隊と侮って、警戒する素振りすら見せない。それどころか親切にも忠告まで与えてくれる。


「一ついいことを教えてやろう。どれだけ貢献したところでルディア姫にお前たちを取り立てる気はかけらもないぞ。後でがっかりしたくなければ献身的に仕えすぎるのはやめておくんだな」


 荒んだ物言いに胸が痛んだ。ユリシーズはぐいとルディアを押し退けて足早に立ち去ろうとする。


「おい、何か落としたぞ」


 そのとき赤髪の騎士が白銀の騎士を呼び止めた。振り返ればアルフレッドが拾い上げたガラス瓶をまじまじと見つめている。


「変わった乳香だな。それとも蜜蝋か?」

「……貴様には関係ない」


 礼も言わずにユリシーズは手荒く小瓶を奪い取った。懐にそれを押し込むや、今度こそ振り向きもせず朝霧の中に消えていく。


「あー、えっと、ひめさ……ブルーノ、気を落とさずにな?」


 一ウェルスの足しにもならないレイモンドの励ましが立ち尽くすルディアの耳を擦り抜けた。

 遠くで海鳥が鳴いている。慎ましやかだった朝の光が次第に眩しくなりつつある。建国六十年を祝うアクアレイア王国生誕祭が、間もなく始まろうとしていた。





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